ブッククラブニュース
平成22年5月号新聞一部閲覧 追加分

続・発達に応じるということ1)

おもちゃについて@

 これまで「おもちゃ」についてまったく触れてきませんでした。それは絵本の読み聞かせをする人々が、まちがっても変なおもちゃを子どもに与えて育てるとは思っていなかったから・・・。まさに、ブッククラブのニュースで「虐待」についてのコメントがないのと同じだったのです。絵本を与えて育てようとする家庭に虐待のことなど書く必要もない情報です。ですから、虐待はわれわれとは遠いところにいる見知らぬ人たちの間で起こる事件で、そんなことまで注意喚起するほどブッククラブの内部は崩れていないと思うからです。
 ただ、最近、時代の変化とともにいろいろ変わってきたこともあります。親自身がTVゲーム世代になり、子どもが出来てもテレビゲームをするという変則的な環境が子育てでも起きてくると、ちょっと意見を述べたくなる・・・。まあ、「また、ゆめやが個人的な見解を述べているな」と思ってくださってけっこうです。とにかく、おもちゃも昔とは大違いになっていて、やはり夢屋個人の考え方なのですが、言っておかなくてはいけない分野になってきたようです。ちょっとおもちゃについて述べてみましょう。

おもちゃを与えたくなる気持ち

 子どもが生まれれば、よろこぶ顔がみたい。おもちゃを与えてやりたいと思うのは、親の自然な気持ちなのかもしれません。しかし、店に行けば、とほうもない数のおもちゃが親を待ち構えています。何をどのように選べばいいのか。これはおもちゃばかりではなく本も同じですが、子どもは成長もします。大きくなれば、自分が欲しいものも出ます。「これを買って!」と売り場で大の字になる子もいるかもしれません。「買えない値段ではないし、静かになるなら」とついつい買い与えてしまう・・・これは「チョット待ったぁ!」ですね。
 こういうことから、まず、今回は買う側の分析をしてみましょう。

買う人々のパターンはどうなのか?

あなたはどのパターンですか。

@まず第一の買い手グループはスーパーのおもちゃ売り場や、郊外の大型ショッピングモールを利用する人たち。手軽で便利。つまり安・近・短ですね。これは町のおもちゃ屋が今、激減していることと無関係ではないでしょう。
A都会では、デパートおもちゃ売り場で買うことが多いようです。理由は「ちゃんとしたものが置いてありそうだから」という意識のグループ。「安全性のあるものが置いてあるのでは」、と期待されているようです。このグループの人たちには、キャラクター商品に懐疑的な人も多いです。しかし、子どもが欲しがれば、購入する柔軟な?考え方の人も多いです。
B次は、少人数ですが、こだわりの階層。ニキティキやボーネルンド、などヨーロッパ製のものしか買わない。木のおもちゃや知育玩具など比較的高価なものがいろいろな点ですぐれているという意識です。
Cまったくおもちゃを買わないで、他の物を代用しておもちゃとして使う階層。ダンボールや牛乳パック、新聞紙や発泡スチロールの箱を子どもに与えておもちゃとして使用させる比率が高い階層です。

おもちゃとは何か

 興味深いのは、買い手の階層によって、「おもちゃ」という概念からイメージするものがまったく違うようです。 @の階層は、例えば○○レンジャーの剣や、ロボットなどをおもちゃと考えていることが多く、次のAのグループはレゴやプラレールなど。Bは積み木や木製のパズルなどをおもちゃととらえています。Cは、想像力と創作力を重視しているので、子どもが作るもの、すべてが「おもちゃ」と考えます。
 さて、上記の購買状況から、自分がどの階層に位置しているのかが、これでわかったと思います。次回から、それを踏まえて少し「おもちゃに」について書いていきます。じつは本の選書と、かなりリンクする部分があるので「乞うご期待?」です。

 ちなみにゆめやでは、来店客用に左の写真のようなものを置いてあります。多くは木製、紙製で木製のおもちゃのなかには十数年も子どもたちに愛されているものもありますし、紙製のものでは子どもは作る楽しさを味わっています。つまり、ゆめやはBあるいはCのグループに属する「買い手」なのだと思います。さらに私個人は自分の子どもたちには原則Cを行いました。おもちゃは子どもの生活の重要な部分を占めるものだと思いますが、やはり現代は多様でピンキリまであるので、選ぶ必要性はますます高くなっているのでしょうね。
 現代ではおもちゃが、用途を限定されているものが多いのです。つまり、それだけにしか使えないというものです。ところが子どもは常にあるものを「それ以外で使う」存在です。例えば3歳児にトランプを与えてもトランプとして使えません。では、どうするかというと、崩したり、積んだり、おせんべいやクッキーに見立ててごっこ遊びをしたり、それはもういろいろなものに変えていきます。大人は、トランプはゲームのための道具ですが、子どもにとっては何にでもなるものなのですね。この能力は、小さいうちに高めておかないと後からでは高められないことが多いのです。

@―1歳前後の読み聞かせ―

 さて、今年度も年齢別の読み聞かせの内容と技法をおおまかに解説していきます。
 絵本の読み聞かせが可能になるのは、標準的に見ると生後十か月くらいからです。早い子でも九か月。それ以前は平面にプリントされた事がらを目で認識するより、具体的な物体を触覚で認識することが主となっています。なめたり触ったり、あるいは投げたり壊したり、こういうことで自分にとって危険かそうでないか、食べられるものかそうではないものなのかを区別する力を養っています。この作業は徹底的にさせる必要があります。人間というものは、時期に応じてすべきことをさせておかないといつまでもその前にやるべきはずのことをやりたがるものなのです。
 初めて本を与えたお母さんから「本をなめたり、破ったりして困る!」という話をよく聞きますが、それは十分に物を触れさせなかったことから来ることが多いようです。十か月くらいでは、まだ視覚認識は始まったばかりで触覚認識が残っていますからなめたり、破ったり、パラパラめくったりするのは当然やるでしょう。
 問題は、このときの対処です。本はチラシのような紙ではありませんから、やはり大切にすることも教えなければなりません。放って置けばおもしろがってどんどん破ることを楽しんでしまいます。ここは、いくらかわいい赤ちゃんでもきちんと叱る必要があります。その場でテープを貼って修繕し、何度かやったら手をピシャリとたたくくらいはしたいものです。体罰、虐待ですって!とんでもない。口で論理的にやさしく諭してわかる相手ではないのです。
 認識絵本でネコとイヌの区別、スイカとモモの区別を教えようというのに、紙と本の区別がつかなかったら大変です。何も教えることができません。やさしく諭していいこととそうでないことも教える必要があるでしょう。そんなことがトラウマになって精神的におかしい人間にはなりません。そうなるのは、物ごとの区別を教えられなかったわがまま勝手の子どもたちなのです。初めが肝心!きちんと叱りましょうね。
 物事の区別ができないことで、先天的な障害を持った人と同じような行為をする人が増えているといいます。人間は生まれつき完璧な人はいないはずで、どこかに自閉症的な、またアスペルガー的な、さらには感情がコントロールできない部分を持っています。それを野放しにするのがしつけも何もしない自由にする育児で、これは最後には悲惨な結果をもたらすことが多いのです。認識とは物事の区別です。物事の区別をすることで社会性が育ちます。まわりを見て御覧なさい。昔とちがって、勝手気ままな子どもが増えていませんか。しつけがされていないからです。認識絵本は、まず区別の第一歩・・・しつけも一緒にしていきましょうよ。ブッククラブ配本では、さいしょは、上に挙げたような認識絵本が入ります。落ち着いた空間で、ゆっくりと読んで、そこから思いつく話を広げていってください。文はほとんどないので、読み聞かせる側の言葉で読み聞かせの効果が出てきますよ。

子どもは本がすきか?!
@環境がつくる子どもの読書

子どもは持って行き方では本が好きになる

 この三十年、子どもの本の仕事をしてきて経験的にだけれども感じたことは、「子どもで本嫌いの子はいない」ということである。もし、本が嫌いで、聞くことも読むこともまったくしないという子がいるとするなら、その子は生まれたときから、そう仕向けられた環境で生きてきたとしか言いようがない。
 先天的に「本嫌い」の子がいるかどうかは、研究も調査もしたことがないのでわからないが、知的障害や情緒障害を持つ子どもでも与えればそれなりに本が定着していく結果を見ると、「本を読むことを楽しむ因子」が「人間の遺伝子のなかに組み込まれているのではないか」と思うことさえある。
 BCには、軽重合わせてダウン症など障害を持ったお子さんが数名いるが、たしかに健常児の発達に合わせてある一定の配本することはむずかしい。発達対応の研究例がないので手探り配本だが、与えて読み聞かせした子とそうでない子の違いは歴然としている。
 このように考えると、本を読まない親の子は、いくら読み聞かせをしても真の意味で本を読まなくなるし、幼児期からゴチャマンとくだらないおもちゃやTVゲーム、キャラクター本に囲まれていれば真の読書への方向は閉ざされてしまうだろう。

文学には毒があるという人々もいる

 もっとも、ある人々に言わせると「本など読まなくても実生活には支障ないし、学校の国語の力と読書は関連がないので読書など重要ではない」ということにもなる。事実、老人の中には「文学に走る子は素直ではないところが出るので、うちの孫には文学書を読ませない!」と公言した人もいた。世の中にはいろいろ見解もあり、なるほど彼らの意見の一部は的を射ていないこともない。私の意見も「個人差がある」もので、当然、絶対的な見解ではない。たしかに読書力と学校の成績は無関係であることは事実だ。たくさんの本を読んだからといって国語の成績が上昇することはないのである。また、高度な文学を読めば読むほど否応なく批判力がついてくるから、一般的な意味で言う「素直」になることはないだろう。この意味では、批判的な子は扱いにくいので学校側としては真の意味で読書を推進する気にはならないのかもしれない。まあ、文学は楽しみ程度でということで・・・ということか。

絵本や児童書の・・・そのまた向こう

 さて、このへんのところが入り交じると、子どもに本を与えて、真の読書に向かわせるのに疑問も出てくるが、人間として成長するという点から見ると今のところ「正当な段階を踏んだ読書」しか手段がないというのも、これまた事実である。逆に言えば、学校の国語の成績が良かった作家、文学者が少ないように、成績こそ大人になってあまり役に立たないものであり、素直な人間になることによって最終的には「管理されてしまう人生」を送る問題もある。
 すでに「学歴」や「素直さ」が評価を受ける時代ではないことも、われわれは十分に感じているが、多くの親は自分が生きてきた過去の価値=過去の幻想で、子どもに接しているばあいが多い。「こうすればこうなる」という図式は崩れたのだが・・・・。さらにバカな親は「自分の子はもっとわかる」という幻想にとらわれ、いずれ本嫌いになる準備を推し進める。幼児期の本は子どもにとっても親にとっても楽しくかわいらしいものだが、その向こうにはむずかしい問題が山積みなのである。いかにして、子どもがいつまでも楽しく遊び、楽しく本と接し、いつか自分一人の力でその楽しみを独占できるか。その環境づくりこそ子育てに与えられた試練のような気もするのだが・・・・・・・。



(2010年5月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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