ブッククラブニュース
平成21年3月号新聞一部閲覧追加分

親や子がいる場所完結I「依存(いぞん)」

◆依存するものがちがってきた◆


 前回、狂気が向かう先は心を救うように見えるもの(サブカル、クスリ、ブーム、宗教など)だと述べた。かつては、背かつと心の依存先は会社であり家族であったが、いま企業は自分を本当に支えてくれるかどうかわからないものになっている。考えてみれば、もともと給料という金銭関係で雇用がなりたっているのだから、市場原理が強くなれば人間が弾き飛ばされるのは当たり前のことかもしれない。家庭も一部(大部分かも)で変質している。子どもが大きくなったら会社に就職させるという教育の目標は市場原理の崩れで目標でなくなりつつある。そうなれば、これまで教育家族だった家庭も変わってくる。当たり前のように卒業して就職していた時代は終わりつつあるからだ。でも、軸になるもの、よりどころとなるものはまだ見えてきていない。私は個人的に心の崩壊を支える手段は家族という形態にすがるよりないと思っているが、戦後の民主主義教育や民法のありかたは家族を崩すものだった。しかし、家制度は崩したものの個人はバラバラになってしまっているような気がする。親と子などの関係で細々と生き残っているとしかいえない。バラバラになって行った人々はどうか。帰属するものがなくなった人は、そこで、何かしらに依存する。依存対象はいくらでもある。ケータイ、アルコールなどの嗜好品、フィギアなどへのオタク化、パチンコなどの賭け事からコンビニ依存まで・・・あるいはカルチャークラブ、アスレチック、健康オタクなど・・・、何でも対象はあるのだから・・・・。

◆オウムはなぜ崩壊しない◆


 依存の最たるものは宗教だと思うが、私が不思議でしかたがないのは、あのオウム真理教の信者が減らないことである。テロ事件を起こしたことがわかっても、公安に監視されていることがわかっていても信者が減らないで、新規加入が多いということは何を意味しているのだろうか。一昔前なら、あのような事件を起こせば教団そのものが消えうせてしまうはずなのだが、残っている。やはり、満たされない何かを教団に依存することで満たそうとしている人々が多いわけで、この社会がやんでいる証拠でもあるだろう。かつては、オタクになって自分の世界に閉じこもることで自分を守ったが、これと同じ傾向がケータイやネットの交信に依存することから始まり、大麻や覚醒剤、健康食品などのブーム、そして宗教に向かっている。おそらく以前のような家庭内「安心」が特殊なものへの「依存」に変ってきているのだろう。何かに依存することで安心を保ちたい人間の弱点があらわになっているわけだ。しかし、メディアはこの警告を絶対にしない。言葉を軽く見ているのがメディアだからである。また、メディア自身が現代の依存の対象でもあり、その要素を多く内包しているからである。ウソを言わなければ物が売れない時代にしたのはメディアでもある。心の救いのない時代では、救済の見せ掛けをするものに人は依存する。

◆言葉の力がなくなった◆


 私は、こういう依存は言葉が力を失ってしまったことに原因があると思う。コミュニケーションしてもつながらない苛立ちが何かへの依存に走らせるわけだ。実際、現代では、言葉は直接交わされるより電波を通すことのほうが多くなった。直筆の手紙などめったに書かない。つまりは、相手を大切にする気持ちより、便利さが優先されるのである。とうぜん、ゆっくりと話す機会も少ないだろう。言葉は交わされる回数が減ってくる。相手が見えなくなれば、相手を尊重しなくなるのも当たり前かもしれない。
 昔、会社は社員を大切に扱い、人生をゆだねても良いという信頼しうるものだった。それが組織の存続のためなら社員も斬る。昔、親は自分の夢は犠牲にして子どもを育てることはあたりまえだったが、自分の欲望のためなら子どもを捨てることもありうる状態も一部では出てきた。暗黙の約束で保障されていた「安全」は消えてしまったのである。こういうところでは、言葉は何の説得力も持たない。去年十月号の夢新聞(表)でも述べたが、政策実行を言葉を宣言した首相が一週間後に政権を投げ出す世の中である。言ったことがすぐ違う言葉で言い直される現象も平気で行われる。これでは言葉の力は期待できない。一般社会では、もはや約束など守られないのが「一般的」なのである。
 言葉は「実行」の裏づけがなければただのノイズや記号に過ぎない。実行も善意に基づいていなければ言葉の意味が死んでしまう。ここは、「言ったことは善意で実行する」より方法がないだろう。「状況が変れば、することも変わる」というご都合主義では、子どもたちは大人を信用しないで何かへの依存を高めてしまうだけだ。しかし、個人の欲が大きいと平気で子どもも周囲も裏切ることになる。こういう時代はむずかしい。むずかしい時代だが。嘘や約束不履行などを避けて有言実行で信頼を周囲に広げていかないと人間関係が破綻してしまうと思う。いつまでも便利さでつながっていないで、肉声、直筆の復活が必要なのではないだろうか。

読み聞かせの周辺H最終回 5・6歳以上

◆言葉の意味と無意味さを知る楽しさ◆


 5歳くらいになると本格的な言葉遊びの絵本に関心が向きます。これまで言葉はある特定な物を意味するものでしたが、この辺から言葉そのものを使って遊べる面白さがわかるようになってきます。言葉に意味がないこともあることが分かる時期です。「河童、かっぱらった」「かわいいかわうそ皮を乾かす」「昼間、出かける/昼まで駆ける」などの言葉のおもしろさがわかってきます。この芽生えは、4歳のはじめのころの「しりとり」として始まります。しりとりも意味より無意味な言葉の遊びですね。この無意味さの理解は、成長したあとに大きな言葉の幅を作っていくものになると思います。言葉は意味もあれば意味が無いこともあるということを最初に知り始める時期が5歳くらいなのだと思います。

◆読み聞かせと一人読み◆


 5歳以上ともなれば、かなり高度な内容の絵本を楽しむことができてきます。「ちいさいおうち」のような文明批判のようなテーマの話も感覚的にわかる年齢になっています。また「エルマーのぼうけん」や「ダンプえんちょうやっつけた」などの長い物語もじゅうぶんに楽しめます。話が長くても聞く力がついてきているわけで、こういう形で言葉を獲得する力がつけば、読書へ入っていくのにじゅうぶんな条件ができたということでしょう。ちょっと周囲を見てください。キャラクター絵本、戦隊もの絵本などで育った子、あるいは絵本などまったく与えられずに大きくなった子がいます。もちろん、本の世界だけに閉じこもるのではなく外で遊ぶことができていれば、それはそれで大切ですが、最近の子どもたちは物語を楽しむ力がないように思われます。物語を聞ける力がないと、一人読みの読書に入ることはむずかしいでしょうね。読書は想像力が必要ですからね。

◆美術感覚と絵本の絵◆


 中学で美術を教えている先生から「最近の生徒はイラストはひじょうにうまいけれど、美術性の高い絵が描けない」「描ける絵は漫画でしかないこともある」ということを聞きます。それはそうでしょう。キャラクター絵本で終始して、漫画やゲームだったら視覚で体験したものはアニメイラストばかりです。美術性を知る機会さえないわけですね。ブッククラブでは、ほとんどアニメ、キャラクター絵本は採用していません。絵画性の高い絵の絵本を採用していますから、それなりに多様な絵を楽しむことができているはずです。美術感覚も教えごとではなく、やはり育った環境で決まると思います。

◆配本選書の方向は・・・◆


 こういうかたちで発達に応じた形の絵本選書をしていますが、最終的な方向は読書です。読み聞かせ〜一人読み、絵本から絵童話・物語・・・・本格的な文学へというガイドラインをつくっています。でも、これは昔と違ってたどるのが難しくなっています。バランスのよい力が育たないと難しいのです。せっかくの秀作があっても味わえなければ意味がありません。「おもしろさ」を感じなければ読書は続けられませんが、現在のテレビ番組のような劣悪な面白さばかり見ていると、ほんとうの面白さが分からなくなるのと同じです。小学校の図書館での問題点を、いずれ感じる(粗悪な図書館蔵書や子どもたちに媚びた内容の物語本の存在)ことでしょうが、そういうものに左右されないで、高度な読書に進む子もけっこういるのです。まずは、何が本物で何が偽物かを教える環境が必要だと思います。内容はだんだん高まって行きます。読み取りの力が落ちないように周辺環境を整えるのが大切ですね。



(2009年3月号ニュース・新聞一部閲覧追加分)

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