ブッククラブニュース
平成24年12月号(発達年齢ブッククラブ)

聖夜に開く1ぺージ

自分の中の羅針盤

 十二月一日。師走に入ったとたんに甲府は夜空が美しくなった。空気が澄んで、満天の星が見えるようになる。冬の代表的な星座のオリオン座が昇ってくると、その二つの一等星であるペテルギウスとリゲルが、いかにも寒そうに瞬いているのが見える。
 これらの星々が、二千年前も二万年前も同じように輝いていたと思うと、なんだか年甲斐もなく感動する。こういう長い時間を考えていると、「ああでもない」「こうでもない」と騒いでいる政治家たちの言葉など星クズほども価値のないもののような気がしてくる。これを皆さんが読むころは衆議院選挙の結果も出ているだろうが、ここまで人間が壊れてしまえば、もう行き着くとこまでいかないと新たな形は生まれないような気がする。こうなる前に止めることはできた。しかし、これまで何度もあった分かれ道を我々は間違えた方向に進んでしまったのだからしかたがない。そのツケが子どもに回るが、何とか次の時代を生きる子どもたちには、自分の頭で考えて進む羅針盤を持って道しるべにしてもらいたいと思う。辛抱の時代にはなるのだろうが・・・。

星降る夜の数の物語

 十二月二日。先月号の「ライトダウン」で書いた高橋真理子さんの誘いで数学の講演会を聞きに行った。数?で挫折してしまった私が数学についての講演会に行くというのはおかしな話だが、行く気になったのは何より講演会のタイトルが「星降る夜の数のものがたり」だったからだ。数学の成績はともかく数学そのものは好きだし、数学関係の本も好きで読んできた。数学は世界を測って、いろいろな形を見せてくれるからおもしろい。
 さて、聴き始めると、何とテーマは私の挫折のきっかけとなった「対数log」である。これはむずかしい! しかし、講師の桜井進さんの話は、数学そのものではなく、対数を考え出したジョン・ネイピア(大航海時代のがスコットランドの城主)が、遠洋航海で難破して死んでいく多くの船員を助けるために悪戦苦闘した人生について語るものだった。
 航海で自分のいる位置を割り出すのに必要な計測技術・球面三角法は、数字の桁が大きくなるので計算が大変だったという。緯度は太陽の高さですぐ分かるが、経度はそうはいかない。正確に航行するためには正確な海時計が必要なのである。そして、この話の中で偶然にも「海時計職人・ジョン・ハリスン」の名が出てきた。私が去年、ブッククラブ配本に同名の本を加え入れた本の題名でもある。男子高学年の副読本だが、この海時計の発明には対数が使われていたというのだ。星を計測することで船乗りたちの命が助かる・・・まさに星の光が命の道しるべになるという物語。やがて、ネイピアの対数はケプラーやニュートンら天文学者の新発見の大きな力となっていったらしい。

本と出会う

 さて、人は何らかのきっかけを得て、多かれ少なかれ世のため人のために生きていくものだが、桜井さんの数学へのきっかけは、ネイピアの著作「ロガリズム(対数)」という一冊の古書(左写真)との出会いだった。京都大学図書館が購入した初版本で、グーテンベルク印刷機で刷られたもの。裏表紙に鉛筆で、購入価格が298万円と書かれている。そんな貴重本に貸し出し票が糊で貼り付けられている、お笑いの図書管理だが、・・・この本と桜井さんが出会い、その後、彼は数学の面白さやネイピアの業績、意義を子どもたちに語り伝える日本で最初のサイエンス・ナビゲーターになったネタ本でもある。まったく、人の一生は出会いで決まる。
 「数?で私は挫折した」と言ったが、何で挫折したかというと理解能力がなかったのはもちろんだが、ひとつには試験のための数学という無味乾燥なものだったので、好奇心が働かなかった。小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読むと数学の面白さを説く「博士」がいたことで関心が深まる話が出てくるが、私にはそれがなかったというわけだ。

Don't think,Feel! 

 「考えるな!感じろ!」これは、ブルース・リーが言った言葉だが、武術だけではなく読書でも同じことが言える。本を読むということは考えるための方法だが、じつは読む段階では論理的な解釈などしていない。内容を感じることをまず行っているのが本を読むということである。と、いうよりはみんなそうしている。
 ところが、多くの大人は、本は理解して内容を身につけることだと思っている。でも、読むということは「おもしろい!」「楽しい!」「くだらない!」「バカ言ってやがる!」というような感覚がまず最初にあることは、だれでもわかることだろう。
 武術で考えることを先にすると、体が動かずに負けてしまうが、読書ではまず何かを感じて、それから考えていくことができる。しかも、その考えは誰かに教えてもらうのではなく、それこそ自分が感じたものから、自分の頭で自分なりに考えていくのだ。そうすれば、考えたことを何らかの形でさらに実行していくこともできるわけだ。
 本は理解するものだと考える大人は、読書が知識を多くするもの、試験を通過するための手段などと考えるが、それはトンデモナイ間違いで、読書は生き方を決めていく重要な思考訓練なのだ。そして、何より感じなければ、おもしろくもなんともない。感じる力がないと本を読まむことはできないのである。

本と出会う 人と出会う

 私も、考えてみれば人生を決定するような本と出会ったことがある。十九歳のときに偶然その本に感じるものがあって、その本の内容をなんとかつかんで、生き方の一部にしたいと思った。実際、その思想と技術は、この商売の根幹となっている。本の名は「西洋の没落」・・・ドイツの歴史形態学者が書いたものだ。左の本だが、日本名は「西洋の没落」・・・・保守的だとかナチスに利用されたとか、さまざまな色眼鏡で見られていた著作だが、よく読めば当たり前のことが書いてある。というより過去のことを書いて分析すると未来も予測できるという理屈の典型のような本だ。およそ百年前に書かれたものだが、そこには現代の社会現象がおどろくほど緻密に描かれている。
 一例を挙げよう。たとえば現代(著者が予測した百年後の時代=2000年以後)から近未来は、次のように書かれている。ちょっとむずかしい言葉だが・・・・
 「今や本質的に大都市的な特性をそなえた民族体は解体して無形式の大衆となる。」・・・「内的形式なき現存、慣習、奢多、スポーツ、神経刺激としての世界都市芸術、象徴的な内容もなく急速に変化する流行、勝手気ままな発明、剽窃」・・・・言葉は難しいが、いまの日本そのものが描かれているではないか。当然、日本ばかりでなく世界の先進国の多くは民族主義などなく、世界主義的だ。観光や物見遊山で動き回る人々はまさにどこかの国民ではなく、ただの大衆である。もちろん、都市生活もまた大衆で埋め尽くされている。さらに、現在の生活様式を見てみよう。江戸時代や、戦国時代にあった特徴的な様式はまったくない(内的形式なき現存)。新しいものが生み出せないために、ほとんどが前の物、前例、マニュアルによって動いている(慣習)。一攫千金をもくろむ市場原理主義の人々と年金膨れの金満老人が繰り広げる奢り高ぶった生活、つくられた高級志向やブランドもの信仰(奢多)、スポーツ・・・たかが運動競技が情報の中で上位を占めるという(スポーツ)、ロックやラップ、アブストラクトなど強烈なリズムや色彩の広告や音楽(世界都市芸術)。大衆消費ファッションや生活関連のグッズが意味もなく短期間で変わっていく凄さ(象徴的な内容もなく急速に変化する流行)。コンピュータやケータイのアプリや弱電関係の新規生産物(勝手気ままな発明)、過去のものを引き写し、他人のものをコピーし、いかにも自分のものであるかのように作る、いわばコピペの文化(剽窃)・・・・これがすべて予測されている。ろくにスポーツが一般に振興していない1900年ごろに(百年前にだ)、スポーツが文明の終末期にもてはやされることまで予測しているわけだ。すごい!

本と出会って、それからどうするか・・・

 この著者はオスヴァルト・シュペングラーという人だが、上下2巻のこの本は、十九歳の私には手に余る内容で難解そのものだった。しかし、何かを感じた。ここには未来を見る何かがある・・・と。当然、理解などできず、いまだに読んでは新しい発見をするのみで、辞書のごとく40年以上、ページをめくり、当然、本はボロボロになり、いま、三冊目となっている。直観でつづられる文を理屈で解釈するのはむずかしい。直観を磨いて、何度も読むことで感じ取っていくよりないのである。あらゆるものは一切比喩に過ぎないというくらいの見方で・・・・。
 この本に出会ったとき、先が見えた。いや先も書かれている。貨幣の支配が始まって、経済力は政治の奥深くまで浸透・・・やがて暴力政策となっていく。これが避けられないのだ。同じことは昔もいろいろな文明で起こり、けっきょく文明は滅んでいく。
 では、先が見えたときどう生きるか。それが問題となる。あらゆるものは、生老病死、生生流転・・・ならば、無意識に悪化に拍車をかける側ではなく、悪化を食い止める側になろうと思った。それは、ネイピアの「対数」に出会った桜井さんが世のため、人のために、その難解なものを伝えようとする所業に似ている。
 私は、そうそう大きな力はないが、少なくとも短い人生で出会う子どもたち(大人たち)に、先を読むこと、欲を深くしないことで個人的な不幸に陥らない方法を伝えていきたいと思っている。それは、先の読めない大人や欲の深い大人、悪人、人間の心を理解しない人、節操のない人間を避けて生きる方法でもある。
 くだらない本を山ほど読んだところでくだらない人間になるだけで、悪貨は良貨を駆逐する、朱に交われば赤くなる・・・・そうでない集団の中で生きる方が楽と言うものだ。本と出会って、それが伝えるものを了解したら、あとは実行していくことが次に来る・・・

真面目に人事を尽くす

 本との出会いも人との出会いも同じだが、ろくでもない人間と知り合うとろくでもないことが起きる。良い人間関係が築けるような人と出会わなければ良い人生は送れない。これは差別ではない。区別である。同じことは本との関係でも言えるとはずだ。
 絵本を配本していると、親御さんが「この本はヒットしたが、こちらの本はダメだった」などと細かく報告してくることがある。こういう人は、本を実利的に考えている人で、一生のうちに自分に影響を与える本がそうは多くないことがわかっていない。「出会いの本」とは、ひょっとすると数百冊の中でようやく出会う一冊かもしれないし、いくら読んで行っても出会えない不運もあるかもしれない。子どもの本がヒットしたorしないは、子どもが喜ぶか喜ばないかという低次元な話で、自分の(子どもの)生き方を決める本との出会いという大きな視点が欠け落ちているのである。無駄が多ければ出会う確率が高くなることを知るべきだと思うのだが、合理的に手っ取り早く出会いたいという欲の裏には素晴らしい発見はない。発見に出会うために、気は遠くなるような計算をし続けた数学者たちと同じことで、やはり、何かをし続けることで、その向こうに良い出会いが用意されているのではないだろうか。人事は尽くして天命を待つ(やることをきちんとすれば天命が下る)ものである。

星が道しるべ

 欲ばかりかいていると、見かけの利益ばかり追って時間が過ぎていくことになる。一年などあっという間に過ぎ、一生もあっという間に過ぎるだろう。人も国も同じである。
 今回の選挙の結果がどうなるかは現時点ではわからないが、おそらく、日本人はまた誤った選択をするだろう。キナ臭いことを言っている人や狂ったようなことを言う人が当選する可能性も高い。しかし、それも「西洋の没落」が示した未来である。運命は避けられない。また多くの人が、その狂ったような人たちのために悲惨な目に遭うだろうが、避けることもできるし、やり過ごすこともできる。
 崩れていく時代では多くが呑みこまれていくのもしかたないが、世のため、人のためではなく、ろくに本も読まないリーダー(LeaderはReaderでもあるのだが)たちが欲と勝手な妄想で国の舵取りになれば大変なことになるということだけは言っておきたい。
 救世主はまだ出現しない。
 昔から星は道しるべで、東方の三博士は星に導かれて救い主に出会いに行った。それから二千年後・・・また救世主が生まれて、その子はもう十二歳になっているかもしれない。対数と宇宙の不思議の関係を考えながら、どの星に導かれれば良い人と出会えるか、どの星がこの世を救う人に出会える方角に輝いているのか・・・星空を見上げて探してみたいと思う。(十二月号新聞一部閲覧)

窓から贈り物

 こどもが、サンタクロースの存在を信じなくなるのはいつのことだろうか。
 1才の子は、枕元に置かれたプレゼントを無邪気に喜び、3才の子は、あの髭のおじいさんがやって来るのをわくわくしながら眠りにつく。5才の子は、靴下を用意し、7才の子は、疲れているサンタさんにお茶を用意したりする。『さむがりやのサンタ』に登場する家々の風景が、毎年12月24日の夜にはこの日本でもくりひろげられるわけだが、親の苦労は並大抵のものではない。忙しい中を贈り物を買い求め、子どもの目から隠し、寝静まった後で枕元に置く。どうみても人間のクズとしか思えないような親でも、この日にはプレゼントのことが頭にあるはずであり、ギフトショップに足を運ぶ。
 この時期になるといつも「さむがりやのサンタ」を配本した多くの家庭から、レイモンド・ブリックスの皮肉に満ちた世界を評価する大きな反響があるのはうれしい。このヒューマニティ溢れるサンタがわかる子どもが、人間というものを「読み取る」ということは、ひじょうに高度なものに著しく感じていることがわかる。感覚が鈍磨した大人にはわからないことを子どもはわかっているのである。赤ちゃん絵本から三年で、このような人間性がわかるようになるのだから子どもの成長はすざまじい。

親は大変

 さて、私の娘たちは、十一歳までは辛うじてサンタクロースの来訪を信じていた。もちろん、それまでの私たち親の苦労もやはり並大抵のものではなかった。さまざまな仕掛けで『サンタクロースの存在』を信じさせるような状態を作っていたからだ。
 三才ごろまでは、たいした苦労もせずに話でごまかせた。しかし、四才になると英語でサンタクロースからの手紙を本人宛に出したり、ラップランドの写真を見せたりしなければならなくなってきた。五才では、眠らずに起きているというので窓の向こうにプレゼントを置き、赤いキレを動かして、その後に取りに行かせたりした。涙ぐましい努力である。ハムスターをクリスマス・プレゼントにしたときは直前に見つかってしまい、夜に再度、別のプレゼントを買いに行かなければならないという喜劇まで起きた。
 ところが、小学校に入ると回りの友達で現実的なのが出てきて、『サンタなんてほんとはいない。』とか『親がプレゼントを置くんだ。』などとくだらぬ情報を発するようになる。バカ親の中には、最初から自分がプレゼントをするということを教えている人さえいる。
  不安そうな娘達に対して、『そういうのは、サンタにプレゼントをもらえないような悪い子が嫉んで言っているんだ。』と時ならぬ道徳論で応酬する。しかし、そうは言っても、とても中学生までは信じさせることはできない。子どもたちは、すぐに「サンタはいない」という現実に目覚めていく。

信じていたものがいなくなる哀しさ

 先月来たお便りの中に「・・・サンタクロースの本を読んだあと、悪い子にはプレゼントが来ないということを知ると急に言うことを聞くいい子になった。・・・」というのがあった。まったく幼児にとってサンタの存在は絶大だ。こういうお便りをほほえましく読みながら、私は記憶をたぐってみる。娘たちが『嘘じゃないか。サンタなんかいないじゃないか。お父さんやお母さんは私を騙していたんだ!』と責めることはしなかった、ということを・・・ 。これは、ほとんどの子どもがそうだという。どこの家でも文句も言わずに沈黙して行くのだという。娘たちもそうだった。
 我が家のクリスマス・プレゼントは、高価な玩具などは与えたことがないからプレゼント欲しさの『だまされたふり』ではなく、なんというか『信じていたものがいなくなった悲しさ』を内に秘めた『だまされ』をしてくれていたのじゃないかと思うのである。「ひょっとすると分かっていてだまされていたんじゃないか」とも思う。
 人生や人情の機微(表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情)がわかる人間になってもらいたいというのは多くの親の思うところだ。お金ばかりを欲しがる欲の深い人間になってもらいたくないし、そんな根性で人生を不幸にしてもらいたくないという願いもある。
 お金ばかり追いかけて、不幸に陥っている人たちを山ほど見てきた。実力もないのに高額な収入を得ていたバブル世代の(50歳前後)の人々が、離婚や人間関係の破綻から孤立しているのをよく見かける。あと十年もすれば彼らは老人になり、さらに孤独、孤立は深まるだろう。それでも身に付いた金銭感覚や見方は変えることができずに、弱体化していく社会構造の中で悲惨な人生の終わりを迎える可能性が高くなっている。自分の子どもたちは、そういう人生を歩ませたくない。多くの親はそう思っているだろう。
 サンタクロースは、物を届けてくれるのではない。物を届けるのはたしかに私たちのような親だが、その気持ちの裏には子どもを思う「親心」があり、それがサンタクロースの姿を借りてプレゼントを届けることになるのだと思っている。そうすれば、子どももよく育つのではないかという親心で・・・・。

狙い

 さて、しかし、私の願いはまだそんな低いところにあるのではない。その程度の大人になり方は、だれでも多かれ少なかれ体験していることだ。「悪い、悪い」と言われているこの社会も99%は善人で、悪いのは1%くらいだろう。銭・金・物を追いかける傾向は善人たちの中でもあるが、そういう物質的なものを追いかけるというのが大人になることであるならば、いずれ、それは人間が壊れていくことで、逆に危険なことである。それに親として、子どもが銭・金・物で動くような大人になったのなら、これほど淋しいことはない。私は、そんな子どもは育てたくなかったし、育てたつもりもない。
 子どもが大きくなってしまえば、それは子ども自身が大人になるまでに形作った自分の価値観で、そこから先は自己責任だ。小さいころから銭・金・物を追わせるふうに育てれば、より多くの不幸がやってくる可能性が増大するからだ。お金がないと幸せになれないというのは銀行や証券会社、保険会社などの誰かが吹き込む
 私の狙いは、もっと大それたところにある。 そうでなければ、子どもに対して十年近くも大変なサンタクロースの仕掛けをしてきた甲斐がない。まして良質の絵本や物語を与える意味もない。では、狙いとは何か。かんたんに言えば、再び『サンタクロースの存在』を信じられる人間にすることである。そして、またサンタからプレゼントをもらえるようにするのである。それは、どういうことか。その意味は、オールズバーグの絵本『急行北極号』という本にしっかりと書かれている。

急行北極号

 ネタバレだが、絵本は何度も読むもの・・・いずれ配本されるから、あらすじだけのご紹介である。
『サンタなどいるわけがない』と友達から言われた少年が、イブの夜中に耳を澄ませていると家の前にピタっと汽車が横づけになって、それに乗り込むことになる。汽車の名は、「急行北極号」。その汽車は子どもだけを満載して、一路北を目指す。着いたところは、サンタクロースのいる北極の小人たちの国。少年は、プレゼントの第一号として美しい銀の鈴をもらう。そして、帰路、その鈴をポケットの穴から落としてなくしてしまう。しかし、朝、目覚めるとその鈴は包装されたプレゼントとして、彼の枕元にあるのだ。『これを、橇の座席で見付けたよ。ポケットの穴は縫っておいたほうがいい。(サ)』という手紙とともに・・・・。
 少年は、妹と鈴を鳴らして、たとえようもない美しい音色に耳を傾ける。だが、年月の経過とともに、友達や妹にはその音が聞こえなくなってしまう。少年も大人になってしまったが彼だけには、まだ美しい音色が聞こえるのである・・・・・・。

再びプレゼントをもらえる日が・・・

 サンタクロースを現実としてとらえなかった人にとっては、永遠にサンタクロースはおとぎの国の存在である。しかし、形を変え品を変え、サンタクロースは、現実にわれわれにプレゼントを運んでくれてきているのではないか、と思うことがある。サンタクロースを信じていた子は、人間の美しい部分を信じていたわけで、その美しい部分が未来にもたらすはずの「結果」が「再び来るプレゼント」だとも思える。
  私も小学校五年までサンタの存在を信じていた。そのおかげで、悪いこともせずに、悪戦苦闘はしてきたが、お金の魔力のとりこにもならず、なんとかまっとうに生きてきた。その「結果」、良い人間関係に恵まれ、うれしいことを体験している。あまりにも普通の「人間関係」で、普通すぎる「うれしい体験」だが、それはまた再度のプレゼントなのではないか・・・そんな「再プレゼント」を私自身が、もらっているのだから、私の子どもたちにもプレゼントが再びもらえるようにしたい。それは親の期待でもあり、願望でもある。
 「プレゼントが来なくなった!」と文句を言わなかった私の子どもたち(多くの子どもたちもそうだろう)が大人になって別の形でサンタクロースからプレゼントをもらう。それは、大人になっても鈴の音が聞こえるという「急行北極号」のサンタのプレゼントのように、さわやかで快い「幸福」でもある。その意味でも今年のクリスマスは、かつて良い子ども時代を過ごして大人になった人たちとって大きな意味を持つクリスマスになってもらいたいと思う。

鈴の音

 ちょっと、話がそれるが、「急行北極号」では、鈴をプレゼントされた少年の妹サラは成長すると鈴の音が聞こえなくなるというくだりがある。少年は大人になっても聞こえて、少女は大人になると聞こえなくなる。この暗喩の意味は何か・・・単純に考えれば、「女性は大人になると現実的になるので、プレゼントの意味が分からなくなる」という比喩のようにも思える。いつまでもロマンチックな思いを持っているのは男性(すべてがすべてではないが)のほうだというオールズバーグの見方なのかもしれない。質の良い物語をいつまでも信じる・・・それが鈴の少年・・・たしかに文学少女はいるが、「文学おばさん」というのはいない。「読み聞かせおばさん」のほとんどは、ろくにまともな本を読んだこともない、ただの絵本好きのおばさんが多く、当然、彼女たちには鈴の音は聞こえていないだろう(笑)。文学少女も、大人になると多く「現実的なおばさん」になってしまう。もちろん女性蔑視の見解ではない。
 現代では、そうした現実的になってしまう女性が悪いどころか、男性のどうしようもないテイタラクのほうが目につく。言ったことをやらない。失敗や失策の責任を取らない。物事を真面目に考えない・・・・これでは、鈴の音は最初から聞こえないだろう。

質の良い物語を・・・

 閑話休題・・・・脱線しすぎたが、とにもかくにも子育てする中では、子どもには良い物語を読んで「善が大切だ」ということを知ってもらいたいと思う。善はあまりにも退屈で普通で、感動がないかもしれないが、それこそ揺らぎがない幸福をもたらしてくれるのである。
ゆめやが三十年間、「それはダメだ!」と言い続けてきたサブカルチャーに冒された子どもたちが、いまや大人になってゆがんだ世の中を作り始めている。生活も行動もほとんど精神異常としか思えない人々が増えている。テレビが描き出す世界は、まるでアニメで、起きている事件はいまやマンガに等しい。
 園で、学校で・・・小さな子どもたちが、その事件を起こす大人の後を追いかけるように成長しているのを見ると「危ない!」と思う前に「悲しい」と感じる。この風潮を誰も止めることはできないが、少数でも影響を受けないでしっかりと育ってもらいたいと思う。イジメたり殺したりする人には再びプレゼントは来ないどころか悲惨な結末が待っているのは自明のことだからだ。
 時折、バカ親が「みんな持っているものを持たせないといじめられる」とか「バランスよく与えればアニメだって漫画だって問題のない物もある」などといかにも現実を知った風にいうのを聞くことがある。
 そんな人には、私は、こう言いたい。「あなたの揺らぎをみつけたよ。心の穴は縫っておいたほうがいい。(ユ)」・・・・
 想像力がバーチャルな方ではなく自然なものに向かえば、充実感や幸福感が得られるのはあたりまえのことなのだ。そうでなければ異常性格を形成し、異常行動を取る可能性は大きくなる。
 子どもには良い物語を聞かせよう。頭をバカにしないためにも・・・。これから世の中は確実に大変動するだろうが、まともに生きれば、どこかから助けに来る箱舟に乗せてもらえるかもしれない。それもまた再びのプレゼント。来年も欲の深い大人たちが撒き散らした放射能は消えないだろうが・・・生きている限り、子どもの未来が明るくなるように努力したいです。では、メリークリスマス・・・良いお年をお迎えください。(ニュース十二月号一部閲覧)



(2012年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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