ブッククラブニュース
平成21年10月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
D発達に合わせる。無理をするとあぶない!

●心理学と形態学●

 近代は何につけても心理学や精神分析学が大流行で、絵本や児童書の選書も「発達心理学」などで行われていることが多いです。と、言うよりはほとんどそうです。心理学でも最近はユングの心理学が主流で、「心理学といえばユング」なんてことになっていますからね。で、そういうもので選んだ結果の絵本や児童書のリストを見ていました。でも、なんだか発達に不適なものがかなりたくさん含まれているように感じたのです。
 それは、そうでしょう。心理などというものは見ることもつかむこともできないわけで、臨床や実験を通してこんなものではないかという類推でできあがっていることが多いわけです。読書が何を目指すかというガイドラインも不明で納得いかない選書も多いのです。そこで、なるべく成長に合った形で自然に読み聞かせ(あるいは読書)できる体系を発達形態学を基準にして組み立ててみました。三十年前のことです。それが、いま、ブッククラブの選書の基礎となっています。自然な発達で、目に見える変化をとらえるものだから性差もあれば、生まれ月による時間差も考慮してあります。国内会員のばあいは季節対応も考慮しています。
 ユング心理学の選書とゆめやの選書の違いについては、前述した神奈川大学外国語学部の白須康子先生の大学の紀要にありますので、詳しくはそれを読んでもらいたいと思います。このURLアドレスでPDF仕様になっています。

●形態学の示す方向●

 ヒトが受精から始まることは誰でも知っています。つまり、ヒトの「発生」ですが、おもしろいことに胎内で動物の進化の過程をおさらいして(十ヶ月間で単細胞生物から高等哺乳類まで)ヒトの赤ちゃんになるわけです。さらに十ヶ月経つと直立猿人並みに立って歩きます。ここから人間になるわけで人間としての認識力の高まりもこの辺から始まります。絵本の読み聞かせを生後十ヶ月に設定しているのも、そういう意味があります。
 さて、そこからが問題なのです。単細胞生物から高等生物まで来るわけですから、方向は高度で複雑な生物になろうとしているわけですね。たしかに何かを目指していることは事実ですよね。この方向については次回で述べますが、多くの動物の親は、子どもを成長させる手助けをするだけで余計なことをあまりしません。つまり進化の方向が指し示しているものに逆らわない子育てをしているように思います。でも、ヒトの赤ちゃんは生まれると自然な成長だけに任されずに親の欲が入ってきます。「頭の良い子になってほしい」くらいは誰しもが持つ親の欲目ですが、自然な発達を害してうまく成長しなくなることもあるのです。たとえば野球が上手くなってほしいと思って、小さいうちから変化球を投げさせたら「野球ヒジ」といううまくヒジが機能しなくなる障害が起こるのと同じです。記憶力が増す2〜3歳の時期に詰め込みで知識を教え込むとワンパターンの思考しか働かなくなることもよく知られた現象ですが、これも発達に合わないことをするからでしょうね。ところが現代・・・この発達無視の子育てが主流になっているのです。加えて、サブカル商品の台頭・・・困ったものです。なんとかヒトの子どもの子育てに向けなくては大変なのですが・・・。

発達に応じるということ
E物事の仕組み

読書は「認識絵本」から始まっている

 誰もきがつかないことですが、人はあたりまえのように高度なものを覚えていきます。前回、1歳代の本・・・例えば「くだもの」のような認識絵本が最初に配本されることを述べました。どうぶつの本もそうですね。そしてじょじょに、初期のナンセンス絵本「ごろごろにゃーん」、探し物絵本の「きんぎょがにげた」などが月齢を追って、あるいは性差を考慮して(「だっこして」や「しっこっこ」など)が順次入ってきます。



 ところがですね。ここでお子さんは、物事には始まりがあって終わりがあるということを学んでいるのです。認識絵本は、どこから開いても問題ない本ですが、ほとんどの方は最初から読み聞かせ始めます。「もこもこもこ」もなど最初があってちゃんと終わりがある本です。 このことはじつはとても大切なことです。初め〜終わりまでには一貫したスジがあるのです。これを子どもは知らず知らずのうちに身につけます。猛烈に論理的、数学的なことですが、読み聞かせる親も無意識にやっていることです。物語には初めがあって終わりがある・・
 このことは、物事を知るうえで楽しさも与えてくれるのです。終わらない物語やつじつまの合わない物語はイヤですよね。感覚的に読み取るはずの「もこもこもこ」もちゃんと初めがあって終わりがある典型的な読み聞かせ絵本なのです。1歳代でそれを身につけていけば物語に入ることなどたやすいことになります。

 ところが、近年流行のキャラクター絵本やサブカル絵本(音が出たり光ったりするものも含めて)は内容が盛りだくさんで、赤ちゃんが集中できないものが多いのです。明確に始まりと終わりをきちんとしたスジでつないでいかないものもあります。とくに早期教育関係のキャラ本などは盛りだくさんゆえにつながりがなく、量攻めしたい親はたくさん入っているので満足しますが、じつは子どもは右から左に聞き流すだけです。何度も読み聞かせを期待しないでしょう。
 この時期になると男の子は車や電車に興味を示します。二歳をすぎれば寝ても覚めても電車、車、戦隊ものという子も出てきます。その関係の本は、たいていが、どこから開いても読み始められる図鑑の類で、これは「始まり→終わり」という物語が持つ基本的な論理性をもともと持っていません。
 ちょっと話がずれますが、最近のバラエティ番組である一つのことを話し始めているのに、すぐに何の脈絡もない別の話に行ってしまう内容のものをご存知だと思います。いわば、尻切れトンボがつながっている状態で番組が出来ています。これは結論部分を出してしまうとチャンネルを変えられてしまうことを恐れたTV局がムリにいくつもの(盛りだくさんの中身を)をつなげているのです。これでは視聴者に論理性など生まれません。
 やはり小さいうちから論理的に物事を見る力をつけるためには、そういう仕組みで作られたものを見ていかないと練習にも何にもならないわけで、やはり時期にあった内容で、次の段階に続いていくものを選ばないといけないと思います。

放課後の時間割
@友害

徒党を組んで遊ぶギャングエイジ

 小学校が幼稚園時代とまったくちがうのは大人の目が子どもに注がれなくなることだ。もちろん昔の話。これは高学年になればなるほど進んだ。大人の目が注がれなくなるのは悪いことではない。子どもが成長していくときに大人の監視がないことは必須条件でもある。大人の目を盗んでいろいろな体験をすることも成長の第一歩だと思う。小学校中学年は、この成長が高まる時期で友だちと一緒の本格的な外界体験が始まる。これを「徒党を組む時期」、つまり「ギャングエイジ」と呼んでいるが、この体験がないと少年期が充実したものにならない。近所を探索し、町を知り、川や森を体験し、いろいろなものを発見する期間だ。昔は、これらがすべて戸外で行われた。路地裏から路地裏へ、原っぱから川原へ、町の通りから別の通りへ・・・自転車はまさに行動のための武器で・・・というのが、ふつうの、いやパターンだった。この元になったものは「探偵団」ものの本や「冒険小説」・・・秘密基地を作り、追跡する道を歩き、頭の中は登場人物になりきっている遊びである。しかし、こんなことをやっている小学生はほとんどいなくなってしまった。

人間の力の差、違い、個性を知る

 「徒党を組む」と言うと悪いイメージがあるが、じつは仲間で遊ぶことで自分と仲間の差や個性の違いを学ぶことができる。集団の中で生きていく基礎の力が身につくのだから、「徒党体験」は成長には欠かせないものだ。冒険小説でもたいてい個性の違う三人組が登場して活躍する。「徒党」は自分と他人の違いを知っていくために、とても大切なことだと思う。ここでは裏切ったり、性格が悪かったり、仲間意識がなかったり、勝手だったりする友だちがいて、嫌な目に遭いながらもちゃんと本人は観察して、大人になったときにそういう人間を避ける能力が身についてくるわけである。いわば、人間と人間関係について学ぶ最初の時期がギャングエイジでもある。こういうことは生身の人間と交わらないと身につかない。

ところが、・・・

 現代・・・、子どもたちの放課後は様変わりしている。子どもが行動する元になる情報もメディアからのものが多い。それに最大の問題は「大人の目」が監視している状態が長く続くのである。まず、子どもは常に遊びの技術についての情報を友人から得て、スキルを高めていくが、現代ではそのほとんどはサブカルチャーである。TVゲームのステージのクリアから裏技まで、ケータイの操作やどんなサイトにアクセスすればおもしろいかなど、情報交換の場がロクに体も動かさない狭い部屋の中だったりする。外の世界や生身の相手を体験しないで、頭の中だけで「知ったような状態」をつくるのは、後々問題になるだろう。これが、やがてプロフや学校裏サイトといった、おぞましい闇の世界へ導く可能性も高い。有害なものが「友害」として生まれてしまうのだ。
 共稼ぎの家庭を支援するための留守家庭学級(学童保育所)などが完備してきているが、ここでは指導員がいるから、そうそう「徒党」を組んで行動半径の大きい探索行動はできないだろう。やはり遊びは小さくまとまる。
 小学校の学童保育は時間までいろいろなことが楽しそうだが、隣のY市の学童保育の指導員を始めた友人の女性は「粗悪な内容のTVゲームができるようになっていて困っている」とこぼしていた。指導員に遊びの良し悪しを判定する能力がないのだ。指導管理にも地域差や格差があるのかもしれない。さらに、放課後の多くがお稽古事や塾学習に費やされる子どもは、少ない自由時間では交友できないから、息抜きの形で放課後の一定時間にTVゲームやケータイに没頭することになる。休息と気晴らしがサブカルではやはり思春期や大人になってから、さまざまな問題が起きるだろう。
 小学生の放課後は、体を力いっぱい使いながら、ワクワクすることだと思う。やがて成長するうえで世界のいろいろなことを吸収して考える大きな基礎になるはずなのだが、これができていないような気がする。想像力は、何か知ったこと(物語や世界についての知識)から生まれるし、実際に実物を想像力で使って感受性を高める結果を生むのだが、TVゲームやケータイではそんなことはできない。
 秘密基地を作って、仲間とくつろぐことは最大の遊びなのだが、これを許す環境が現代の日本社会には少なすぎると思うのは私ばかりなのだろうか。

サブカルチャーとどう向き合うか
D鈍感になっていく感受性

「ミサイル」と「台風」・・・オオカミ少年としてのメディア

 北朝鮮がテポドンを発射したときのテレビ報道は「今にも日本でミサイルが炸裂する」かのような勢いだった。危機を煽っているとしか思えないもので、それを真に受けた自治体が「もしミサイルが飛んできたら」の防空演習までやった。「実際に日本に飛んできたことを想定して用心のため」という大義名分があるかもしれあいが、起きなければ、人は「なあんだ。飛んでこないじゃないか。」といい加減に聞くようになる。
 今月八日の台風18号もそうだった。事前の報道は「伊勢湾台風並みの大きさ」という触れ込みで記録史上稀な強さの風だと危機を煽っていた。通過してみればたいしたことはない。そうなると人は「なあんだ。たいしたことないじゃないか。」と思う。メディアとしては刺激的な報道をすることで視聴率を挙げたいわけだが、視聴者はどんどん鈍感になっていく。我が家はまともにテレビが映らないので見ることもできないが、お笑い番組やバラエティはひどいらしい。恥も外聞ない連中が人気のためだけに刺激的なことを言って瞬間視聴率狙いのようなことをやっていると、これも人は信用しなくなって、やがて言葉にも鈍感になる。
 この鈍感さは、実際に何か危機が起きたときにメディアを「オオカミ少年」にしてしまい、結果的にわれわれはオオカミに食べられてしまうことになる。

「TVゲーム」と「サブカル文化」・・・・エスカレートする刺激

 上述したものは大人が鈍感になるパターンだが、その前の段階で子どもを鈍感にするのはTVゲームだ。これは、より刺激的になるようにプログラムが進化する。知られている代表は「バイオハザード」だろう。シリーズ5のPC版は、3D化のすごさもさることながら残酷さも鈍感になっている子どもたち(もうやっているのはかつて子どもだった大人かも)の感性を「これでもか!これでもか!」と刺激する。さらにアニメ雑誌やアダルト系雑誌の氾濫をはじめとして、最近の「かわいい系」の宣伝など、まさに「これでもか!これでもか!」だ。メディア上のこんなことでビックリしているのは老人にすぎず、いまや三十代の多くの親や小中学生に言わせれば、ごく普通の生活の一部のものにすぎない。つまり、生活感そのものが上すべりの意識になっていて、物事にあまりこだわらないで流れていく鈍感なものになっているというわけだ。感受性がなくなっていけば、それは人間関係をつくる感覚や生きていく感覚も鈍くなる。相手の存在を強く思うことも自分の生き方を深く考えることもなくなる。困ったものだが、避けるより方法がない。しかし、世の中が別になんとも言わずにメディア主流の意識でいけば、これはもう防御のしようもないのである。
 こういう影響の結果は、大人になっても頭が大人っぽくならないということである。つまりサブカルチャーは、頭を大人にしないという驚くべき影響をもたらすのである。刺激になれてしまった後では、何かを考えて実行する力はますますなくなってくるだろう。
 オタクなどはその典型的な例だが、物事に熱中して何かを集めたり、研究したりしている連中の頭は現実を無視して、どこまでも子どもである。子どもならいいのだが、じつはけっこうの年齢の大人である。何か問題が起きたり、何かしなければならないときに頭が回らない状態になる。自分のわがままでしか行動できない大人がいたとしたら大変だが、それは激増中である。

政権が変わっても・・・

 おそらく政権が変わっても、この傾向はそう変わるものではない。たしかに「国立メディアの殿堂」はご破算になったが、幼稚園の運動会では戦隊ものやピカチューの仮面をかぶった園児が演技する。けっこうの大人が「かわいい」といって、ラメがボテボテの「TOKYOかわいい系ファッション」をする。もう国民の頭がトコトン劣化しているわけだ。政治の変化とはあまり関係がなくなっている。そういうことをする連中は「下層階級なんですよ」と公言したら、「差別だ!」と攻撃されるだろう。なにしろ残酷に殺した犯人の権利が守られ、殺された無垢の人たちは殺され損の世の中で、人の意識は「ああ、またか!」になっている。
 しかし、もう一度考えてみよう。
 「自分の娘をキンキラ金髪のカワイイ系モデルにしたい」「自分の息子をゲームから抜け出してきたようなストリートボーイにしたい」なんて思う親は、ふつういません! 多くは、まともでマジメな人間になることを望んでいる。そんなことを考えるのは、モンスターの親か下層階級の親だ。私にはそういう親の選択肢は不幸への道を子どもに選択しているように見える。ま、人は見かけではないというが、いくら技術も頭もあっても、キンキラ金髪でマツゲバッチシの人がお医者さんだったら私は診察してもらうのは拒否するし、教師だったら子どもを学校にやらない。でも、多く人はまだまだ鈍感だ。感受性が鈍感になるのは子どもたちばかりではなく、メディアをそのまま受け入れ、「世の中に無批判であることが寛容な人間だ」と思っている大人もまた鈍感になっていると思う。
 親はやさしくなくては親ではないが、何も言えないような親ではほんとうに子どもにやさしい親とはいえないのじゃあないですかね。親も少しはまともな本を読んで、サビついた感受性を磨く必要がありそうです。



(2009年10月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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