ブッククラブニュース
平成25年1月号(発達年齢ブッククラブ)

新年おめでとうございます

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
 平成25年元旦
 今年も皆さまからたくさんの年賀状をいただきました。謹んでお礼を申し上げます。本来であればこちらから年賀状を差し上げるべきなのですが、年末年始の繁忙でなかなか出す余裕がありません。左掲載の簡易?年賀状でご勘弁ください。皆様の年賀状は、このニュースの表紙にありますように、全点、店頭に貼り出してあります。一月末まで展示しますので、ご来店の方は、ぜひご覧になってください。
 年頭に当たって、本年がブッククラブ会員の皆様にとって佳い年になるようお祈り申し上げます。時間の流れが速くなり、なかなか余裕のある毎日を送れないかもしれませんが、健康にだけは気を付けて今年をお過ごしください。政治の流れが変わり、はたして国が良い方向に行くのか、それとも危ない方向に向かうのか、まだ判然としませんが、政治家のみなさんも経済界のみなさんも、次の時代の安全と安心のために努力してもらいたいと思います。

年賀状を拝読して・・・

 いただいた年賀状の90%は写真年賀状で、お子様の成長ぶり、遠方のお客様はご家庭の様子まで垣間見られる楽しさがあり、ついつい時間の経つのを忘れて見入ってしまいます。
 いずれも心豊かで楽しそうな生活の一部が写真の中に、あるいは文面の中に感じられ、世間のニュースで報道されているような事件や風潮とは無縁の環境が、みなさんのお子さんには用意されていることがわかります。
 この商売を長くしていると、生まれて数年を経ただけで、その子の未来の姿が見えてしまう勘のような力が身についてきます。親が子どもをしっかりと見て、相手をしている家とそうでない家・・・その結果は、その後の数年では見えてきませんが、思春期、成人後にはっきりと差が出ます。
 やはり「絵本を与えられて育つ」子どもは、絵本や読み聞かせの影響もさることながら、親、周囲、家庭環境などがきちんと望ましい状態になっているのでしょうね。これは、長く、この仕事をしてきてよく感じることでもあります。
 おかしくなった子どもを見ると、その子が自らおかしくなるのではなく、育っていく状態で何かの影響を受けていることがわかります。親や周囲が、その子どものことをちゃんと見守ることができなかったのでしょうね。親や大人がデタラメだと、当然、その影響を受けて子どもも育ちます。当然、子どももデタラメになります。

たとえば・・・

 ご来店のお客様が入り口で「さあ、ゆめやのおじちゃんに『おめでとう』って言えるかな」などとお子さんに言います。お子さんは恥ずかしそうに「あけましておめでとうございます」。
 もちろん2歳くらいだと俯いて何も言えないでモジモジしている子も・・・・。私に慣れた4歳くらいの子は、いきなりドアを開けるやいなや大きな声で「あけましておめでとうございまぁーす!」と叫びます。
 もちろん、言ったから良い子、言えないからダメな子ではないです。言える、言えないではなく、こういうことを教える親がすてきだと思います。
 親自身が挨拶もできず、会話も交わせなければ、それも子どもに影響していくことでしょう。そういう大人は増えています。私は「美しい国」とは、見かけの美しさではなく、実体をともなった美しさだと思うのですが、おそらく、それは言葉から始まり、言葉は心となり、やがて態度に出てくるはずで、最後は人間の品とか格につながっていくと思います。

言葉と行い

 親は子育てをするときに、自分の子どもがきちんとした人間になることを願います。でも、神社や仏閣に願うだけではダメで、それなりのことを親が教えていかなければなりません。あるいは親が行動で見せなければなりません。言ったことをする。ダメなことはダメ・・・するべきことはする・・・・。今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」では、「ならぬことはならぬのです」という会津っ子宣言にもある文句が謳われています。これだとて、親が「ならぬこと」をしていて、子に「ならぬことはならぬ」とは言えないでしょう。
 親が実行しなければ、子どもも実行はしません。いい加減なことを言えば、子どももいい加減なことしか言わなくなるでしょうし、矛盾したことをやれば、子どもも同じことをします。
 「言ったことを実行しない」と言えば、先の政権はひどいものでした。言ったことをやらない、言うそばからひっくり返す・・・制度が複雑になっていますから改革も大変なのでしょうが、良いことを言っていながらもなかなか実行までは行きませんでした。

癸巳の年

 昭和28年の衆議院のバカヤロー解散も癸巳年でしたが、今回の解散は、みんなが言うこととやることが違い過ぎる解散で、明けてすぐに癸巳年となりました。やはり物事が改まる周期は60年なのでしょうかね。
 さて新しい政権・・・最初は勇ましく景気、景気、ケーキとクリスマス商戦の洋菓子屋のようですが、果たして言葉通り、景気が回復し、債務不履行に陥らず、借金を返すことができるでしょうか。言いたい放題言って、できないと具合が悪くなる・・・今度は投げ出さずにきちんとやってくれるのでしょうか。
 2013年は「癸巳(みずのとみ)」で、「巳」の意味は「物事が終わって、新たに出発する」です。易の本を読むと「癸」は「原理原則を立てて、順序にそって一致協力して行う」というものです。しかし、これをいったん間違うと「乱が起こる」とあります。

ヘビはお金を支配する

 巳はヘビ・・・日本でも古来からヘビはお金とかかわりのある動物です。また西洋では商業の神マーキュリーの力のもと。商業高校の校章で有名ですよね。
 でも、この神は生まれつき人を騙したり盗み癖のあるワルなのです・・・・お金とは、もともと人間に「悪」をもたらすものかもしれません。また、お金の使い方を間違えれば経済的混乱が引き起こされるかもしれません。
 とにかく日本中、世界中が「楽して儲ける」方向に行っていますから、借金で破綻することもありえますね。借金は返すものですが、それをどんどん借りていくとどうなるのか?やがては、拾うか、もらうか、盗むかということになり、最悪は資源や食糧の分捕り合戦となるわけで、つまり「戦争」です。
 私は、安倍首相の経済政策が、かなりこの国を危うくするのではないかと思っています。国債を日銀が無制限に買い取ると言うことは、インフレを歯止めがきかないものにするでしょうからね。考え方次第では、ダメになるなら早くダメにして、もう一度最初からやり直すということですが、経済失政は社会不安や治安の悪化も招きます。まあ、そうなってもほとんどの人々が同じで、バカが戦争でも起こさない限り、戦後の焼け跡状態までは行きませんから、そうそう心配することもないのでしょうが、豊かさ・便利さになれた人々は大変でしょう。

「危」

 国がデタラメをすれば国民も影響されてデタラメになっていきます。もう、なっている人々もいます。親がお金だけ追い求めていたら、子どもだって同じになります。するべきことをしないで時間を稼いで先送り、「危機なんか来ないよ」とデタラメばかり言っているとある日突然というのがある。癸巳年の経済混乱は可能性高いですよ、ほんと。
 こういう危惧をしているのは来年が「甲午(きのえうま)」の年で、これは古い体制が壊れて、新しい革新的なものがようやく出て来るという年ですが、まだまだその芽は固く、壊れることのほうが大きいのです。
 テレビは、いつも豊かで美しい状態を写しだしていますが、これを信用したら大変。裏では大変なことが起きているかもしれません。テレビを見ていては現実は読み取れません。
 ところで、去年を象徴する漢字一字は「金」でしたが、安倍政権の強引な経済政策・・・その後に続く右傾化を考えると、今年を象徴する漢字一字が「危」にならないことを祈るばかりです。危ないことばかり言っていると危ないことが起きますからね。日本は、言霊の世界なので・・・・。
 まあ、そうは言っても個人では世の中は動かせません。何か起きたときには慌てず騒がず、自分の頭で考えて、自分の判断で行動できるように親も子もいきたいものです。
 でも、一応は「今年が良い年になりますように」と型どおりに祈りましょう。一富士、二鷹、三茄子・・・の夢を掲げて、不時に備え、タカをくくらず、自分のナスべきことを新年には誓いたいと思います。(一月号ニュース一部閲覧)

就学児BCへの移行について

 今年四月に小学校入学の会員の方には、二月号ニュースといっしょに就学児ブッククラブ2013年基本配本表をお届けします。何も問題のない場合は、その配本表に沿って自動継続になります。継続しない方は、御面倒でも御知らせください。電話、FAX、手紙、ハガキ、郵便振替通信欄など・・・でお願いします。
 就学児配本については、標準では配本は月一冊になります。ただ、グレードの調整や増量については個別にプログラムを作りますので、御要望を御知らせくだされば、組み合わせたプログラムを個別に作成してお届けします。詳しくは配本表で説明してありますので、それをお読みください。発送でニュースを送る方は配本表を同封します。こちらの手違いで入っていなかったばあいは、ご連絡ください。
 これまでの発達年齢ブッククラブではメールが使えませんでしたが、就学児ブッククラブではメールが使えます。配本表にこちらのメールアドレスがありますので、メールを送っていただければ返信いたします。ただ、データ添付をすることが多いのでケータイからの登録は御遠慮ください。今月から就学児の新聞を同送します。(一月号ニュース・重要なお知らせ)

佳い年になりますように・・・と。

 表紙写真にあるように、今年もたくさんの年賀状をいただいたのですが、会員の方々に年賀状を出す暇がなく、いつもこの新聞で代用しているのを心苦しく思います。そこで、毎年、個人的に作っている年賀状が夢新聞やニュースのカットを利用したものですので、とりあえず年賀の←の挨拶として載せます。ニュースの方にも別ヴァージョンを載せています。見覚えのあるカットかと思いますが、少しお正月風にアレンジしました。本年もよろしくお願い申し上げます。
 とにかく、この国は実際は大変なのですが、大変な状態に見えないように仕組んでいるので、多くの人が「あけましておめでとう」なるほど、その意味でもおめでたい話です。いずれ、あらゆる問題が堰を切ったように噴出してくるでしょう。でも、まあ、それまでは「あけましておめでとう」ですね。とても良い年になると思えるような政権選択ではなかったですが、それもこれも民主主義の国でみんなが決めたこと、間違ってしまったら運命と言うことでしょう。
それにしても、この国は未来のことより、現在の欲が優先する国になったということですね。

何事もないかのような・・・

 大震災からまだ二回目のお正月。周りを見渡すと、何もなかったかのような世の中になっているので不思議でたまりません。テレビも新聞もほとんど原発事故や津波の爪痕を報道しません。復興の裏でひどいことが起きていることも知らせません。「何も起こらなかったのか」と錯覚させられてしまうような華やかで、かなりお馬鹿な映像が山ほど流れ、物を売るための景気のよい演出がなされます。地方の疲弊はひどいものですが、映像に流れるのはにぎやかな場面ばかり・・・一部が儲かり、あとは低迷・・・大学生の就職がない状態も恒常化しているのに、イケイケドンドンの様子ばかりが映し出されます。もう現実だか幻想だかわからない状態になってきていますね。考えない、分析しない、当然、反省しない。まったく子どもじみた世の中になったものです。
 放射能の問題も話題にするのがはばかられる風潮になっていて、「前向きに」「希望を持って」という言葉の向こうには「怖いものは見たくない」「忘れたい」というものが隠れているような気がします。こんな逃げの姿勢で次の世代にバトンタッチはできないのですが・・・。

やっぱり

 もちろん、その国民の意識の背後には物事をまとめられない政権があって、けっきょく選挙になったわけでですが、新年は新政権で迎えることになりました。ただ、選挙に行ったのは有権者の59%にすぎない(ほとんど老人?)人たちで、旧政権が嫌だったから新政権に投票しただけなのでしょう。まともな選挙ではありませんでしたよね。憲法違反の選挙でもありました。これが今年の幕開け。夢新聞12月号で、私はこう述べています。
 「・・・今回の選挙の結果がどうなるかは現時点ではわからないが、おそらく、日本人はまた誤った選択をするだろう。キナ臭いことを言っている人や狂ったようなことを言う人が当選する可能性も高い。崩れていく時代ではそうなるのもしかたないが、世のため、人のためではなく、ろくに本も読まないリーダー(LeaderはReaderでもある)たちが欲と勝手な妄想で国の舵取りになれば大変なことになると思う。」
 老人の無知と若者の棄権がもたらした政権というわけですが、「景気の掛け声に負けて先行きの危険が見抜けない」というのは悲しいものです。「少しは考えろよ!」と思います。

考えることが面倒になってきている

 最近、大学生や若い世代の人たちと会話をしていて、彼らは「考えることが面倒になってきている」、あるいは「考えることは無駄だと思っている」と感じることがあります。この原因は何でしょうか。答えを覚えることだけをしてきたので、考える訓練ができていないのかもしれません。あるいは、プログラムされたものだけを操作しているので、「人生」とか「世の中の見方」とか、「生きる」とかいう基本的に決まった答えがないものを考える力が失われているような気がします。
 もちろん、この原因は遊ばない少年時代があること、答えを要求する受験勉強があること、精神を以上にするサブカルチャーがあること・・・過保護、放任・・・まあまあいくらでも上げることができます。ここでは考えるのは面倒くさいことなのです。
 大人たちも同じです。「目先の刺激や利益で、生きる理由も考えないで走り続けて、いつの間にかアッと言う間に長い時間が経っている」というのが本当のところではないでしょうか。はたして、どのくらいの人々が、大きく変化する世の中で流されないで自分の頭で考えたことをやっているのでしょうか。

ツールの発達

 いま生活の中では、道具がめざましい進歩をしています。通信機器も交通機関も便利で快適になっていますが、これが子どもたちにどのように影響を与えていくかはわかりません。ただ、ひとつ言えることは「人間が本来するべきことを道具や機械がするのだから人間が退化するのはあたりまえ」ということです。もっと言えば、人件費を削って機械化、合理化を目指すのだから若者の失業も増えるのはあたりまえ。さらに、生まれたときから消費しか知らない人が独自に仕事を創造できるとは思えません。「ものづくり日本」などというのは昔の話で、体験の少ない子どもが知識だけで何ができるものでしょうか。「幼児期には遊びを!」とは頭の中でわかっていても、ついつい幼児教室での遊びに代えていき、ついつい受験戦争の中に追いやってしまう・・・まだまだ明治時代に教育の根幹を作った福沢諭吉の「立身出世」の呪縛から逃れられないのが現代人です。
 子どもの周辺には、それこそ子どもの力を削ぐものが溢れています。生活にあふれている現代の発明・発見はどちらかというと人間には不要なものが多いのです。つまらない発明で人間が壊れていく・・・・。もう、そういう現象はあちこちで起きていますね。豊かであるうちはいいでしょう。でも・・・。

元に戻って考えてみると・・・

 「なんで、こうなってしまったか?」・・・私は思います。そして、出発点に戻って考える必要があると思いました。現代をさかのぼって行けば明治時代が出発点で、そこの発想が現代のすべてを作っています。そこで、昨年は、漱石の文明論や中江兆民や新渡戸稲造の考え方を何冊か読んでみました。すると驚いたことに、明治政府の根本を作った福沢諭吉の思想とは逆のことが書かれていたのです。今の時代も、教育、経済、政治で福沢諭吉の思想が色濃いです。「脱亜入欧」「殖産興業」「富国強兵」「立身出世」・・・現代でも明治時代とほぼ同じことが行われているのです。

選んだ道

 しかし、漱石の見識は、その現代を鋭く批判しているものでした。中江兆民も新渡戸稲造も同じでした。この方々の考えの方を日本が取っていたら悲惨な戦争に行かなくて済んだようにも感じました。彼らの本はちょっと難しい本かもしれませんが、よく読めばわかります。学校教育では福沢も漱石も新渡戸も名前と著作、業績の暗記はさせますが、教える側の先生で作品を読んでいる人は少ない。「学問のすすめ」だって、「・・天は人の上に」ばかりが言われ、実際には「現実はそんなもんじゃない」と書かれていることが示されないのは、読んでいない人が多いからでしょう。でも、結果的に、この国が選んだ道は福沢諭吉が言った道で、時代が変わって表現が変っても引き継がれています。でも、安倍首相はバブル世代・・・当然、いい思いをしていた若い時代がありますので、夢よ!もう一度の大胆な賭けに出たのでしょうね。いまでも50歳前後の世代は、おどろくほどお金大好き、ブランド大好きで、ただただ生き急いでいます。そんなに銭金物を追い求めなくても楽しく、心豊かな生活はできるのですがね。

お札が示す方向

 なぜ、福沢諭吉の考え方は日本人に定着しているのか。この国がなぜ、彼の思想が好きになったのか・・・あるいは、その価値観で行こうとしているのか・・・その証拠があります。  どういうわけか夏目漱石と新渡戸稲造がお札の肖像になったことがありました。千円と五千円。しかし、使われた期間は意外に短かったのです。そして、これまた、どういうわけかすぐに野口英世と樋口一葉に代わりました。しかし、福沢一万円札はずっと続いています。
 最高額紙幣の位置を譲らないでいるということで彼の路線が続けられていることはわかります。その下にいるのは借金証文ばかり書いていた樋口一葉と野口英世です。なんだか、この3枚のお札は今後の日本を暗示しているように見えてしかたありません。「脱亜入欧=欧米先進国の仲間入りをしていたい」「殖産興業=市場原理やTPP」「富国強兵=日米同盟や武器・原子炉の輸出」「立身出世=他人はどうでもよいから自分だけ一儲け」が行われるとするならば、その先は・・・。

科学は幸福をもたらすか?!

 「科学技術立国」などとアメリカ主義の追随をしていますのでiPS細胞もIT技術もクローズアップされます。でも、ただただ長生きするだけが幸せか、便利に通信できるのが幸せかというとそうではないと思うのです。こういう医学、科学技術は国が戦略上必要だから力を入れるわけで、それほど国民の幸福度に貢献するものではないのではないでしょうか。
 これもまさに福沢諭吉の、先進国好み、大きな借金を抱える、経済成長競争、軍備の拡大といういつか来た道ですから、この先も・・・おそらく経済がガラガラポンになるまで続くでしょう。子どもの世代までも続いたら、また悲惨なことになるの・・・ですが、後の責任など考えもしない政権。子どもの世代が大変になるのが目に見えているのですから今は抑えるべきなのですが・・・欲が深いと何も見えなくなるのでしょう。まるで「したきりすずめ」の欲の深いおじいさんのように何でも大きな葛篭(つづら)に入れて持ち帰って開けてみたら、怖い物ばかりが出て来る・・・そんなことになりそうです。

文学は先を見ることができるか?!

 多くの知識人は、震災後の日本のゆくえを、漱石の文明論と同じく「経済成長に頼らず、限られた資源の中で人間らしく生きること」を主張しています。原発事故は原発に象徴される経済成長主義が限界にきていることを示したもので、民意の80%は原発を否定。ところが、新政権はまだイケイケドンドン・・・そのうち経済も今年の後半で、その結果も見えて来るでしょうが、どうなることか。
 すぐれた文学は漱石の文明論集のように先を見通した見解を語ります。チマチマした花柳界のできごとや男女の愛を語っていた樋口一葉の文学には時代を見通す力はありません。最近の女流作家のものを読んでみても、ほとんど精神病のようなドラマ仕立て、異常な価値観の男女の泥沼劇・・・何も先を見通した文が見当たりません。
 われわれが本を読むのは何のためでしょうか。自分が冒した非道徳的な過去を「しかたなかった」「それでもよかったのだ」と肯定してくれる村上春樹のような文学で癒しを求めるためでしょうか。やはり、どう生きたらいいか、世の中の落とし穴を見据えて落ちないようにしてくれるものを求めるのではないかと思います。

行くとこまで行ってわかる?

 それとも、あのときと同じで完膚なきまで敗けて焼野原にならないとわからないのかもしれません。六十七年経てば、多くの人がすべてを忘れ、知っている老人たちも便利とお金で頭がやられていますから・・・だからこそ、すぐれた本を読んで・・・何とか知恵を出していく・・・でもダメですね。読む人は読むが、読まない人は読まない。読まない人の方が圧倒的に多い。読まない人は声が大きく、読んだ人を押さえつける・・・日本は出版王国と言われていますが、じつは売れているのはすれた本ではないのです。子どもの本ひとつとってもすぐれた本は陰に隠れてしまっています。これでは、行くところまで行ってもわからないでしょうね。(新聞一部閲覧)



(2013年1月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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