ブッククラブニュース
平成22年3月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
G 自然に、自然に・・・無理をしないで・・・

● 情報洪水をどうするか!●

 とにかく、これだけ膨大な情報にさらされていると、そのなかから適切なものを選択して参考にしたり、実践していくことはむずかしい。子育てばかりでなく、あらゆる生活技術の情報が山のように入ってきて、取り込むことが不可能になっています。そうなれば、目を通すならいいほうで、入ってきても捨てるよりない人のほうが多いことでしょう。知識とか情報というものは本質的にそういうもので、忙しい親は、もうそういうことなどしないで、外部に依存してしまっています。つまり昔は情報に振り回されていたのに、現在は振り回されるどころか情報を無視せざるを得ない状態になっているわけです。多すぎる問題です。  子育て情報も他の情報と同じで多ければ多いほどうまく処理できない。これは知識と同じで、いくら知識があっても「実際に使わなければ無意味なもの」ということです。以前、「情報を制するものが世界を制す」とか言われて、情報管理がすべてという考え方がありましたが、こんなに多くては世界どころか一つの人生も制すことはできないでしょう。子育て関連の本は読めば読むほど混乱しますし、不安になりますから、私は子育て関連の本を皆さんにお勧めしていません。  やはり、動物の子育てはあまりいろいろ考えずに自然にやったほうがいいのだと思います。ただ最近は、この自然にやる方法自体がわからない人も増えていますし、こういうことは学校では教えてくれません。おそらく、人間の子育ての基本は家庭が伝達しているもので、自然なあり方なのですが、どうもそれもおぼつかいところが出てきています。

●悪戦苦闘と試行錯誤が親をつくる●

 もちろん、人間ですから、ただたんに生きる知恵を教えるだけではなく「社会的動物として育てること」が子育ての中に含まれているでしょう。幼いときに家族とゆったりとした時間を過ごし、濃密な接触ができる子は大きくなって問題を起こす確率は低いと言われています。だから、これが人間の子育ての「自然」です。そういう子育てが「安定した心」を子どもの中につくるとも言われてきました。ふつう親なら、自然に絵本の読み聞かせをしたり、いっしょに遊んだりすることで、こういう「成長のための基盤」をつくっているものです。しかし、頭ではわかっていても、実際に親になって子どもを育てる段になると、悪戦苦闘、試行錯誤の連続になります。おそらく、みなさんも思うことを実行してもなかなか子どもがその通りにはいかないことをたくさん経験していることでしょう。カッっとなったことも、イライラしたこともあるでしょう。  私も偉そうなことを言っていますが、悪戦苦闘、試行錯誤の連続、失敗もたくさんありました。しかし、そういう中で人は親になるわけで、もし、そういうことを他に委ねたら親にもなれず、人間としても育たないで終ってしまうかもしれませんね。子どもは親を真似て育つことが多いです。親が汚い言葉を使えば、子どもの言葉も汚くなりますし、本を読まない親の子は、けっきょくは本を読まなくなります。たしかに、悪戦苦闘の最中はつらいものがありますが、子どもが大きくなって、ふつうの安定した人間に成長していれば、その成果はキチンと出ます。もちろん、これも自然な親と子のあり方です。

●では・・・・●

 内閣府の子育て支援策を見ていますと、「子どもは社会が育てる」という言葉が頻繁に出ていて、「親が育てる」という言葉が見当たりません。子どもは抽象的な組織や制度が育てるのではなく、誰かが責任を持って育てるものだと思いますが、なぜなんでしょう。まあ、国はただただ労働力がほしいのでしょうが・・・成長過程で何か問題が生じたとき、その抽象的な「社会」なるものは責任を取ってくれるのでしょうか。子育て支援制度や組織は責任を取ってくれるのでしょうか。そんなことはありませんよね。何かあれば「親の育て方が悪いからだ!」と言われるのがふつうのことです。まあ、最近の事件を起こした若者の親のように責任を平気で回避することもできますが・・・ふつうは親の責任です。  不況以後、親は忙しくなっていて、情報どころか家庭や子どもや、その周辺に目を配ったり、細かいサポートをしたりすることができなくなっています。この傾向はゆめやでも感じられます。何ヶ月も配本を取りに来られないで、一括して持っていく人・・・そうなれば読み聞かせも一括で大量。回数も少ないものになります。すべてがスケジュール刻みで忙しいうちはまだいいでしょうが、そのスケジュール自体が崩れた生活になっていくことも考えられます。時間という怪物と無関係にいられるのは子どもの心ですが、いま、それもむずかしくなっているようです。しかし、これは不自然なことです。自然に、自然に、無理をしないでやっていく子育てと家庭生活はできないものでしょうか。

サブカルチャーとどう向き合うか
最終回Gサブカル人間とは

気がついていないのは恐ろしいこと

 前回「サブカルチャーに多くの影響を受けて精神病まで行かなくても常識崩壊、モラルハザードの大人になる可能性は大きい。だから、浸さないこと、漬けないこと・・・」と、述べた。しかし、これは個人差があってすべてがそうなるとはかぎらないところに大きな問題がある。たとえば二歳児に「興味がありそうだから」といって自動車関連の本を与えても、朝から晩まで自動車のことしか考えていない子も出れば、まったくのめり込まない子も出る。個人差が大きいのだ。   この差はおそらく遺伝子レベルの違いであって、この影響を受けやすい体質の人には過激な状態にならないような生活環境で対処するしかないだろう。これは、長年タバコをお尻からヤニが出るほど吸っても肺ガンにならない人もいれば、人が吸っているタバコの煙を吸引しただけで肺ガンになってしまう人がいるのと同じことだ。一杯のビールで酔ってしまう人もいれば一升瓶の酒を飲んでも酔わない人がいるのと同じである。

世間一般では害の認識が薄い

 「個人差があるから問題にする必要もない」という意見もあるだろうが、やはり危険なものは排除したほうがいい。二歳児を自動車図鑑漬けにすれば、物語り絵本へ行く確率は小さくなり、結果的に想像力を高めることができにくくなる。酒やタバコもサブカルも同じだ。これまで何度も述べたことだが、この危険性について多くの人は認識が足りない。サブカルで引き起こされた事件や社会現象がサブカルチャーと因果関係で結び付けられないから、学校も国も否定的に見ていない。一般人は「国や学校が指摘しないものは安全だ」という意識が強いから、警戒感はまず持たないだろう。サブカルがコミックやアニメ、キャラクター、電子ゲーム、あるいはネットやケータイなど依存度の強いものだけだと思っている人がいるかもしれないが、本の中にもサブカル本は多いし、じつは一般書店店頭で平積みされているものの多くはサブカルチャーなのである。実際、学校図書館の蔵書の中でも、かなり問題の多いサブカル本が平気で置かれている事実があるが、司書も学校関係者も「本」という体裁のために中身のサブカル性を見抜けないことが多い。

サブカルに冒された人とは

 サブカルに冒されると、極端な場合は性格異常や精神異常、あるいは依存症などを起こす。オタクなどは社会的に認知された存在でもあるが、それも依存の一種で、小説「電車男」のように善意に囲まれてふつうの感覚を取り戻す話などフィクションの上のフィクション。実際にはありえないことだ。軽い症状では「趣味に熱中」ということも含まれる。そのくらいなら許せるものもあるが、自分で何かを妄信して頭がそれでいっぱいになって現実を無視する傾向が出ることは多いのだ。酒鬼薔薇事件で犯人の少年は「バモイドオキ神」のための実験ということを言っていたし、光市母子殺人では事件の始末を「どらエモンがなんとかしてくれると思った」と言っている。頭の程度の違いこそあれ極端なサブカル汚染があったとしか思えない言動である。  よく、現在の社会現象を見ていて、上は政治から下は下層階級の生活にいたるまで、まともなことが行われていないことに気がつかないだろうか。いわゆる責任感や真面目さなどからはほど遠いことがおきていて、それがふつうの状態なのである。どう考えても大人の言動、大人の行動とは思えないような起こっていて、これがまた異常なのだが、周囲がそれで満ちれば以上ではなくなる。同じことは、テレビのドラマ筋立てや流行の歌の歌詞でもおきていて、なんとなく精神病的。これもまた何となくサブカルチャーの影響を感じませんか?  実際、人気のテレビドラマの原作がマンガだということは多いのです。つまり、仮想の世界が現実へ入り込んできていて、それからの影響が生活を支配し始めている。  最近のふつうの若者中学生や高校生、さらには大学生の髪型をご存知でしょう。ほぼ、すべてがマンガやゲームの登場人物の髪型を写し取ったもので、子供服の中でさえ、ゲームのキャラが着るような服がコスプレ状態で存在する。  サブカルへの依存、執着は、結果的に「頭を大人にしない」という現象を伴う。十五歳でも幼児のようなことをしたり、三十歳になっても社会常識ではなくて自己中心的な発想で動いてしまう大人をつくる。その代表がモンスターペアレントや虐待をする親だ。オウム事件のいわゆる成績優秀な幹部たち(当時三十代)の頭もひじょうに幼稚なもので、教団内部で国家をつくるという「ままごと」じみたことをまじめにやっていたのだからあきれる。これで、成績などというものが頭の進歩とは何も関係がないことが分かるし、下手な成績優秀はサリンを製造したり、切れ味のよいナイフを購入したりする知識に使われるから怖い。どの親も子どもをサブカルに漬けてしまって、その結果に悩み、苦しむ親にはなりたくないだろう。上は事件から、中くらいは依存や虐待による生活破綻、ふつう一般のレベルでも離婚、離散などの原因の一端になっているからだ。まあ、何事も自己責任・・・どうなっても誰かが責任を取ってくれることはありません。避けるにこしたことはないのです。(おわり)

発達に応じるということH最終回

●年長のレベルでは関心を広げる●

 発達に応じて系統的な読み聞かせをしてきた(当然のことながらTVやアニメ、戦隊もの、キャラクターものを避けてきた)子どもにとって、5歳ぐらいになると、あらゆる分野の本(科学絵本や本格的な言葉遊び絵本)や高度な物語絵本が可能になります。また、いわゆる絵童話のような長い物語を聞くこともできるようになります。2〜3歳で特定の分野のものだけに関心を持ってしまった子どもは、これがなかなかできません。特定なものへののめり込みは、記憶力の増加と相まって、一見たくさんのことを知っているように見えます。でも、もし、そればかりをペラペラ口に出してばかりだと困ったことになります。この時期は表現言語(実際に説明的に話すことができる言葉)と理解言語(頭では分かっているがうまく表現できない言葉)の量が急速にちがってくるのです。もちろん、理解言語が大幅に増加するのですが、これは広範囲なものへの関心から生れるものです。多種多様のものへの好奇心と興味。もちろん、性差もはっきりしてきて、その点では男女で好奇心の傾向は分かれますが、物語絵本は、その対象のすべてを含んでいると言っても過言ではありません。この時期に高度な物語絵本が聞けるということは、その後の読書傾向を決定する大きな力になるでしょう。

● 自分・他人・周囲、協力・広い世界を見る ●

 発達の傾向は、前回4歳で述べたように社会性を形成していく時期です。だから、その社会性を高める延長線上の適切な選書が必要となります。自分の位置とか協力とか物の見方などがテーマとなる本が主流となります。配本では、この時期の成長特徴が生かされるものをたくさん取り入れて配分しています。  例えば「わたし」(福音館書店)は女の子に入るものですが、自分と周囲の関係をひじょうにおもしろい表現で確認する絵本です。物語絵本では「ろくべいまってろよ」(文研出版)などもさまざまな関係と協力の意味が盛り込まれた絵本として挙げることができます。もちろん、この伏線として4歳で「あな」が入っていますよね。「あな」を読んで、「ろくべい〜」を読めば理解はさらに深まります。  また、一時、絶版の憂目に遭った名作「ちびくろさんぼ」(瑞雲社)も、この時期の子どもが楽しめる内容を持った絵本で、再販されてから極力配本に加えるようにしています。この復刻はうれしいですね。また、言葉も広範囲に広がりますので、言葉遊びも楽しめます。谷川俊太郎の「ことばあそびうた」が有名ですが、最近の子どもは五味太郎の「絵本ことばあそび」(岩崎書店)のほうが反応が大きいようです。  さらに時期に適切なものとして生活習慣に関係したもの「がいこつさん」(文化出版局)などがありますが、やはり、かこさとし独特の言い回しが強烈な「むしばミュータンスのぼうけん」(童心社)は代表的な科学?絵本です。これで仕組み(歯痛の)もわかってくるでしょうし、逆説的結末が子どもの頭を多様にしてくれます。  この時期は、入れたい本が目白押しですが、価格設定の問題もあり、また大量に読み聞かせるだけが能ではないので、多くを網羅しません。でも、絵童話では古典的名作の「ももいろのきりん」(福音館書店)を多くの女の子には入れています。また荒唐無稽な話もこの時期にはひじょうに反応する傾向があるので男の子向けに「ある朝ジジジャンボウはおったまげた」(絵本館)なども入れます。また写実的な絵で恐竜を描いた「きょうりゅうたち」(文化出版局)も人気の高い絵本です。この時期なら恐竜オタクには、ならないでしょう。  5、6歳という時期は社会性が広がると言いましたが、良くも悪しくもの両面があり、園など周囲の影響を受けやすい時期でもあります。時として園や周囲は粗悪・劣悪なものの流行を容認して、それに参入しない子を「異質」として排除することさえします。ポケモンなどの流行や戦隊モノを流行らせている園さえあるのです。こういう波を受けていても、私としては、なるべく「より高度な思考が形作られるような環境を親としては与えてほしい」と思うのですが、「周囲との和は大事」「やはりレンジャーものやポケモンなどの長い物には巻かれたほうがいい」とお考えでしょうか? その結果、子どもの心がおかしくなっても誰も責任はとってくれないのですが・・・・。まあ、それはしかたがない。誰も信用できない・・・これは、この時代を生きるものの宿命なのかもしれません。(増ページ一部閲覧)



(2010年3月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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