ブッククラブニュース
平成24年4月号(発達年齢ブッククラブ)

入園おめでとうございます

 ようやく長い長い冬が終わり、ゆめやの店先でも暖かい日差しが降り注ぐようになりました。
 入園おめでとうございます。
 朝「行きたくなーい!」とグズっていますか? それとも、園に慣れてしまって、親がさみしくなるほど活発になっていますか? いずれも成長の証し。子どもは急速に大人になっていきます。今日も、入園させたお母さんが、やってきて、「園に行くときは大泣きで、ほんとうに弱っています。」とグチをこぼしていました。また別の方は、園に行っても「お兄ちゃんがいるクラスに行ってしまい、一度も自分のクラスに戻らない」とコボしていました。
 でもね、それは、いずれもお母さん、お兄ちゃんが一番いいわけで、困ったことではないと思うのです。見知らぬ人でも一瞬で仲良くなってしまうというのは3歳児ではむりだと思います。ときおり保育園に本を届けることがありますが、0歳から保育されている子は私が声をかけると平気で遊んでもらいたくて寄ってきます。「早く自立して良い」という意見もありますが、私には「追い詰められた自立」のようにも見えます。

幼保一元化と認定「子ども園」制度

 幼稚園と保育園を合体させた認定子ども園なるものが都市部を中心に制度化され、整備されていますが、これは「待機児童」をなくすため、あるいは園の経営難を解消するために急ピッチでつくられたものです。当然、この背後には労働力が足りないのでなんとか女性労働力を得ようという狙いがあります。さらに、この下地は、三十年くらい前から学校教育がつくったもので、「女性は家に閉じこもって子育てに専念するものではないこと」を意識の中に定着させてきました。「母親も働け!」「子どもの面倒は国が見る」というものです。さらにその背後には便利さと豊かさで釣る仕掛けもあります。高級なマンション、一戸建て住宅、オール電化の生活・・・「お金さえあれば幸せになれるぞ!」「だから、働け!」という仕組みです。
 ですから、認定子ども園は、大人の都合でつくられた制度で、子どもにとって適合した制度なのか、あるいは子どもの成長に適した機能を持っているのかなどはまったく議論されてきませんでした。
 逆の方向から考えれば、出産して、子育てをして、子どもがある程度、大きくなるまで「育児休暇」を与えるということのほうがが自然だと思うのですが、当然のことながら国はこれを行いません。労働力が確保できなくなるからです。一応、いまのところ国の政策は成功しているようで、働く女性に聞くと「家庭に入って子育てをするより、祖父母に預けたり、0歳児から長時間保育をしたり、子どもの養育から離れているほうが楽だ」と言っています。おそらく次の世代は、「子どもは産まないほうが楽だ」と公言するでしょうね。もう、そうなっているか!

脳の発達と養育

 制度化によって、子どもの自然な発達がゆがめられる可能性も高くなっています。4歳児までの脳の発達は急速ですが、0歳半では脳幹、2歳半くらいまでには大脳旧皮質が完成します。脳幹は生命維持機能をもっていますので、もともと機能していますが、大脳旧皮質は原初的な感情や情緒を形成する器官ですから、「自分は愛されている」という認識をする「自己肯定感」や「何かに属している」という「帰属意識」など、それこそ人間が生きていく上で基本的なものが育つ時期なのです。少なくとも、そういう可能性があることはわかってきています。「目を見つめておっぱいをやらなければダメだ!」とか「やさしく話しかけること」が、育児書にもありますが、それは旧皮質に働きかけを行って、生きる上で根本となる枠組みを形作っていこうというわけです。実際に低開発国の育児では自然に行われていることですし、かつての日本でも、あたりまえの育児方法でした。
 0歳児保育、長時間保育は、そういう機能を弱めている問題は打ち捨てています。情感形成や情緒の発揮を希薄にしていく可能性は大きいですし、これは高度成長期以来、なおざりにされてきたことですから、もう社会現象として起こっているわけです。「絆」という言葉が叫ばれていますが、これは絆を失っているからであって、人間の絆はお金やモノなど物質的なものではつながらないわけです。親を捨てない、子を捨てない、近隣が助け合うというのは、もともとはヒトの大脳旧皮質がきちんと機能しているからであって、それがなくなれば、自殺する、親を殺す、子を殺す、当然、他人は殺す、から始まって、下は学級崩壊まで、不安定なことが起こってきます。っむろん、それは社会現象となります。ある意味、労働力ほしさでなりふり構わず行くのは「もう先がない」ことを意味することでもあるでしょうね。

親の背中が見られない

 ゆめやの近所では、帰宅する小学生や親子を蛍光色のジャンパーを着た「安全隊」のおじいちゃん、おばあちゃんが街角で笑顔で見守る・・・いい風景が見られますが、これも「親は外で働いて賃金を稼げ!」という意識がなせる技なのかもしれません。自営業の我が家が子育てをしているときは、働く合間に私か女房が幼稚園(二年保育)に迎えに行きました。前に次女、後ろに長女を乗せてのママチャリ、パパチャリで汗水垂らして戻ってきました。しかし、老人は年金で金満老人と化し、それを当てにして娘、息子がpラサイトする・・・すごい状態です。少子・高齢化・・・わずかな間に日本も大きな変化をしているようです。
 この老人の「安全隊」がいる風景も地域や家庭が崩れてきているから、そういうことをしなければならないわけで、女性労働力の確保の施策はいずれ大きな社会的破綻を生んでいくことでしょう。
 ただ間違ってもらっては困ります。私は女性に「働くな! 家で子育てをしていろ!」と言っているのではありません。昔から働かないでいた女性は日本では稀な存在です。お姫様か有閑マダム・・・そういう人たちでさえ政略結婚とか上流階級のお付き合いの形で何らかの労働はしていたのです。ただ現代は働き方がおかしい。子どもを見失う形で外働きをしています。昔は、いつも親が働くそばに子どもがいました。格言通り、子どもは親の背中を見て育っていったわけですが、今では見ようにも見られません。保育園という子どもしかいないところで、大切に扱われることがいいことなのかどうか・・・やはり親が働く姿を見て育つことは重要だと思うのです。いずれ親を平気で捨てる社会現象が出てくるでしょう。幼児期のふれあいがなかったからです。もう、出ているか!

あまりいろいろ気にしない

 さて、0歳児保育はともかく、いま入園の時期。赤ちゃんのときから育ててきて、初めて親の手から離れて世の中に出る季節・・・赤ん坊のときから保育園に行っている子は別に心境の変化もなく登園していくでしょうが、3歳、4歳の入園だと子どもにも緊張感があるでしょうし、親もすぐには新生活になじめない子どもにじれったさも感じることでしょう。園によっては前述のように子育ての観点からすれば前進どころか後退しているところもあります。
 また、子どもにもいろいろあって、問題なくすーっと園生活に入れる子もいれば、なかなかなじめない子もいます。同じ環境で育てても「むずかしい子」と「すんなり行く子」の違いが出てきます。・・・同じように育てたはずなのに・・・と思いながら、親は戸惑います。でも成長してから考えると、そんなのは子どもの性質の違いのようなもので、あまり神経質にサポートしたりすることもないような気がします。
 子どもは、本来、自分の力で育っていくものです。もちろん、ある程度のガイドは必要ですが、あまりにも手をかけすぎ、心を砕きすぎると、子ども自身が、成長のための力を出せなくなってしまいますからね。

違う環境に慣れる

 違う環境に慣れていくというのは、人間が持たなければならない能力のひとつで、いつまでも保護されていたら、快い環境でしか生きられなくなってしまいます。ひどい場合は、ゆがんだ人間になってしまうことになりかねません。
 ときおり、アイドルグループのコンサートに群がるオタク系男子やコスプレっぽい服装でテーマパークに通う不思議系女子などを見ていると、「その親たちはどういう子育てをしてきたのだろうか」と思うことしばしばです。おそらく、好むものだけを与え、叱りもせず、たしなめもせず、「いいよ、いいよ好きにしな」の大合唱の中で育てられたわけで、こんな人間にしたら、お先真っ暗。どう考えても、「これから先の人生を生きるのが大変そうな育て方をされてしまったようだなぁ!」と他人事ながら心配です。生まれたときは、みんなほとんど同じだったのに、こうも変わっていくということは、子育ては半分以上、生育環境によって違いが出てくるということなのでしょうね。たしかに、「こんな親のところに生まれなければよかったのに・・・」と思ってしまう虐待死のようなものもありますが、ふつうの親で、世間一般と同じ育て方で、しようもない息子、娘が出てしまうのはやはり、その「世間一般」に問題があるのでしょうね。バカ娘、バカ息子をつくってしまったらおしまいなのです。
 テレビのおバカ番組に影響され、親の言うことよりテレビの言うことを聞いている子どもということでしょうが、それは昔の話で、いまの親は親自身がドリフターズやバラエティーのおバカさの中で育ち、ドラエもんやドラゴンボールの世界で生きてきた世代です。子どもに何も言えません。言う基準を持っていないのです。
 きちんと叱る、しなければならないことは教えていく・・・そのくらいをしていれば、あとは子ども自身の成長する力にまかせればいいのですが・・・・。甘やかして、物ばかりを与え、・・・・やがて・・・なんだか哀しい結果になってしまうのはなぜなんでしょう。ハイティーンから先・・・この年齢になれば、もう言ってもたしなめても誰の言うことも聞かないでしょう。テレビでは、そういうおバカ・タレントがあたかも実力があるかような大言壮語を吐いているので、見ているバカ親も「これでいいのだ!」で麻痺していて、そういうテレビを育ったわが子が同じようなバカぶりを発揮していても感じないのかもしれません。でも、ま、そんな家庭のことはどちらでもよく、自分の子はそうならないように気をつければいいと思います。

ゆるやかに

 さて、園は、最初の社会性を養うところです。みんなと一緒に何かする、同じ時間に同じ場所で・・・という「共同すること」を学ぶところでもあります。極端に異常な行動をとったりしなければ、見守っているほうが効果的です。言ったからといって、すぐに実行できないのが幼児。何でもそうですが、何回か繰り返せばできるようになります。まずは急がないことです。最近、その社会性が育っていない子が増えてきているといいますが、それは、行動の元になる家庭生活がないからでしょう。
 園だって、管理教育をしているようなところはほとんどありません。分刻みでスケジュールが組まれているような園はまずありません。先生がストップウォッチで子どもの行動を時間的に管理するような園もないでしょう。過度な教え込みや極端な整列、挨拶を要求する軍隊のような園もないと思います。この時期は、ゆるやかに社会性をつけていく時期で、無理をすれば「成長の基礎」などブッ飛んでしまいますからね。そこまでは、しない。
 ただ、最近は「親のニーズがあるから・・・」ということで知識教育を塾なみに組み込む園もあります。そういうところを選ぶのなら、これはもう親の「自己責任」ですね。「早く、正確に」は、じょじょに身につけないと、どこかで歪みが出てくるものです。「能力が伸びればいい」という最近の風潮は、やはり先行きの成長を考えると困ったものだと思いますよ。いつも言うように、現代は多くのシステムが市場経済で動いているため、それに乗る企業は目玉になる宣伝をして消費者の気を引くことをします。これは園(学校)も例外ではなくなっています。子どもの知識教育に頭がシフトしてしまった親は、この宣伝に目が奪われやすいのです。若い親たちの中には外部教育だけで成人してしまった世代も多いので、外部(園や学校、塾)依存することに抵抗がなくなっていますが、一歩先んじるだけの教えごとで、これからの時代を切り抜けられるとは思えません。

何と言っても家庭が大事

 かんたんにいえば「この時期の子どもは遊びによって成長する」ということです。長く子どもを見てきて、この昔から言われている事実は私の中で、ゆるがないものになってきました。じょじょに多様な人間関係の中で「人間」というものを学習する・・・それも遊びながらです。これが一番重要なことなのだと感じます。ここでは「学習は『遊ぶこと』」なのです。この意識が親の中で、あるいは現在の子育てに一番欠けていることで、そして、もっとも必要とされていることなのではないでしょうか。偏ったことで成長した少年(青年も大人も)が、さまざまに不幸な状態に陥っているのを見ると、成長に見合ったことをしないとダメだと強く思います。子どもは、何かにプレッシャーを感じるとストレスがどんどん溜まっていきます。そのたびに爆発すればいいのですが、抑えられていて思春期になって出てくるとやっかいなものです。表面は親の言うことをよく聞いていた子どもが始末の悪い大人になる例は数え切れません。
 「そんなこと言われても・・周りがやっているから」「競争社会だからちょっとでも他の子より出来ないと・・・」という親もいるかもしれません。では、そう思うなら、やってみてください。それも結果は自己責任です。うまく行って、人の上に立てるかもしれませんが、失敗してしまうこともあるでしょう。でも、その責任は、誰も取ってはくれません。
 幼児期は、まだまだ家庭での生活が大切なときです。しつけや生活習慣を外部に委託するようなことを考えず、家庭独自のしつけや生活時間を築いていくべきでしょうね。たしかに忙しい時代です。親も保育者も疲れているように見えます。ご飯を食べさせて園へ連れて行って、園に迎えに行き、ご飯を食べさせて、お風呂に入れて寝かす・・・これは子育てとは言わない。しいて言えば「飼育」です。「子育て」と言う名のただの流れ作業です。小さいときはわずかです。楽しくつきあいましょうよ。子どもと過ごせる時間などじつにわずかなものです。手間を省くために言う言葉「忙しい!」は理由になりません。(ニュース一部閲覧)

入学おめでとうございます

 二月、三月の寒さは、甲府でもかなりきつく、久しぶりにマイナス十度になる日もあったのですが、明けない冬はなく、遅い春がやってきました。例年なら三月末に咲く店先の桜も開花したのは四月の七日ごろ。その下を、近くの小学校へ通う新一年生が、上級生に連れられて登校していきますが、以前に比べてにぎやかな声は聞こえません。子どもの数が激減しているのがわかります。通りで見かけるのは老人ばかり・・・まあ、私も老人なので向こうも私を見て「老人ばかり」と思っているでしょうが・・・・それにしても急速な少子高齢化・・・大変です。
 それでも、春はなんとなく浮き立つ感じで、すべてが芽生えの季節、入学にはふさわしいシーズンです。秋入学の話が出ていますが、秋は動物も植物も先細りしていく感じの季節なので「大丈夫なのかなぁ」と思いますが、この時代の大人も子どももバーチャルなものに慣れていくので、彼らは「秋入学」でも枯葉や葉を落とした木々から「芽吹き」や「芽生え」を感じ取れるように進化していくのかもしれません。つまりは季節を大事にしてきた日本文化を壊して、グローバルな日本にしようというわけですが、果たして成功するかどうか。
 笑ってしまうのは、「秋入学にして国際化を図らないと、東大に外国から優秀な頭脳が集まらないから」という発想です。つまり、優秀な頭脳は外国から調達しようということで、日本人があたっまが良くならなくてもよいということです。

不安もあるでしょうが・・・・

 でも、子どもを新しく学校に送り出すときは、どの親も喜びとともに不安がつきまとうでしょう。親として当然のことです。「よくもまあ大きくなったものだ!」という驚きから「「大丈夫かな?」「やっていけるかな?」という不安まで・・・。これが育てるということなのかもしれません。
 たしかに、以前とちがって小学校では多くの問題があるように思えます。授業が成り立たない学級もあるようですし、そういう状態が日常化していて、問題にさえならないこともあるかもしれません。常識崩壊の親も増えているということです。しかし、そういう親も、その親に育てられた子どもも今初めて出現したわけではなく、十数年前からいたのです。テレビ漬けで価値観が狂ってしまった親、子どものころから無制限に流行り物を与えられてきた子がおかしくなっているのも今始まったことではありません。そんなことを言ったら、政治家の先生たちが集う国会だって崩壊状態です。大人がしっかりしていないのに子どもにとやかく言うことはできませんよね。これは、何も自分の意見を持っていない現代社会の大人全体に言えることです。
 だから学校に送り出す親には不安が付きまといます。良い先生に当たるかな? 友達が良い子だといいのだけれどな。・・・でも、その前に外部の影響をモロに受けない体質の子どもをつくらねばならないと思います。自分の子がすぐ影響を受けて付和雷同するようなら、これはもう良い先生や良い友達に当たっても先行きが暗くなってしますからね。

子どものことを言う前に

 震災から一年・・・いろいろな反応を見てきましたが、一般の大人たちも怖いことを知りたくなくて無関心を装っているのか、何も言い出しません。だからかもしれませんが、この国のリーダーたちは、もうどうしようもなくなっていて・・・いい加減、国民が真剣に怒らないと、ひどいことをやりそうな雰囲気です。
 言うこととやることが違う。あきらかに事実を隠して騙している・・・つまり大人たちがひどいのです。復興まで公共事業として金儲けにしようとしていますし、自分たちは我慢も抑制もしないで、国民に要求だけはする。責任を取らない卑怯な逃げをドンドンする。日本人としての誇りなんか打ち捨てていて、子どもどころか周りの人も大切にしない。こういうふうに自分たちがやったことの責任を取らない大人ばかりになって、子どもにどうのこうのと言えるわけもないですが、・・・・この国のリーダーを始め、企業も含めてほとんどのトップが欲に狂っているように見受けられます。
 どこを引っ叩いて、「原発の再稼動」が出てくるのでしょう。安全、危険の程度の問題ではなく、福島原発の検証どころか収束もできていないのに再稼動・・・これは欲にくらんだ政治家と電力会社と基幹産業の「熱烈な思い」に過ぎないのです。なるほど「再び稼ぐために動き出す=再稼動」ですね。福島の責任は誰が取るのか・・・誰も責任を取らないで逃げることが出来たら、こりゃあもう何でもあり。人を殺しても金を盗んでも責任が問われなければ治安の維持は難しくなることでしょうね。

ならぬことはならぬものです!

 先日、電話で福島県の会員と話していたのですが、「福島では『会津っ子宣言』というのがあり、子どもたちが学校で唱えているというのです。
 人をいたわります。
 ありがとう、ごめんなさいをいいます。
 がまんをします。
 卑怯な振る舞いをしません。
 会津を誇り、年上を敬います。

 ・・・と続き、最後に
 「やってはならぬ、やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。」とくくります。
 私は、この宣言を会津の小学生ではなく、政府や行政の人々がするべきだと思いました。そうでなければ、とても年上など敬えません。犯罪に近いような失敗をして、平気で何千万円もの年棒を取り、何億という退職金をつかんで退職・・・取るのはお金だけで責任は取らない。そんな卑怯な大人を見て、子どもはどう思うのでしょうか。やってはいけないことはしてはならない。やるべきことはしなくてはならない。そのどちらも大人たちはしないのです。いいですか、原子力保安院の人は、ハーバード大学や東京大学、東電の社長も慶応大学、AIJの社長も横浜市立大学・・・いずれも高学歴です。成績もよかったのでしょう。ところが、ならぬことをしてしまった。そして、責任は取らない。高学歴、その畑での力と知識はある・・・・それが、あのザマです。
 この宣言を読んでいると、「これまでの学校教育はどこかで学習の目的を間違えてしまったのではないか!」とさえ思えます。たしかに、「やってはならぬ、やらねばならぬ ならぬことはならぬものです」・・・というものが教育の中で抜け落ち、自分勝手な夢を追うことだけを煽って来たのではないか、と思うのです。その結果、こんなひどい時代になってしまったのではないか・・・と。
 考えてみれば、その学校の先生や警察官などが強制わいせつ、援助交際でふん捕まっている時代です。成績などと言うマニュアルを理解するための力など人間が生きていくには最高位にあるものではないのに、そんな力を持って自分が偉いと錯覚してしまった先生や警察官が腐敗していくのは、この学校教育のシステムの中では当然のことかもしれません。

成績の良さと頭の良さ

 実際、現在の教育では、人が生きていくうえで大切な指針などまったく語られず、成績だけが重視されています。「それで人間の頭が以前に比べてよくなったか」と言うと、そうとも思えません。高校も大学も誰でも入れるようになっている、というか、かなり成績が悪くても入れるようになってしまいました。すべてがすべてとは言いませんが、最近、そんないくつかの例を知りました。
 行く高校がないような成績不振の子がいたのですが、先日、偏差値76の大学の学科に受かりました。「ずいぶん、勉強をしたなぁ!」と思ったのですが、本人に聞くと無試験で面接だけだったというのです。その話を友人の大学講師に尋ねると、「ああ、それは授業料枠の学生ね。私立大学は少子化で経営が大変だから、スポーツ推薦とか留学経験者枠というのがあって、それがあれば受かるのです。」ということでした。「そんなことして、ちゃんと勉強して入った子と一緒でも大丈夫なの?」と言うと、「留年してくれればそれだけ授業料が入りますし、中退しても少なくとも入学金などは入ります。経営の一環です。」ということでした。これでは大学の質の低下は急速に起こるでしょう。もう起きているか! 秋入学は、学生の室を挙げるためということでしょうが、それは外国からの入学を期待してのこと、優秀な人間は日本の大学には来ないでしょう。来るのはお近くの金満国家の頭の悪い学生たち・・・これでは何をやっても焼け石に水です。
 実際、最近、近くの国立大学の学生と話しても少しも頭の良さを感じません。以前は、若者らしい考えや知識をこちらが受け取ることが出来たのですが、まともに話ができる子はわずかです。学力(成績)をあげることだけを目標にした結果がこんなもんなのです。今の小学生が大きくなるころはもっとレベルが下がっていることでしょう。でも、少なくとも本をしっかり読む子は、十数年後に、そういう状態から抜け出ている子どもにしたいですよね。
 私が見てきて、ちゃんと成長して大人になった「子」は良い親に恵まれ、その薫陶(くんとう/徳の力で働きかけること)を受け、家族としての価値観(それぞれの家庭の「会津っ子宣言」を身に付けた)や時間(親子の)をたくさん共有してきた子たちです。 親がロクデナシで子どもが立派に育つことなどほとんどありません。反面教師などという言葉は確率の低い稀なことです。どんな困難でも切り抜ける力は家庭が与えてきた力以外の何物でもないでしょう。これから小学校、中学校、高校と大きな山が待ち受けていますが、家庭の力が物を言う時代になると思います。(新聞・一部閲覧)



(2012年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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