ブッククラブニュース
平成21年7月号新聞一部閲覧

賢い身体と丈夫な頭を持つために

 甲府の梅雨は高温多湿でほんとうに参ります。でも梅雨が明けないほうがいい。明けたら気温四十度にもなる夏が待ち構えているわけで、なるべく梅雨が長引き、さっと夏が終わってすぐ秋というのが理想です。でも、そうはいかないだろうな・・・と毎年思います。理想は理想、ものごとは思惑通りに進むものではないことも分っています。このニュースの編集もいつも夏は遅れがち。発行が遅くなります。なにしろ、あらゆる事務、あらゆる業務を女房と二人だけでやっているのですから、うまく動く手足と敏感に対応できる頭がないと大変です。それが気温と湿度に左右されるわけですから、・・・夏の暑さは頭を鈍くする・・・と、つくづく思います。
 そんなことを思いながら、小学校で司書をしている会員の方と子どもたちの処理能力の話になりました。「図書委員を高学年の生徒が担当するのだが、貸し出しや返却の仕事がなかなかできない子がいる」と言うのです。いくら回数を重ねても覚えない、分からない、ミスはする…「単純な仕事なのに、あんなことで大きくなって仕事をしたら大丈夫かしら?」というわけです。私は、小学校高学年くらいになれば、おおよそのキャパは決まってしまって、もうそこから大きく変化はしないと思っています。お勉強にしても「できる」子は教えなくてもできるし、「できない」子はいくら教えてもできません。不思議なほど、何をやらせてもできない子もいれば、パっと出来てしまう子もいます。この差は何が原因かといわれると困るのですが、遺伝子の問題というよりは幼いころの生育過程上の環境や訓練で器の大小が決まってしまうように思えるのです。頭の良さとは幼いころは「遊び」からしか養えないという「定理」があります。それは人間の脳の成長と密接に関連することで、幼いころの遊び経験が思考力、想像力、分析力、対応力の増加につながっていくわけです。
 七十歳くらいの老人で中学しか出ていないのに、十分な教養と仕事処理能力のある人もいれば、偏差値の高い大学を出ていても何も知らない、何をやらせても出来ない若者がいる・・・訓練すればできるようになることもあるかもしれませんが、状況やプロセスを把握できず、対人能力も出てこないこともあるのです。塾教育は昔に比べると極端に合理的になっていますが、こんなテクニック処理では頭の良さは形成されないのでしょうね。これも幼いころに遊んだか遊ばなかったが大きく影響しているように思います。いわゆる机上のお勉強を幼いころいくらしても、何かどこかが違う結果となるのではないでしょうか。勉強をするのに必要な土台(好奇心や持続力など)をつけておかないと、何をやらせてもできない、する気がない人間になってしまうような気がします。つまり「ひらめき」や「持続的な思考力」というのはお勉強では養うことができず、かなり幼い頃の「世界を見る」訓練の成果ではないか、と思われるフシがあるのです。遊びをしてきた人間は、思いつきが多く、それを実行したり、仕上げたりする能力に富んでいます。
 それは、おそらく遊びがパターンに終始しない流動的な目的性を持っているからでしょうね。成績だけで人生が築けるなら、机の上のお勉強をして大学まで良い成績を取り続ければいいと思いますが、人間は大学に入って、出れば終わりではない。そこからが人生です。「何事にも対応できる身体と挫折しても困らない丈夫な頭」は幼児期の「遊び」でしか作れないと思います。町の路地を走る、野山を駆ける、空を見ながら、川を渡り、原っぱを突っ切る、虫を追って、魚を追って、そういう中で危険を察知する能力や工夫する力が生まれます。暗闇を体験することも空腹を体験することも不便な状態も何もかも「賢い体と丈夫な頭をつくる」基礎でしょうね。
 そういう体験がなくなって三十年・・・頭も体も弱い大人が増えています。現代の親は子どもが「賢い体と丈夫な頭」を作るまで待てないのかもしれません。とりあえず「賢い頭と丈夫な体」を作ろうとして塾に通わせ、スポーツクラブに入れます。しかし、その両方がワンパターン・・・合理的に解き、合理的に訓練することばかりを教えます。これでは見た目の完成はあるけれど長期的な完成にはほど遠いような気がします。やはり「賢い体と丈夫な頭」がないと長い人生は生きられないわけで、安直な成果を求める子育ては問題が残ります。

80后・・・水の彼方

 中国では1980年以後生まれの世代が「80后(バーリンホゥ)」と呼ばれている。日本語の意味で考えれば「新人類」とか「宇宙人」といった感じだろう。世代価値観で言うと、同世代で対応するのは日本ではバブルを体験した30〜40代だが、「80后」の実年齢は19〜29歳まで。若い世代だ。
 かれらはインターネットに習熟し、ケータイを駆使して、個人の価値観を中心に生きるグローバルな世代である。ショッピングが好きで、ブランドには目がなく、周囲との和より個人の生き方が大切。なにやら少し前に日本で流行ったライフスタイルだ。中国ではおそらく次の消費の中核になる世代だと言われている。一人っ子政策と中国の高度成長の中で生まれた特殊な世代だと言われている。つまり、豊かさの申し子というわけだが、意識も革新的かと思うとじつは保守的で民族意識も強い。そのへんが日本のアラサーやアラフォーと違うところで、まだ国の若さを感じる。
 さて、その80后たちの価値観や時代認識を描いた本が出たというので、読んでみた。「水の彼方」田原・著とある。日本人が書いたものかと思ったら、中国人の女性・田原(ティアン・ユアンと読む)という人の作品だった。けっこうのカワイコちゃんで、ロックバンドのボーカル、映画女優もやり、いわば才色兼備というわけである。日本でも二十代の女性芥川賞作家が出た。彼女たちも当然マルチな生き方をしている。モデルをしたり、ヌードになったり、映画に出たり。つまり一個の確立した個人ではなく、あれにもなれる、これにもなる、不定形生物のような生き方である。
 でも、この本「水の彼方」、一読して「買って損した」と思った。なんだかモラルも意志も希望もなにもなく、果てしなく坂道を転げ落ちていく話という印象。最近の日本の一部の若い作家が描きがちな世界と同じで、救われるものはない。破壊・・・自業自得、結果的には不幸の選択?・・・という内容、身近な恋やその破綻、親との反目、そして親の浮気や離婚、未婚の妊娠や出産・・・フェミニストや社会学者が喜びそうな歪んだ青春が綴られる。まあ、村上春樹の「ノルウェイの森」のような、アジアっぽくないアジア人の男と女の心象風景という気もする。豊かな時代の心の破綻・・・グローバリズムのなかで伝統や地域や家族や家庭を無視したアジア人が地に足のつかない価値観や人生観を形作ろうとしてあがいている様子が見て取れる。村上の「1Q84」は読んでいないが、どうせ都会的で泥臭くない考えを持つ男女が、日本という環境や状況と葛藤して浮遊する話だろう、と思う。確実な答えなどない。そんな自分の過去をノスタルジーで語るような軟弱な文学が、次の時代を切り開く思想的なよりどころになるとは到底思えない。
 しかし、よきにつけ悪しきにつけ、この風潮、社会の変化の方向は変えられない。アジアの新しい時代の主役となる80后やアラサー・アラフォーは心の赴くまま人生を渡ろうとしているかのようだ。この一見自由に見える生き方。グローバリズムに同調した新たな存在である。しかし、十年後、この自由で勝手な生き方の向こうに何が起こるか・・・物の豊かさは続いているだろうか、彼らの作り出す家族や人間関係は確かなものになっているだろうか・・・じつは、この答えは一歩先行く日本がもう出しているようにも思える。いまや子どもが置かれる状況は悲惨なものだ。生活レベルの豊かさを保つためにお金を稼ぐことに窮々とし、不足なら配偶者を変え、子どもを捨て、自分個人だけがよければそれでいいという無責任は横行しているではないか。すでにアラサー・アラフォーの間では離婚、家庭構造の変質は自明のことで、子どもには安定した状況が与えられない。
 個人主義的にしたいことをする親のもとで、子どもはどう生きればいいのだろう。一日の間、親と長い時間過ごせない子どもの増加、その結果として猛威を振るうサブカルチャー。それはやがて精神病的な結果にたどり着く。自殺・・・親殺し、子殺し・・ついでに、「どうせ自己破滅するなら殺す相手は誰でもよかった」かぁ。田原・著「水の彼方」にあるものは、まさに現在の日本の姿かもしれない。
 いつ中国で始まるか・・・もう水面下では始まっているとは思うが、この80后が社会の中核となる、あと十年後が怖い。中国の時代スピードは日本の数倍だろう。速度が高ければ事故ったときの破壊度も大きいというのが交通事故の常識。社会が壊れる速度は日本より速いかも・・・クワバラクワバラ。

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
A大脳旧皮質を無視していないか

● 肉声と機械的音声 ●

 とにかく最近は、コミュニケーション手段の多くが機械です。電話、ケータイ、メール、インターネット、テレビ・・・音声が機械を通して出てきます。自販機までしゃべる時代で、「うるせいな。コノヤロー!」と言っても「いらっしゃいませ。暑いですね。冷たいお飲み物はいかがですか?」を繰り返します。駅のプラットホームの機械音は尋常ではない音量と回数で「ご注意」「お知らせ」を繰り返します。これも「うるさい!」と言ってもやめません。
 地デジではお茶の間とテレビが双方向でコミュニケーションできるらしいのですが、コントローラーでいくら質問しても応答はないでしょう。つまり機械的音声は常に一方的なもので、こちらの反応は常に無視されます。これは企業の受注メールも同じ書式のものが返されるだけで、無味乾燥このうえもありません。つまり、相手の声の調子で心を読むなどということはできなくなっているわけです。

● 肉声が脳や人格の形成に影響するということ ●

 妊娠すると、母親がおなかの赤ちゃんに声をかけている姿を見ることがあります。赤ちゃんはこれを聞いています。母親の心拍や血流音、呼吸音を聞いていることは分かっていますから、外からの語りかけを聞いていないわけはありません。そうすれば、その声が罵声なのか優しい呼びかけなのか、温かい語りかけなのか怒鳴り声なのか判別しているはずです。「そんな胎児に声の調子が分かるものか!」と思う人がいるかもしれませんが、生まれてすぐでも実は声に反応しているのは分かるのです。我が家での体験を言うと、妻が赤ん坊に歌を歌ってやっているときにまだ誕生一ヶ月の赤ん坊がメロディに同調するように口元や表情をやさしく変化させるのです。私の大声にびっくりして不快な表情をし、顔をゆがめて泣くこともありました。つまり、判別ができるのです。これは、快・不快という単純な基準で相手を読み取った結果を出しているのです。そして、月齢が上がるにつれ、微妙な感情の変化や相手の心の状態まで読み取れるようになるのだと思います。これは、機械には真似ができない人間同士のコミュニケーションの大本になるもので、人間が「絆(きずな)」を作る、まず最初の行為ではないかと思われます。言葉の意味が分からない状態でも赤ちゃんは言葉の調子や微妙な変化で、接している人(親)の心を読み取っているわけです。

● テレビに働きかける子ども ●

 前回述べたように生後数ヶ月の赤ちゃんにテレビを見せると、初め触りに行ったりする働きかけが見られます。我が家では、これを子猫にさせたことがありました。「動物王国」などの番組を猫に見せると動くものを本能的に追います。赤ちゃんにもそうした本能はあると思いますが、相手が反応しなければ、すぐ働きかけをやめます。猫もブラウン管をいくら触っても爪が立たないとなると働きかけをやめます。猫はすぐ関心も示さなくなりますが、赤ちゃんは受身で見続けることもあります。しかし、相手は機械音声・・・生身の人間が話す肉声を分析する訓練はできなくなってしまうでしょう。つまり、肉声と心、生の対話と人格形成は、この時期に発達を続ける大脳の旧皮質部分大切な関係を持っているわけです。つまりヒトが生きるうえで重要な「信頼の絆」の基礎が形作られ、それは自己肯定感の形成や守ってくれる親の存在などを認識することになるのではないかと思います。親が肉声で語りかけること・・・これが不可欠なのが2歳くらいまでの子どもの成長です。

● 赤ちゃんの働きかけに答える ●

 絵本は、親と子が肉声で応答するひじょうに適切な媒体です。「いないいないばあ」を無表情で語る親はいないと思います。子どもがどう反応するかを期待して、さまざまな表情、声の調子で試みるはずです。子どもはその変化を喜びます。怖そうな声で「いないいないばあ」もよいし、やさしい声で「いないいないばあ」もよい。子どもはその変化を楽しみます。ワンパターンの優しい声だけでは反応の多様性を引き出すことができないでしょうね。これは、「いたいの いたいの とんでいけ!」というおまじないの言葉で一番分かることでしょう。気を入れて、本当に強く「とんでけ!」とやると泣き止む子もいるほどです。言葉を意味としてではなく、感覚的に捉えて分析して、反応する力がヒトの子どもには最初からあるのだと思います。いつも言いますが、なにもうまく読む必要はないのです。これは、大脳旧皮質に働きかける安心感と肯定感を与える対話で、「親」というものの存在を刷り込んでいく作業でもあります。鳥は生まれて最初に見たものを母親だと思うらしいのですが、ヒトの子はそれほど単純な頭脳構造を持ってはいないのです。親が面倒を見ることで「絆」を刷り込んでいかなければならない複雑で高度な動物なのでしょうね。

学校図書館の問題―B―
サブカル本の侵入

● 危険なリクエスト ●

 学校図書館では、子どものリクエストに応じて蔵書を構成するところがある。新しい書籍を導入することで新陳代謝を図るという狙いがあるかどうかはわからない。しかし、「はたして、このような本を学校に置いてもいいものだろうか?」と首を傾げざるを得ないものがある。以前、近くの小学校の校長の教え子に「セーラームーン」の作者がいて、学校図書館にシリーズを常備したという話を聞いたが、サブカル本のリクエストに比べれば、この無知な校長の教え子自慢などかわいい部類に入るくらいだ。サブカル本・・・知らない親もいるかもしれない。説明しよう。中学生〜高校生の間で読まれる読書力がなくても読める?軽い本である。「そのていどならいいではないか」という人もいることだろう。しかし、それは読んでいないからだ。読めばなぜ不適切な本かが分かる。いわゆる生命を軽んじるゲーム感覚の本で、当然、少年犯罪への引き金になる可能性を持っている。いつの時代でも、子どもへの影響力など考えないで、売名や金儲けのために刺激的な作品を出す作家は多い。サブカル本は危険な本だという認識がほしいのだが、ここまで情報処理が劣化してくると先生や親や司書の目をすり抜けて子どもの目に触れてしまうことが起きるだろう。

● 本を知らない司書 本を読まない司書 ●

 このサブカル本が小学校の学校図書館にあったのを発見したのは、今年の四月に新任になった司書である。ブッククラブ会員の母親で児童書については見識が高い。彼女が蔵書発見・・・前任の司書が子どものリクエストに応じてサブカル本作家・山田悠介のシリーズを入れたという。リクエストした子は読書力のない子で、兄が読んでいたものを気まぐれで挙げたらしい。それを調べもせず、中身を読みもせず、蔵書にしてしまった。たしかに児童書が山のように出版される現在、すべてに目を通して可否に判定をするのは困難なことだ。しかし、司書なら、山田悠介、西尾維新、行川渉、平山夢明らのサブカル本が要注意であることくらい知っていてもいいのではないか・・・十進分類と貸し出し業務を知っていれば司書が務まるのでは、レンタルビデオ屋のカウンター従業員でも翌日から学校図書館に司書として勤められる。これらのサブカル本は「表現の自由」以前の問題で、深い文学的テーマなど何もないのである。百害あって一利もないものなのだ。こういうものへの注意がなかなか向かない。

● 五百円そこそこの本を学校図書館が置く必要はあるか ●

 サブカル本の多くは安い本である。中・高校生のお小遣い程度で買えることが製作条件だから安い。そんなものを学校図書館が蔵書にするのはおかしいのだ。コミックを蔵書にするのと同じである。こういう傾向は学校図書館だけではなく、公立図書館にもある。「利用者のニーズを吸い上げている」という答弁が必ず返ってくるが、AV資料と称して、しようもないアニメビデオ(DVD)を図書館が置く・・・「そんなものはレンタルショップに行ってください」と言えない事情があるのか、利用者を大切に扱っているのか、私には税金のムダ使いに見えてしようがないのだが、平気でこの利用者ニーズに応えることが流行っている。これも司書の見識のなさが発揮されている例と言っていいだろう。もちろん、多くの学校の司書はまじめに選書をし、書棚を充実させる努力をしている。私の知っている小学校には校長先生が自分の文庫を持っていて、良い本を集めて子どもたちに紹介しているところさえある。しかし、なかには司書の資質が低い要注意の学校図書館もあるということである。

(2009年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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