ブッククラブニュース
平成23年5月号(発達年齢ブッククラブ)

二人の御住職のおはなし

 大震災の後、東北の会員に電話連絡を試みたが、当然、通じない。で、当日の夕方に全員(茨城も含めて)ハガキを出した。もちろん、すぐに届くはずはないが、アナログなやり方は確実で、十日後にはすべて着いていた。日本の郵便局は、たしかに優れている。
 それでも何人かは消息不明。しかし、会員のほとんどは紹介者がいる。それを辿ってなんとか安否を確認して行った。
 そういう中に仙台太白区の渡邉さんがいた。やっと連絡がついて電話で話すと全員無事。よかったぁー!
 津波はかなり近くまで来たらしい。渡邉さんはお寺さんである。奥様が「余震もひどくてお子さんが夜中に飛び起きる」と言っておられた。「避難は?」と言うと、「檀家さんがみな避難するなら別だが、最初に寺が避難などできない。」・・・聞いて、私は赤面した。
 さらに、後日、丁寧なお便りをいただいた。「避難所生活をしている人たちのことを考えると、水道、ガス、電気を気にせず使うことができず、昼間は電気をつけず、家の中でもジャンバーを着ております。誤解のないように付け加えさせていただきますと、他の地域の方にそうしてほしいとは全く思っておりません。多分避難所の人たちもそうだと思います。日本の他の地域では、普通の暮らしが出来るところがあると思うだけで、ほっとします。」
 こういう言葉は尊い。
 渡邉さんのような方がいるから東北の人々のまとまりや忍耐は世界からも賞賛されるのだろう。まだまだ地域社会も宗教性も生きている。なんだか、安心した。

震災は天災、原発は人災

 しかし、お便りの中に「子供たちは元気です。今は震度4ぐらいでは起きなくなりました。ただ、原発事故の件で昨年配本された『広島の原爆』を出し、『こういう風な病気になっちゃうのかなー』と不安がってます。」とあった。『広島の原爆』は、この十五年間、小5の会員へ男女ともに配本している本だ。かなりむずかしい本だが、お子さんは「原発は原爆」、「福島は広島」と感じたのだろう。読書経験が現実と向き合うことになったわけだ。
 そういう本を読まないで、ポケモンやドラエもん、あるいは、アンパンマンだけで育った子の意識は低い。どこまでも怖さを知らない脳天気でいく。放射能など見えないから、想像力も働かない。全部が全部、テレビの中のできごとで、その意味では「他人事」なのだろう。自分に降りかかってくるかもしれないという想像力は働かないはずだ。その意味では、日本人全体が、テレビで育ったために、そういう意識になっているのかもしれない。恐るべし、サブカルチャーの威力・・・・恐るべし、メディアによる白痴化。・・・・人の精神をキャラクターが救う・・・そんなことができれば、この世に怖いものなどなくなる。そんなにうまくは行かない。すべてのヒーローは去っていってしまうのだ。
 そんなハリウッド映画のようなヒーローが大津波の後を生き延びた人に寄り添ってくれるのだろうか。身内を亡くし、友人を亡くした人々はディズニーランドに行けば心から癒されるのだろうか。

アンパンマンが国を救うか?

 震災でやなせたかしが寄せた言葉を見て、何と底の浅い(わかりきってはいるが)ものだと思った。「おそれるな。がんばるんだ。勇気の花がひらくとき、ぼくが空を飛んでいくから、きっと君を助けるから。・・・」・・・こういうのって、津波で親や子どもが流された人、家を失って呆然としている人、何も分らず避難所で寒さに震えている人に対してかける言葉としたらあまりにもデリカシーがないのではないか、と思う。こんなことで元気付くほど日本人は底の浅い国民になってしまったのだろうか。巨万の富を稼ぎ出したアンパンマンなら、こんな色紙一枚ではなく、アンパンマン基金でも設立してがんばってほしいものだ。そうすればおバカなアンパンマン・ファンは山ほどいるからお金が、これまた山ほど集まることだろう。これから、急速に低下していく国の力をまったく認識しないで、こんな脳天気な色紙を書くというのは脳天気を通り越してボケに入ったとしかいえない。
 危機がやってきて、その危機から「ぼくたち」を救ってくれるというスーパーマンやスパイダーマンのような発想は、画面や映像のなかのもので、決して現実には現れない。かんたんに言えばハリウッド映画の手法だ。生き延びた人たちが一番ほしいものは、精神的にも現実的にも自分の心の支えとなってくれる人、寄り添っていてくれる人なのではないだろうか。それとも、この国の人は「、困ったときに水戸黄門やアンパンマンが来て助けてくれる」という浅はかな考えしかもてない人になってしまったのだろうか。ほとんどが高校卒になり、大学卒がものすごく増えたにもかかわらず、こういう浅はかな状態が出るということは、この国が、いかに意識レベルが低くなってしまったかを語るものだと思う。だから騙されっぱなしになるのだ。

そのうちに・・・・

 通産省内部の保安院もまたエリートを誇る有名大学出の面々が多いから、当然「どうせ、この国の国民などいくらでも騙せる」「ほとんどがアニメやテレビのバカ番組で頭がトロくなっているから騙しやすい」・・・では政府発表です、となる。・・・「コウナゴから基準値を越える放射能が・・・」(コウナゴだけ警戒させておけば大丈夫だろうよ)、「校庭の表土を取り去ればもう安心・・・・」(放射能が校庭だけに降りると思わせておけばいいのだ)・・・・まだ漏れ出てくるか。では、また大本営発表・・・もとい政府発表・・・「安心?」と言うと「安心」と答える。「漏れていない?」と言うと「漏れていない」と答える、それでもだんだん怖くなって、「ちょっと漏れてる?」と言うと「ちょっと漏れてる」って言う。こだまでしょうか。いいえ、保安院です・・・じょじょに知らせていけば、人は馴れて行くから大丈夫。
 「それでもダメなら、どんどんむずかしい言葉で攻めよう。」「ベクレル」「マイクロシーベルト」・・・放射性ヨウ素131、セシウム137・・・これは怖さを誘うから、どうだろう、いっそキャラクター化して「ヨウソくん」「セシウムくん」「ウランちゃん」なんて言えば、バカな若者は親近感さえ抱くだろうよ・・・とにかく、間違っても「放射能漏れ」なんて言葉を使ってはいけない! 「原子力事故」で用語は統一だ。マスコミなんか垂れ流しだから「言葉の言い換えでどうにでもなるさ」・・・セシウムの半減期が30年もあるから、それには触れないことだ。「ヨウ素は八日間で半減」とだけ言っておけ! プルトニウムが二万四千年もかけて半減なんて口が裂けても言ってはいけない! などという謀り事をしていないともかぎらない。責任逃れにかけてはエリートたちは頭が動く。
 こういう人たちが治める国は、そのうちに滅びるかもしれないが、滅びるときにでも、われわれは、渡邉さんのような檀家を思う住職のお経であの世に行きたいものである。

玄侑さんの言葉

 さて、渡邉さんと話した数日後、原発から45kmしか離れていない福島県三春町の寺の住職(であり芥川賞作家)の玄侑宗久さんが、渡邉さんと同じことを言っているのを聞いて驚いた。「ここを離れない」と。
 ・・・玄侑さんの本を以前、読んだことがある。もう十年くらい前のことだ。新鮮だった。仏教界が世の中の問題について、例えば医療とか、教育とか経済に意見を発したことを聞いたこともなかったから、現役の僧侶・玄侑さんが、宗教的立場から世の中に意見を言っているのが新鮮だったのだ。
 玄侑さんは、「人間が竜を飼ってしまった。その竜が暴れても人間はなす術がなくなっている。」と話した。原発のことだ。なるほど、手のつけられないものが竜・・・まさしく、その通りだ。 竜を飼うなどという大それたことをやっていいわけがない。ところが科学者という存在は竜がしつけられると思っている。さらに企業人は、その竜で一儲けできると思っている。竜の檻の近くに住む何も知らない農民、漁民は「竜は安全な動物」と思い込んでいる。竜を飼うことで強い国になれることを目指した政治家たちは、「竜が安全で富をもたらす動物である」と人々を騙してきた。われわれは、つまり、この国の人々は竜について何も知らなかったのだ。暴れだすまでは・・・・・。竜のエネルギーが十万年待たないと安全でおとなしいものになることなど・・・ちっとも知らなかった、というわけである。

桜は実生で育つ

 さらに、そこで、玄侑さんが桜守りのおじいさんと話したことが印象的だった。「桜は実生(種から育つ)から成長すれば長く生きる。」「苗で移すと寿命が短くなる」・・・桜には放射能が届くかもしれないが、桜守りのおじいさんは「生まれたところは大切だよ。木は強いもんだ。」と言っていた。
 多くの被災者が滅茶苦茶になった故郷でも「離れたくはない」と言っている。住んでいるところを追われるのは誰でも辛いことだ。なぜだろう。故郷には寄り添って生きてくれる人たちがいる。すくなくとも都会よりは孤独ではない。たしかに市場原理主義が行き渡り、地方の崩壊は激しい。近所づきあいも支えあいも少なくなった。しかし、それでも故郷には。家族や、家庭、すべての出発点がそこにあるから、安心なのだろう。もっと、言えば、先祖をふくめて、かつて寄り添ってくれた死者たちも、血の中で存在しているのである。人は、そういうものといっしょに生きているのだから、ふるさとは多分、大切なものなのだ。ふるさとを大切にしない人々の末路はさびしいものがあると言っても過言ではないだろう。
 学歴社会は、核家族を生み出し、やがて子どもは流浪を始め、親は年とともに孤独になっていく。わずか、この四十年、五十年で、そういう社会変化が起きたのだ。子どもが流浪してもまた根付いていけばいいが、核家族が分裂を始めたら、それは途方もない核分裂で、ひたすらお金だけを求めるエネルギーしか発散しなくなるだろう。つまりは、この国の人間はバラバラになっていくということである。しかし、それを抑える一つの方法が、渡邉さんや玄侑さんが持っている寄り添う思想なのではないだろうか。親と子がバラバラになり、お金だけを頼りに生きる社会・・・それを産業主義(殖産興業?)がつくり、市場原理主義で動かし、それを原子力発電が支え、やがて最終生成物プルトニウムがたくさん溜められて、宇宙開発用のロケットに組み込まれ(富国強兵)・・・最終的に一万円札の肖像が恵美を浮かべる時代・・・これが明治が育てた近代日本では悲しい。しかし、おバカな日本人はそうなってしまうかもしれないが、この国の自然はゆるがずに次の春を迎え、またその翌年の春を迎えるだろう。
 福島・三春町の滝桜は、放射能が舞い散る中でも美しいピンクの花をいっぱいにつけた。実生で育った強さである。

安心して生きる

 利便性とお金を求める現代社会の中でわれわれの魂は孤独だが、揺るがない気持ちを持った人、たとえば渡邉さんや玄侑さんのような方がいることで、私たちは自分に寄り添ってくれている人がいるのを知る。そこに安心が生まれる。人が生きるうえで「安心」は大切なことなのである。
 私たちは、恐るべき危険を他人事として平然と語る原子力保安院の人々や電力会社の幹部には信頼を持てない。彼らのような人たちが、ほんとうの意味で寄り添って生きてくれるとは思わないからだ。福島浜通りの、あの美しい田園地帯が放射能で汚染されてしまっているのにもかかわらず眉ひとつ動かさず、薄ら笑いを浮かべながら淡々と語る怖さ、驚くべき高給を取りながら国民のことなど考えてはいないだろう。いまでも科学でなんとかなると思っている政府御用の原子力学者もお金で謝った国策を支えてしまったわけだ。そして、人間など金で何とかなると思っている電力会社の幹部。交付金が下りなくなることを怖れて原発維持にしがみつく自治体の首長。彼らの、人や土地への思いのなさは、みんな拝金主義から来るのだろうね。
 おそらく、彼らはむずかしいマニュアル書や技術書はたくさん読んでいるだろうが、「人間が書かれた物語」は読んでこなかったのだろう。それが、そんな人間性をつくってしまったとしか思えない。
 さてまた、その数日後、五十歳になるバブル世代の知人が来た。彼は三十代で高収入を誇り、子どもも二人いたが、いろいろあって、いまは独身。・・・私が「原発は怖いね。」と言うと、「放射能が来たら外国に逃げればいいじゃないですか。お金さえあればなんとかなりますよ。」ということだった。私の頭は、どうやら古くなってしまったのかもしれない。日本の風土が変わったように、日本人の心も変わってきている。そうか、私が思っている「安心して生きる」と彼が思った「安心して生きる方法」は違うのだ。

豊かさの弊害PARTU

 原発の問題と影響は、いくら政府が隠しても広がってきていて、それとともに関わっている人たちの無責任ぶりも見えてきた。さらに、マスメディアがきちんと報道をしないので、まだ騙されている人も多い。しかし、中には、これで国の政策の実態が見えた人もいるのではないだろうか。テレビはスポンサーを怖れて何もいえない。原発に批判的な解説者は降板となる。テレビ局は日ごろはいろいろ政府のことを言うが、国策に関しては沈黙する。電気がなくなったら困るのがTVメディアだからだ。まじめになるべき時におチャラケの番組を流すのは国民に放射能の恐怖から「安心を与える」サービスなのかどうか・・・。
 しかし、現実には、放射能が広範囲にバラ撒かれているのである。安心・安全と豪語してきた原子炉がチェルノブイリ級の放射能を飛散させていたのだから、もう少しマスコミが騒いでもいいのだが、昔と違い、テレビ局も新聞も広告主が企業だから、反原発を口に出来ないのだ。企業は生産と大きな利益の維持のために電力を必要とし、当然、安定したエネルギーとして原発が作り出した電気を肯定している。その企業をスポンサーにしているわけだから、反原発を言うことは企業の思惑から外れたもので、広告収入の減少を怖れるマスコミは控えてしまうという構図だ。
 だが、放射能をバラ撒くことになった原子炉とそれを国策として進めてきた旧・政権について何もいえないというのは、「マスコミは死んだ」ということにもなるだろう。ことは、次世代にも影響が出る放射能についてなのである。

知らされなかった事故

 ほとんどの人が知らないが、昨年(2010/6/17)、福島第一原発2号機で電源喪失事故が起こった。これは「あわや、メルトダウンか!」というくらいの事故だった。外部からの電力が4つとも切れたのが原因で、原子炉は緊急停止。しかし、激しい沸騰が起きて燃料棒が露出した。今回のような炉心溶融は免れたが、発電所側は電源喪失の原因が特定できなかった。その四日前に強い地震があったが、それが原因なのかどうか・・・(4月号で引用した・広瀬隆・著の「原子炉時限爆弾・大地震におびえる日本列島」(ダイアモンド社)この本は、「大きな地震が来たら、原発が危険だ」と述べている。出版が昨年八月だから恐るべき予言だと思う。それが一年も経たないうちに現実に・・・。電力会社や保安院が、この本を読んでいたにしても笑い事で済ませていただろう。「結果オーライ!」だからだ。子どもの未来や次世代のことなど、どっちでもいいわけだ。
 しかし、実際には、小さい事故(例えば配管の損傷による放射能漏れ、海への放出など)は頻繁に起きているわけで、これらもニュース価値が低いということで報道されないことが多い。そして、この昨年六月の事故も炉心溶融にまで行かなかったという結果論で報道されずに終わってしまったようだ。ニュース価値が低い。たしかに何も?問題はなかったのだから、ニュース価値は低いと判断したのだろうが、実際に価値の高低だけで報道が行われなかったのだろうか。

報道しないメディア

 確かに、この事故をマスコミは一切報道していない。なぜか・・・その答えは、たしかにニュース価値の高低にあるのだが、ひどい高低なのである。2010/6/11〜7/11まで、南アフリカでワールドカップが行われ、テレビ、新聞ともにサッカーの番組と記事で埋め尽くされていたのである。この国のマスコミは国民の危機よりサッカーのほうが大事だったのだ。二十年前のマスコミなら大々的に福島原発の事故のほうを取り上げただろうが、広告主を意識するマスコミにとって、ささいな?原発事故など、この豊かさの中ではニュースバリューがなかったということである。そして、また、この国の視聴者が求めるものは危機ではなく快楽や興奮だったのである。
 こういうマスコミの姿勢は、本来、批判の対象にしなければならない市場主義そのものに自分もなりさがってしまったことを示している。私は、個人的に言えば、マスコミ、とくにテレビと新聞は日本が安全で平和の方に向くように報道をすれば、この国の国民は、その程度のもので十分に意識変化をすると思う。テレビと新聞が原発の実体を報道しなかったから国民に意識が生まれなかったのである。日本国民はテレビと新聞でしか(もっと言えばテレビでしか)価値観を形成できない国民なのだから、やはり報道すべきだったわけだ。しかし、原子力政策推進側がつくった安全神話による情報操作のほうが上手だったわけで、その意味ではテレビ、新聞は完敗なのである。スポンサーが原発容認の企業では逆らいようがないわけだ。さらに推進側はマスコミのオーナーまで原子力委員会設立当初から自分たちの中に巻き込んでいた。

物が言えない雰囲気

 こういう中で、「原発は安全で安心」、「原発は誘致する地方自治体に雇用をもたらしてくれる」という宣伝しかしなくなった。すでに原発が「危ないもの」ということは言いくい雰囲気ができてきた。とにかく、あらゆる公共事業と同じ手法で、反対する者を押しつぶしながら進める原子力政策である。その手法は、まず金をバラ撒いて抱き込み、文句を言わせないようにして自治体を絡め取るくるらいたやすいことだろう。旧政権お得意の手法だ。これは住民にも使われる。道や橋、ダムや産廃場など、どのような公共事業もまず「建設ありき」で、それは公益、国益でありと刷り込む。「環境破壊である」とか「税金の無駄遣い」と反対しても御用調査機関が「環境破壊ではない」「費用対効果がある」と報告書を出して計画は進む。さらに反対しても「安全神話」のようなもので押しつぶすから、何も言えなくなる。だから、世間一般では「便利さと原発はイコール」、「福島は、やがて広島」という警戒心は、なかなか生まれない。こういう形で(お金をバラまいて懐柔させて、公共事業で甘い汁を吸う)やってきた人々が、いま前面に出てこない。原発の責任を取るべき人々が消えてしまった。そして、だれもそれを追及しない。
 さらに言えば、「とにかく、この国の人々はおかしくなったのではないだろうか」と二ヶ月経って思わざるをえない。反原発の運動が盛り上がらないどころか、浜岡にある御前崎の市長が交付金ほしさに原発維持である。同じことが福島の双葉町、浪江町でもあるのだろう。浜岡原発運転中止に対して中部電力の株主が反対を表明。・・・・この国は、ほんとうに命や環境破壊よりお金が大切なのだ。市場原理とは、ここまで人間を腐らせるものなのかと唖然とした。本来、子どもを持つ母親たちがNO!を表明しなくてはならないのに、この国の女性は子どものことなどそっちのけで、仕事がなくなる不安だけを言い、便利さや快適さの追求だけをしているかに見える。ここまで、日本人を狂わせたのは、「働く女性」を賞賛し続けて、労働力の不足を補おうとしてきた教育なのかもしれない。どうしても彼らには、快適さや豊かさを感じさせるものの背後に、命を危険にさらすものがあるという想像ができないようだ。

文句を言わない生徒たち

 だいたい電力消費は国が奨めていることで、オール電化住宅の建設には国の優遇措置まである。「電気はどんどん使え!」というわけだ。原発の電気で儲けたい人々がいるから増設、増設・・・子どもの世代のことなど考えもしないやり方である。金に弱くなると、人は文句を言えなくなる。原子力政策への批判もない。これは、福島原発の周辺の市町村の人々を見ていれば分ることだ。裕福にさせてもらったのだから文句が言えない。おとなしい県民は恒久的に使えない土地ができても文句を言わない。上に文句が言えない民を作ったのは、いったい何なんだろう。内申書・・・? 外国では反原発デモも起きているのに。「自分さえよければよい」という教育の成果で放射能が降ってきてもこの国の若者は異常におとなしい。おいおい、自分たちの未来のことだぞぉ!
 去年の五月号の夢新聞の、この欄で「豊かさの弊害を切り抜けられるか」というタイトルを掲げて「みんな、お金を異常な方向に使いすぎる。子どもなどは、与えないことによってつく力のほうが大切なのに、与えることで力をつけさせようとするアホさ加減がこの社会を覆った」と書いた。情報化によって社会が歪んだことも合わせて、いまや利便性と豊かさが電気=原発という形で出てきて、豊かさの弊害は予測した以上に驚くべき悲惨な結果を生んでいる。 
 さあ、どうなるか、どうするか。命を脅かすものを受け入れてまで、まだ便利さと豊かさを追求するか・・・しそうだなぁ。この国とこの国民は・・・これまたイケイケドンドンで。



(2011年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)



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