ブッククラブニュース
平成25年11月号新聞一部閲覧 追加分

ゆめやが読み解く昔話
H わらしべ長者

 正直者だが、運の悪い男がいて、朝から晩まで働いても貧乏だった。ある日のこと。最後の手段で観音さまに祈るとお告げが・・・。「翌朝最初に拾ったものを大切に」ということだったが最初に拾ったのは何と「わら」一本、でも、それは次々に取り換えられていって、交換したもので、やがて若者は長者にまでなった、というお話。
 正直者、真面目に働く者がなかなか芽が出ないことはいつの時代でもある。とくに現代では、時代に迎合した生き方をしたほうが「長者」になれる確率が高い。つまり自己宣伝や売名で流に乗れば長者になれるということだ。たとえば文学の世界でも真面目に物語を書くよりも、くだらないものでもいいから世の中が望むものを書けばヒットする。何の芸がなくてもテレビに出て顔を売れば、本を書いても売れるし、名を入れたグッズも飛ぶように売れることもある。正直や真面目は、「バカ」の代名詞になってしまっている。
 ただ、私が「わらしべ長者」を読んで、この物語に違和感や疑問を感じるのは、この若者が何かをしたいわけでも、何か情熱をもって生きようとしているわけでもなく、運が悪い者が成功するだけという点である。しかも最終目的が「長者」=金持ちであることが何となく哀しい感じがする。若者は何もしようとしないでひたすら交換することで幸運(?)を得るだけの話だ。努力も能力の発揮もない。つまり「長者になること」ばかりを夢見ているレベルの低い話とはいえないだろうか。「セレブだけを目指す野心は品がない」と考えて生きるのが真っ当な生き方だと思うのだが、現代はどうも「わらしべ」からいきなり「長者」を狙う安直な考え方も流行しているようだ。正直、真面目は、あまりにマイナーな考え方になっていて受け入れられないのだろうか。
 人は、やはり何かしようというPassion〈情熱〉を持ち、どのくらい世の中の人のためになるかのmission(使命)を持ち、できる限り嘘を言わず、偽りをやらず、正直に真面目に生きるべきだと思うのだが、なかなかそういう生き方では成功することができない時代が現代らしい。それでも、私は正直や真面目さを薦めたい。偽装や改竄で言い逃れて長者になったところで心の中では満たされないものが残るだけだからだ。 【教訓・世の中はそうそううまくはいかない】

読み聞かせのゆくえ(4)

 中学生に「自分のことが好きか?」とアンケートしたら好きだと答えた子は10%、小学生は20%だったという。「自分は人から必要とされていない」と答えたのは中学生51%、小学生41%。なんともすごい数字だ。私が子どものころなど、そんなことを考えたことすらなかった。そうしたら、今度は「就活で五人に一人が死にたいと思っている」という数字が出た。「正直者はバカを見る」と答えた学生は70%(週刊金曜日2013・11/1)。
 それにしてもたかが仕事が見つからなかったくらいで自殺(実際、この五年間で就職失敗自殺が2・5倍増)など考えられるのだろうか。
 あたりまえのことだが、いずれも「自己肯定感」が薄いわけだ。自己肯定感は乳幼児期に形づくられる。およそ2歳半くらいまでの間に・・・もちろん、その後も続く「親が自分を大切にしている」という体験が積み重なってできるものである。上のようなアンケート結果を見ると心が寒くなるが、「その数字を出した子どもたちの乳幼児期はどんなものだったのだろう」とも思う。食べさせられて寝かされて、時間に追いかけまくられて、良い学校、良い大学、良い就職という価値観だけが刷り込まれていたのではないだろうか。本当の意味で「幼児期に大切にされていた」と思える感覚があれば出る数字ではない。親が何もかも他人任せにしてきた結果の数字ともいえる。読み聞かせのような時間が幼児期にあるということ、自分の存在位置があること、そのゆくえには、こういう数字を出す人間は出ないはずだ。子どもは意外に大人を見ている。大人の世界が酷ければ、子どもでも絶望することがある。

読み聞かせでお困りのケースへの参考意見
D 3歳児のすぐれた能力

 3歳児は、ストーリーの流れをつかむ力が飛躍的に増大するので、かなり複雑な筋立てのものや、オチのあるものでも楽しめるようになる。
 しかし、数や時間に対する観念は、まだ希薄なので、理解力が出たからといって早期教育的な教え込みをするのは、どうかと思う。「文字が読める」と鬼の首でも取ったように自慢する親もいるが、あまりにも早く字を覚えると字は読めるが想像力を発揮できないということにもなる。文字はやがて誰でも読めるようになる。それより、3歳というもっとも想像力が高まる時期なのだから、それを生かして親も子どもも楽しく物語絵本を読んだほうがいい。つまり発達に応じたことをやらないとその後に置いてとかく問題が起きるということである。想像力が高まる時期は、それに応じた本を読んでやることだし、文字認識の時期になったら文字を教える本を与えれば自然な発達効果が得られるわけだ。それをどういうわけか親は焦る。目に見える能力を引き出しても、大切な何かを抑え込んでしまったら先行き大変である。
 いくら記憶力が増すと言っても3歳児に時計を読ませるのは無理だろう。時間観念は5歳くらいにならないと出てこない。3歳では明日と昨日くらいの感覚しか持てないのだ。同じことは文字でも言える。文字は1対1対応で読めても言葉が理解できなければ「あ」は「あ」でしかない。

子どもが出すサインは親の愛情をねだるため?

 たしかに、文字ばかりでなく、あらゆるものに対して記憶力が最高潮に達するので、どんどん覚えていくし、信じられないほど細かい部分への観察力も働く。たいていの親が、「自分の子どもは優秀になるに違いない」と思うのがこの時期である。子どもがこういう姿を見せるのは、親に愛情を出させるための仕掛けで、そういう優秀さや愛くるしさを出さないと子どもは親から庇護されなくなってしまう。動物の子の必死の生き残り策である。
 この仕掛けに作用されると、「我が子をもっと伸ばしたい」という気持ちが高まる。わからないではない、しかし、この段階で『約束事を覚えさせる』の世界へ入れてしまうのは早過ぎると思う。日本では「読み書きそろばん」が教育の初歩だが、3歳ごろにこれで詰め込むと大人になって柔軟な発想ができなくなる。3歳児は、約束事から離れて、イメージの世界に遊べる能力を十分に持っている。だから、それを抑えてしまったら、その後の人格形成に大きく影響することだろう。

読み聞かせは・・・?

 また、外遊びも活発になるので、読み聞かせの回数が滅ってくる。さらにこの時代は、子どもたちを襲う粗悪な玩具やメディアがあふれているので、それをどう家庭内から排除するかも重要問題だ。読み聞かせが壁に突き当たるときでもある。
 とくに男の子で自動車や怪獣・TVキャラクターなどへののめり込みが高まる年齢だが、この結果がどうなるかはすでに見えている。これに反して絵本は、登場する動物たちや植物、さらには自動車でさえ、それを通して、人間の世界や心をイメージさせるものである。動物はもとより植物も自動車も電車も絵本の中では「人間そのもの」である。3歳児が図鑑のように知識の集積で事物を覚えていくというのは時期尚早なのである‥‥世界に対して好奇心さえ育てれば、子どもは十分に自分から知識を獲得していくものである。だから、3歳児にはもっともっと空想を広げられる絵本を読んであげたいと思っている。

何かに傾かないように・・・

 3歳児は、世界が広がるので、友達、園、テレビ、大きい子たち、その他もろもろからたくさんの影響を受ける。もちろん、良い影響ならどんどん影響されてほしい。
しかし、近年、将来(子どもが大人になって)問題を引き起こすだろうメディア機器も3歳児の手に届くようになった。何と言っても「儲かれば何でもする」という市場原理で日本は動いている。後の影響、悪い影響など考えない。何か起これば「自己責任」となる。
 現代の家庭はお金があるから何でも欲しがるものを与えてしまうが、やはり悪影響を及ぼすものは避けた方がいい。
 おかしな事件が頻発している。甲府では「テレビゲームをしているのに大声を上げたから」と2歳児を虐待した親が判決を受けた。せんだっても三鷹でストーカーの男が女子高校生を刺して殺した。こういう事件はもはや毎日見かける。私は、こういう加害者の幼児期を知りたい。とくに、どのようなものを与えられて、どのような環境にあったのか・・・こういう形成期のことについては警察も心理学者も何も語らない。殺してすぐtwitterをしている加害者、テレビゲームの依存症になっている父親・・・・その人たちの3歳はどのような3歳だったのだろう。

3歳の配本はどれもおもしろい

 ブッククラブの3歳の配本はどれもおもしろい。絵本の佳境が3歳児絵本であると言っても過言ではないだろう。古典的名作から最近作の秀作まで・・・それこそ子どもがよろこぶ充実した内容の物語が目白押しである。お子さんのほうも2歳後半までの2年間の本タイムの定着でどれも楽しめる力はついているはずである。ハラハラ感、ドキドキ感、物語の面白さは、その展開にある。後半ではオチのあるものも楽しめる。古典的名作の「ぐりとぐら」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」もちゃんとはいっている、人気の「よるくま」も入っているし、もちろん14ひき、11ぴきのシリーズも入る。女の子には女の子の人気作品、男の子には男の人気作品も入る。楽しめるはずだ。親だって、2歳までの配本より、はるかに面白いと思えるし、こどもがいかに面白がるか、あるいは何度も読んでくれとねだることで反応の手ごたえも感じることができる。読み聞かせはここから始まるといっていいだろう。何より子どもと共有できる楽しい時間が一日一回作れるのである。多くの先輩お母さんが言う言葉・・・「あのころが懐かしいと言う以上に楽しかったことだけが記憶の中にある。」と・・・。がんばってください。そういう思い出がつくれるように。

学校図書館についてA
まず、読書の成果や目的とは・・・?

 これまで、あまり読書の効果について述べたことがなかった。これは学校図書館の貸し出し競争で目的がなんであるかがよくわからなかったからである。多くの人は、読書の成果を漠然と「頭が良くなる」とか「国語の成績がアップする」などを挙げるかもしれない。しかし、どうもそうは思えない。私自身の体験からして読書で国語の成績がアップするなどということはまず考えられない。長期的に見ればあるのかもしれないが、少なくとも即効性はない。国語の成績をアップさせたかったら補習教育類の国語のプリントを繰り返しやったほうが成績アップの早道である。
 また、グローバル化が進み、日本語よりは英語の方が広まっていくことは自明のことだから読書力をつけるなら英語の本をどんどん読めるようにした方がいいという意見もある。いくら本(日本語の)を読んでも学校の成績がよくならないなら読まないで、国語の勉強をしたほうがいいのかもしれない。

専門家に聞いてみると

 このことについて慶応大学文学部国文科の教授に聞いたら、「私も本を読むのは好きだったが国語の成績は、よくなかった。数学より悪かった。」と言っていた。その理由を尋ねると「読書をする人間は答えのはっきりしないものを考える癖がつく。高校までの国語は答えがひとつだから、答えの出し方を覚えるだけでいい。考えると成績アップにはマイナスになるからだ。」ということだった。
 「では、読書などしないほうがいいのではないか?」と言うと、「それは学校教育の国語がいけないのであって、読書しないほうがいいなどということは絶対ない! 現に国語の成績の良い学生が文学部に入ってきても、話していて考えというものが見えない。自分の意見すらない。これは読書をしていないからであって、人間としてはつまらない。実際、昔よりはるかに大学生が多いが、社会問題ひとつ論議できないよ。」と言っていた。しかし、私にはまだ「読書の効果」というものがいまいち見えてこない。

国語力の現実

 読書を妨げるものが子どもの眼前に多いことをいろいろ言うのは後回しにして、現実問題として、本を読まない、あるいは読めない子が多くなり、国語の授業は嫌い! 作文と聞くと固まってしまう傾向が強くなっているのは紛れもない事実である。
 この現象に文科省も現場の学校の先生も読み聞かせボランティアをするおばさんたちも困っている。こういう状況を打ち破るために「朝読書」「家読」「読み聞かせ会」「おはなしイベント」などー連の読書推進運動が行われるわけだが、学校図書館はそこで中心的な存在となるのだから大変だ。多<は実施する側の自己満足、実情は上述の傾向が強くなるばかりである。しかたがないので、どのくらい子どもに本を読ませたか貸し出しコンクールで計測して、それを成果とする。だから「読め! 読め!」という指示ばかり出る。

読めてあたりまえ、書けてあたりまえ?

 ここでの問題点は、指示はしても方法を教えないことにある。「本を読みなさい」「作文を書きなさい」「国語の成績を上げるために国語の勉強をしなさい」とはいう。しかし、「本の読み方」「作文の書き方」「国語(上の欄に書いた高校までの国語ではない、ほんとうの国語)の勉強法」を教える人はいないのである。私自身「本の読み方」「作文の書き方」「国語の勉強法」を教えてもらったことなどない。本と作文は自然に…いつのまにか自己流で覚えた。国語の勉強などほとんどしなかったに等しい。漢字練習などどうして一回で覚えられるものを百回も書かねばならないのか、また助詞や助動詞の意味をなぜ丸暗記しなくてはならないのか、疑問だらけである。テストに出るから・・・?

ブッククラブの子は大丈夫です!

 結局のところ分かったこと。それは、つまり、大人は方法を教えてくれないということだけである。読書感想文に至ってはその典型で、「どのように書けば…?」などと質問すると「自由に書けばいいんだ。」というわけのわからない指示が飛ぶ。書き方など教えてくれない。小学生の感想文の課題などは「親に出た宿題」のようなものである。最近では入試に作文が出るから、学習塾で作文の書き方や小論文の書き方を教えるが、それも良い点が取れるような答えが決まったものを教える。修辞技法も個性的表現もあったものではない。こういうことを学校図書館で教えてくれるといいのだが・・・。
でも、まあ、遠い将来のために楽しく本は読もう。「読書が楽しい」ということが何より大切。言葉によって思考し、表現することが楽しいと感じられない子どもは本を読まない。文も書かない。楽しくないからである。これは大人も同じだ。楽しさが持続しなければ子どもはどんどん対象から離れていくのである。低レベルの楽しいことは、子どもの周りに山ほどある。 (ニュース一部閲覧)



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