ブッククラブニュース
平成23年5月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせから読書へ
1歳代の配本の概要

 成長がひじょうに急激な一歳代を一歳前半と後半に分けるのはひじょうに無理がありますので、ちょっと下をご覧ください。これに沿って配本は組んであります。ですから、だいたい標準的な発達として頭に入れておいてください。
 毎月の配本をだいたい20回〜30回は読んであげることを心がけていただければ、後は子どもといっしょに本を楽しむ姿勢を示せばいいと思います。20回〜30回といったって、一晩でじゃありませんよ。その本が読み終えるまでの最低回数です。この時期は、個人差も大きく、中にはなかなか本に入り込めない子もいると同時に本をいつも持ってきて読むことをせがむ子もいます。そういう子には何度読んでもかまいません。読み聞かせの基本は、だいたい前回述べた通りです。
 後半の特徴的な分野は、感覚絵本(例・「もこもこもこ」「ぎったんばっこん」など)視覚的にもリズム的にも感覚を刺激して流れていくスジの絵本があるということ。これは、体のリズムや動きと合わせて子どもが絵本の中に入っていかれるように工夫して読んでみてください。散漫だった意識が、集中力を示す時期です。そのときに感覚絵本は次のスジ追いの絵本を与える重要な基礎となります。じゅうぶんに楽しんでください。次に探し物絵本(「きんぎょがにげた」「ぞろぞろぞろぞろ」「たべたのだあれ」「かくしたのだあれ」など。一歳前半では、多くの事物の中から特定のものを探し出す力がついていませんが、一歳後半になると探す面白さを知るようになります。
 この時期は個人差、個性差が出て、第一子として付き合うお母さんはいろいろ分からないことも多いかと思います。こちらが経験的に把握できていることでよければ、いくらでもご相談ください。対応いたします。その際は、お子様の生年月日(これが登録番号になっていますので)をまず御知らせください。

生後10ケ月からの段階

 触覚認識の残っている子もいる(1歳前半まで続く子も)ので、ページをぺらぺらめくったり、噛んだり、破ったりすることがある。破ったばあいは、その場でNOの意思表示をして、わからないばあいは手くらい叩く必要もある。理由説明しても理解しないので、区別することを教える。認識絵本はネコとイヌ、スイカとモモの区別を教えることから始まるわけだから、紙と本の区別がつかないことはまずいです。
 グルントが無地、見開きで一種類のものからが原則。注意力が散漫なので、場に集中させる試みが必要。次に地平線があり、背景と対象物の遠近感があるもの。2ページにわたる連続動作になるものへと進む。読み方は、ふつうの話し言葉で、ゆるやかであたたかみのある読み聞かせ方。静かに聞ける状況が必要。これに対応する選書は、配本プログラムの中に組み入れてありますので、それを追って読み聞かせてください。

1歳前半

 慣れてくると、本を持ち出してきて読み聞かせを要求してくるようになる。これに対しては「後で…」ではなく、きちんと対応する。読み聞かせ方法としてはアドリブやパフォーマンスを加えてもかまわない。ものによっては声色を使う必要もある。基本は、「次のページに続く」という意識的な割り振り。この時期の本は、ある場面が強調されるものが多いので、そこで読みを強調することも必要。
 一冊全体が「初め」〜「終わり」まで一貫しているものがほとんどになる。初めがあり終わるという流れを何度か読み聞かせるうちに覚える。もちろん前期と同じような読み聞かせ方を継続する。すじの流れを楽しめるようになるためには、最低でも同じ本を20〜30回読む(その本の読み聞かせが終るまでの期間に読む回数)。

1歳後半

 感覚的な絵本(スジがない?)ものが加わるが、場面場面を楽しめるような試みを加えることが重要。繰り返しものについては同じ調子で流し読みにならないように注意。音感を伴う言葉については、それなりのおもしろさを強調するために強弱、緩急の読み方も付け加える。
 ここでは、考える対象が加わるので、「間」が重要になる。読み流すだけでなく、読みを止めて考える時間を与えるのもポイント。一部にごく初期のストーリーのある本が加わるが、それについてもまだ会話語が(話し言葉)主体なので、アドリブも加えていいし、過度でない程度のパフォーマンスも必要。もちろん、登場する動物などの区別のために声色を変えることもまだ継続してよい。
 基本的には四半期ごとにアップグレードしていきます。もちろんわずかに性差配本が後半で入ってきます。
 これまでの経験的な感想としては1歳代の読み聞かせがあるとないの間には、その後、例えば3歳の物語絵本に入り込んでいくパターンに違いがあるように感じている。1歳で認識絵本が入った子は、かなり物語絵本の細部まで楽しめる傾向が見られる。その後の追跡をしてみても1歳代の読み聞かせ体験のある子は全体の6割が高度な読書に(小学校中学年段階)で入り込むことが示される。
 もちろん、まったく絵本を与えなくても3歳段階、低学年段階で本に親しんでいく子もいるが、確率的には低いのではないか。あるいは、原因は別かもしれない。1歳児に読み聞かせという対応をする親とそうでない親という違いが、その後にも影響しているという見方がある。いずれにしろ、語りが家庭から消えた現在、読み聞かせ体験は、あらゆる意味で人格形成の要になるのではないか、ということだ。(資料一部閲覧)

本を読む目的は何か・・・
目的はある・・・?

 毎年、五月になると読み聞かせの方法や技術の説明、選書した本の紹介を上のように1歳児から順にしています。今年も増ページで始めています。もちろん、就学児の新聞でも同じように「高学年まで読書の方法」や「どのように読むか」を書いています。しかし、その最終的な目的や「なぜ本を読むのか」ということについては書いて来ませんでした。
 小さいお子さんに絵本を読み聞かせる楽しみについては皆さんのほうが実感できていると思います。質の良い本を読んでいけば、それなりに質の高い読書もできるようになり、やがて、その先は・・・それなりの成果が現れるとは思うのですが、やはり目的が見えないことには目指しようもないわけで、今回はその辺のことに触れてみます。

愚行

 いきなり「愚行」と言われても面食らうかもしれませんが、字のごとく「愚かな行い」という意味を持つ言葉です。世の中を見ていると事件や事故でいっぱいです。少なくとも三十年前にくらべれば、かなり危険な世の中になってきました。それは、愚行をする人が増えたからです。非日常が増えたからです。命を軽視するような愚行の結果、惨事や悲劇が起こる。それが事件、事故です。通学する小学生の列に突っ込むクレーン車、百円の生肉で起きる食中毒、多くの人が命の危険にさらされる原発事故・・・その背後には必ず結果を考えなしにやってしまった「愚行」があります。
 多くの人は、自分の身には危機が起こらないことを前提で生きていますが、じつは日常は、いつも危ういものの上に成り立っていて、そんなものに気を取られていると鬱病になりかねないほどです。だから、みんな「自分だけは大丈夫」という安全幻想を持っていないと生きられません。でも何かの拍子に均衡が破れると生活の中に暗い「非日常」が顔を見せます。事件や災害が起これば、いきなり非日常の当事者になってしまいます。いくら便利な世の中、いくら豊かな社会になっても命がなかったら、これはもう何の意味もありません。今回の原発事故は、まさに、そのことを示すとても良い例で、日本全体の愚行の行き着いた先だと思います。

非日常の影響

 たくさんの会員の方からお便りをいただきますが、この二ヶ月で一番多かった言葉は「ふつうの生活が送れる大切さを感じた」というものでした。人間は平和だったり、刺激がなかったりすると、退屈して、おもしろいことを求めます。これは子どももそうですし、大人もそうです。テレビドラマやゲームはそれを煽ることもしています。サブカルチャーは、本来、自分を安全圏に置いておいて、非日常を見せてくれるものです。例えば「不倫」「代理母」から刺激的な「犯罪」「危機」などの日常的ではないテーマを展開します。ところが、人間というものは、それを見ているうちに実際にやってみたくなる動物でもあります。でも、やれば「愚行」になってしまうことが多いのです。原子力なんてむずかしいことが分る学者の先生でも自分がやってきたことがとんでもない悲劇になることは考えられませんでしたからね。

愚行を防ぐもの

 「愚行」の反対語を辞書で調べても載っていません。しいて言えば「賢行」でしょうが、そういう言葉は実在しないのです。言葉が存在しないというのは、そういうことがないということでしょう。つまり、昔から人間は愚行をしてきたわけで、愚行=人間そのものと言えば言えるのかもしれません。でも、自分が愚行を行っても悲劇ですし、誰かの愚行のトバッチリを受けるのも不幸な話です。
 では、どうしたら愚行をしないで、また愚行に遭わないでいられるか・・・愚行を防ぐために私たちや子どもたちは何を身につけるべきか・・・難しい問題ですが、その答えは、じつはとてもかんたんなこと、つまり「常識を持つこと」なのではないか、と思います。常識で考えれば、やっていいことと悪いことは見えてきます。でも、そうは言っても、その常識を持つのはひじょうにむずかしいことなのです。
 前述のようにテレビは(見方にもよりますが)なかなか常識を与えてくれません。人を刺激することが仕事だからです。当然、芸能人などは非常識が前提ですから、彼らの言葉や行動から常識はもらえません。表面的に美しく見えるもののなかにも非常識はいっぱいあります。便利さや豊かさなどは逆に非常識を進めてしまう結果を生むでしょう。「何が自然で何が不自然か」を考える常識の力は、やはり質の良い育ちの中で質の良い考えをつくっていくことからしか生まれないような気がします。

育ちと読書がつくる「常識」

 世界について、人間について知ることが愚行を抑えるものだとするなら、やはり読み聞かせから読書への道で質の高いものが必要とされます。まともな感性を育てる・・・それが常識を育てることにもつながります。ただ、それは良い生育環境が必要です。育ちによって、そして環境によって価値観は代わっていきます。いくら読み聞かせをしても、また読書をしても親が強欲だったり、誤った生活をしていたら常識が形成できるわけが無いからです。
 強欲のために愚行が始まった現代でも多くの人が「常識」を回復すれば、ある程度の安心や安全は復活できると思います。ここに希望をかけなければ、どこに希望を持ったらいいのでしょう。受験教育を進める中学や高校は、いまや前近代的な価値しか生まないところに化していますよね。ですから、ゆめやの選書は、最後は「本がお子さんの内部で常識を形作ること」を目的にしています。理想論のように聞こえるかも知れませんが、多くの人が善い人になれば、愚行は少なくなっていくことでしょう。

忙しさからの脱却

 どうも最近みんな忙しい。親も子どもも忙しい。ゆっくりと話し、落ち着いて何かをするという感じがなくなってきている。配本の受け取りを三ヶ月も溜める人が出てきた。「世の中が効率優先だからしかたがない」とも思うが、こういう感じで生活していくと、物事は目の前をどんどん通り過ぎ、情報は右から左へ耳を抜けていく。肝心カナメのものは見落とされ、重要な事柄が残らないで、忙しさの息抜きにどうでもいいようなことだけが話題になる・・・・・・そのうち、自分がしていることも分からなくなる。そんなにがんばってどうする!と思う。お金を得たいがために、子どもと一緒にいる時間を削ってまで忙しくなりたいというのはおかしな現象だ。そういう生活では、何一つ頭の中に蓄積せずに終わることだろう。まるで新幹線に乗ってみる車窓のように毎日が飛ぶように過ぎていき、着いたところが「老後」という駅ではつまらない。いずれにしろ、今度の震災で確実に日本は経済規模が落ち込み、生活の質を換えていかなければならなくなる。原発の影響は大きい。

老人が手本の時代は終わった

 この間、いろいろなことに首を突っ込んでいるある老女の話を聞いた。講演会があれば出席し、参加組織の会合があれば必ず出て、一週間のスケジュールは朝から晩まで詰まっているという。長く外で働いてきた人だ。退職してもその癖が抜けないのだろう。「活発に行動する老人」という印象だが、話してみるとじつに内容がない。深い話がひとつも聞けない。「あの人は、○○大学を出ている」「その店はどこそこにある」「あの方の講演はいいお話でした」・・・・こういう話ばかりではウンザリする。どこかに出かけて何かに参加していることだけはわかる。しかし、知っているだけ。それも過去の蓄積すらない。
 近所に同じくらいの年齢の老女がいる。もともとお百姓さんなので、よく畑で草を抜いたり、花を植えたりしている。散歩のとき「いつもきれいにしていますね。」と声をかけると、「まったくちょっと目を離すと草が伸びるんだよ。腰が痛くても毎日抜かないとね。草ボウボウになっちまうよ。」「花があるといつも活けられるじゃん。お墓参りのときなんか買わないしね。もっとも買った方が安いかもしれんけど。」なんていう会話になる。ちょっと話が進むと「最近の子はかわいそうじゃんね。昔は、このへんで遊ぶ子が多くて、よく叱ったもんだけんど、近頃はお稽古事だことの塾だことの大忙しじゃんね。あんなこんじゃロクな大人にはならんわな。」などと手厳しい。つられてこちらも世間話をしてしまうことになる。
 前者と後者、どっちの老人の生き方がいいのか私にはわからない。前者は忙しく、後者は暇。現代の世の中では忙しくしている老人のほうの評価が高いかもしれない。後者は昔からの老人のパターンだからである。ただ、前者の家の庭は草だらけで、玄関に花もない。窓ガラスは拭いていないし、廊下もザラザラだ。家はご飯を食べ、眠るところにすぎないのだろう。後者は、ほとんど家にいる。だから庭や玄関は掃除が行き届き、廊下も窓もきれいである。

モモ

 こういう比較をしていると、私はいつもミハエル・エンデの傑作児童文学「モモ」を思い出す。時間どろぼうに追いまくられて効率的に動き始めた人々が抱える不幸とお金や贅沢よりのんびりと生活している人の幸福さ・・・まったく三十年前に書かれた作品とは思えないすぐれた予見である。でも、多くの日本人は、この本さえ読まず、結果的に大忙しでロクでもない大人になってしまっているのではないか。
 子どもに「早くしなさい!早くしなさい!」とばかり言っていると、効率の落とし穴にはまって忙しく人生を過してしまう老人になる。子どもと過せる期間は短い。今のままでは、アっという間に大人にしてしまう危険性がある・・・・。「早くしなさい。早くしなさい。・・・」・・・これはいつか・・・「早く死になさい。早く死になさい。」になってしまうのではないだろうか。

親の親が犯した罪

 さて、その忙しさの中で家庭生活で一番重要な「食」が崩れる時代になってしまった。食の崩壊は、現代の家庭の特徴といえるかもしれない。NHKの朝ドラなど食事のシーンばかり描いている。「おひさま」などは母親が死んでいるにもかかわらず、父と息子、娘の食事シーンばかりが目立つ。必死で家族が一緒にご飯を食べることをオススメしているNHKも涙ぐましいほどの努力だ。
 しかし、現実にはスーパーで出来合いのお惣菜を買い、温めて食べるだけの家庭が多いという。ある家のことだが、味噌汁はすべてインスタントのものにお湯を注ぐだけというものだと聞いて驚いた。それが家庭崩壊まで起こしている傾向もあるかもしれない。さまざまなところで家庭が機能しなくなる状態は下層階級だけの問題ではない。おそらく中流、上流という階級でも起きている。
 私はこの家庭の機能の低下を「現在の親の親たちが娘・息子の世代に伝達しなかった」罪だと思うのだが、どうだろう。高度成長期にお金を得ることを最優先にすれば当然のことかもしれない。「この対策は?」と言われても、もう新しい世代の親が世間で大多数を占める状態では何を言ってもムダという感じも強い。もし言えば反動的(歴史の流れに逆行、保守的でかたくなさま〔広辞苑〕)と思われるだろう。しかし、家庭が「夫婦・親子を中心にした血縁者で生活する最小の社会集団(国語大辞典)」であるならば、この集団を崩そうという動きがどこかにあるはずで、それはすでに一般的に現われているはずである。この原因と経過について少し述べてみたい。

愛情を敵視する風景

 もう、二十年くらい前の話だが、女房がある集まりに出てプリプリして帰ってきたことがある。集まりの後で食事に誘われたのを断ったのが原因だった。会は夜八時近くに終わったので、女房はすぐ帰って夕食を作ろうと思っていたところ周囲の人たちから「ご主人は自立していないのねぇ。」と言われたのである。子どもの食事を作ることと夫の自立は関係はないはずだが、「夫や子どものために家庭に早く帰る妻は自立していない」いうことなのかもしれないと女房は言った。家庭のことをしないことが自立の一歩と妄信している女性たちがすでに増えていたのである。
 夜十時、十一時にファミレスを覗くと、どう見ても子どものいそうな世代の女性がたくさん集まって歓談している・・・なるほど「自立」とは「家事や育児をまじめにやらないことで夫や家庭から解放されることなのか」と思った。これでは、たしかに「食」も「生活習慣」も揺らぐことだろう。しかし。こう言うと「では、亭主関白がいいのか!」「女は働いてはいけないのか!」という反論が返ってくる。間違ってもらっては困る。「亭主関白」とは高度成長期にサラリーマン階層が家庭を維持するために取った方法で、明治以降の男性優位の形を変えたものにすぎない。日本は、歴史始まって以来、女性が働かなかった時代はないのである。

働き方が変えた家庭像

 われわれのような自営業では、夫もオムツを替えるし、家事もする。子どもの面倒も見る。仕事機能を分担しなければ生活できない。妻は飾り物ではなく、立派な労働力だからである。それでも子どもも家庭も同時に見ることができている。家庭が自営という労働と表裏一体だからだ。だから問題は働き方なのである。
 外に出て働くということは、そういう意味では家庭や子どもを見失う可能性が高くなる。それは、現在の家庭機能の崩れが端的に物語っているではないか。もっと言えば、労働力不足を見込んだ国が作り出した「女を効率的に働かせよう」という意図に乗せられているだけのことである。皆さんは、行政が「男女共同参画」を進めていることにウサンくささを感じないだろうか。経済的欲望を刺激して働かせる。馬の鼻先にニンジンをぶら下げるのと同じだ。多くの人は、仕事そのものへの魅力ではなく、報酬の魅力だけで働いているのである。役所や企業のシステム的な仕事が魅力だと思える人は恐らくいないだろう。いるとすれば、無理やりそう思い込んでいるだけなのではないか。お金を得れば、あるいは収入を上げれば、「欲しいものが手に入るよ」「便利で快適な生活ができるよ」というわけだ。
 何度も言うが、私は「女性に働いてはいけない!」と言っているのではなく、「働き方を考えないと子どもも家庭も見失うよ!」言っているだけである。もちろん、家庭も子どもも不要だという言う人には、言うべき言葉はまったくない。

フェミニズムと家庭の破壊

 上の国語大辞典の意味(家庭が「夫婦・親子を中心にした血縁者で生活する最小の社会集団・国語大辞典)から考えると、家庭というものは「愛情や人情に基づいた集団」だ。愛情によって食事や読み聞かせをやるという形で成り立っているのが家庭の機能となる。ところが、「良妻賢母」を嫌うフェミニズムは、愛情から出発するものをことごとく否定するのである。「家族の世話をするのは女性の仕事としては程度の低いもの」という主張である。恋愛結婚を推し進めたくせに「亭主元気で留守が良い」、家族は「個人の自由を重視して、てんでバラバラ」という状態。愛情や家族間の人情は、「自立」というわけのわからない考え方のために「敵」として見なされているといってもいいくらいである。フェミニズムにとって、「まじめに親をやり、家族で食卓を囲み、家庭内で長時間一緒に過すことをする人」はフェミニストではないのだ。その意味では、フェミニズムは、個人が光りたいだけの「勝ち組」の考え方なのである。これって、おかしくありませんか?こういう崩壊を前提とした「がんばり」は不要だと思う。こういうことから考えれば「がんばらなくていい 日本」である。「そんな国の口車に乗って、男女共同参画なんてやるな!」と言いたい。行政が、この「男女共同参画」を進めていること自体に疑問が起こらねば・・・・われわれの人生は忙しい生活であっと言う間に終わってしまうことだろう。「女子と小人は養いがたい」と言われないためにも、もう少し足が地に着いた家庭生活を送ることを考えたほうがいいと思う。



(2011年5月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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