ブッククラブニュース
平成23年12月号(発達年齢ブッククラブ)

よく分からない国になっている

 この国は、かなり前からですが、よく分からない国になっています。いつからとも言えませんが、1980年より少し前くらいから、それが始まり、2000年以降には「よく分からない国」になったように思います。一番の問題は、国に金がないのにどんどん公共事業でお金を使う。だって、1000兆の借金があるのに、宇宙開発に膨大な費用をかけるのです。窓を開けたら息ができないところを開発してどうするのだろうと思います。リニアなんて毎日27万キロワットを消費する乗り物を通そうとするのですよ。その額、25兆円・・・失敗したら国民負担になるのでしょうが・・・復興のために東北に未知の素粒子を発見するための巨大施設を建設して雇用を創出する・・・その額8000億円・・・金がない、金がないといいながら、一機百数十億円する戦闘機を何十機も買う。若者の就職ができないのに、定年を延長して老人を雇用する。はっきり言って、プルサーマルの「もんじゅ」と同じで、先行きほとんど無用の長物になるものばかりやっているわけで、よく分からない。だって、そうでしょ。宇宙開発で何かメリットが出るのでしょうか。たとえば、月や火星に余った人口を割り振りするとか、どこかの星から食物を調達するとか・・・リニアで到着時間を飛行機と競って何をしようというのか。素粒子が発見されて「宇宙がどうのように生まれたか」「人間がどこから来てどこに行くのか」が分かったって、それが人類全体に、すぐに何らかの哲学を与えるものになるのか・・・あるいはエントロピーの増大を抑える力になるのかどうか・・・・
 「震災で傷ついた心をディズニーランドで癒そう!」・・・バカじゃないか! それほど被災者は単純な精神の持ち主なのでしょうかね。老人の雇用と若者の雇用の問題にしても未来を考えない逆立ちしたやり方で、これでは早晩、破綻が目に見えています。六月、九月に行なった原発反対デモに出ましたが、地方都市では少数の老人ばかり・・・この国の若者は未来のことより、現在の保身なのでしょうか。
 前言を翻す、言ったことは実行しない指導者たち、・・・・それに何も言わない国民・・・そして、メディアは何も批判しない・・・この国は分からない国です。こういう国で生きていくのはほんとうに大変です。

今年もありがとうございました

 また今年も一年が暮れていきます。一年間、ブッククラブをご利用くださいまして、まことにありがとうございました。3・11以来、大変なことが続き、この国は大揺れです。それなのに、毎日、毎日、テレビでは芸能人たちのしようもないオバカ・トークが流され、小娘どものコンサートに狂う若者が山ほどいて、この国は一体どうしたの?と思わざるを得ません。さらには何もかも忘れようとするかのような騒ぎまくりのスポーツ観戦が大入り満員、みんな何も言わず保身に走る師走かな・・・見かけだけは平和ですが・・・。
 自分たちの子どもが、そういうバカ青年、バカギャル、バカ国民にならないように祈るばかりですが、ま、読み聞かせをして安定した幼少期を過ごすことのできた子どもが「おかしな人間」になることはないと信じています。アンパンマンやトーマス、プリキュアやディズニーランドに狂わされなければ・・・・子どもの心は昔と同じく健康になることでしょう。
 そんなことより、社会的に安定しなくなったときには、閉塞感の中で破壊的になる人が出てきます。こういう状態では、そんなサブカルチャーに汚染された青少年が、発作的な事件をよく起こしますから、とにかく、子どもが(もちろん私たち親も)被害者にならないことだけを念頭に置いていたいですね。すれ違いざまに刺されたり、車に突っ込まれたり、さらわれたり・・・気をつけて下さいね。そして、年の瀬であわただしくなりますが、まずは良いクリスマス、そして佳い新年をお迎えくださることをお祈り申し上げます。

私の家のクリスマス・・・・

 さてさて、しようもない世の中についての前置きはこのくらいで・・・・年末ですね・・・・師走はどこの家も忙しいのですが、ゆめやの年末は静かで、のんびりしたものなんです。子どもが生まれたころから、我が家にとってクリスマスはとても時間的な余裕のある日でした。店の営業はしているのですが、意外にヒマなんです。クリスマス・プレゼントに子どもに本を選ぶような親はほとんどいませんし、祝祭日は休むゆめやが天皇誕生日だけは営業をしますから、みんな休みだと思っていて来店客はほとんどありません。だから、昼間からノンビリと掃除をします。娘たちが小さいころも同じで、翌日のクリスマス・イブは、ふつうの日より早めの「晩餐」です。
 晩餐と言っても「最後の晩餐」ほどヒドくはないですが、とても豪華な食事とは言えないものが出ます。それを十字を切って・・・・いえ、いえ・・・私は親の命日くらいしか仏壇に手を合わせない、浄土真宗の門徒で、・・・それも盆暮れのお墓参りは欠かさないていどのものですから、行事などなんでもよくて、平気で異教の祭日に鶏の足を食べてしまう大らかさを発揮します。
 当然、そういう家庭では、あまり信仰の話が家族内で出てきません。「はい、はい、夕飯は楽しく食べましょう!」で、これは年中行事としてクリスマス、お正月、ひな祭り、お盆・・・と、いろんな宗教の行事が食事の楽しみに変わります。まったく宗教的には節操のない家庭なんです。

ゴッチャゴチャの信仰

 こんなことを言うと、キリスト教や仏教の熱心な信者の方は怒るかもしれませんね。でも、私は、子どものころから宗教に関しては、まことにいい加減で、大人になっても特定の神も仏もなく、かと言って無視でもなく、何でも手を合わせてしまうのです。
 でも、日本人の多くはそういう人が多いのではないでしょうか。だいたい平均的な日本人の人生では、お宮参り(神社・仏閣)、七五三(神社)、チャペルで結婚式(教会)、お葬式はお寺・・・が平気で行なわれますが、宗教裁判の被告になったという話は聞きません。
 私は物心がつかないうちに祖母から「朝はお天道さまに手を合わせて拝みなさい。」と言われて育ちました。だから太陽であろうとお月様であろうと富士山であろうと、何でも手を合わせる習慣がつきます。日本人のそういうところがダメとも言われますが、そう言うなら、私もダメな日本人の一人かもしれません。
 当然、親がそうなら子どもも同じで、娘たちはミッションスクールに行って、神道の聖典・古事記を勉強したり、クリスチャンの大学に行って、イギリス国教の勉強をしたりして、まったく一貫性がありません。当然、その結果は、結婚式を神社で挙げたり、教会だったり、と、まさに節操のなさは親譲りです。まあ、何事も親のしたことを無意識に真似ていくのが子・・・遺伝子のなせる業、生育環境のなせる業・・・親を越える子は少なく(ホメロス・オデッセイア)・・・たいていは親のしたことを繰り返すものです。
 宗教心などは家庭環境が決めますから、無信心、無神論の家庭で育てば、こんなものです。でもまあ、お日さまも神様、お月様も神様、富士山も裏庭の大木も、一昨年死んだネコのみーちゃんもみんな神様・・・そういう意味では無神論とはいえないかもしれません。

目に見えない力はある・・・

 敬虔な信者から見れば、デタラメにも見える宗教生活を送っている我が家ですが、そういう人たちの敬虔さも時に狂信に変わると大変です。オウム真理教などカルト宗教の「自分たちの神を信じないものは敵」というのは怖い。こういう連中は何をしでかすかわからない怖さがありますが、それ以上の怖さを感じさせる人々も多いのです。
 アメリカ大統領は宣誓式で聖書に手を置いて誓いますが、そこに「隣人を愛せ」とあるのを知っているのでしょうかね。イスラム原理主義者はコーランを敬いますが「相手憎さのために不当な暴力を振るってはいけない」とあるのを知っているのでしょうか。もちろん歴史の本には「他国を領土にする前に自国の宗教を広め、その教会を作ることが植民の手段だった」というようなことも書いてあります。宣教師を送り込んで、信者を増やしておいて、そこを侵略する・・・日本も朝鮮や満州、台湾やインドネシアに神社を作って、領土とした歴史を持ちます。宗教が政治に利用されると悲惨なことが起こる・・・・これはギリシアの昔からあることです。
 そんなことで多くの人の命が奪われるなら、神も仏もいないほうがいいですよね。我が家の節操のなさのほうがずっといい。その意味では私は人間の「善の力」の方を信じている側の人間です。

閉塞感が子どもにも・・・

 時代や社会の閉塞感の中で破壊的になる人が出てくるのは、昔からのことで珍しいことではないのですが、特徴的な事件でいえば、つい先日結審したオウム真理教の信者たちの事件も破壊的でしたね。彼らは高成績、高学歴、高収入のエリートが多かったのですが、なんとなく居場所のなさを感じていた人たちだったと思います。おそらく気持ちの安らぐ家庭で育っていなかったのだと思います。
 豊かだったから塾へは小さいうちから行かせてもらっていたでしょう。現在のようにかなりの悪い成績でも大学に入れる時代ではなかったので、ある種の裕福さがあったのだと思います。この状況は、現在とひじょうに似通っていますよね。あなたのお子さんも同じようなプロセスを踏んでいるのではないでしょうか。
 オウム・エリートたちの親は、学歴とか成績とか・・・そういうことばかり考えていたようで、彼らは心の居場所がなかったのでしょう。そして、「勉強しろ!」「勉強しろ!」といわれる裏で、幼児期、少年期にはどっぷりとサブカルチャーに漬かっていたのです。その世界では無邪気だった幼少期でしょうね・・・でも、それは、やがて心の闇をつくっていきます。

心の闇

 同じ時期(バブルの後の閉塞期)に少年犯罪が次々に起きたことを覚えていますか。十五年前です。酒鬼薔薇事件を初めとする殺傷事件の連続・・・これもまた深く考えることを要求しないマンガや過激なゲームなどのサブカルチャーが作り出した子どもの心の闇で、オウム事件の背後にあるものと同質のものでした。いま、明るいキャラでもてはやされ、社会的に認知されている「ドラえもん」や「あんぱんまん」も、深く考える要素を欠いたもので、こんなものだけで育てば何もかも軽く考えるようになります。これら一連の事件(オウムの地下鉄サリンや酒鬼薔薇事件など少年犯罪)は、いずれもバブル崩壊直後の社会的な気分が落ち込んだときに起きています。引き金は阪神大震災だったかもしれません。社会的な閉塞期というのは経済の破綻やシステムの劣化から起きますが、「人の力ではどうにもならない」という虚無感を生み出します。子どもたちはそれを敏感に捉えて、一部の少年は、破壊的な気持ちを増幅させていくわけです。とくに精神的な意味で居場所を失った子どもが破壊衝動に駆られるのはこういうときなのですが・・・。多くの人々は、その本質を考えられないで、ただただ驚くだけです。「あれは、特別な少年にすぎないと・・・・」
 でも、違います。心の居場所のない人間は、サブカルチャーに浸りながら「神」を求めているのです。酒鬼薔薇聖斗も自分で作り出したサブカル的な神の名を記していたのを覚えているでしょうか。孤独な心には最終的に神が必要なのです。
 しかし、その「神」は破壊的な心しか生み出さないわけで、これがサブカルチャーで育った人間の中で増殖しはじめると恐ろしい事件につながってしまうこともよくあるのです。心の中の闇・・・・それを作らないようにするのは安定した家庭と家族しかないような気がします。社会に期待するのはとうてい無理です。閉塞感を与えるのはなんと言っても社会なんですからね。

支えられるのは家庭だけ・・・

 そして、また、いま東日本大震災後の閉塞感が募(つの)っています。瓦礫の山、津波のあとの風景は子どもたちの心を虚ろにしていることでしょう。とにかく人間の力ではどうにもならないようなことが起きたのです。原子力事故(放射能汚染)も人間の手ではどうしようもないもので、これも虚無感を煽りました。この虚無感が生み出すものは阪神大震災の比ではありません。
 この半年あまり・・・東北の会員からたくさんのお便りをいただきました。「子どもが余震に怯えて夜中に跳ね起きる」「転居してから生活が不安定」「放射能の不安がいつも頭の中にある」・・・やはり、後遺症というか現在進行形の脅威というか・・・あの巨大地震で人間の心は大きく傷ついたわけです。そして、その後で心の修復をしようとしているわけで、無力感をボランティア・カウンセラー程度の力で解消できるわけもなく、自力での回復を試みないことにはどうにもならないことでしょう。ただ、どんどん広がっている閉塞感は、東北ばかりではなく全国の心の居場所のない人にも生まれています。またぞろ、あの嫌な事件が起こりそうです。破壊的なことが爆発的に増えていくとしたら大変なことです。

悲惨な経験をしても

 ところで、ブッククラブの東北の会員のみなさんからのお便りですが、上記のような不安や閉塞感を綴った後に、どの方も「読み聞かせをしていると、私自身の気持ちが落ち着く」「物語を読んでいると子どもが不安を忘れていくのがわかる」という言葉が続いていました。「神さまにお祈りして・・・」というのはまったくありませんでした。
 たしかに、ここで宗教の力が発揮されるのはまずいです。カルト宗教の出番といえば出番ですが、世界の終わりを説いたり、再生を説いたりする形・・・そんなものでは現実の人間は救われないのです。オウムの二の舞になる可能性もあるでしょうね。しかし、何にも頼らず、本を読んで、本を読み聞かせて安心が戻るというのは自力本願・・・さらには自己修復が可能になるでしょう。
 絵本屋が我田引水(がでんいんすい/自分に都合よくする)で言うのではありません。幼少期に親と濃密な時間を家庭の中で過ごした子は気持ちが安定していくと思うのです。もちろん、親もそこから大きな安定を受け取れます。なぜなら係わること、自発的に働きかけることが「絆」を作るからです。他にぶらさがって、受身で何かしてもらおうという、さもしい根性では閉塞は打ち破れないでしょう。
 どの宗教の教典にも「出会った人、係わった人には親身になって世話をしろ」というようなことが書かれています。たしかに、それはその通りですが・・・でも宗教などに頼らなくても、そういうことはできます。こんなときだからこそ、それをするのは家庭であり、親なのではないでしょうか。
 「忙しい! 忙しい! 子どもと接する時間がない!」と言ってばかりいると、どこかでオウム・エリートのような人間が育ってしまうかもしれません。じつは、いま、居場所のない子どもたちが、小学校では学級崩壊を起こし、中学校では荒れをつくり・・・もう影響が確実に出ているのです。甲府とその周辺部(小さな地方都市ですが)では恒常的な学校組織の破綻が見えてきました。おそらく全国規模でしょう。こうして生まれてくる心の居場所のない青少年が何を引き起こすか・・・おおかたの予想はできますが、果たして教師や行政が係わって行かれるか? 無理でしょうね。彼らは決して親身になれない・・・責任は取らない・・・役人とはそういうものだからです。
 さてさて・・・クリスマス・イブに節操なく鶏の足をほうばりながら、私は思います。「この一年、係わった人に果たしてどのくらい、きちんと接してきただろうか」と。そして、さらに思います。「来年はもっとがんばらないといけないな・・・小さな絵本屋では多くの人に係われないけれど、何人かは箱舟に乗せることもできるかもしれない」と・・・。

今年も暮れて・・・

 「未曾有」と「想定外」という言葉で形容されることが山ほど起き、まだまだ余波が続いている年末です。ほんとうに周囲でいろいろなことが起きました。そして、まだ起き続けていることもあります。あるいは目に見えないけれど何か大きなことが起きているような気がします。おそらく、今年は大きな「時代の境目」になるのでしょうね。とにかく、人間の劣化を思い知らされたこの一年・・・変化する世の中や人々を見てきて、いろいろ考えさせられました。政治の世界の頭の悪さや責任感のなさは、あきれるばかりですが、経済の世界も強欲が横行していて、これではカタストロフ(破局)がいつ来てもおかしくない状態です。なんとなく、先も見えてきました。このどうしようもなさを打ち破るのは、さらに傍若無人な人間で、きっと暴力的な政策も始まることでしょう。私などは、まだまだ考えだけですが・・・考えていると見えてくるものもあります。きちんと行動している人や深い思いを持っている人・・・もちろん、そうでない人も・・・・その今年も暮れていきます。

あるお便り

 この冬の初め、絵本作家の仁科幸子さんからお便りをいただきました。
 「・・・今年の春に、この国は悲惨な体験をして、そして、その中で古い生き方の中の何が間違いで、どういう考えが現在でも使えるのか?・・・というように考え、そして『この先、自分はどういう生き方をしたらいいんだろう』と思っています。」・・・春から震災や原発事故に心を痛めているお便りは、たくさんいただきましたが、仁科さんは「・・・分かっているのは、震災前と同じような生き方ではダメ!ということです。もう行き詰まりだ! 生活を変えなければと、思っている人。一方では、災難が去れば、もうすっかり自分と関係ないと今まで通りの生活をする人たち。・・・でも、私は何も出来なくても、やれることはやろうという思いを持ちました。」とおっしゃるのです。
 「十一月二十一日の日に母校の会津若松の小学校に行って、お話と読み聞かせをしてきました。手応えは確かなものがあり、小さい活動だけれども、これからも、こうやって福島を歩こうと思っています。・・・」
 やはり、考えて行動している人はいるわけで、政界や経済界はともかく、日本もまだまだ捨てたものではないと感じました。小さな絵本屋には、まったく力はないのですけれど、自分なりに、かかわりがあった人にはできるかぎりのことを、・・・そして自分の範囲では、「これまでの考え方や生活方式を改めないといけない」と思わされました。さらに仁科さんのお便りは続きます。

日本人がふたつに分かれる・・・

 「・・・震災以来、ずっと思ってきたのは、『日本人がふたつに分かれていく』ということ。救われる人と、救われない人、悪い心を持つ人と良い心でいる人・・・・地球の異変の中にあって、人の姿がはっきりとしてくる・・・おそらく、それは自然への感性があるかないか、想像力が出るか出ないか、に関ってくると思います。」・・・想像力・・・なるほど、それで、どういう人間になるか決まるというわけですか。ある物事があって、あるいは起きて・・・それを見て、何も思わない人、何かを思う人ではまったく違うでしょう。
 たしかに絵本の物語や昔話でも、「役に立たないくだらない話」と捨て去る人や「これは実際にあったことを描いたもので、現在起きている同じことを見ることができる」と思う人・・・それは恐らく自然に接して育まれた力で、それが物語を読むことで増幅していくのだと思います。自然災害に対しても、放射能漏れについても、どのくらいの思いがもてるか・・・これも想像力で二分されますね。さすがに絵本を描く人は見方がちがいます。

ノアのはこぶね

 では、その想像力・・・どうすれば訓練できるのか・・・その体験を思い出しましたので例に挙げましょうか。むかし、私が五歳か六歳のころ祖母が「ノアのはこぶね」という本を読んでくれました。何度も何度も読んでくれたので、ほとんど中身は覚え、いまでも、いくつかのフレーズは鮮明です。
 正直者のノアの耳に天から「箱舟を作れ!」という神の声が聞こえ、ノアは箱舟を作って動物たちを・・・というおなじみの聖書の中のストーリーです。ところが記憶というものは、実にいい加減なもので、そのとき記憶したものと大違いであることが後になってわかりました。最後に洪水が引いて、虹が出る・・・こういうあらすじはみんな正確に覚えていたのですが、私の頭の中で「虹は七色に輝き、ドロドロに濁った黄色い水が荒れ狂っていた・・・」と長い間、思っていたのです。
 それから三十年くらい経って、物置を整理していたら、その絵本が出てきた! 何とカバヤキャラメルというお菓子屋の景品だった本で、記憶よりもはるかに小さい絵本だった。しかもモノクロでだったのです。字も漢字混じりでギッチリ書かれていて、記憶の中にある本とは大違いでした。とても幼児の本ではない。それなのに、なぜ、私は物語の風景をカラーでクッキリと覚えていたのだろうと不思議に思いました。これは、まったく想像力がなせる技で、物語のスジだけではなく、自分の頭の中でどんどんイメージを増幅させて違う映像を作り上げていたのです。もちろん、現実に虹を見たり、氾濫する川を見ていたから生まれた想像力です。それにしても、読み聞かせとはすごい効果をもたらすものだと、そのとき初めて思いました。それは現実に近いものにまで高められていたのです。つまり、かなりチャチな絵、文章をはるかに越えて、物語の持つ現実に近づいて行ったということです。こういうことは誰もが経験があるでしょう。

本当にあったことなのだ

 多くの昔話は、その話のもとになったものでは実際に起きたことが多く、たいていは語り部たちが伝えてきて、やがてまとめられたものがほとんどです。とても信じられないようなこともあるし、後々には逆に信じられないようなことを宣伝して狂信的に信じさせようという動きも出てきます。神話などは、その典型で古事記の多くの説話はどうやらほんとうにあったことらしいのですが、狂信者によって不幸な歴史も作られてしまいました。
 イザナギが矛(ほこ)で海をかき混ぜたら島ができたとか、アマテラスが岩戸に隠れて世界が暗闇になってしまったとかという話は神話の表現ですが、もちろん、そんなことがあったというわけではありません。でも「武器を使って国を支配した」、とか「女王が死んで国中が乱れた」という事実を古代の人々が古代なりに描いていったものなのではないでしょうか。語り部たちが語るたびにおもしろおかしくなった結果であるともいえます。しかし、真実は、その表現の中に隠れているので、それを読み取るのが想像力なのだと思います。
 その実例を挙げましょう。

シュリーマン効果

 ホメロスのイリアスに出てくる有名なトロイの実在を証明したのは、ハインリッヒ・シュリーマンでした。彼は発掘によって証明したのですが、偶然、そこを掘って出てきたわけではありません。それまで、トロイの町、トロイ戦争は、架空の物語で、そんな場所はなく、戦争もなかった・・・つまりホメロスの作り事だったという考えが一般的でした。それはそうですよね。トロイ城を巡って戦うアキレスには踵(かかと)には羽が生えていて、ものすごい速さでヘクトールを追いかけるわけです。城を三周半追いかけて激闘となる・・・これは神話で、羽の生えた人間などいるわけもなく、だからそんなことがあるわけはないというのが定説でした。ところが、シュリーマンは、横浜に来て、馬丁の走る速度を調べます。アキレスが人間なら足の速い人間だと考えたからです。そして巡った回数から城の円周を割り出し、スカマンドロス川周辺のヒッサリクの丘が同じ円周を持つと想定したのです。そこから後は事実が示すとおりです。トロイ戦争は実際に起き、トロイの町は存在していたのでした。トロイ戦争は、天帝ゼウスが、人口が増えすぎたために減らすために戦争を考えたとありますが、これだっておもしろいおかしい神話のネタなのでしょうかね。人口が増えれば、食糧の争奪のために戦争の危険が増すことはあたりまえのことです。現在だって、豊かさの維持、世界で一番の国でいたいなどの理由から戦争が引き起こされていますが、これだとて人口が増えた結果で、20世紀が戦争の世紀だといわれるのも、人口爆発が原因であるわけです。ゼウスの仕組んだ戦争、アキレスとヘクトールの戦い、ヘレンと木馬・・・・ここから事実を読み取るのは想像力でしょうね。おそらくノアの大洪水も実際にあったわけで、これを知れば、想定外、未曾有ということもないわけです。想像力を使えば、・・・ね。福島第一原発も「プロメテウスの火」の神話そのものです。

サンタクロースも実在した

 サンタクロースも実在したらしいのですが、実際は秋田のナマハゲと同じく、「悪い子はいねぇか?」とやってきて悪い子を袋に入れて連れ帰る風習が元になったとも言われています。もちろん、聖ニコラウスがサンタクロースになって、貧しい家庭の子に施しをしていたという言い伝えもありますし、現在のクリスマスは、その逸話が元になってサンタクロースが生まれたわけです。
 ただ、これら神話や伝説のエピソードには、逆説的な真実があります。事実として克明に描かれたものではなく、比喩(ひゆ)として物語に描かれたもののほうが、聞き手や読み手にとっては本当のものとしてよみがえってくるというものです。だからこそ、物語は想像力を高めるものとして存在してきたのでしょうね。物語を聞いて、あるいは読むことで想像力が増す。その想像力で危険や迫り来る悪を見抜く・・・かんたんに言えば生きる力を付けるわけです。

リアルすればするほどリアルでなくなる

 ところが、現代の科学は、あらゆるものを本物に近づけようとすることを目指しています。
 たとえば、いま、テレビや映画の世界はCGや3Dを駆使して色彩も音も立体感もリアルに再現しようとします。しかし、どこまで行っても「似て非なるもの」で、「本物」ではありません。同じことは人造人間(ロボット)でも人工臓器でも言えるわけで、人間は瞬時に「それが偽物であるか」を見抜く力も持っているのです。「ああ、これはCG」、「ああ、これは3Dだな」と見抜きます。人間にはウソッパチを見抜く能力があるのです。だから、リアルにすればするほど、ウソッパチであることが見えてきてしまいます。でも、・・・・それならまだいいのですが、しだいに見ているうちに、想像力を使わなくなりますから、そこで描かれたもの以上の物や記憶を得られなくなる可能性があるのです。さらには、見続ける持久力がなくなります。サブカルチャーやケータイ・メール、ツイッターに慣れきった人には、この長たらしい夢新聞を読む力は出てきません。ここまで読んだ方は辛抱強い方で、そういう方なら500ページの物語などたやすく読めます(笑)。

壊れていく

 「何でもスマホが教えてくれて便利」と言っているうちはいいのですが、しだいに本来持っている自然の力(方向認知能力とか概算する力とか対話する力などが)落ちてきてしまうのです。こんなことが子どものころから行なわれたら、これはもう人間力の低下どころではありません。人間の破壊まで起きます。
 いやいや、破壊くらいならまだいい。さらに危険なことは、リアリズムが追求されると(じつは、どこまで行ってもヴァーチャルな「似て非なるもの」なのですが)頭の中ではリアルに感じる力が弱くなっていきますから、さらに強い刺激でないと満足しなくなることになります。つまり、現実を現実として捉えられないオタクたちの頭の中と同じと言うことです。
 科学の発達は、おそらくコンピューターの発明以後、人間に不幸をもたらすものになってきたのではないでしょうか。人類の多くは、すぐ影響される存在ですから、流行ものには弱いです。これが、どんどん世の中をダメにしていくでしょう。気がついたときは悲惨な状況になっているでしょうが、そこまで行かないと分からないのも人間・・・いまの日本はまさに成績がよくて頭の悪い人が続出ですから、そしてそういう人の声がデカいですから、もはや行き着くところまで行くでしょう。方向を変える時期は終わってしまいました。このまま行くよりなさそうです。

「目に見えないもの」の時代

 大人でも欲をかかなければ、かなりの想像力で幸福感や充実感を得ることができます。子どもの想像力は、それ以上ですから、何もむやみにリアルなことを教えていく必要はないのです。ところが、この狂った国の教育は、黒板どころか教科書まで電子化にしようとしているわけで、そんなことをしたら子どもの自然に生きる力はどんどん低下してしまうのです。何より、自分が幸福であるかどうかすら感じ取れなくなるでしょう。
 最近、ブータンの国民総幸福度というのが話題になり、「国民の95%が幸福を感じている」という驚異的な数字が出ましたが、あれはブータン国民の「自然」と「想像力」の産物で、決して人工的なものとリアルさの追求ではないのです。ブータンで、国民へ便利さを売る電化製品とマンガやテレビなどのサブカルチャーを入れてごらんなさい。瞬く間のうちに国民総幸福度は下がり始めます。ブータンの幸福が、インターネットの浸透で欲望が飛散されていかないことを願うばかりです。
 このように考えれば、いまの日本の行き方はすべて間違いで、国民のためになるものではないのです。どこかで誰かが儲けるために仕掛けたシステムにみんなが乗ってしまっている・・・・これの破綻はすぐにやってきますよ。

目に見えないものにも・・・

 まあ、見ていてごらんなさい。日本の豊かさを築いた電力は「福島第一原発」の放射能バラマキで、末期的な状態です。同じような時期に芽吹いた日本のサブカルチャーは50歳代の世代を先頭にして、かなり日本人の頭を汚染してしまいました。つまり、この時代は、「目に見えないもの」の時代で、一方では放射能やサブカルチャー・・・いずれも「すぐに健康に影響が出るものではない」のですが、あきらかに肉体と精神を破壊していくものです。
 サブカルチャーはもう影響が出ています。
 政界では「行動を伴わない言葉」・・・言葉も目に見えませんが、これも「国の健康」にいつか影響が出てくるでしょう。もう出ているか!市場原理の強欲も目には見えませんが、やがて人の心を蝕みます。もう、出ていますね。
 では、こういう波にどう対抗するか・・・これには、同じく「目には見えないもの」で対抗するよりしかたありません。信じる力、責任を取る意志、言ったことは行なう理念、そして、人間が持っている「善」の力・・・これらで対抗していくよりないと思いますよ。子どもたちもそういう方向に行ってもらいたい。親もその方向に導いてもらいたい。

バカでも大学に入れる

 ただし、いま現在はですね。少子化で、かなりバカでも大学に入れるのですよ。けっこうの有名大学でも・・・でも、もう学歴の時代じゃないことは自明の理です。そんなことをして入れても世の中に出て役には立たないでしょうが、おどろくべき勢いで、そういうバカが大学に入っているのです。野球やサッカーをやっていれば大学生になれる、しようもない留学でも留学体験があれば大学生になれる・・・体育学部がないのにスポーツで有名な大学がありますが、これも人寄せパンダを兼ねた経営の一環で、キャンパスには「○○君、入賞」とか「△△部、全国大会出場」などの掲示と垂れ幕・・・「いったいここはどこだ?」と思います。とにかく大学も生徒確保にヤッキですからね。金を払ってくれれば誰でも入れる。大学の存続のためには背に腹は代えられません。
 でも、そんな無意味な過去の価値観に沿ったやり方で子どもを無能にするより、もっと生き抜くために必要な見えない力を持たせましょうよ。
 こんなデジタルの時代ですが、まずは自然体験を豊富に・・・できれば子どもには物語を読んでもらいたいです。絵本作家・仁科幸子さんがおっしゃっておられるとおりのことです。その想像力が自然な生き方に向かえば、きっと充実感や幸福感が得られると思います。それが、3・11以後、私が考えたことでした。・・・まともに生きれば、混迷の時代を切り抜ける箱舟に乗せてもらえるかもしれません。定員は少ないでしょうが・・・・。
 来年も放射能は消えないでしょう・・・でも、子どもたちの未来が明るくなることは祈りたいです。では、メリークリスマス・・・(この言葉はなんかディズニー的で好きではないので、日本語で)・・・「良いお年をお迎えください」。



(2011年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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