ブッククラブニュース
平成25年9月号(発達年齢ブッククラブ)

絵本「いえ」片山玲子・健 作

 九月になっても甲府は暑い。暑さ・寒さも彼岸までとはいうものの15日でも35度となると夏バテが出て来る。どこか涼しいところはないものか。近場は八ヶ岳しかない。山に登れば汗が出る。若いころ、八ヶ岳の赤岳登っていたとき、雷に出会った。登山中に雷が落ちる・・・この雷撃というのはスゴイ。バズーカ砲を撃たれているようで生きた心地がしなかった。赤岳には頂上の尾根付近に鉄の鎖があり、こういうのが雷を呼ぶのかもしれない。戦争に行ったことはないが、砲弾が落ちるというのは、こういうものかもしれないと感じた。こんなトラウマがあると八ヶ岳には登れない。
 やはり低地で涼しさを体験するとなれば1100m程度の高原で・・・となる。知り合いとなれば絵本美術館しかないので、電話で何をやっているか尋ねると、小さな絵本美術館では「片山健・令子展」だということである。片山さんともずいぶんお会いしていないので、電話の中で美術館に「片山先生は、いつ会場に?」と言うと「九月八日にお見えになる」と言うことだった。・・・合わせるわけにはいかないので、いきなり出かけた。やはり1000mを越すと涼しい。甲府の町とは比べ物にならない。

原画はすばらしい

 いくつかの絵本原画が並んでいるのをゆっくりと見ていく。これだけ印刷技術が進んでいるのだけれど、原画はやはり素晴らしい。どの作家のものも本と原画を比べると原画の良さに軍配を挙げてしまう。本の中身を反芻しながら、原画で楽しむ絵本の世界・・・うーん、こういうゆったりとした時間は楽しい。
 展示された絵の中に「いえ」という絵本の原画があった。漢字で書けば「家」である。うさぎさんの家のことが描かれたものだ。家が古くなってドアや窓に支障が出ているうさぎの家。不動産屋らしきオオカミに相談すると、「他にいい空き家がある」と言う。しかし、うさぎさんが掃除をしているうちにドアもきれいになり故障も直る。窓もきれいになって日差しが入ってくる。掃除が住みやすい「家」をつくっていくのである。うさぎさんは忙しくてきちんとメンテナンスをしなかったのだろう。古い家も大切に使えば住みやすさは新築には負けないものがある。何よりいちばんいいのは、慣れた家具や間取りに囲まれて落ち着いて暮らせるということだ・・・と、最後のおだやかなうさぎさんの眠りのシーンが語り掛けてくれる。

環境が悪くなると人も悪くなる

 最近の日本は変化が大きい。街中も郊外も・・・東京など一年行かないとどこがどうなのかわからない状態だ。街並み自体が変ってしまっていることもある。かつてオリンピックのとき(1964年)に東京は大変貌したが、今度もまた屋上屋を重ねる(無駄なものをつくる)ことになるだろう。前のオリンピックで東京は喧騒と雑然を作り出した。首都高速道路のデタラメさ。昼夜逆転で造り続けなければならないさまざまな工事。都会ではみんな「落ち着いて暮らしているのだろうか」と思う。この傾向に嫌気がさして、三年前、われわれは「コンクリートから人へ」を支持したのだが、それを言った人たちが実行しなかった。そうしたら、今度は欲のバラマキで「人からコンクリートへ」がまた始まる。落ち着きのなさの中で、「変な事件や狂ったような社会風潮が起こらねばいいが・・・」と思うのは考え過ぎなのかな。
 虐待にしても詐欺や殺人にしても、すべては犯人が育った家庭環境に原因があると言われている。と、いうことは、世の中という環境がおかしくなれば、世の中の人々もおかしくなるわけで、ただでさえ、ヤンキー化(五月号参照)が進んでいるのだから、異常は加速していくことだろう。

もぬけのから

 家を建てたはいいが、ローンの返済や生活レベルの維持で長い労働時間を強いられ、家族が家に「滞在」する時間のほとんどが「睡眠時間」という家庭だって増えてきている。昔は、裕福な家ほど時間的にも精神的にも余裕があるというのがふつうだったが、今では年収が大きい家庭でも生活が忙しい。親が忙しければ、子どももなんだか忙しい。家庭の中で何かする時間さえない。家のメンテナンスなんかするよりは使いっぱなしということにもなれば子どもに生活規則も身に着かない。造るだけつくって直すということを考えないと大変なことになる場合もあるが、造ったときは何でも新しいので誰も気に留めない。
 最近は掃除をしたことがない子もいるという。掃除ができなければ、修理などまったくできないだろう。すべてお金で解決するのもいいが、実生活にともなう生活行動を減らせば当然「生きるスキル」も落ちる。
 朝、あわてて出勤しながら乳幼児を保育園に預け、夜帰宅してあわてて夕食、お風呂、寝かす・・・親が食事に磯がhしければアニメビデオを見せてごまかす。後はもう寝るだけ。昼間は人気がない家。そんな家庭ばかりになったとき、この国はどう変るのだろう。
 それによって天井版が落ちたり、汚染水が漏れたり・・・やはり、絵本「いえ」のうさぎさんと同じに、変化をあまり考えずにメンテナンスをしたほうがいい時代だと思うのだが・・・まだイケイケドンドンは続くのだろうか。この国の人は20年前のバブル崩壊で、もう懲りているはずなのだが・・・もう忘れてしまったのかな。それとも「夢よ!もう一度!」なのかな。

じぇ、じぇ、じぇ!

 時代のスピードが遠くなると、時間感覚がなくなる。一年が過ぎた、二年が過ぎたはあたりまえで、十年、二十年がアッという間に過ぎていく。物理的時間は、正確に過ぎているのだろうが、物事に追われていると、時間は急速に過去に飛び退いていく。このため、何がどう変化しているのか、よくつかめないまま、毎日を過ごしてしまいそうだ。
 そんなボケ老人ような日常にしたくないので、かなり気をつけて世の中を見るようにしている。しかし、先日、自分の感覚に大きな狂いが生じているのを知って愕然としてしまった。
 と、いうのはお母さん方と話し合う場で、「アニメを長時間見せる問題」とか「ゲームアプリやネットゲーム、LINEが与える影響」というような話をしていたとき、あるお母さんが「夫が結婚当初からTVゲームで遊んでいて、子どもは、それを0歳から見ているし、大きくなったら父親とも遊ぶわけで、親子のコミュニケーションの道具にもなっている。」という話題を出してきた。ゲケゲである。いや、ゲゲゲは数年前か! 今年はじぇ!じぇ!じぇ!だ。

父親像の変化

 私の「父親像・夫像」というのは従来通りの高度成長期型であって、子育てに大きな意識を持っていて、ダメなもの、危険なもの、子どもにとって影響のありそうなものは敏感に取り除く意識がを持つのが父親だと思っていた。つまり、マンガを読み、ゲームをしても年齢とともに頭も大人になっていき、年齢相応の本を読んだり、年齢相応の遊びをしたりするものと思っていた。結婚してもTVゲームで遊ぶ? 当然、ネットゲームにも手は出るだろうし、スマホのゲームにも熱中しているかも・・・と思った。
 三十歳代でもサブカルでしか遊べない親もいるわけだ。「まさか、もう彼らが父親になっていようとは‥‥」。もちろん、おかしなファッションをした父親が存在していることは承知していた。だが、それは、長いツケマツゲでデカ目メーク、ネールアートした長い爪の母親の存在と同じていどの認識だ。ゆめやの店に来ないから、存在しないと思ったら大きな間違いというくらいである。
 ところが、さらに、あるお母さんが「友人で夫婦でゲームオタクがいて、年中、画面にむかってゲームをしている。」という話をしてきて、いったい子どもの世話や日常生活はどうなんだろうと思ったことがある。
 しかし、考えてみれば不思議はない。ファミコンが始まったのは、三十年前だから、中学のときにTVゲームで遊んだ世代が父親になっていてもおかしくはない。私の中の時間感覚が狂っていて「三十年前のことをつい昨日のように思っている錯覚」に過ぎないのである。「父親とはこうである」「母親とはこうである」というイメージが固定されていて、どんどん新しく出現する新しい父親・母親像を捉えることができないでいるわけだ。「社会を見る目の老化」なのかもしれない。

手に負えぬ人々は・・・

 ここで、私が「ディズニーの世界がサブカルチャー的に影響すると美的感覚やものの考え方を生み出さず、精神も成長しないで、何才になっても大人子どものような人間にしかならない」と唱えても、もはや親のなかにはディズニーランド大好き人間がいて、年中、子どもをダシに連れて行き、部屋中をディズニー・グッズで固める母親も四十歳代でいるわけだ。と、すれば何を言っても始まらないことになる。
 こんな育ち方をしてしまった人間が親になり、何か言われると「自分が好きなものを何でイロイロ言われなくちゃいけないの?」「ウッセナーいちいち!」で、彼らにはサブカル依存も生活(あるいは子育てする)常識となっているわけだ。
 こういうふうに考えると、素早く過ぎてしまったこの二十年は、恐るべき世代の断絶を生み出したといえる。
 しかし、私は「老化」と言われようと時代感覚がズレていると言われようと、そんな父親・母親像は拒否したい。彼らがまっとうな子育てができるはずもなく、育った子どもが「社会的、人格的に正常な人間になる」などとは思えない。そして、今後もそういう親や子を相手にはしたくないと思う。まともな親子を相手に仕事をするのでさえ手いっぱいで、変な家庭から生じた子どもに良い本を与えていくボランティアや時間的な余裕に努力のエネルギーを使う余力など残念ながら私にはないのである。(新聞九月号 一部閲覧)



(2013年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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