ブッククラブニュース
平成25年10月号(発達年齢ブッククラブ)

叱る 叱れば 叱るとき

 むかし、小学校や中学校は、かなり安定していたらしい。たとえ表面的でも生徒は先生の言うことをよく聞き、授業中に立ち歩いたり、勝手に話始めたりすることはなかった。学校は「子どもたちを安定させているのは学校だ」と安定神話を語っていた。ところが、いつからか教室がザワザワするのがふつうになった。授業中に牛若丸のように机から机に飛ぶ子、いなくなってしまう子、平気で大声で話す子、ときには蜂の巣をつついたような騒ぎが起こることもある。先生はなすすべがない。手を出しても足を出しても、ときには口を出しても「体罰だ」となるからである。叱ることができないのだ。抑止力としての武器を奪われた先生は、ひたすら我慢を重ねながら、時には病院通いとなることもある。
 中学では、学級崩壊というより「荒れ」という状態の学校も出ている。こんなことはいつから始まったのだろう。1980年代にはもう起きていたのだから、ある意味、「歴史がある状態」でもある。

安全神話の崩壊

 尾崎豊が、「♪・・・盗んだバイクで走り出す、行く先もわからぬまま(15の夜)」「♪・・・行儀よく、真面目なんて出来やしなかった、夜の校舎 窓ガラス壊して回った(卒業)」と歌ったころが80年代半ばだから、この30年間は、こんな教室状態が大波小波をつくりながら続いているというわけだ。背後には、この歌詞にあるような逸脱行為を認める社会風潮もあったから、歌はヒットしたわけだし、しだいに学校も堅苦しいところになっていたのである。いまでは逸脱行為を認める風潮どころか社会が逸脱そのものである。
 さて、そのまたむかし、世の中がかなり安全だった時代がある。警察は安全神話を語り、「日本の治安は世界一」と誇っていた。たしかに、小学生が一人で電車に乗って遠くまでいくことができたし、老人を騙す電話など一本もかかってこない時代があった。町を歩いていて、いきなり刺されるなんてことはなかったし、バイクが盗まれることもほとんどなかった。フェイスブックで知り合って付き合ったら殺されるなんてことは当然なかったし、学校の窓ガラスが粉々になることもなかった。世の中は安全だったのである。もちろん、50年くらい前のわずかな一時期のことである。
 では、この安定や安全は当時の学校や警察がつくったものだったのだろうか。いやいやそれは違う。それは、それ以前に親が子どもを育てるときに家庭でしっかり叱っていた時代があったからだ。学校も警察も決まりを破った者を叱っただろうが、その前に親が子どもをきちんと叱っていたから、物事がわかる子が育ち、世の中に「安定」と「安全」が生まれていたのである。

ほめて育てる・・・だって!

 ところが、いつからか、「ほめて育てる」とか「叱らずに説得する」という風潮が生まれた。一見、感じのいい話だが、子どもという「限度を知らない動物」が、そんなことで社会的なルールをマスターできるようになるとは思えない。叱らねば増長して自己主張を高めるのが子どもだ。とくに幼児など言葉で説得するのは大変なことである。
 煮えたぎったヤカンに触ろうとしたら、ピシリと手を叩いて叱らねばヤケドしてしまう。つまり、「そんなことをすると世の中では危険にさらされる」ということを教えるためにも叱ることは重要なのだ。それも、ある程度の痛みを加えないと子どもの危険察知能力は鋭敏にならない。しかし、最近では「虐待」への恐怖があって、親もなかなかしっかりと叱れない。
 ほめてはいけないと言うのではない。「ほめる」ことも必要だが、逸脱行為には毅然と叱ることが子どものためには必要なのだ。「ならぬことはならぬ」・・・なのだ。しかし、最近、子どもを叱ることすらできない親も出てきた。「そんなことしたらダメでしょ」を繰り返すだけの親・・・これでは子どもは親を甘くみる。どんどん、わがままを増大させる。自分を抑えることを教えられなければ、子どもはしたい放題をする。限度を越えたときにころあいを見て、ビシリと叱るエネルギーを親が出すべきだが、最近の親は、これができない。叱らねば、子どもはやっていいことといけないことの区別がつかなくなる。ものの区別ができなくなれば、思春期なって暴走することもあるだろう。

叱りたくない親は・・・

 「それでも、私は叱らないで説得して育てる」という人は、そうすればいい。「子どもは動物とは違うので言って聞かせることが大切だ」という考えの方は、叱らないで説得をすればいいと思う。たしかに動物と違って幼児は何をしてもかわいいし、中には叱らないでもちゃんと育つ子もいるかもしれない。いや、動物の子はヒトの子に限らずみんなかわいい。しかし、叱らないで育てた子は、いつまでも言うことを聞かない子になるよ。
 サルでさえ、いやもっともっと下等な動物でも親は子どもをしつけるために子どもを叱る。ひょっとすると動物の方がはるかにヒトの子よりしつけられていると思うのだけれど、叱られなかった子がどうなるか・・・。動物は過酷な自然の中で生き延びなければならないから、危険を察知できるように、あるいは危険に近寄らせないために、能力を高めるために叱るのである。それが人間の社会では安全が前提だからゆるやかになる。それで行きたい親はそうすればいい。叱るも叱らないも親の自己責任・・・叱りたくなければ責任もって叱らないことだ。子どもがどうなっても親の責任である。
 自分のしたいことは、ダダをこねてでもして、親がさせたいことは泣いてもしない・・・そんなワガママな子でも天才的芸術家にしたいのなら、それもしかたがない(?天才的芸術家・・・それは、しつけも何も不要である。天才はなんだからもともとの才能)が、ふつうの子は叱られなければ自我が膨張するだけである。
 私は、上述の♪歌の歌詞を書いた尾崎豊は「叱られたかったのではないか」と思っている。誰かに「そんなことをしていたんじゃダメだ。きちんと生きなくては!」と誰かに叱ってほしかったのではないか。そうすれば反抗的な言葉を洩らしても、自分を心配してくれる人間の存在を知ることができ、その人を信頼しただろう。しかし、現実には誰も叱ってくれなかった。その結果、彼は悲劇的な人生を早く閉じることなってしまったと思われる。われわれは、子どもの人生をあんなものにはしたくない。危険から子どもを遠ざけるためにも、子どもを叱ってでも物事の区別を教えることは大切なのだ。(ニュース十月号一部閲覧)

思考力

 全国の統一テストの結果に対して「思考力が足りない」という判定が出た。思考力がテストでどのくらい測れるか疑問だけれど、この結果がわからないわけではない。覚え込まされるだけの学習で「思考力を!」というほうが無理というものである。でも、そんな結果が出ると見当違いな方針が行政から打ち出される。
 今回も中教審が「教養の基礎として国語の力こそが重要なのだから、親が本を読み聞かせたり、学校が必読書を決めたりすることで『本を読む子ども』を育てるべきだ」と言った。さらに「家庭が大切だ!」、「幼少期の子どもがテレビを見たり、ゲームで遊んだりする時間を制限せよ」とも言う。「地球規模の視野や歴史的、多元的な視点で物事を考えろ!」「未知の事態に対応する力をつけろ!」と注文する。
 前回の答申でも「幼少期には親による読み聞かせ、小中学生には始業前の朝の十分間読書」を奨め、「高校生には各校が三十冊の必読書を選定し、読破させること」を提案していた。立派な思考力養成の方針である。もっとスゴいのは「『わが家のきまり』を作り、TVやゲームの時間を制限し、毎日家の手伝いをさせ、規律ある生活習慣を身につけさせる」と、余計なお世話まで焼いた。
 ここには子どもが思考力を失った原因や反省が欠け落ちている。若者に教養がつかず、視野も狭い原因が、まるで家庭の責任であるかのような言い方である。
 労働力の確保のためにO才児保育・長時間保育を進めて子から親を引き離し、スマホやタブレットでサブカルチュアを蔓延させ、コンビニやファスト・フードで生活を破壊しているのに「わが家のきまり」とは、ね‥‥「まったく、よく言うよ」である。
 たしかに流行や風潮に流されて子どもを育ててきた国民の責任は大きいかもしれない。しかし、高度成長の時代から現在まで、教育で「教養」を捨てさせてきた国の責任はとんでもなく重いのである。
 立派なことを言っているわりには、施策もセコい。「小中学生の10分間読書」、国語が全国最下位の静岡では校長名公表とまでなる・・・行政内部のイジメ? 校長の命令で無理やり本を読ませたところで、子どもはイヤイヤながら読むだけ。読書は楽しくなければ教養を作ることなどないからだ。読書を教養に結びつけるには「読書」が楽しみでなければ成り立ち得ないのである。ゆとり教育がなくなって学校は忙しくなり、塾へ行く生徒が増え、そこで生じるストレスを漫画やゲーム。LINEで解消する。すぐ想像できることではないか。学校が本質的な機能を失いはじめている現在、教育を「教養」に戻そうという試みはうまくいかないことが目に見えている。

自分の木の下で

 ここで前にも述べたのだが、私は大江健三郎の著作「自分の木の下で」を思い起こす。知識も本もほとんど手に入らない四国の森の中で、「教養」を深い思索に変えていった大江少年の話である。その時も国は国民を戦争に駆り出すための学校教育を施していた。当時の国民も国の行き方に同調して、批判もせずに、世の中の流れに唯々諾々だった。教養は、その時代も放棄されていたのである。しかし、すぐれた父と祖母のもとで、彼は読書をしていく。この読書のあり方こそ「教養」を目指すもので読書の本質なのだが、国や行政は何もわからず、愚劣な方法で子どもの読書を管理するばかりだ。われわれ親は、大江少年の父や祖母のようになれるかどうか・・・子どもが思考力を持つということがどういうことか、スマホばかりをいじっている親ではわからぬことだろうが、ブッククラブの内部では本を読むことは前提なので、かなりの子が黙っていても思考力はつくと思っているが・・・。
(新聞十月号一部閲覧)



(2013年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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