ブッククラブニュース
平成25年7月号(発達年齢ブッククラブ)

記録か、記憶か・・・

 用があって一駅だけ新幹線に乗った。超特急「ひかり」でも一駅なら自由席。お昼過ぎだったので空席がけっこうあった。同じ駅から乗った家族連れがいた。5歳くらいの男の子と2歳くらいの男の子。それにお父さん、お母さん。身なりからして、どこかに遊びに行く旅だろう。実家に帰るのかもしれない。お父さんは、ホームにいたときから家族をずっとビデオで撮っていた。車内で席についてもビデオを回している。時折、子どもはピースサインをするが、あとは手にしたゲーム機をずっと操っている。お母さんが、「ホラ、海が見えるよ!」と言ってもチラっと見て、またゲーム機を動かしている。2歳の子どもはお母さんに抱かれたまま座っていたが、すぐに通路に出て歩き始めた。その様子もお父さんは丁寧にビデオカメラを回している。母親はスマホで何やらし始めた。こんな風景は、みなさんも行楽の時にはよく目にするだろう。現代の旅行の典型的なスタイルなのかもしれない。
 私はお父さんに「お父さんが映りませんよね。私が撮りましょうか。」と声をかけたが、話しかけられてビックリしたのか「いつも私は映っていないので結構です。」と断られてしまった。

海水浴、毎年行ったが・・・

 私は、そんないまどきの家族の旅行の姿を見ながら、昔、我が家が夏のこの時期に海水浴に行ったことを思いだしていた。日本海までの電車の長旅・・・親も子もずっとしゃべりっぱなしのにぎやかな車内、静かなときはみんな寝ていた。こういう記憶はいくらでも鮮明に浮かぶ。大糸線の車内から見える北アルプスの美しさも記憶の中ではもっと美しい。さまざまな風景が浮かんでくる。
 ある年、品切れで買えなかった鱒寿司を四つも買ったのに南小谷の駅のベンチに忘れてきてしまったこと、新潟・西頸城郡の筒石駅は地下の駅で地上に出るまでは200段以上の階段を登らねばならないこと、拉致事件など何も知らずに新潟や富山の海岸の夜の散歩をしていたこと。松本駅で特急に慌てて乗って駅そばを食べていた子どもを置き忘れてきてしまったことなど・・・
 これらのエピソードは他人にとってはまったく関係のない我が家族の内部の「家庭の歴史」だが、思い出すだけで南小谷の駅の空の青さ、筒石駅の階段を吹き上げる強い風、灯りひとつ見えない真っ暗な富山の宮崎海岸・・・特急列車内の車掌だけが使える真四角の列車電話・・・すべて頭の中にしっかりと残っている。こういうものは記録できないものだが、色も匂いも感触も・・・何とも言えぬ雰囲気までも・・・頭の片隅に残っている。

記録は数枚の写真

 しかし、家族が集まれば、「もう一度、糸魚川で鱒寿司を食べたいね。」「暗闇から北朝鮮の潜水艦が出て来たかもしれないねぇ!」「松本駅の駅そばのおつゆは熱すぎて、すぐに食べられないよ。」という思い出話に花が咲く。ほとんど計画を立てずに行き当たりバッタリだったが、家族の歴史も失敗談のほうがおもしろい。ケータイもビデオカメラも我が家にはなく、「記録」と言えばカメラで撮った何枚かの集合写真だけだ。
 たしかに、我が家の思い出など他人にとってはおもしろくもなんともない。それはビデオの映像も同じだ。他人の子どもの映像を30分もダラダラ見せられたらあくびも出ることだろう。
 我が家の映像が、いつも旅も十数枚の写真。記録道具であったのは私が若いころから使っていたニコマートという古びたフィルムカメラだけ。それもアルバムに残るていどの枚数で何十枚も撮ることはなかった。
 今の親は大変だ。冠婚葬祭、運動会、遠足・・・ことあるごとにビデオカメラマンにならなくてはならない。
 そんなに何時間も何十時間も撮って、いつ観る機会があるのだろうか、「ビデオカメラ持っていないとカッコワルイ!」と思っているのだろうか。それは、「通販やビデオメーカーの宣伝に乗せられているだけなのではないか!」と余計な心配もしてしまう。どうも今の若い親は、ライフスタイルだけを追っていて、自分の感性を信じていないところもある。おっと、これは年寄りの冷や水、若い親にはよけいなお世話だろう。

五感が記憶する風景

 しかし、こうして「記憶」と「記録」を比較してみると、旅行や日常生活は生身の感覚で楽しんだほうがいいのではないかとも思える。人は目を通して、耳を通して、いや嗅覚も触覚も総動員して、自分が過ぎていく場面を記憶している。画面の中のものを見て記憶するのではない。まして記録した画像からしか思い出が浮かんでこないとするなら、それは想像力が貧困だということである。
 もっともっと五感を使う旅をしてみることを考えるべきだろう。記録に思い出をゆだねるのではなく、自分の頭にすべてを焼き付けておく旅.そうすれば、子どもがゲーム機を持って旅するのではなく、あるいは大人がビデオに頼るのではなく、さらに、もっともっと風景や人を楽しめるからだ。百の記録より一つの記憶。ビデオによる家族の思い出づくりもいいが、どんな記録映像より記憶の方が鮮明に物語を描くと思う。新幹線一駅・・・たった21分乗っただけだったが、私が降りる時も、さきほどの5歳の子どもはゲーム機を操っていて、周囲の人も駅の様子も見てはいなかった。(ニュース7月号一部閲覧)

老人にもいろいろいる

 安野画伯が旅の絵本第8弾として「日本篇」を出版した。御年87歳・・・ものすごい老人パワーである。同じとき、加古里子さんが、「からすのぱんやさん」の続編を出した。ぱんやさんの子どもたち4人がそれぞれ自営でお店を始める4冊の絵本である。加古里子さん御年同じく87歳・・・すごすぎる老人パワーだ。
 加古さんが、雑誌のインタビューで「自分の本で原発問題についてもっと詳しく書いておけば......、」と残念そうに話していたことが、心に残っていた。最初の作品は1958年の「だむのおじさんたち」・・・ダムで働くおじさんたちを描いた絵本・・・あれは大人の私が見てもすごい本だった。だから、きっと、あのパワーで「原発のおじさんたち」を描いてくれることだろう。期待したい。
 ところで、安野光雅さんの「旅の絵本・日本篇」・・・これはブッククラブで今年の低・中学年の配本に組み入れてある。ほんとうは高学年に入れるべきだろうが、なにしろ字のない絵本だ。中身はむずかしいが、見た目は簡単である。高学年に配本したら、字の多い本こそ読書力のバロメーターと思っているお母さんが目に皺を寄せてクレームを言ってくるかもしれない。まあ、低学年もすぐ高学年になるから長く楽しんでほしいと思って選書採用したので、まずは隠れているもの、描かれた物語を楽しんでほしいと思う。例によって日本の風景の中にいろいろな物語や事実が隠れている。
 なぜ、配本に入れたか。それは、この絵本の「あとがき」を読んで舌を巻いた(感嘆した)からである。6ページにわたる長文で「あとがき」というには長すぎる。安野画伯の「読むに値する随筆」である。そのタイトルは「電気がなかったころ」。たしかに日本篇全ページ電気関連のものはひとつも描かれていない。ただただ美しい日本の風景が広がるだけだ。

電気のなかった日本

 安野画伯は、これまでの旅の絵本のシリーズでは古い風景の横に近代的なビルを並べたり、現代文明の象徴のような機械を描いたりしたが、日本篇ではまったくそんな風景はなかった。はじめの海岸ページには陸前高田の一本松が描かれている。津和野を走る蒸気機関車、田植えの風景、合掌造り、お祭り・・・まさに「かつての美しかった日本」のオンパレードだ。そして、それは「電気のなかった日本」でもある。
 このことについて安野画伯は、「あとがき」で、日本のエネルギーの歴史に触れている。自分が生まれたころの日本の生活、戦争のころのエネルギー政策、高度成長期の石油依存、そして福島第一原発の爆発事故・・・それまでは、「メルトダウンという言葉の意味もプルトニウムという言葉も知らなかった」と独白する。そして安野さんが、知ってから見えてくるのは核燃料の始末の問題や過酷事故をどうするかという問題・・・そして、福島の事故を「国難」と言っていたにもかかわらず、まだまだイケイケドンドンを進める人々の問題。誰もが原子力についてほとんど知らされず、知らないことをいいことに54基も日本中で稼働していた恐ろしさ。それが初めて福島のメルトダウンで知られることになった。
 しかし、それで国民全体が恐怖を感じたにもかかわらず原発を維持し、再稼働したい人々の声が大きくなっているということはどういうことなのだろうか。
 この謎解きは単純だ。儲かるからである。少ないコストで莫大な利益があげられるとなれば「命くらい何でもない」集団が出て来るのも歴史が証明するところである。人間の力ではコントロールできないものでも儲かれば何でもするというのが人間である。3・11のときに菅首相が「中部電力・浜岡原発を止める」と言ったとたんに菅おろしが始まったのは記憶に新しい。儲からなくなるとなればまた人は何でもする。

科学は怪物になる

 私も安野先生ほどではないが、戦後は全部知っている。停電が多かった時代も経験した。便所には電気がついていなかった。電気スタンドを点けて本を読んでいると「もったいない!昼間なぜ読まない。早く寝ろ!」と親が言った。それがいつの間にか電気をたくさん使うことが良いこととされるようになった。それはまさに「消費が美徳」という価値観と同じ路線を進むものだったわけだ。しかし、その華やかさと豊かさの陰で、いつからか人間がコントロールできない科学が大手を振って肥大を始めていたのである。一度壊れたら手が付けられなくなるもの・・・・怖い。
 安野画伯は「人類の力を越えた歴史の流れの中に私たちが身を置いてしまったことを真剣に考えるべき時に来た」と語る。そして、「電気が少ない世の中でも我慢しよう」と呼びかける。その思いはやがて「子どもたちが放射能物質に侵される危険性のことを考えれば、原子力発電を止めてもらいたい」という結論につながる。多くの老人たちが年金ボケになり、鼻先に株価と通貨操作をつきつけられると平気で9条改憲へ傾く欲の深さに陥っている中で、安野画伯のような老人もいるのである。まともな者の声はいつも小さい。しかし、声が小さいだけなのだ。小さい声は、集まれば大きくなる。いまもしだいに大きくなりつつある。こういう安野さんの気持ちを考えると思いは加古里子さんも同じだろうと感じる。科学絵本を書いて来た「科学者」加古里子さんだから、原発事故については、安野画伯以上の辛い思いを抱いたのではないかと考える。
 震災後2年・・・世の中はどうだろう。みんな株の上下に目を凝らし、一儲けのためにじつにくだらないものを売ろうとしている。津波も原発も忘れてしまったように見える。欲が深いのか忘れっぽいのか・・・・。

いろいろな老人たち

 しかし、何はともあれ、87歳の老人が「便利さや豊かさだけを求めた危険な世界を拒否する姿勢」を示している。これに驚きを感じるだけでなく、「未来や子どものことを考えている」ことに私は尊敬の念を抱かざるをえない。
 だが、一方では、農業国家になることを嫌って原子力発電を推し進めた95歳の老人もいる。高度成長の夢が忘れられず、一千兆の借金を抱えた国をオリンピックで煽りたい81歳の老人がいる。儲かれば原発再稼働を進めたい77歳の老人もいる。これら欲が深い老人が背負った葛篭(つづら)からは、いつ何が飛び出してくるのだろうか。凶悪な犯罪、信じられない事故、消すことのできない放射能・・・さまざまなものが飛び出してくることは確実だ。「今が儲かればそれでいい」という考えは、じつに女性的(言っておくが女性的であって女性ではないよお)な考え方だと思う。未来がおかしくなったら「また、そこはそれでがんばればいい」というのはじつに女性的な話だ。未来が破綻する前に打つべき手はあるのである。それは男性的(言っておくが男性的であって男性ではないよ)な試みでもある。
 ところが、欲をかく老人たちは明日のことより、今日の儲け・・・それが発展だという幻想さえ持っている。
 しかし、彼らが子どものころも、電気でドアは開かず、階段は自動で上下せず、それでも別に不自由も感じず、不幸だとも思わなかった時代があった。どっちの老人が正しいか歴史が決めることだが、やはり国民は便利さや豊かさを捨てられず、今月の21日に原発再稼働派を容認してしまうだろう。年金ボケの老人たちの票で、あるいは何も考えない若者たちの票で・・・現代の若者は豊かさに慣れてしまって批判や抵抗ができず、利益を有堂yされればすぐその方向になびく。
 しかし、いずれそのツケが子や孫にまわってくる。いやいや、孫や子の代にならないうちに大震災なみの大きな社会変動がやってくる可能性も大きい。ひょっとすると、その大変動は、イケイケドンドンの老人たちが生きている間に起こることもありうる。

先を考えないということは・・・。

 すぐれた本は、過去の英知が集積したものである。英知が集積しているからといっても過去に限定されたものではない。当然、未来を照らすものである。ところが、多くの人々は、その本さえ読まない。読んで未来を考えてみることもしないで目先の利益を追う。これでは、生活倫理は地に堕ち、欲にくらんだ犯罪は増え、構造物の劣化は止められず、一部のものだけが得をして、多くのものが損をする世の中になる。
 それでも安野画伯の危惧は、危惧に終わればいいが、いまだ声は「イケイケドンドン、あとのことはワシャ知らん」の老人たちの方にある。 (新聞7月号一部閲覧)

まだ間に合うか!

 前回の選挙を見ていて、投票率がひじょうに低かったことを覚えていると思います。おそらく、ほとんど中高年が投票したのではないかと思われるような低さでした。59%・・・これで決まっていいのか!というような低さです。
 今回の選挙は、おそらく今後のこの国の方向を決める大切な選挙になると思います。これを低投票率で、しかも老人たちの考え方だけで決めてしまっていいとは思えません。
 子育ての問題も改憲の問題も・・・あれよあれよといううちに、「えっ! こんなはずでは!」ということになりかねません。今後の問題は、若い人も参加して決めないとダメですよね。まだ、間に合うかな。とにかく自分の意志はたとえ思うようにならなくても投票で表現すべきだと思います。これまでの歴史を見ても国民の無関心が国家の暴走を生んでいました。原発問題でさえ、何の検証もなく再稼働ありきの状態です。かなり多くの人がNOと思っているはずなのですが・・・・止められない。
 今回の選挙は、子どもの未来を決定する可能性のある選挙になっています。子どもの未来を決定するのは、現在の大人の仕事だが、どうやら選挙も飽きられてきている感じがある。しかし、やはり、棄権は危険です。死に票になろうが批判票になろうが、護憲であろうが改憲であろうが自分の意志を投票で生かしてみましょう。まだ間に合うかもしれません。(新聞増頁緊急閲覧)



(2013年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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