ブッククラブニュース
平成22年7月号新聞一部閲覧

電車に乗って・・・

 六月下旬は高温多湿。頭がボーっとなるような中で仕事をしていると、なかなかこの新聞の記事も書けません。「やはり人間は周囲の環境や気候に影響される存在なんだなぁ・・・」と、齢を棚に上げて思います。年齢・・・若さ・・・子どもたちは元気ですものね。暑かろうが寒かろうが・・・。で、ニュース原稿が思いつかないので、思いつかないときは体験談で逃げる・・・今月はそうします。ローカルな話題ですみません。
 六月の終わり、埼玉の鴻巣に出かける用があり、新宿から湘南ラインに乗りました。午後一番だったので幸い座ることができて電車は池袋へ・・・すると、とんでもなく派手な恰好のギャルママが一歳くらいの赤ちゃんを抱いて乗ってきました。ヒール高15cmくらい、超ミニ、ヘソも見えるくらいで、長いカールの巻き毛が暑苦しい感じです・・・目のやり場に困りました。赤ちゃんは暑さで汗を出しながら寝ています。重そう! ママは肩に抱えたり、抱えなおしたり・・・座席には若い人たちが座っているのですが、誰も立とうとしません。みんな知ってか知らずかケータイを見ている。
 『チェ!しかたないなぁ。立つか・・・』と思った、その瞬間、隣の六十代後半のおじさんが立ち上がって、ギャルママの肩をたたき、「座っていいよ」と手を座席に示しました。ギャルママは表情も変えず、「ありがとう」も言わずに席に座ったのですが、まさか年配の人を立たせて私が座っているわけにはいきません。立って「どうぞ!」というと、おじさんは遠慮しましたが、二度目に「じゃあ、すみません。」と座りました。これをきっかけに、おじさんは私に話し始め、「ウォーキングで御崎海岸まで行った」「雨に降られてずぶ濡れになった」「若い頃は立川から甲府まで100km歩いた」などを話しました。私が甲府の住人だと言うと「甲府には100キロ以上歩く競歩大会がある高校があったね」などとよく知っていて、かなり話が弾みました。おかげで退屈せずに電車は川口を過ぎ、浦和を過ぎ、大宮へ。大宮でまた車内は込み始め、上尾に来ると、おじさんは「どうも楽しかったです。」と言って降りていきました。

昔と同じではマズイの?

 ところが降りるときに、あのギャルママは挨拶ひとつしません。赤ちゃんのいる母親に席を譲るのは当たり前なのかもしれませんが・・・なんだかなぁ!という態度でした。で、私はギャルママの隣の席に再び座り、いろいろ考えました。最近の世の中の傾向・・・働きかけても以前のような礼儀で応答しない・・・これは善意で行われたことでも悪意で行われたことでも人があまり反応しなくなっているということなのではないでしょうか。どんどん鈍感になっていくプロセス。先日の広島マツダ工場での秋葉原再現に人はもう怒らなくなっています。さまざまな善意で行われたことなど当然、当然、あたりまえ、で過ぎていくことでしょう。善意でしてもらったことも感謝しない。悪意で行われたことも怒らない傾向が生まれてきているように思うのです。凶悪事件を犯した人でも以前では考えられなかった優しさで擁護されます。それを見ている人も怒らないのです。つまり、とにかく反応しなくなっている。そして、「何でもありなんじゃない?」ということになっているのかもしれません。
 ちょっと関係ない話かもしれませんが根っこは同じなので聞いてください。私が今年のニュースで一番ビックリしたのはキャバクラ嬢が労組を作ったというニュースです。作った理由は「搾取されたり、乱暴に扱われる」のでユニオンを結成して身を守る、権利を守る・・・というものでした。私のような古い人間は「キャバクラ」勤め自体が問題な話で、そういう世界では搾取、理不尽な扱いは当たり前なのです。まっとうな商売じゃないのですからね。理不尽だと思ったら辞めればいいわけです。ふつうの仕事よりはるかに高給が取れるから耐え忍んでいる女性は多いですし、客が触ったから扱いが良い店ではないというのは、私の常識ではそのほうが理不尽なような気がします。ところが、彼女たちはまっとうな仕事と思っているらしく労組結成。それはそれでいいのですが、誰も何もコメントしない。ニュースには取り上げるけれど、誰も何も言わない。だから、キャバクラ嬢たちは学習しない。平気で派手な恰好で町をデモ行進する恥ずかしさです。
 こういう形で、今までのモラル、礼儀などの形式は壊れて行き、行き着いた先で大混乱が起き、ニッチもサッチもいかなくなって、またどこかで新しいルールが生まれるのでしょうねぇ。それがいつなのか私にはわかりませんが、新しいものが出来る前には、良かれ悪しかれ、古いものは壊れるのかもしれません。新しいルールやモラルが確立するまでは住みにくい世の中になりますが、何で今までの常識や礼儀ではダメなんでしょうかね。席は譲ったほうがいいです。「赤ちゃんを連れた人や老人は大切に」が「昔からの常識」。それのどこがいけないのでしょうね。

でんしゃをおりて

 で、私は鴻巣で降りましたが、ギャルママはまだ先に乗っていきました。子どもを抱えて、それでもケータイ画面にじっと目をやり、そのままです。言葉を交わさないで暮らせるコンビニ世代、生きる技術はすべてケータイからしか得られないケータイ世代と割り切るのはかんたんですが、私は彼女の膝で無心に眠っている子どものことを考えてしまいました。あの子が大きくなる頃に日本はどうなるだろうか?と。そして、おそらく、まだ、混乱しているだろう!とも。そりゃそうです。挨拶も礼儀もない親から挨拶ができ、礼儀正しい子が育つわけはありません。混乱はますます極まるでしょう。
 でも、私は思います。何はともあれ、いくら電車が込むからといって赤ちゃんを抱いた女性が池袋から高崎まで?子どもを抱いて立ったら大変。そんなことを黙って見ている人間にはなりたくないじゃありませんか。「世間は冷たい!」で、また少子化も進みます。ここは、やはり礼儀として、世の中のモラルとして席を譲る・・・おじさんの席譲りは正解だったと思います。

正しい夏休みの過ごし方

 小2の配本『正しい暮らし方読本』の中に「正しい山ののぼり方」というのがあり、「正しい登り方、正しくない登り方を判断するのはむずかしいことなので、登っている人を観察して、どの人が正しいか正しくないか各自判断してみてください」とある。で、いろいろな山登りの人たちが描かれる。「何も考えずにひたすら登る」「一歩一歩踏みしめて苦労して登る」「登る尊さを感じて山登りの価値を知る」「帰ったら山登りについて感想文を書きましょう」・・・など、さまざまな登り方がある中で、何が正しいか、正しくないかを判別するのがむずかしい。現代は、トレンドが優先して価値を決める。流行っているものが価値の筆頭というのも味気ない話だが、物を考えなくなっている人々にとっては、これくらいが適切な価値基準かもしれない。で、けっきょく、多くは流行りに流れる。そうなると、みんなと同じことをすることになりやすい。そうすると当然、流行も低きに流れる・・・・。しかし、日本人というのは、何で同じようなことを徒党を組んでやる民族なのだろう。

やはり移動することが主流かな

 そこで、ひとつ「正しい夏休みの過ごし方」を考えてみよう。テレビニュースを見ていると海外旅行から田舎の実家訪問まで交通機関の混雑度を交えて報道される。当然、夏休みの主流は「移動」だ。家族でどこかに行く。これは夏休みのイベントとしては伝統的なものだ。もちろん行き先と過ごし方が問題となる。だが、これも年齢に応じてということになるだろう。2歳や3歳の子のために外国旅行を企画する人はいない。中学生を連れて家族でテーマパークというのも子どもじみた話だ。休暇期間と金の掛け方によっても行く先や楽しむ内容は変わってくるが、「正しさの最大公約数は?」というと、どうもこういうものになるような気がする。@自然に触れる、A自分の家以外のところに泊まる Bふだん見ないものを見たり、聞いたりする・・・つまり「非日常」を体験することなのではないだろうか。これは、家族の物語を作ることができるおもしろい体験にもなるはずだ。子どもにとって「非日常」を体験すること、「異界(想像での)」を体験することは、とても大切だと思う。テーマパークも一回目は「非日常」「異界」だけれども、何といってもお客さんサービスの非日常と異界では二度も体験すれば飽きてしまう。飽きないとしたら頭が幼稚だとしかいえない。仕掛けられたものに満足するだけの頭ということである。これでは受身のサービスだけを求める人間になってしまう可能性もある。テーマパークも富士山と同じで「登らぬバカ、二度登るバカ」・・・「行かぬバカ、二度行くバカ」ということになるかもしれない。子どもはテーマパークが好きなように見えるが、ほんとうは、そんなところより、見たことも触ったこともないワクワクするような自然が好きなのだ。

町を離れると田舎がある

 やはり、ここは自然体験が一番いいだろう。何も親が遊び方を教えなくても放っておけば子どもは自然に遊べるものだ。実家が田舎にある人は田舎に行く。ない人は、キャンプでも民宿でもいいから海でも山でも行って過ごす。おじいちゃん、おばあちゃんとワイワイやりながら泊まるのもいいし、泳ぎ三昧、ハイキング三昧でもいい。「これをしなくてはいけない」などということはない。「これを達成せよ!」などの目標があるボーイスカウトや軍隊の訓練ではないのだから、遊びで自然に接するだけでじゅうぶんだ。親も、そういう子どもを横目で見ながら息抜きができればいいではないか。
 最近、一番いけないのは最初から最後まで大人がセッティングしたものを子どもにやらせること。準備万端、何から何まで。道具から計画から保険までの夏休みイベント・・・これでは、子どもは非日常も異界も感じ取れない。何かを達成することなど考えなくてもいい。近くの山や川でセミ取ったり、魚すくったりするだけでも十分、非日常、異界体験はできる。相互比較で夏休みの過ごし方を決めるのではなく、親として、ふだん、やれないことを子どもが経験できる時間を与えれば、それが、おそらく「正しい夏休みの過ごし方」になるだろう。

(2010年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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