ブッククラブニュース
平成22年10月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのある生活へE

家庭で作る楽しい時間

 かなりまえからテレビを見ない家庭が増えてきたようです。これはこれで歓迎すべき傾向で、この忙しい時代にテレビ視聴で2時間、3時間を取られたら、かなり生活の質が下がってしまうと思います。
 ところが、テレビを見ないで育てて子どもを園に入れたら、「園が平気でバス待ち時間や保育時間にアニメのビデオを流していて困る!」というお便りを頻繁にもらいます。たしかに困ったことですが、世間一般のレベルなんてそんなもので、保育者側も「子どもはこういうものでおとなしくなる」と思ってやっているので下手に文句をつけて、「変人」と思われるのもシャクです。園の選択を間違えたと思うよりないかもしれません。園は園児に配布する雑誌の出版社の援助を受けて遊具やお便り帳を無償供与されているところもあって、経営上、純粋に保育理念を通すのがむずかしいのです。テレビやアニメDVDなどは受動的に受け取る楽しさですから、百害あって一利か二利、家庭でもっと楽しい時間を作ってみましょう。

読み聞かせが楽しい子は

 強烈にアニメを叩き込む保育方針の園ならともかく、家庭で読み聞かせを受けてきた子は、園で流す程度のものにはのめりこまないものです。家に帰ってきても、そのアニメが流れ、そのアニメの時間にはテレビの前に座り込むような子はブッククラブの会員にはいないでしょう。まあ適度に園で毒を食べさせておけば、ほんとうの味も分かるというものです。
 ほんとうは親たちが連帯して「子どもたちにはもっと質の高いことをしてください」と言えばいいのですが、ふつうの親には、この当たり前のことを言う勇気がないのです。その意味ではモンスターペアレントやクレーマーの親を見習うべきかもしれません。
 それより心配なのは、アニメより実写もの。つまりテレビは視聴率のために節操なく仕掛けてきますからね。仮面ライダー役にイケメン俳優を使って、まず母親をバカ母にして、そこからじっくり子どもを攻め、やがてはグッズやキャラ商品に向けさせようとたくらんでいます。いい年齢をした母親が「だってイイ男なんだもん」と開き直って見ている状態のほうが怖いですが、これまたブッククラブの会員では皆無の現象でしょう。ということは、これも心配ではないということですね。
 本の読み聞かせは、精神的余裕と時間的余裕がなければできるものではないので、読み聞かせをしている家庭では、まず何も問題はないということです。親子が黙ってテレビ画面に釘付けになっている家と物語を語りかけている時間を持つ家庭では数年後が違ってくるでしょうし、十数年後はもっと大きく何かが違ってくるはずです。「何か」・・・それは何か・・・とても言い表せない大きな「成果」ですが・・・・。親と子のつながりでもあり、・・・・心の強さであり、・・・・いやいやもっと大きな「何か」ですね。それがついてくるはずなのです。

一人読みから高度な読書へ

いったい、この国の出版は・・・・?

 国の出版は・・・・?
 「基本的な文学が読めない」というのは「子どもに読む力がない」という意味ではない。いわゆる名作といわれる文学を手に入れることがむずかしくなっているということだ。とにかくゆめやも困っている。適切な本を探すほうが苦労するのである。
 例を挙げよう。好き嫌いはともかく、太宰治の「走れメロス」を選んだとする。で、・・・右に挙げた本は、何とすべて「走れメロス」である(印刷された新聞上では21点の「走れ メロス」の本を挙げた。WEB上では割愛。)。これを見た方々は「何だ、たくさん出ているじゃないか!」と思うはずだ。
 ところが、ところが、異訳やマンガ、アニメがこの中にはたくさん含まれているのである。子ども向けのものは、多くが絵本だったり、マンガだ。最初、文学がマンガで描かれたものを見たときにほんとうに驚いた。こんなもので、本を読んだつもりになるとは! まあ、「走れメロス」のようなチャチな物語ならマンガでもわかるかもしれないが、そうはいかない文学は山ほどある。これがアニメやマナガでとはいったい! さらに装丁やサイズもまた問題だ。本とは呼べない文庫サイズの子どもが読むのに不適なものも多い。はっきり言えば、なんとか原文に近く、「選んでいいかな?!」と思うのは最後の2冊である(すみませんが、これも写真では割愛)。ところが、難しい言葉が使われているものもあるので、いきなり高学年の子どもに薦めることもできない。ある程度、読書力を段階的につけることができた子には薦められるが一般的にはムリな話だ。何とも苦労するわけである。せっかく読書力をつけてきたのに、肝心の本がないということはおそろしいことだ。すべてがアニメとマンガになったとき、この国は何を表現するようになるのだろう。実際、あらゆる分野で、このマンガ化、アニメ化という文化的には野蛮な状態に戻りつつある。象形からはじまった文字の文化が、また象形に逆戻りしているとうわけだ。高度に文明化した野蛮な状態・・・・人間の意識はかなり鈍感になってきている。

きちんと出版されない

 「走れメロス」に限らず、日本文学で子どもに読ませたいものが、近年、マンガやアニメで出版され、さらには、そっちのほうが本物と認められてしまうような現象が起きている。
 例えば、いま人気の宮崎アニメ「借りぐらしのアリエッティ」、これはレッキとした名作古典「床下の小人たち」が原作である。しかし、子どもたちはまずアニメ本の「借りぐらしのアリエッティ」を開き、そこから「床下の小人たち」へ移ることもなく読むことを終える。アニメやマンガから得たものが、どのくらい浅薄なもので、深い思考に結びつかないか、は解説する必要もないが、もはや出版界も市場主義に侵されて売れるものしかつくらないのである。これは「文化の危機」と言ってもいい状態で、漱石の「坊ちゃん」も芥川の「杜子春」も子ども用の適切な本が手に入らなくなっている。大人用の文庫本はまだ出ているが、じつはこれらは少年少女対象に書かれた本でもある。
 例に挙げた「走れメロス」は、いかにも学校教育が好きそうなウソくさい話だが、さらに高度な「坊ちゃん」を読めば人間の汚い部分に目が開いて批判的になる子どもも出てくるだろうし、「杜子春」を読めば世の中がお金だけではないことを知る子どもも出てくる。こういう本を読めば、子どもたちは少なくともホリエモンを目指さなくなるだろうし、真っ当な常識でさらに後の小さな子どもに物を教えることができる大人になれる可能性も大きい。年代的に

基本文学を読まないと非常識になる!?

 ここのところ教育界で頻繁におかしなことが起こっている。算数の授業で「18人いる人を毎日3人ずつ殺すと何日でいなくなるか?」(愛知)という割り算の問題を出した先生、道徳の授業で新聞の字を切り抜いて脅迫文を作ることを教えた先生(山梨)・・・性的倒錯や精神異常に陥る前の非常識現象が起きているわけだ。もちろん、性的倒錯や精神異常からの事件も起こっている。それにしても、こういう異常な事件はアニメやマンガの非常識を常識と思ってしまったことから始まる事件なのではないだろうか。つまり、かなり高年齢の人でも基本的な文学を読まず、常識が形作れない問題が噴出しているのだと思う。もちろんそう言うと、「では昔の大人は読んでいたのか?」、ゆめやも、この新聞で「昔も大人は読書をしなかったと書いていた」という反論が出ることだろう。むろん昔も多くの大人が基本的な文学など読んではいなかった。しかし、その代わりに周囲が「そういうことをすると恥ずかしいよ!」「そういうことを言うとみっともないよ!」ということを教えてくれていた世の中だったのだ。それに支えられて子どもは大人になっていき、なるべく恥ずかしくない行動、みっともなくない生き方をしていたのである。
 それが「何でもありのサブカルチャー」の洪水のなかで失われてしまったのである。かんたんにいえば個人重視の教育や無制限な自由を教えてきた学校の責任でもある。また学校の責任を問う前に家庭でも、しつけや常識を教えることを忘れてきてしまった結果でもあるのだ。名作古典や古典文学はサブカルチャーのように異常を煽るのではなく、悪や汚い世界を描きながらも人間の美しい部分や勇気を出さねばならないことをテーマにしている。なんとか読んでもらいたいと思うのだが・・・ムリな話なのだろうか。

E―2歳の読み聞かせーその3

言葉が増殖し始める

 二歳の後半になると多くの子が親はもちろん周囲の人々との対話がスムースになっていきます。生まれてから二年ちょっと。おどろくべき成長ですが、ふつうのことでもあります。いつも言うように、ここでは大脳の新皮質が活発になるので言葉に関する能力が高まり、さほど意図しなくてもどんどん本の内容を記憶してしまう傾向があらわれます。絵本一冊を暗記してしゃべる子もいますが、特別なことではなく天才ということでもありません。たしかに親を喜ばせますが、この時期の記憶はいつまでも持たないのです。たくさんの言葉、たくさんの話を聞いてきた4歳、5歳ではもう2歳の記憶は消えていて、本一冊を自然に暗記することなどできません。

期待は抑えて楽しく読み聞かせ

 早期教育論者は、2歳児の記憶力の高まりを宣伝に利用して「ほら、こういうふうにするとたくさん覚えるでしょ!」と言ってきますが、一時的な記憶にすぎないことは過ぎてみればわかることです。耳を通って入った言葉が大脳聴覚野へ入り、そのまま記憶されますが、そんな早期教育的な発想より言葉が想像を伴うようになることが重要です。どこが働いているか(海馬や扁桃体が関わっていると言われている)は、まだ不明ですが、その機能を高めるには子どもが安心感の持てる人の声が一番効果的だといわれています。つまり、安心の中で想像力が高まっていくわけですね。そういえば、「幼少期に安定した環境がなく、対話の乏しかった子どもは大人になっても相手に対して想像力を発揮できない」という話を聞きます。最近の「相手のことを考えない犯罪」は、そんな幼少期に原因があるのかもしれませんね。

バランスよく配分してあります

 さて、言葉を把握する力は進みますが、まだ展開の激しいストーリーを論理的に追う力は出てきません。同じようなことが繰り返されてオチになるスジ立てのものが、この時期の話として適切です。そういうものを配分して選書してありますので、順番に楽しんでいってください。また色彩や形に対する見方も鋭くなってきますので、色や形に関した絵本も入れてあります。性差もじょじょに出てきますので、配本体系の分岐点として、男女それぞれ工夫を凝らした選書を行っています。いわば想像力の出発点です。何度も繰り返して読んであげてください。想像力が、やがて創造力に変わっていくはずですから。

続・発達に応じるということ
3)選ぶことの意味

選べなくなってきている

 店売をしていると様々な本の選び方する人に出くわします。例えば二歳の子どもに本を選ばせる人、子どもが喜びそうなものを第一印象で選ぶ人・・・と、いろいろですが、若い母親の中には、こちらに話しかけてきて相談して選ぶという人はほとんどいなくなりました。コンビニの販売方法の定着かもしれませんが、無言で選んでカウンターに持ってきて支払う・・・ここには「自分が選んだものが一番」「子どもが喜びそう」という自己選択の満足だけがあり、自信のない親は子どもに選ばせて責任を回避(「だって子どもが選んだんだもん!」という意識)するという気持ちがあるのでしょう。
 たしかに適切なものを選ぶのはむずかしいのですが、選ぶ基準を失ってしまった時代には、選択はすべて個人の感覚にゆだねられてきたようです。
 ゆめやの店頭には子どもが一目で喜ぶような本は置いてありませんし、若い母親が「きゃーカワイイ!」というものも置いてありません。その意味では消費者のニーズに合わせた商売はしていないのです。

価値の基準も変わってきた

 時代時代によって、世の中の物の見方は変わってきます。もちろん我々もその見方に大きく影響されます。だから選び方も変わります。バブルのとき土地は最も価値のあるものでしたが、いまではそうではありません。それ以後、「何でも儲けるために売る」という市場優先社会になって、物が溢れてきて、あまりに物がありすぎるために「何がより良いものなのか」逆に探しづらくなってしまいました。売る側と買う側の対話もなくなってしまいました。何もかも何となく買って消費している感じです。さらにズバリと言えば、テレビ、雑誌、チラシなどの宣伝、広告に乗せられて「みんなが買っているようだから・・・」という漠然とした選択をしている人が多いのではないでしょうか。つまりは買わされているわけですが、この傾向に歯止めがかかりません。

 まず幼児に適切な物を選ぶ力はないです。快さやおもしろさで選んでしまうので、すぐ飽きてしまうし、内容が理解できないと、これまたすぐ嫌になってしまいます。おもちゃでも本で同じです。かんたんにいえば幼児の選び方は大人の衝動買いと同じで、自分に合った適切なものを選ぶということはありません。しかし、売り手は、この性質も利用してものをつくって販売します。「ぐりとぐら」と「ピカチュウ」を並べておけば多くの子どもは「ぴかちゅう」を手に取りますし、「からすのぱんやさん」と「あんぱんまん」を置けば「あんぱんまん」に目が行きます。「プリキュア絵本」「ゴセイジャーシリーズ」も同じ。手に取るように、目が行くようにつくられているのです。ですから、子どもに選ばせてはいけないわけですが、大人もまた何を基準に選択するのか分っていないことがあります。どうしたらなるべくベターなものを選ぶ基準をもてるのでしょうか。
 (つづく)【新聞・ニュース増ページ一部閲覧】



(2010年10月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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