ブッククラブニュース
平成25年6月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせでお困りのケース
参考意見

1歳の子はスゴい!

 1歳代の認識力の発達は、ものすごいものがあります。あまりの発達の速さに何もする暇がないほどです。あっと言う間に大きくなる。しかし、よく見ていると、だいたい、その成長は読み聞かせでは四半期に分けることができ、最初は、もちろん動物や植物、食べ物、身の回りのものの認識絵本ですが、すぐに「おててがでたよ」「おつむてんてん」など、その時期に行う動作を再確認する動作絵本が適切なことがわかります。また、この動作を生活に応用するものとして、「こんにちは」などの挨拶を描いたものもタイムリーなものになるでしょう。これが1歳から二、三か月くらいの間の発達です。これについては前回述べました。
 この急激な発達は何を意味するのでしょうか。それは、おそらく親に自分の急速な変化を見せて、育ててくれる意識を高める働きをしているのだと思います。毎日のように「できること」「わかること」が親の目に見えて来るので、親はまさに「這えば立て。立てば歩め」の親心を刺激されるのです。これを他人任せにしたらどうなるでしょう。親が親として存在できなくなる可能性もでてきてしまいますよね。つまり急速な発達を見逃してしまうということです。
 配本は、この標準的な発達を見ながらちゃんとプログラムを個別に組んでありますので、そのまま順に読み聞かせに入ってもらえれば問題ないと思います。この時期の個人差は大きいですが、すぐに乗ってくるはずです。

散漫な注意力をどうするか

 ここで注意しなければならないのは、一才直後の子どもは、まだまだ注意力が散漫で、場面に集中する力も乏しいですから、ゆっくりと読み聞かせをしてページを楽しむという力をつけることです。かといって、インパクトの強いしかけ絵本などは避けたほうがいいと思います。しかけのおもしろさや子どもの目を引く絵柄、内容のものは、その刺激だけを楽しむだけになり、その後の絵本の方向に、あまりいい影響を及ばさないからです。
 まず、親が本というものは初めがあって、途中があり、やがて終わるというものだということを意識的に思いながら、繰り返し読んであげることです。反応にいちいちこだわらず、回数で散漫な気持ちを解消するようにしてください。
 さらに、この最初の時期はとくに、「できれば強烈なアニメ本は避けたい」ところです。書店に並んでいるのは色彩もキャラクターもアニメチックなものが花盛りですが、こういうものが刷り込まれると、きちんとした物語に入って行くことができなくなる危険性が出てきます。
 この時期は論理的なスジが展開される物語絵本も不適切。はっきり言って、お子さんには内容がわかりません。たとえ天才児でも・・・・。

歌を歌ってあげる

 動作絵本のほかに与えたいのは、リズミカルな文や歌絵本のような歌ってあげられる絵本も必要です。リズムのあるもの(とくに歌)は、子どもの心に快さを生みます。快さはとても重要で、絵本への関心も高めます。
 お母さんの背中で揺すられてまどろむ、あの心地よさと同じです。子守歌で育った子どもたちの気持ちが安定して正常に成長するという説もあるくらいです。いま、その安定を失った子どもたちが何と多いことか・・・。配本で「ころころころ」「がたんごとんがたんごとん」などのような音感絵本を与えたいのも一才直後の時期だということでおわかりでしょう。リズミカルなもので安定した気持ちをつくり、そこから集中力を生み出すところに持っていきたいのです。読み聞かせの原点の時期です。
 一才三ヶ月ごろになると、単純な線刻画・輪郭画で描かれたものが適切になものとなります。(例「こぐまちゃんえほん」など)自分の周辺のものや動作、生活感覚が描かれたものは第二四半期の特長です。だんだん世界を広げていくわけですが、まだまだ快さを与えるのが必要な時期。周辺に気が移らないような、静かでゆったりとした環境で、いろいろな言葉を使って「楽しい時間」を与えたいですね。(増ページ一部閲覧)

「怖い!」から始まる危険察知能力

 このところ何件か「子どもがコワイといって、この本を読みたがらないので、一回も読んでいない」という話やお便りが舞い込んでくる。これは私にはよくわからないことだ。たしかに、中には異常なコワガリ屋の子どももいるかも知れないが、じつは子どもはコワい話は好きなのである。最初は怖がるが、その怖いものを見てみたいという気持ちが働き、おそるおそる、やがては楽しみにさえ変わって、好きになる。怖いとか嫌がっていると「即判断」をしてしまうのは親のほうではないか、とさえ思える。
 我が家では、子どもたちが四、五才になったとき怖さの極みともいえる地獄絵を見せて、読み聞かせに入った。もちろん、子どもは目を覆い、フトンをかぶり、それでも話は聞いている。しかし、何回か読むと薄目をあける。フトンを下げる。十数回読み聞かせると、血の池地獄の詳細な風景や閻魔大王の着物の柄までが話題になるほどになった。こうなると、怖がるのを楽しみにしていた意地の悪い父親は、だんだん気が抜けてくる。では、次は芥川の「蜘蛛の糸」にしようか、となる。
 たしかに3歳くらいまでは、絵本は楽しいほうがいい。子どもは本能的に怖いものは嫌いなのだ。だから嫌う。しかし、おはなしは好きだから、1歳半ばで「ねないこだれだ」なんて入れると、怖い、怖いと顔をしかめながらも目をつぶってでも聞いている。3歳くらいまでは避けた方がいいと言っても、子どもに「ならぬものはならぬ」ことを教えるためには、やはり怖いものを与える必要があるのではないか。
 叱られなかった子どもが増長してデタラメなことをするのと同じように、怖いものがない子どもは悪いことをしてしまう可能性は大きい。

悪を実行できない逆説

 いま、このニュースの裏面で連載している子ども向けに語られてきた童話や昔話には、あらゆる「悪」が登場する。当然、物語でも怖い場面が多くなる。4歳以後で配本されるものである。たとえば「かちかちやま」のタヌキが、おばあさんを殺して「ババ汁」にするところ。「おおかみと七匹の子やぎ」では、オオカミは次々に子やぎを食べてしまうのだ。もちろん、これには深い意味があるが、まず怖さで始まり、意味が浸透していくのは成長してからのことだ。
 これは、小学生になっても同じ。ナルニア国物語の「ライオンと魔女」では、偉大なライオンが魔女に殺されるところを少女が一部始終見ている場面がある。前回書いた「ヘンゼルとグレーテル」だって、魔女をかまどに入れて燃やしてしまうところがすごい。でも、子どもたちは平気で聞いている。昔から子ども(三歳くらいから)に聞かせる話は怖いものも含まれているのである。
 しかし、一方、やさしさだけを教えられた世代の親からは「残酷な報復シーンなどは子どもにいい影響を与えないのではないか」と危ぶむ向きあるだろう。平和な時代に育って「悪」の酷さを体験しない人々には当然の反論である。だが、そこには、幼いとき「悪」というものがどういうものか知った子どもは成長して悪を行わないという逆説があるのがわからない。怖いというものがどういうものかを知った人間が逆に倫理的になり、ほんとうに残酷なことなどしないようになる。甘ったるい優しさやハッピーエンドばかりで育った子の方が危険なのだ。悪がどういうものかわからない親にかぎって、残酷や悪に快感を促すTVゲームを平気で子どもに与えているのである。
 私は、子どもを叱らずに説得で育てている親を何人か知っているが、どうもこの子育ては自我というかワガママを拡大するだけで、子どもがみっともない成長をしてしまうケースが多いように思う。やはり、怖いものがあることは人間にとって大切なことなのだと思う。

悪の意味するものを感じ取る

 広く愛されている童話や物語では、悪は悪として描かれ、読む側には、そういうことにならないように、あるいはそういうことをしないように感じさせる結末になっている。
 結末が和解で終わったり、悪役に同情するようには描かれていない。さらに、物語の中では、人間の心の営みすべてが語られ、子どもが知識や道徳として悪を学ぶのではなく、悪を感じとれるようにできあがっているのだ。
 子どもは、怖い話でも読んでさえやれば好きになり、何度もせがむようになる。頼りになる親、完璧に信用している親が読むから怖いけれども安心して聞くのである。悲しい話も同じだ。もちろん、そんな話ばかり読み聞かせる親もいないが、楽しい話の合間にたまに読むことは必要だと思う。そうすれば子どもは、読み手との信頼感を増そうとして怖い話を薄目を開けながら聞くのである。同じように共感し、悪が作り出す怖いことを親といっしょに見つめようとするのである。

平和な国の悪知らず

 日本という平和な国で、「悪」というものに触れず、正義にも鈍感に育ってしまった世代の親が、「怖い話は子どもの心を傷つける」などという安易な感覚で避けていることが多い。当然、バブル世代で、この世代ほど倫理的にきちんとしていない人が多い世代はないかもしれない。つまり倫理基準がいいかげんだから、叱ることも怒ることもできないわけだ。彼らと話すと、「そういうこともあり、またこんなこともあるので、それらを認めて・・・」というようなじつにいい加減な判断基準で、そういう言い方をしたら、連続殺人をした極悪人でも「そういう生い立ちがあり、かわいそうな過去を背負っているので、それを認めて・・・」ということになる。私は、この世代を「特赦世代」と呼ぶが、どこかで自分がしでかした倫理違反を許してもらえるように、妙な寛容で自分を表現しているような気がする。この世代は村上春樹の作品が好きだが、これもじつは、あのわけのわからないノラリクラリした小説が何となく、自分の犯した過去の過ちを「それでも生きて行って大丈夫だよ」と肯定してくれる、つまり許してくれるような作品だから好きなのだろう。
 「寛容」は必要なことだが、免責のための寛容は相手のためにも自分のためにもならない。まして、それが子どもだったら、親との共感もつくれず、正義も悪もはっきりと見えなくなるから、悪に弱い人間になる可能性まで出て来る。
 人間の世界には必ず悪が存在する。だからこそ悪をはっきり認識して危険を察知する能力を高めないといけない。・・・悪を曖昧にして子どもに見せることはまずいことなのだ。これが、今後、子育て上の最も重要な能力になると思う。悪い大人のうまい話にだまされないように、恋人からDVを受けないように、スマホのゲームに集中していて駅のホームから転落しないように、楽しそうに見えて実は不幸である世界にのめり込まないように・・・その危険を察知する力をどう養うか。その出発点が怖いお話を聞き取ることであることを知っておいてもらいたい。(新聞増ページ一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話

Cペロー版「赤ずきん」

 母親におばあさんのところに食べ物を運ぶように言われた赤ずきんを見たオオカミは、先回りしておばあさんを食べてしまい、ベットの中でおばあさんのフリをして赤ずきんを待つ。やってきた赤ずきんは、ベットに入っているオオカミの耳の大きさ、目の鋭さ、口の大きさに疑問を持って「なぜ?」と尋ねるが、うまくだまされてけっきょく食べられてしまう。
 グリムの童話「赤ずきん」は誰もが知っている話だが、あまりにも手が加えられすぎて、原話の意味が見えなくなってしまったと言われている。食べられたおばあさんと赤ずきんが猟師にオオカミのおなかから救い出されるというディズニーのハッピーエンドみたいな結末はペロー童話にはない。赤ずきんは食べられたまま終わる。
 これは昔から言われていることだが、「世の中と言うのはコワイもの。派手なファッションで危険な場所を歩くとヒドイ目に遭うよ。」というのがテーマである。それが原話に近いものになるとさらに際立ってくる。赤ずきんは自ら服を脱いでオオカミの待つベットに入り込んでオオカミに食われてしまうのである。殺されるまでは行かなくてもヒドい目に遭う少女は中世ばかりでなく、現代だっていることは誰もがわかることだ。現代のオオカミは、むくつけき大男ばかりではない。ネットを通じ、ケータイを通じ、あの手この手でダマしてくる。AKB現象に乗せられて派手なカッコウをすれば、当然、魔の手が伸びる確率は高くなるわけだ。少女ばかりではない。赤帽子の少年も被害は受ける。暗い森は明るいショッピングモールの中にも広がっているし、知り合った人の耳が大きくなり、牙が出て来ることも最近ではよくあることである。赤ずきんの声を真似たオレオレ詐欺におばあさんが食べられてしまう事件も毎日のようだ。
 しかし、一般では「コワいものは見たくない」と、オオカミ増加現象には目をつぶり、メディアが煽る「派手なファッション」にばかり目を向ける。で、教訓です。教訓・現代にも中世と同じ闇がいたるところで口を開けている(ニュース6月号一部閲覧)

読み聞かせのゆくえ

 お子さんが中学生や高校生になっているブッククラブのお母さん方と話すと、「最近のゆめやさん、何だかもう先がないって投げている感じが伝わってくるわ。話やニュースの端々にそういう感じがあふれているもの。」という言葉を聞く。そういわれてもしようがない点もあるが、いくら世の中が悪くなっても働きかけを捨てているわけではない。私は意外と気が長い。それは「ニュースを書き続けていること」でもわかってもらえるのではないか、と思う。長い人類の歴史を考えれば、日本人の頭が悪くなってきているからといって、あるいは精神的におかしくなってきているからといって先行きを絶望しても始まらない。世の中がそうなっても、ある一定の数の人は真っ当に生きているわけだから、そういう人とだけお付き合いできればいいと思っている。実際、ブッククラブの方の多くはマトモな方で、モンスターペアレントやモラルハザードの親はいない。問題は、これから「周囲の影響をどのくらい受けるか」だ。だから「何とかせねば!」とじいさんのくせに老婆心を出す。いろいろ注意書きをする。
 例えば、みなさんに最初に渡す配本プログラムの下に、私は以下のような注意書きを必ずつけている。「・・・・TV、ビデオの過度な視聴、粗悪なキャラクターもの、電子玩具、早期教育類などもお避けください。読み聞かせの障害になります」・・・これは1980年から、あきらかに問題となった結果にもとづいて注意書きとしたものである。1985年のプログラムリストの下にはワープロ(当時PCはなかった)で印字したものが残っている。文面はいまだに変っていない。私としてはやさしい書き方のほうだ。そして、毎月のニュースでもそういうものの弊害については何度も何度も詳しく述べてきた。
 テレビ漬け、DVD漬け、プリキュアや戦隊もの、矢継ぎ早のプリント教育などの環境に子どもを浸していくと、まず90%本が読めなくなり、その結果、ものが考えられなくなり、時には、人格が壊れるということも起きて来る。「周りで流行っているからとりあえず」「子どもがやることは、大目に見ないと」「好きなことをして何が悪い」という反論もあるが、私は「では、やってみたら!」と言うだけである。

世代が変っても

 しかし、親の世代が若返るにつけ、つまり一を知っても二も十もわからないマニュアル世代になるにつけ、その人々に何度言ってもわからないことがわかってきた。「TV・ビデオの過度な視聴はダメだ」と言えば、過度でなければいいと思って一日2時間も見せる(できれば見せないほうがいいんだよ!)。粗悪なキャラクターものはダメだと言えば、ディズニーや宮崎アニメならいいと思い、低年齢児に数多く与えるバカさ加減である。
 ダメなものをことごとく例として挙げるわけにはいかないから、サブカルチュアとしてひとまとめにしているのだが、どうもそれでは理解できないらしい。自分自身が、それで育てば否定できないのもわかる。実際、親自身がウルトラマンやガンダムの世代、キティーちゃん世代で、キャラクター産業に漬けられてきた世代だ・・当時は社会も安定していたが現代はそうはいかない。考えても見よ。マンガを読んで悪いとは言わないが、現代のマンガは内容がヒドすぎる。それはアニメでも戦隊ものでもヒドさの進化が見られるのである。親の世代が楽しんできたサブカルチャーとは違うのだ。
 人間は精神のどこかに精神病的要素を持っているが、それがキチンとした環境やしつけや人間関係で発症しないように抑えられているのである。それが「なんでも自由に・・・」となれば発症していくだろうし、粗悪なサブカルチャーによって、さらに症状が拡大する。できることもできなくなり、生活そのものが壊れていく。そんな若者が増えていないか? 「アメリカには若者のホームレスが多いが、日本にはほとんどいない」と嘯く人もいるだろうが、日本の若者(四十歳代だって入るよ)は「ひきこもり」をするのだ。これは家があるからホームレスではなく「親がかり」の人生である。1980年には社会にはほとんど存在しなかったのだから、現代の41万世帯に存在する事実は何が背景にあるのだろうか。当然、上述のものが原因だろう。「ひきこもり」は、親に金があるから起きる現象で、日本独特。実際、「ひきこもり」という英語はなく、英語でも「hikikomori」なのだ。
 それでも「読み聞かせもしているから大丈夫!」と言う人には「どうぞ、ご勝手に!」である。 日本は自由の国なのだから何をしても否定はできない。
 さて、こういう状態で苦闘していると長くニュースを読んできたお母さん方に「何だか投げている感じ」を与えてしまうのもしれない。しかし、私もバカのひとつ覚えで、言い続ける。子どもを表のニュース本文で書いたヤンキーにしないためにも、私はうるさくても言い続けたいと思う。(ニュース6月号増ページ一部閲覧)

選書がむずかしくなった

 子どもの本を選書をするとき、私は大人の目でしか読めない。児童書関係者の間では「子どもの立場に立って読む」ことが常識らしいが、できない。なぜなら私は大人で、子どもではないからである。けっきょく、大人の目で読み、「これなら、こういう方向に子どもの気持ちを引っ張れるのではないか」という本を選ぶ。
 ただ、私はかつて子どもだったことがあり、いくぶんは少年の感覚が残っているから、その当時の「おもしろい」「すごい」「たいしたことない」「くだらない」という判断基準を使ってやっている部分もある。
 グチにはなるが・・・なんとか最近の児童書は、果たしてこれを児童書といっていいかと思うほど「大人的なこと」を取り扱ったものが多くなっている。あるいは、逆にモーレツに子どもっぽい内容のものもある。これは、私が少年時代にはなかったことなので、ときには判断がにぶる。低学年選書はまだいい。高学年選書が問題で、離婚や異常な死、ゆがんだ恋愛や葛藤する友情、性をテーマにしたものが出てくる。すぐに私の判断基準は機能しなくなる。
 その一番最初は、「NO.6」だった。いまだに自信をもって定番にすることができないでいる。ファンタジーになるとなおさらである。ハリー・ポッターはともかく、柳の下のどじょうで出てきた魔術ものは、もうほとんどハリポタ・レベルの劣悪なものが多くなった。これでは高度な読書に進めない。
 多少、現代的な問題を抱えている本の、「黄金の羅針盤」(ライラの冒険シリーーズ)は秀作だったが、多くは古典のファンタジーにはるかに劣るものが多い。「つまらなくはないが、これといってすぐれたテーマを持たない」ものは、どう選ぼう?という悩みも出てくる。以前入れていた「守り人」シリーズは副読本に下げてしまった。新作の場合、評価が定まるまでは定番にしない姿勢も必要となる。子どもがどのような本をどういうふうに読むか?は子どもたちの変化を見ていなければむずかしい。
 さらにまた「今の子どもたちには何が受けるのか」ばかりを考えていると、コビたおもしろさを持つ本ばかりになるわけで、子どもたちが変化しているこの時代に、本選びはさらにむずかしいものとならざるをえない。やはり、困難であっても「ニルスのふしぎな旅」や「ゲド戦記」などがやがて読めるような読書力をつけたいと思う。ブッククラブの5年生の多くは「モモ」が読めているのだから、「はてしない物語」も6年で入れてある。そういうものが読めればドストエフスキーも芥川龍之介も手が届くところに行くことだろう。どこかの図書館のように1960年代の古びた名作ばかりをリスト化したら見向きもされない。生身の現代の子どもをどう見るか・・・正念場でもある。

HAHATAME配本を取っている方に

 母のための配本は、開始が不定期のため、最初の開始、あるいは次の期間の開始のときにHAHATAMEの冊子を配れないことがあります。完全管理していませんので、人によっては、ご迷惑をおかけしているかもしれません。
 配本を受け取っている期間は、こちらで機械を確認すればすぐわかりますので、もし冊子が届いていない方は、ご連絡ください。だいたい半期で2冊くらい配布しています。
 最新刊はHAHATAMEFです。
 連絡は、お便り、FAX、メール(HAHATAME会員はメールが使えます)でお願いします。
 (新聞6月号一部閲覧)



(2013年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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