ブッククラブニュース
平成21年9月号新聞一部閲覧

今年の夏は楽しかったですか?

 残暑お見舞いも言っている暇がなく、暑い夏は短く過ぎた甲府でした。
 みなさんは夏を楽しめたでしょうか。とにかく梅雨がいつ終わったのかわからないくらいで、最初から暑い日を覚悟していたのに35度越えは数日のみ。いきなり秋風が吹き始めて、・・・・助かっています(?) ゆめやは夏休みがないので、九月の連休に恒例の高原の風を楽しむ予定です。でも、感染爆発の兆候もあるので新型インフルの風邪に苦しむことにならないよう気をつけたいです。皆さんもね。
 夏の終わりには、真っ黒に日焼けした子どもたちがやってきます。ゆめやではいつも遊びが流行りますが、手品や魔術?はネタ切れの夏・・・今年は、工作遊びが流行っていました。
 県外のお客様は、ゆめやの固い新聞ばかり読んでいるので、ゆめやのおじさんは怖い怖い「びゅんびゅんごまがまわったら」の先生のように思っている方が多いのですが、実際は子ども相手にくだらない「怖い怖い話」をしたり、切り紙工作をしたりするソフトタッチのおじさんなんですよ。おばさんなど、仕事そっちのけで、今森光彦さんの連続切り絵をやったり、指が抜けなくなる木の皮を編んでできる蛇を作ったり、大忙しです。
 今年の夏は、そのおばさんが考案した「ドミノ倒し」(写真下)が子どもたちに大うけ。小学生どころか三歳児まで「もっとやって、もっとやって!」と大賑わいでした。こういうふうに手を変え、品を変えて、子どもたちの反応を見ていると、テレビゲームがなくても、けっこう乗ってきて、おおはしゃぎするものです。
 店内には二十年も使っている木のパズルやしかけおもちゃがありますが、子どもたちはあきもせず毎回挑戦するのです。電子ゲームや電動のおもちゃなど大人が手抜きをして遊んでやらないための道具なのかもしれません。子どもは二人以上になれば自分たちから遊び始めますし、一人でもヒントをあげたり、きっかけを作れば楽しく遊びます。むずかしい切り絵や紋切りに挑戦する子ども達も多いのです。
 テーマパークめぐりをしたり、イベントめぐりをしたりもいいですが、同じところで、いろいろ遊ぶのもいいかもしれません。「つまらない」「つまらない」を連呼するような子どもにだけはしたくないですからね。では、良い秋を・・・新型インフルに気をつけて。

玉虫色また

 六月号で「玉虫色」について書いた。最近、玉虫も見かけなくなった・・・と思いながら書いていたが、なんと夏の終わりの二十七日に店の入り口に美しい緑色の光を放つ虫がいる! まごうことなき玉虫だ。この美しさを忘れることはない。赤とんぼ、翅をむしれば唐辛子・・・玉虫のモノクロ写真はゴキブリだが、この虹色に輝く緑色・・・1400年前の古代人も美しさに惚れて、厨子をつくったはず。昔は玉虫は山のように獲れたのだろう。自然が豊かだとオニヤンマも玉虫も舞って来る。
 「ゆめやはなんと田舎なのだろう!」と思い、「日本はなんと言霊の国だろう!」と思った。六月号で書いたら八月に姿を現す。言霊を信じる国では、言葉に出すと、それがほんとうに現れるという。善いことも悪いことも・・・。悪いことばかり書いていると悪いことがほんとうにおきてしまうと困るが、この時代、良いことばかり書いているわけにはいかない。 さてさて、その六月号の「玉虫色」という話は「建前と本音を使いわけて、どうにも取れるようなことを言う。そういう言葉を玉虫色の表現」というものだった。これは、和を尊ぶ日本人が1400年という長い歴史の間に考案した言語表現で、一朝一夕に変えられるものではない。本音を言えば抹殺されるのは古代の暗殺から現代のイジメまで続いていて、誰も彼も玉虫色で言葉を塗りたくる。夏の終わりの選挙など玉虫色を通り越して、大盤振る舞いの嘘っぱちの言い合いで聞き苦しかった。よくもまあ、あんな無責任なことを言えるものだ。さすが政治家、官僚あがり!と思った。
 ところで、その玉虫が店に現れた夜に知り合いの青年からメールが入った。彼は政治や社会的なことに関心があって、よく長いメールをくれる。その夜のメールには、イベントへのお誘いだったが、その中で「・・・僕の妻の○○さんは・・・□□大学を出ていて、学力優秀で・・・」という一文があった。
 ごく最近結婚した人だから「それはそれはごちそうさま」「お熱いことで」で済ませておけばいいものを、大人げもなく私はついつい余計なことを返信してしまった。「私たち老人は自分の妻を『さん』付けで呼びません。」「それに学力優秀というのは仲人か第三者が使う言葉で夫や妻が配偶者や自分の子どもに使う表現ではない。」「だいいち学歴と学力優秀が一致するかどうかはわからないではないか」・・・・。
 すると相手は、感情を害したのかもしれないが、反論が来てメール論戦となった。
 「相手を尊重することはいけないことなのか?」「いや、相手を尊重するのはいい。」「嘘があってはいけない?」・・・・ 私は「ほめ言葉もいいが、実体と違ったらやはり嘘表現になる。言葉を軽視すると言葉が意味を持たなくなって、言葉と行動が一致しなくなる。約束も守らなくていいし、何でもありになって困るじゃないか。」と言った。
 しかし、相手は「現代の若者はダブルスタンダードで生きています。相手が言ったことを『そうですね』と受けながら、本当はそうだとは思っていない。そうしないとうまく生きられないからです。」と応える。
 「ふうん、反論はしないで、相手に媚びるというわけだね。その場をくぐりぬけていくのは一見利口なやりかただけれど、精神的にバランスが取れなくなるよ。」・・・実際、調子ばかり合わせてよい子ぶる若者が多くなった。
 「しかし、『〜すべき!』、『こうであるべき!』という方が一種の教育原理主義で、その通りにしたら危ないです。」と持論を防衛し始めた。たしかに、学校も社会も表面で、そういう教育原理を押し付ける。それは会社に入っても続いていて「上に逆らうな!」という雰囲気を作り出していることは認めなければならないだろう。しかし、だから、と言って、いい顔をして受け答え、腹の中では従わないのは「面従腹背」というもので、なんとなくずるがしこい感じがする。
 そこで私は「それは学校のテスト教育から自分の身を守る方法として考え出した言い訳だよ。そんなダブルスタンダードを持っていたら鬱病になるよ。」
 「言ったことをいちいち守っていたら時代に置いていかれます。」・・・時代に置いていかれることが困ることなのかどうかわからないが、それははみ出し者と見られたくない意識であり、人間関係を嘘で塗りたくっても守るおかしな価値観でもある。言ったことを守らなかったりしたら、会話はただの言葉のキャッチボールである。
 「だからね。言ったことは守る、実行する。守らなかったり、実行しなかったりすれば、人から信用されなくなる。本音は言ったほうがいい。」
 配偶者を敬語で呼んで、ほめまくっても、口先だけの嘘がばれれば、いつかはうまくいかなくなることもある。人間の心理は微妙なもので、とくに言葉と裏腹の裏切りには敏感だからである。
「ところで、選挙行く?」「行きますよ。」
「ほんとうは行かないんじゃない?」「行きますよ。」
「私に調子合わせているだけじゃない?」「政権交代しなくては。」
「それ本音なのかなぁ。」「ダブルスタンダードでしゃべる人は信用できないですか?」
「あたりまえじゃん。」「政治家も二枚舌が多いからダブルスタンダード、というより何でもあり。」・・・
 もう、私は彼の言葉を信用しなくなっている。
 さて・・・・玉虫は桜の葉を食べるから、庭先のフジザクラの葉を籠入れるとよく食べていた。しかし、次の日にはもう動かなくなっていた。羽は美しく光っていたけれど・・・。本音と建前をうまく操りながら生きるのもいいが、玉虫色の言葉は哀れなものだ。うまく生きて外側ばかり光る人生を歩ませるのも子どもたちには薦められない。やはり、本音は隠さずに出したほうが生きやすいのではないだろうか。うまいことを言って相手をごまかすと、けっきょく破綻につながることを子どもたちには教えたい。

(新聞一部閲覧)

外が家の中・・・家の中が外・・・

 最近、若者の間で帽子が流行っている。ツバの狭いストローハット。以前からギャル・タレやお笑い芸人の間で流行っていた布製の帽子の夏バージョンである。
 お盆を過ぎたある日、通りに面したレストランで、若い父親が流行の帽子をかぶり、子どもと冷麺を食べていた。つまり、屋内で食事をしながら帽子をかぶっているのである。以前から、室内で帽子をかぶったまま対談している芸人たちに違和感があったが、それは「外ですることが家の中に持ち込まれているからなのだ」と思った。
 私たちは、「家の中に入ったら帽子を取りなさい!」「人と話をしているときは帽子を脱ぎなさい!」と教わってきた世代である。ケミストリーという歌うたいの二人組がツバのある帽子とラップを歌う黒人がよくかぶるニット帽を被って歌いだしたときに「おやおや!」と思ったが、それが市民権を得てしまったというわけだ。外が家の中というわけである。
 この逆の現象は以前からあった。つまり「家の中」が「外」に持ち出されるというものだ。キャミソールで盛り場を歩いたり、ズボンをずらしてパンツ丸見えファッションで歩く「コシパン」・・・これを初めてみたときはギョッとした。以前よく指摘された「地べた座り」や「電車内化粧」、「食べながら道を歩く」と同じものだ。周囲の目も気にせず、歩きながら大声でケータイして笑っている若者など「家の中」が「外」に持ち出されている典型的な例である。かつてルーズソックスが問題になったとき、調査をしたらルーズソックスを履く女学生の98%が靴のカカトを踏み潰してスリッパ状態で室内感覚で歩いているという結果が出た。スリッパ感覚であるというのはやはり室内感覚が外に持ち出されているのだろう。これも「家の中」が外に出ている証拠である。
 「外ですることが家の中に持ち込まれている状態」と「家の中が外に持ち出されている状態」は、じつは表裏一体のもので、他を意識しないでリラックスできる感覚。社会性や内外の区別が乏しい感覚である。つまり「家の中の延長線上」にあるもので、自分の感覚がリラックスできれば他人のことなどどうでもいいわけだ。昔と違って現代では家の中では決まりやルールを守る必要はない。寝そべっていてもボロボロこぼしながら食べても文句を言うのは親くらいで、気分は「ぼくは王様」だ。注意する親も減っていることだろう。帽子をかぶって食事をする親が、子どもに「室内では帽子を脱ぐものです」「人と話したり、室内に入るときは帽子を取りなさい」などと注意できるわけがない。
 そういう中で成長した子どもは「家」と「外」の区別をつけることが、だんだんむずかしくなっているのだろう。かつては「よそいき」という言葉があって、他を訪れるのにそれなりの公式なファッションと儀礼が必要だったが、もうそういうことはほとんどない。「ブラジャーの肩紐が出ていますよ!」と他人の服装を咎めるには勇気がいる。「何言っているのよ。このスケベオヤジ! これは流行のファッションよ。」と返されれば勇気も萎える。
 もちろん、「公式なファッションや儀礼など堅苦しいだけだ」と思う人も多いだろう。たしかに形などどうでもいいかも知れない。しかし、「家の中」と「外」の区別は大人になっていくうえでとても大切なことなのだ。社会性とはまさに、家と外の区別だからである。
 店に来た2歳の子が靴のまま我が家の居住空間に入って来ても叱ることはできない。しかし、3歳児だと「しつけがなってないな」と思う。もし、それを6歳児がやれば「どういう神経だ!」と思う。「家の中」と「家の外」の区別は、挨拶から始まって言葉の儀礼や行動の制限がつきものなのだ。それがなくて、いきなり「家の中」と同じに振舞われたらどうなるだろう。それこそがモンスターチャイルドなのだが、その背後には内と外の区別を教えられないモンスターペアレントも存在するわけだ。
 ルーズソックス世代はいま親になりつつある。彼らはひょっとしてファミレスの座席でオムツを代え、人がそばにいようといなかろうとケータイが鳴れば大きな声で話し出すのだろうか。前述のように、この世代はもう子どもに注意を与えて「社会常識」を伝達できないだろう。園や学校は、そこまでは注意もしつけもしてくれない。政権が変わっても国民が変わらなければ、「自由」は「勝手し放題」で、「民主」は「それぞれのわがままのぶつかりあい」と同義語になってしまうかもしれない。

(2009年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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