ブッククラブニュース
平成21年11月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
E無理を通すと自然が引っ込む

ある教育熱心なおばあさんの話

 先日、一人のおばあさんが店にやってきました。「ころわん」シリーズの一冊を手にとって言うことには「テレビでやっていたのですが、子どもに絵本を200冊、次から次へと読んであげたらIQが200を越えて、スペイン語、英語、日本語と三ヶ国語を理解するようになったというのです。そればかりではなく大学へ飛び級で入って、博士号も取ったのです・・・(だから孫にも)・・・。」・・・「その200冊は、どんな絵本なんでしょうね。」と言うと、「この『ころわん』が映っていたから、何でもいいのではないでしょうか。」・・・そこで、私は「その子どもはもともと優れた親の遺伝子があって、何を与えてもどんどん吸収するタイプだったのかもしれませんよ。同じことをすれば誰でもそうなるというようなことはないですよ。」と言いました。・・・でも、私の意見などよりテレビを信じるおばあさんは絵本を買って帰っていきました。TV番組を才能教育に直結させるすごさを間近に見たわけですが、まだまだ日本の一般人のレベルはこんなものかもしれません。特別な例を一般的なもののように錯覚させる効果をテレビは持っていますから、それを信じきる恐ろしさがあるわけです。
 たしかに、親なら、あるいはジジババならなおさら、「わが子、わが孫が頭の良い人間に育ってほしい」と思うのは自然なことです。しかし、現実は、なかなかそうはいかない。テレビがおもしろおかしく取り上げ、無責任に放映するものを信じてしまうと大変なことにもなります。そうならなかったときに何か言えば「そんなものは信じるほうが悪い」という声が戻ってくるでしょう。騙される方の頭の悪さはともかく、極端な例を取り上げて煽るのはなんだか罪なことのように思えてきます。この典型的な例は「小泉劇場」でしたね。一般大衆がどっと騙されました。この結果も、誰も責任は取らず、騙されたほうが悪いという結果です。

二つの失敗例

 たしかに、そのテレビ番組へ登場した子の例は嘘はないと思います。ただ、私は二十年以上前に見たテレビと読んだ本のその後を考えると、「ふつうの人が子どもに無理強いをすると自然な成長が妨げられることになるのではないか」と感じました。
 例@・・・早期教育に走るママたちに対してNHK甲府が批判的に描いた番組でした。近くの早期教育を受けている幼女の取材番組でしたが、毎日大量のプリントを解く生活をしていて、五歳くらいでしたが微分の式も解けるのです。見ている方ではすごい話です。微分は高二で初めてやりましたからね。ディレクターが微分の記号を指して「これは何の記号なのかな?」と幼女に問いかけました。すると幼女は言ったのです。「おじさん。大人なのにこの記号が何かわからないの?」・・・この一言で、私は彼女が自然な成長をしていないことが分かりました。それから二十数年、その子が数学者になったという話も聞きません。同級生の子に聞きましたが、その子の話題はないらしく、ある意味、「消息不明」です。
 例A・・・テレビとは逆に出版社が早期教育の短絡的な成果を煽った本がありました。「竹下家の子育て日記」・・・岩崎書店出版の有名な本です。「竹下龍之介くん」の話といえば覚えている方もいるかもしれません。早期教育で育てた子育て本でした。彼は幼児にして「天才エリちゃん金魚を食べた」などの「小説(?)」を書き、将来を嘱望?されていました。予定では数年前に東大に入り、今頃は小説家か文学者になっているはずです。本にはそういうことが書いてありますが、いま、どうなっているのかはわかりません。ただ、いくら調べても、この名で小説を書いている様子はなく、少なくともインターネットにひっかかる立場にはないようです。ペンネームで書いていても分かるはずなのですが、該当者が芥川賞や直木賞を取った形跡はありません。

●なぜ、無理を通してはいけないか●

 これらの例は、かんたんに言うと「良いと思われることは何でもやってみよう」という発想が原点にあります。ところが二足のワラジと同じで、人間はそうそうすべてを達成できるわけではありません。ここで起きる問題は、・・・・
@子どもが周囲の期待に応えようとする自分をつくってしまう
A相手が求める答えを選ぶことばかりにスキルが行く
B自分の意思を表示したり、貫いたりできなくなる・・・
ということです。もっといえば、よく芸能の世界で天才的な子役が大人になったらただの人で、逆に不幸な境遇におかれることも多いということです。この結果は少し怖いものがありますね。やはり、ふつうの成長を遂げたほうは人生を楽しむ上でもベターなのではないでしょうか。
 こういう傾向は、お勉強ばかりではありません。スポーツなどのお稽古事でも起きる可能性は大きいのです。
 偏差値教育を受けてきた30歳代〜40歳代の方なら思い当たることがあるかもしれませんが、周りを気にして「自分の力でつかみ取ってきたものがない」という索漠感を感じてしまいます。もっと言うと、言われたからやった、そのほうが良い子に見られると思った、それでまあまあの生活ができている・・・ここらへんで納得していればいいのですが、人生に挫折や困難はつきもの、やはり自分の思考で、自分の力で切り開いてこないと生きる自信がつかないのです。オリジナルなものを内部に作れないと人間はなかなか「自分が育った」という実感が持てないのです。これを原因とする心の病はさまざまなところで出てきています。やはり、するべきときにするべきことを! してはならないときにはしないように!・・・が、ヒトの子育ての技術の一つかもしれません。無理を通せば道理が引っ込みます。道理とは自然の原理に反さないこと・・・・無理を通せば自然が引っ込むというわけですね。

発達に応じるということ
Fしゃべり言葉から文章語へ

2歳になると・・・

 2歳から3歳にかけては会話が自由にこなせるようになっていく時期ですが、絵本の読み聞かせのなかでも大きな変化が起きるときです。この変化は画期的なもので、ひょっとすると言語獲得上いちばん大きな発達かもしれません。それは、つまり、おしゃべりで使う言葉だけではなく書き言葉(物語で使う言葉)が分かるようになることです。おしゃべりで使う言葉は、いわゆる「カギカッコ」文で、セリフのつながりです。たとえば、基本配本の「ゆびくん」を開いてみてください。一見、長い文ですが、「  」がなくても全文が話し言葉なのです。当然、1歳のときはお母さん(お父さん)の語りかけで、読み聞かせは話し言葉ですが、2歳の前半になると話し言葉の絵本はここまで進化します。
 「ゆびくん」を基本配本にした理由はまだあります。1歳代の子どもは一人称の世界にいます。母親は自分の世界の一部で「あなた」ではないのです。ところが、2歳になるとだんだん分離が始まり、「相手」としての意識が高まります。このとき、この本は「自分の指に話しかける」という一人称から二人称の橋渡しの役目をしているのです。自分に自分が話しかけるという二人称認識の第一歩。この本は2歳前半での重要な本です。3歳や4歳で読み聞かせてもあまり意味がない本ともいえますからタイムリーに与えるなら2歳の初期です。

書き言葉の大切さ

 この2歳前半の書き言葉獲得の時期にうまく文章語絵本を与えることは、後の物語絵本を読み込む子どもに育てるうえで、とても大切な作業です。書き言葉とは、「・・・です。」「・・・でした。」と地の文があるということです。典型的なものは基本配本で「おおきなかぶ」がありますね。「おじいさんはかぶをひっぱりました。」というものです。これは「語り手が何かを語っているぞ!」ということを表すものです。ひじょうに客観的です。つまり、本格的な物語に行く途中である2歳の時期には、こういう本が必要なわけです。「もりのなか」なども地味な本ですが、2歳児が3歳児と決定的に違うのは、激しい物語展開にまだまだついていかれない面があるということでしょう。書き言葉への緊張感がありますし、後先のつながりをすぐに把握できないこともあります。このため、同じようなことが繰り返される絵本が、この時期にはピッタリなのです。ただ、これらの本がいくら良い本だからといって、4歳や5歳の子に適当とは思えません。やはり、絵本の本格的な入り口である2歳児のものでしょうね。
 書き言葉というのは論理的な緊張感をともないます。話し言葉のほうが感覚的には受け入れやすいものがありますが、話し言葉で進めばキャラクター絵本の跡はアニメ絵本、その次はマンガ、その次はケータイ小説となります。
 いい大人でも小説が「むずかしくて読めない!」という人がいます。やはり書き言葉、文章語になれてこなかったのでしょうね。もう話し言葉で固めたテレビの時代が五十年・・・その間に読書することがブームになったことはあまりありませんでした。でも2歳児ならいくら緊張感のある文章語でもスンナリ入っていけます。
 もちろん、ここは過渡期でもありますし、性差もじょじょに出てくる時期でもありますから、配本では「タンタンのずぼん」(男子)、「わたしのワンピース」(女子)、「ちいさなたまねぎさん」(しゃべり言葉による物語)、男女別々の就寝儀式絵本「おやすみなさいおつきさま」「ぼくのせかいをひとまわり」などが入ります。でも、以上は配本の説明。どうぞ配本されたら、それをその時期に、ただただ何度も何度も読んであげてください。それだけでけっこうです。

放課後の時間割 A親害

入れ込み

 親が子どもをサポートするのは当たり前のことだが、最近の子どもは自分で行動して何かをする時間が減ってきているような気がする。いや、「気がする」ではなく実際にそうだ。幼児なら親が目を離せないことはひじょうに多いが、小学生ではじょじょに自分で何かする時間が増えていくはずである。ところが、事故や事件の「危険」を過剰に意識して、すべてのお膳立てをして、送り迎えをして、ある特定のことに子どもを固定してしまう親がいる。ひどいケースは枚挙のいとまのないが、関係の少年団でスポーツをさせる。それはいいが、会場まで車で送り迎え、しだいに入れ込んで、親自身の消耗も大きくなるのに夜は夜で塾となると子どもは何もできなくなる。
 親としては、「スポーツもできて、お勉強もできて、良い学校へ行って、良い会社に入れれば・・・」という思いなのだろうが、この過剰な入れ込みが子どもの遊びを奪い、ある種の弱さをつくってしまうことにもなりかねない。
 実際、知り合いの子で夜十時まで毎日二つか三つ(塾を含めて週全体で六つの)の習い事をしている子どもがいる。こうなると親は忙しい。山梨は公共交通機関が発達していないから、全部送り迎えだ。都会だっていろいろ移動には苦労があるだろう。この子は唯一スイミングだけが送迎バス利用だが、それは週一回・・・「親も大変だが、子どもも大変だね。」ということになる。とにかくゆっくりする時間がない。
 だいたいスポーツも十分して、読書もさせようということ自体がおかしな話なのだ。そんなものが両立できる子は千人に一人もいないだろう。

豊かさの弊害

 それも、これも実はお金がかけられるからやるのであって、その子どもの才能のあるなしを見て、それを育てるためにやらせるのとは決定的に違う。これは、たかだか、ここ四、五十年の間に形成されたサラリーマン社会の教育幻想のようなもので、「とにかく学力を身につけていれば良い大学に入れて高給が保証される」という時代錯誤もはなはだしい豊かさの弊害です。いまや、この親の期待が子どもにとって害になっていることのほうが多くなっているわけで、現実には近くにある大学を見てごらん。「これが大学生?」という感じのファッションや言葉遣いをしている学生が山のようにいるはずだ。人は見かけではないというかも知れないけれど、いつもいうように人は見かけでほとんど決まる。見かけで十分どんな人間か分かる。先日、千葉大学の学生が放火殺人で殺されましたが、この学生がかつての国立大学一期校の学生と思ってはいけません。いまや名だたる大学の学生でも何だか分からないことをやっている者も多いのです。キャバクラ嬢も負けるような女子大生のファッション、麻薬の売人のようなだらしのない恰好をした男子学生・・・・こういう見かけは当人の内容のなさとほとんど一致するわけで、いまやちょっとスポーツをしていれば生まれてから本(マンガは本ではない)を一冊も読まないで高校三年を迎えても大学生になれる世の中になっている。もちろん、小さいうちから塾で勉強はさせられるだろう。しかし、そういう子どもは変な勉強ばかりさせられてきたから大学に入って遊ぶ。
 子どもの世界に大人が介入するのは、子どもの成長にとってあまり好ましいことではない。子どもには子どもの世界があって、無駄な時間がないと大人になるための体験の蓄積ができないのだが、いまの時代は親が邪魔をしている。もう少し放っぽっておいて見守ることはできないのだろうか。放課後の時間は子どもに非合理に使わせたほうが後になって役立つと思う。会員のお子さんなら、不良グループに入って非行をするとか、テレビーゲーム漬けになることはないと思う。もう少し、子どもを大人(親)の管理から外すことが必要だと思うが無理なのかなぁ。

さらなる追い打ち

 さらなる問題は、親の期待で子どもにやらせる後ろめたさがあるので、子どもの金銭的な欲求に屈してしまう傾向があることだ。お勉強をする代わりに「ねだるものを買ってやる」「お小遣いをあげる」・・・このような交換行為は、子育て上、戒められるべきだが、子どもと付き合う時間のない親は、どこかに負い目を感じていて、ついつい子どものいいなりにお金を出してしまう。昔と違って子どもの望むものは高価なものが多い。「ファイナルファンタジー」の最新版は9800円もしますよ。こういう周囲に合わせて生きる親たちから生まれる悪い連鎖は、親の期待に応えようとする子どもをつくってしまう危険性があり、独創性がなくて相手が求めるものばかり気にしたり、選択を他にゆだねる傾向を持つ子どもにしてしまう可能性も出てくる。この時代、親の害はかなり深刻だがふつう親は子どもより長生きできない(最近は子どもの喪主になる親も多いが・・・)。やはり、子どもが自分の力で生きていくことができないと、困るのは親のほうなのでここはひとつ考えてみましょうよ。とにかく現代の放課後は、体を使ってする遊びが不足しているのです。

サブカルチャーとどう向き合うか
E不思議な容認

何が後ろにあるのだろう

 ここ二十数年「サブカルチャーの問題」を取り上げてきて、とても不思議に感じることは、世の中が「サブカルをまったく問題にしない傾向を強めている」ことだ。ほんとうは目に見えるところでも、そうでないところでも大きな影響を及ぼしているのだが、ほとんどの人が無頓着で容認しているように見える。この背後には何があるのだろうか。「何でも自由にやっていい」という流れが強くなって、その流れを抑えるものは嫌われるか無視されることになる。これが、じつはよくわからなかった。なぜ、物事を悪い、良いで判断して、悪いものを批判してはいけないのか・・・。多くの人は、内心、サブカルが悪いものであることが分かっていても何も言わず、容認しているのはなぜか・・・。「光市の事件の犯人が悪いのでなく生い立ちがそうさせた」「ノリピーが悪いのではなく薬に依存せざるをえない世の中がある」・・・という責任を本人に求めないで環境に転嫁していく傾向。この背後には「何でも自由にやっていい」という流れがあるのかもしれない。自分がそうなっても追求されたくない気持ちをみんなが持っているのかもしれないが、「何でもあり」「責任を取らない」という自由を求める気持ちがサブカルを攻撃しない背後にもあるように思えた。今年、無理なスケジュールで富士登山を強行して重い高山病になったり死んだりした人が出たが、それを抑え、禁止することは行われなかった。けっきょく、「何をやってもいいよ、悪い結果が出たら自己責任だよ!」と言うことなのだろう。

確信犯たち

 ところが九月に養老孟司と宮崎駿の対談があり、そこで仕掛け人たちの本音が見えた。やはりペラペラしゃべると本心が透けて見えてくるものだ。宮崎は、こう言った。
 「マンガやアニメはサブカルチャーにとどまっているからいいのであって、そうでなくなったら表現の自由度が落ちてしまう」・・・原作がマンガのドラマやTVゲームが原作の映画、物語が主流になっている現在のあり方に物申しているらしい。
 さらに「ウチの子は『トトロ』の映画を百回見ました!」と言った親に「見るのは年に1回にしてあとの99回は外に出て遊んでほしい。」と思ったそうだ。百回見たら何か悪い影響があるのか・・・。私は良い本なら千回読んでも問題ないと思っているが、アニメはそうでもないらしい。
 京都国際マンガミュージアムの館長で昆虫オタクの養老孟司も「体験することで学んでほしい」というようなことを言っている。ならば、「マンガミュージアムの館長なんてやめろよ。お金に困っているわけでもいないだろ。」と思うが、いまや時代の主流はサブカルチャー。つまり、悪いこととは知りながら、そういうものが流行る時代だから、それに乗って生きているということなのだ。サブカルチャーの特徴は「頭を大人にさせない」「社会性がつかない」ことにあるのだが、そこを注意することはなく、「サブカルチャーに子どもを漬けて変な結果が出ても個人の責任だ」ということである。まったく確信犯(わかっていてやっている連中)たちは頭の良さが違うなぁ」と感服した。

「大竹英洋写真展」世田谷美術館 11月17日〜22日

 就学児のブッククラブでは「ノースウッズの森で」(たくさんんのふしぎ)などでおなじみの大竹英洋さんの写真展が世田谷美術館で開かれます。期間が短いので、お見逃しなく。北米大陸北部に残る貴重な自然をファインダー越しに切り取った写真が並びます。温暖化で消えつつある動物や植物・・・美しい写真から、もう一度地球環境について考えをめぐらす良い機会になるかもしれません。もし見てきたら感想をお聞かせください。

「小淵沢ものがたりフェスティバル」 生涯センターこぶちざわ 11月15日

 午後12時30分開場。杉山亮・川端誠さんらの「ものがたりライブ」があります。「動物競馬」で馬券が選べ、楽しい競馬が始まります。また自作絵本の開き読みやジャグリングなども・・・その技は必見かも。
 小学生向きの語りというのはなかなか体験できません。
 場所がわからない方はゆめやにご連絡ください。
 インターネットで場所を探す方は、「北杜市小淵沢町」「生涯センターこぶちざわ」で検索すれば地図が出てきます。



(2009年11月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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