ブッククラブニュース
平成22年6月号新聞一部閲覧

言葉が死に始めたかも・・・

 言葉というものは人と人の間で使う互いに理解するための手段です。「眠いので寝ます。」というと、眠気が表され、それを受けた人は「では寝てください。」ということになるでしょう。ところが、言った本人が寝なかったとすると、「何でそんなことを言ったのだ?」ということになり、「言葉と行為が矛盾している!」と思われてしまいます。「結婚しましょう!」と言ったにもかかわらず、結婚しなければ、これも言行不一致と取られて信頼を失うのが人間の社会です。詐欺罪にもなる・・・。ふつう人間の社会は、言ったことを行動で示して信頼を得ることで成り立っている社会だと思います。言葉とは裏腹の裏切りやウソが横行していたら、誰も相手を信じなくなり、世の中は混乱していきます。まずは言ったことは守る。約束したら実行する・・・・こういうことをやっていかないと大変なことになってしまいます。
 もちろん約束したのになんらかの支障が出て、言ったことが実行できないこともあります。ここで信頼を維持するためには約束の実行に努力していることを見せないと同情も信用も得られません。

言ったことに責任を持たないと

 1999年のフレンドシップニュースでケータイ依存の話を書いたことがあります。そこで、「私は意志が弱いので依存になるようなケータイは持たない!」と言ってしまいました。このため、いまだケータイを持てません。「おまえは平気でウソを言ったのか!」と言われるのがいやだからです。状況が変わったのだから持ってもしかたがないともいえますが、ご都合主義では信用が落ちてしまいます。だから、言ったこと、書いたことにはそれを守ること、責任を持つことを伴わせて、ケータイは今後も持ちません。状況に応じてコロコロ前言をひるがえし、自己弁護し、言葉を捻じ曲げ、語呂合わせをしていたら、信頼は得られるものではないでしょう。以前(福田首相が政権を放り出したとき)も、「安心安全の政策を実行します!」の言葉の二週間後に辞任で、言葉はむなしさが突出しました。ここ数十年の政治を見ていると、言葉には責任がともなうものであることが理解されていないのかもしれません。

ふつうの人の社会では・・・

 ふつうの人の社会では、言葉は相互の信頼関係を生む重要なものです。言ったことに責任を持たないと関係が崩れてしまうからです。テレビでお笑い芸人が何を約束しようと決断しようと、その言葉を信用する人などいません。それは女優が結婚式で永遠の愛の言葉を誓っても「ああ、あれは来年には離婚してるな」と思うようなものです。予選落ちなのに妙に前向きなことばかり言うゴルファーとか、公然と「金メダルを取ります」と傲慢にも言って、取れなくてもイケシャアシャアとしている選手たち・・・・これは、われわれ一般人の世界では「異常な表現」でしかありません。つまり、言葉が人気を上げる手段でしかない芸能界や結果とは無関係に大言壮語を吐いて自分の気分を高揚させるスポーツ界とは根本的に言葉の使用法も違うわけです。ふつうの人の社会では、言ったことはしなければならなし、できれば黙って成し遂げることのほうが評価されます。言葉をパフォーマンスの道具にしてしまうことは、いいかげんな人間とおもわれてもしかたのない行為だと思います。

タダの人以下だった?

 さてさて、何と今日(6月2日)、また、首相が変わってしまいました。「子ども手当てをくれたから、ま、いいっか!」という問題ではないと思いますが、平気で無責任なことを言って、投げ出す・・・続いていますね。このところ、ずうーっと。抵抗勢力を蹴散らすと大騒ぎした首相は言っただけで結果の責任を取らずに引退し、美しい日本をと叫んだ首相は、困ると精神を病んでしまい、安心安全の政策を実行するといった次の首相は唇が乾かないうちに政権投げ出し、マンガのレベルで軽口を叩いていたお調子者の首相もアッサリとやめました。体制が変わっても人の質は変わらないようで・・・・また、鳩は失速して墜落です。四年間で5人首相が変わる国は不安定な国と思われてもしようがありませんよね。
 でも、私は、鳩山さんはほんとうは賢くて、すべて仕組んでいて、期日を切り、5月に基地を国外に持っていくサプライズを用意していると思っていましたよ。あれだけ、キッパリと「言葉」を発したのですから・・・ね。あるいはね、アメリカ領内に持っていかれなくても国民的な反基地運動を起こして、それでも「アメリカが言うことを聞いてくれません。努力はしたのですが、私の計画は実現しませんでした。責任取ります」と言うくらいのことをすると思っていました。それが、言葉を変えて逃げまくり。あげくのはてには語呂合わせ、言葉あわせです。まさに「詭弁」でしかないのですが・・・、このほうが私にはサプライズで、またまた歴代首相に倣って彼も言葉を大事にしない人間でした。
 こうも、大人が言葉を大切にしないと、これから言葉を学習していく子どもたちに大きな影響が出てくるでしょうね。イジメの言葉を投げておいて問題になると「ゲーム感覚でした」とか約束を破っても「そんなこと相手が気にしていないと思った」と言い逃れるようになるかもしれません。

言葉はただ言うだけのもの

 ピアスの書いた「悪魔の辞典」には「語呂合わせ」や「言葉あわせ」の解説として「賢い人なら恥ずかしくて身をかがめ、愚かな人なら元気づく機知の一種」とあります。さすがに皮肉屋のピアスらしい見方ですが、じつはこの皮肉はよく当たっていて的を射ています。たしかにその通り。政治家たちは活気付いていますよね。それに対して国民は・・・こんな人が一国の首相なんて恥ずかしいと思っています。政治家ばかりではありません。行政の説明会に行っても決まりきったことを言うだけ。追求してもノラリクラリのお役人が多くて、この国は誰が責任を取るのだ!と思います。国民の多くはまだ健全ですが、一部では平気で言ったことをやらない人、無意味に言葉を発する人もいて、政界、芸能・スポーツ界、メディアの無責任な言葉の乱発の影響は大きいです。もちろん、この代表はお役人と政治家・・・高い給料ばかり取って、責任を取らない。この国では言葉は死にはじめているのかもしれません。

Zappingの時代

 最近、私の周辺での話題は「i Pad」だ。みんな「本が売れなくなるのではないか!」「子どもたちが、あんな画面で文を読むようになったら大変だ!」などと口々に心配してくれる。
でも、私はそんなに気にしていない。「以前、電子ブックが普及しなかった。だから今回のiPadも同じ」と思っているわけでもない。おそらく「iPad」は流行るだろう。学校も先行きの影響など考えないからどんどん導入するだろう。DSだって英語のお勉強という大義名分で導入しているところも増えてきた・・・。
 とにかく、この時代は「売らんかな」の市場原理の時代だ。最後は人間をダメにするものでさえ何でも売れれば売る時代・・・・考えもなしに買う消費者もたくさんいる時代。宣伝ひとつでどうにでも売れる。中身も読まずに、村上春樹の「1Q84」が一週間で百万部売れたわけですよ。ほんとうに売れたかどうかは分らないけれど、とにかくそういう宣伝に乗って買わされた人も多いわけで、iPadも前宣伝が大きいから徹夜で行列・・・メディアがそれを報道するから、またワンサカ買う奴が出てくる。「必要だから」とか「それを使って何かする」という買い方ではないわけだ。未来のことを考えて・・・・子どものことを考えて・・・なんて発想はまずない。今現在、売れればいい、儲かればいい、話題になればいい、まったく刹那的な生き方の時代になったものです。

読書のためのi Padではない

 メディアでは「i Padが書籍内容をダウンロードして読めるもの」「著作権が問題!」などと騒ぎ立てるが、それ自体がi Padの宣伝をしてやっているようなもので、セコいファンタジーの「ハリーポッター」がそういうメディアに載ってベストセラーになり映画の興行成績を上げたのと同じ仕組みだ。
 そういう中でiPadはどんどん売れると思う。値段だって安いコンピューター並みのものだ。ただ、私は「読書とは関係なく普及する」と思っている。「iPad」は、かんたんに言えばコンピューターだ。書籍をdownlordするだけの機械ではなく、さまざまなことに使えるものである。現在、コンピューターが持っている機能は全部できるだろうし、コンピューター以上にディスプレイに数え切れないアプリケーションが使えるアイコンが並ぶだろう。つまり、なんでもできるツールである。多機能、多様な使用法が可能になる。据え置きのコンピューターよりお手軽に持ち歩けるツールになるはずだから普及するだろう。
 で・・・どういうことになるかというと、「なんでもできるということは何にもできないのと同じ」ことになる。どうしてか。たとえば多機能ケータイが千種類の機能を持っていても使う側の人間が百種類くらいしか活用できないのである。機能が増えれば増えるほど、多くの機能は無意味化するわけだ。いまPCは進化したが、果たしてどれだけの人が100%使いこなしているか。まず、10%も使いこなしていれば、御の字だろう。たいていの人が、「へぇ−こんな機能があったの?十年使ったけれど知らなかった!」ということは多い。

ザッピング ZAPPING

 さて多機能になると、人間の側がする行動はZappingである。ZappingというのはTVを見るときの用語で、リモコンでクルクルといろいろな番組を探して、チョコチョコと見る行為だ。初めから一貫して観るのではなく、とにかくチャンネルを変えて他の番組を渡りあるく視聴である。落ち着かないことおびただしいが、これが習慣になっている人も多い。とにかくデジタル化される前でもチャンネルは山ほどあるから大変である。これと同じことがインターネットの検索でも起きている。次から次へ・・・まるで義経の跳び方と同じで、ここと思えばまたあちらというめまぐるしい。ケータイも触っていないといられないという習癖を持つ依存者がいるが、それもやはりひっきりなしに何かの機能を見続けているのだろう。ここでは、集中も持続も一貫性も何もない。
 いわば徒然なるままにひぐらし機能を訪問して終わるという、目的も実行も何もない精神病のような習慣である。つまり、じっくりと初めから終わりまで、調べたり読んだり鑑賞したりすることができない癖がつく。この習慣が一見何でも知っているかのような錯覚をもたらすが、翌日には忘れていることが起き、一週間後には記憶にも残っていない。

やがて、長文を読み取る力が失せる

 「iPad」でも、このZappingが多機能だからこそ起こる。この特徴は、物事を丁寧にじっくりと見ていく力を失わせることだ。見たり、聞いたりする持続力がなくなるのである。学級崩壊の多動児たちを見てごらん。小さいときからサブカルチャーに漬けられて、ここと思えばまたあちら。じっくりと体験する意味が分らないから、たった40分の授業を集中して持続することができないのである。あれと同じことがTVでも「i Pad」でもインターネットでも起こる。
 こんな使用者が高度な文学をdownlordして読むことはまず考えられない。だいいち、Twitterがもてはやされること自体が、現代人が長い文を読み取る力がなくなっている証拠でもあるのだ。こういう影響が現れれば、社会全体が多動人間によって崩壊することも起きるだろう。それは1月号で、「だいたいこの国の混乱は2025年がピーク」と書いたことと重なるかもしれない。
 さらに、現実問題として、こういう人間がちゃんとした文学をダウンロードして読むだろうか。おおくはケータイ小説や軽い読書で、たいていは情報検索・・・ケータイより見やすく大型で、コンピューターより手軽に持ち運べる情報端末ということで使われるはずだ。だいいち、きちんとした文学を読みたい人間が、あんな液晶画面で満足するわけもなく、多くはものめずらしさ、新し物好きという形で、「文学もダウンロードできる」多機能なツールとしていじられるだけである。現在だって、ただでさえ文学は読まれないのだ。1冊千円以下の文庫で用が足りるのに、高いお金を払ってダウンロードまでして高度な文学を読む奇特な人はわずかしかいないだろう。

科学の発達はヤバいものがある

 けっきょく、この発明も他の電子機器と同じく、人間をダメにすることに拍車をかけ、子どもの想像力を壊し、創造性を希薄にしていくだけの代物になっていく。まあ、導入する学校や行政はそうはいわないだろう。ファミコンが流行ったときでも、「子どもたちは、こういう遊びから始めて、やがて高度なプログラミングができるようになる」と言った校長先生さえいる。・・・そういう期待論や楽観論の中で、いつのまにか生活野中に入り込んで感染爆発していくのが電子機器である。多くの人間は、宣伝に騙くらかされ、「持っていないと遅れていると思われるから」という恐怖感と「和をもって貴しとなす」という妥協から普及に手を貸す。
 原爆が発明(1944年)されて以来、科学者が世に送りだしたもので人を危うくしないものはほとんどなかったと言っていい。とにかく、この時代・・・あらゆる分野で、マッド・サイエンスが人を滅ぼす可能性は大きくなっている。

(2010年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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