ブッククラブニュース
平成23年9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせから読書へ・・・そして・・・
D結果は、どうなるか

小学校高学年で結果が出る

 系統的に読み聞かせをしていくと、一部で次のようなことが起こります。前にも述べましたが、4歳、8歳、11歳で読み聞かせあるいは読書からドロップアウトしてしまう現象です。それぞれの時期に何%かが配本のグレードに対応できなくなるというわけです。その原因は4歳では戦隊ものやアニメなどの影響があり、8歳ではTVゲームやマンガ、11歳では学習やスポーツなども原因となって読書から離れる現象が起きてくるのです。
 ドロップアウトせざるをえなかったお母さんの中には「一生懸命、読み聞かせをしてきたのに本から離れてしまった」と洩らす人もいます。でも、基本的な本を読む道筋には、それを妨げるものも数多く存在しているのです。それは日常生活からどんどん入り込みます。でも、なるべくそういうサブカルチャー的なものを避け、発達段階に応じてきちんと本を与えていけば、かなりの確率で質の高い本を読むことは可能です。子どもの言いなりに戦隊もの図鑑を与え、テレビゲームを山ほどさせていたら、まず読書は無理なのですが、最近の親の中には自分自身がそういうもので育ってきてしまった人もいますから、なかなか入り込むのを避けられないところもあります。

高度な本が読める下地もできる

 1歳から読み聞かせをしてきて、小学校低学年で一人読みに移行、さらに読書のレベルを落とさないで高学年にいけば、これはもう90%読書への道は到達したようなものです。ブッククラブの小学校高学年の配本は、大人でもじゅうぶんに楽しめるものなので、ここから先はもう基本的な文学に手が届く力がついているはずです。芥川龍之介でも安部公房でも、さらにはドストエフスキーまでも照準に入る読書グレードになっていくでしょう。
 ただ、この下地づくりに重要なことは、子どもの関心を、それなりに高いところに持っていく家庭環境が必要ということです。読書力への期待を子どもの成長にだけかけるのはむずかしいものがあります。粗悪なバラエティ番組のテレビがかけっぱなし、マンガは山積み、キャラグッズは捨てるほどある・・・では子どもの関心は低いところに行ってしまいます。関心が低くなれば、読書のグレードを上げることはできません。幼児期から、この辺の注意をしておかないと、自分で読み始めるころに大きな障害にぶつかってしまいます。そうなれば、その時点で高度な読みはストップです。

先行きは家庭しだい

 ブッククラブ配本は、発達年齢に対応して個人的に組んでありますので、初めのうちは順に読み聞かせていけば、それなりのグレードにたどりつけます。4歳児の配本を見て、周囲の同じ年齢のお子さんがどのような本を読み聞かされているか考えてみてください。多くの子どもは「しようもない本」ばかり与えられていると思います。
 ただ、安心は禁物。彼らの「しようもない」好みが、きちんとした本を読む子どもを園や学校で囲い込むのです。さらに、それに関連したサブカルチャーが流行し始めます。家庭がそれを防御しなければひとたまりもありません。
 とはいえ、それは容易なことではありません。いまや家庭の劣化はおどろくべき速さで進行していて、親たちの意識の低さは目に余るものもあるのです。そりゃあそうでしょう。親自身がサブカルチャーに汚染されていて、常識も理屈も通らなくなっているのです。「良い絵本を与えたい」という親が、子どもにはアンパンマンのTシャツを着せ、ディズニーランドのパスポートを買い、・・・いやいや、そのくらいならいい、中には競馬新聞と女性週刊誌しか部屋に転がっていない家庭だってあるかもしれません。

電子書籍が子どもに不適な理由B
コンテンツの粗悪化

 たとえば絵本についてですが、以前から月ぎめでダウンロードでき、読めるというシステムがあります。以前からということは、PCへダウンロードするものです。ただ、この絵本の内容がお粗末で、おそらく一年継続利用した人はいないでしょう。値段は月980円。いずれ、コンテンツが充実してくればその中から選べるかもしれませんが、おそろしく冊数が少ない中で発達など関係なく月3冊では、すぐにイヤになります。だいいち、音声での読み聞かせに幼児が対応しません。電子書籍は発行にほとんど費用がかからないのに、業者が設定しているカバープライスは、紙で出された新作の価格より、ちょっと安いだけなのです。これなら動画のほうがいいくらいです。いずれにしても子どもの場合は影響が大きいので避けたほうがいいですが。
 もちろん映画のダウンロードと同じように、電子絵本が「本としての価値」をきちんと持てばいいのでしょうが、レンタル価格に等しいものにダウンロード料を払う人間は多くはないと思います。
 そうなると製作コストの安い格安のどうでもいいような作品だけが横行して、ひじょうに良くない結果を生みます。これが幼児の読み聞かせの主流になれば、さらにキワモノの書物が電子絵本になっていくことが考えられます。いまや出版業界もデジタルコンテンツの業界も質などどうでもよく、とにかく連続的に出せばいいという状態になっています。これでは子どもにとっては悲劇です。つまり悪貨が良貨を駆逐していく状態になり、質の高いものはどんどん消えていきます。これが、いま書籍の世界でも起きているのです。さらに電子絵本は、友達に貸すこと(機械ごとは貸せます)も、地元の図書館に寄付することも、転売することもできません。さらに書棚として物理的な空間を占めていませんから、データを削除する際にも複雑な感情が生じにくいのです。ボロボロになる淋しさ(あるいは読んだという実感)、捨てる哀しさなどの感情も出てこないのです。

読み聞かせのポイント
C3歳児の絵本は多様です

絵本の佳境に入る3歳

 3歳になると、ストーリーの流れをつかむ力が飛躍的に増してきます。3歳半ばにもなれば、かなり複雑な筋立てのものや、かんたんなオチのあるものまで楽しめるようになります。3歳前半ではまだ2歳のときの繰り返しものや単純なストーリーのものを組み入れていますが、すぐに「起承転結」のはっきりしたもの、あるいはドンデン返しのあるものでも読み聞かせることができるようになります。こういうものが楽しめるというのは大きな成長です。
 一年前は2歳ですが、そのころのことを考えると絵本の内容はとても高度になっていて、大人でもじゅうぶんに楽しめるものになります。有名な「ぐりとぐら」は現役の古典ですが、これは2歳では中身をしっかりと楽しめないと思います。そんなストーリーが充実した絵本が3歳の配本では目白押しとなります。
 「14ひき」の絵本や「11ぴき」のシリーズなど、この時期の絵本は3歳が「絵本の佳境」であることを示す楽しさに満ちています。たくさんの本を次から次へと与えるのではなく何度も何度も読んであげてください。

観察力が鋭くなる

 2歳で高まった記憶力は3歳になるとさらに高まります。ただ、2歳のときのようにさっと丸暗記して唱え始めるような記憶力ではなく、知識の裾野を広げていくような、スポンジが水を吸収するような記憶力です。
 大人から見ると「いつそんなことを覚えたの?」と思うくらいのものです。また、観察力も鋭くなってきます。ページの隅のものを見つけたり、言葉の細部に関心が行ったり、子どもによっては「どうしてそうなるのか」「なぜ、そうなのか」にこだわる子も出てきます。これは観察の結果、自分の内部でその事柄を理解しようとする試みで、やがて体系的な知識も作っていきます。
 でも、「どうして?」「なぜ?」が口癖になってしまう子もいます。男の子に多いのですが・・・。これは、根本的な疑問ではなく、答えを期待するだけのものなのです。答えても答えとして受け取らないで、ただ「どうして?」「なぜ?」のやりとりを楽しむだけになってしまうからです。この状態に陥らないようにしたいものです。「なぜ?」を押さえ込むのもよくないのですが、ロクに読み聞かせを聞かないですぐに「なぜ?」「どうして?」では困ります。そういうときは、「聞かないのだったら読まないよ!」と一蹴してもいいと思います。

想像力の高まりを大事にする

 3歳の絵本を読み聞かせているときは子どもの観察力を引き出すようなアドリブは発しないで、ふつうに読んで行ってかまいません。ドラマチックな演出の読み聞かせでひきつけるのではなく、言葉から想像する力を高めたいからです。
 3歳児は約束事の世界ではなく、自由に何にでもなれる世界を浮遊しています。「なぜ?」「どうして?」と言う子どもですら、ネズミが言葉をしゃべり、車が意志を持って動くことには疑問を持ちません。大人にとって不思議な世界も想像力の大きな子どもにとってはふつうの世界なのです。
 大人が決めたリクツの世界から離れて自分のイメージで世界を飛び回るので、この時期に「約束事」を教え込むのは控えたいものです。字や計算などを教え込んだりするのも力の限界をつくってしまうようなもの。だまっていても字は読め、計算はできます。早く読めたからといってたいした力ではありません。そんなことより3歳は想像力を大きくする時期。この時期に約束事で頭を固めたら、マニュアル人間の基礎を築くようなもので、成長してから自由な発想で動けなくなります。想像の世界を広げるための読み聞かせが3歳児の絵本読みだと思ってください。図書館から大量に借りてきて次々に読み聞かせる必要もありません。想像力は数の多い世界ではなく、ひとつのものから広がる世界でもあります。

最終回
Dどういう人か確かめる

言う人、書く人の経歴を見る

 この半年、さまざまなマスコミのコメント、書籍を読みながら改めて身についた習性は「言っている人、書いている人の履歴」を調べることだった。世の中には変わり身の速い人がいて、状況が変わるとすぐに自分の意見も変えて時流に迎合する人が出てくる。テレビに頻繁に出ている作家や学者、評論家などは発言内容の変わり身が早さがあるが、前に言ったことと現在言っていることが大きく違うことも多い。これはひとつの才能だが、「機を見るに敏(好都合な状況や時期をすばやくつかんで的確に行動する)」な人は、信用できない人も多い。
 たとえば、小泉元首相は、事故が起こってすぐに「これからは脱原発の方向に行かざるをえない」といち早く表明したが、人気取りの癖は首相を辞めても変わらないようで、よく言えば「時勢を見る力」がある人だが、以前、言っていたこととはいちじるしく違う意見でもある。もちろん、前は原発推進をしてきた党の人だ。小泉劇場に踊らされた人たちも今はそれさえ忘れて、この首相を見ているだろうが、大衆の意識をつかむ政治家は危険でもあることがわかっているかどうか。

阿る(「おもねる」と読む)人

 次に「わたしの3・11」を編纂して五月二十日に早くも出版した茂木健一郎先生。彼が集めたコメンテーターたちの文を読んでみた・・・ホリエモンから村治香織、上杉隆、高橋源一郎などメディアでおなじみの顔ぶれが語る3.11である。なるほどマスコミの寵児である脳科学者はじつに「機を見るに敏」な脳を持っていると感心した。しかし、本人はなぜか震災に対してもありきたりのコメント、原発事故のことに触れたがらない。他人の意見をまとめて、地震と津波のことに触れただけである。つまり人災である原発事故についてコメントするとどこかで都合が悪いことを承知しているのかもしれない。この人は、以前も今も東大のエライ学者さんである。
 さらに、新聞記事などで「安全を強調する」人の肩書きなどを調べると、内閣参与だったり国立大学の教授だったりすることがある。みんながみんなではないが文章だけでは信じられないことを大震災以後は学んだわけだ。「肩書きで人を判断してはいけない」ということも言われるが、肩書きも見ないと「書いたことや意見の本質」が見えてこない時代になってしまった。
 言葉の迫力は行為の迫力
 ツイッターで震災関連の詩を書いて有名になっている和合亮一という詩人がいる。ツイッター発信と言うのはまさに現代的な手法で、話題になりやすい。たとえば、こんな詩を発信する。

緊急地震速報 和合亮一・詩
  緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。
  牛や犬やぶたが徘徊している、
  無人がそれらの家畜や番犬を追い回している。
  涙を流している、注意が必要です。
  緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。
  柵につながれたまま牛は、大きな体を休ませている、
  いや、飢え死にしている。無人も飢えている。
  果てし無い、注意が必要です。
  緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。
  豚は食べるものがなくて、仕方なく、
  豚の死骸を食べている、無人も仲間を睨みつけている。
  理由は無い、注意が必要です。


 福島大学大学院を出て、いま県立福島高校の教諭である。中原中也賞を取り、ラジオ福島で自分の番組を持ち、そのパーソナリティを勤めている。被災者でもある。なるほど、怖さが伝わってくる。放射能が立ちこめる中の余震・・・怖い。無人とは何なのだろう。無人が見つめるものとは何か・・・・隠喩は私のような素人にはよくわからないので、なんとなく分かるという程度である。
 で、次の文は詩ではなく93歳の南相馬市のおばあさんの遺書である。6月22日に首を吊っているのが発見されたが、遺書が残されていた。市販の便箋にボールペンで書かれたもの。文も言葉もたどたどしいが全文を挙げる。

  このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに
  原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで
  3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました
  私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日に
  ひなんさせられました たいちょうくずし入院させられて
  けんこうになり 2ケ月位せわになり 5月3日家に帰った
  ひとりで一ケ月位いた
  毎日テレビで原発のニュースみてると
  いつよくなるかわからないやうだ
  またひなんするやうになったら
  老人はあしでまといになるから
  家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので
  私も安心しました
  毎日原発のことばかりでいきたここちしません
  こうするよりしかたありません さようなら
  私はお墓にひなんします ごめんなさい


 93歳なら第一次世界大戦の最中に生まれたわけで、むろん大正生まれだ。学校にもろくに行かれなかったのかもしれない。そのせいか、ひらがな表記が多い。その年代らしく、「わからないやうだ」など当時の仮名遣いも残っている。そして、事実だけを列記したものである。とても上手い文とは言えないものだが、なぜか心に迫ってくるものがあると感じるのは私だけだろうか。なぜ迫ってくるものがあるか・・・・と、いうと、それは、飾りも嘘もないからで、さらに決定的なのは行為の事実(自殺)という裏付けがあるからだ。最後の「私はお墓にひなんします」という言葉は比喩表現だが、この比喩はいたたまれない哀しさをともなうと思った。
 これを読んで原子力学者や電力会社の人、さらにはこの政策を推進してきた人はどう感じるのだろう。彼らの言葉も聴いてみたいものである。

真摯(しんし)に反省する人も


 悲惨な現実を前にして言葉を失う人、言葉を吐き出す人、言葉を残す人・・・震災は映像だけではなく多くの言葉を残している。自己弁護する言葉、取り繕う言葉・・・叫び、呻き・・・いろいろな人が書く言葉が目に飛び込んでくる。この震災以後、文をどう読むか・・・・。
 前に「本を読まなければ真実は見えてこない」と言ったが、その本もいろいろな人が書いているわけで、読むに当たっては書いている人が以前とどのくらい違うことを述べているのかもつかみ取らないとまずいわけである。文章も真実を語るばかりではないからだ。上記のように世相に媚び、力に阿(おもね)る人もいる。もちろん、多くの人が想定外の震災に自分の無知を表明し、反省しながらも提言している人もいるから、その辺のところも読み取らなくてはならない。たとえば梅原猛と瀬戸内寂聴の「生ききる」では、かなり踏み込んだ反省と思いが対話の中で綴られている・・・なんとなく信用できる感じだ。もちろん、前者は以前も今も哲学者であり、歴史学者。後者は以前も今も小説家、そして僧侶でもある。哲学者や僧侶は政治家やテレビタレントとちがってコロコロと自分の意見を変えない人が多い。
 つまり、読書するということはいろいろ読んで信用できる人を探し出し、心の中で自分の味方になってくれるものを形作ることなのではないだろうか。信用できる考えは人間の心を強くすると思うからである。



(2011年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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