ブッククラブニュース
平成20年11月分

真面目な人々


振り込め詐欺がすごい勢いだ。若者が老人をだます・・・人の心の劣化に歯止めがかからない。ひき逃げ・・・見つからねば、知られなければ何をやってもいい。日本が悪くなったのは何が引き金になっているのだろう・・・やっぱり、コネズミ改革の結果か、金融不安が加速度を高めているのか、・・・・などと考える。
 女房と新聞を見ながら話しあう。「しかし、老人はお金持っているよなぁ。」「ウチにかかって来ても、お金となれば、その場で振り込めないよなぁ。」「あるところにはある。」大きな声では言えないが、詐欺と言う犯罪は引っ掛かるほうも悪いという。美味しい言葉に釣られて一儲けしようという心が詐欺を生むこともある。これと同じことなのだろうか。ひき逃げされて、殺されても引っ掛けられて引きずられたほうが悪い。そんなバカな話はないが、現実の社会では、どうもそんな感覚が付きまとう。悪者までが人権を擁護され、それを優しく支えるのが民主主義の社会ならそんな社会はいらないというところまで来てしまったのかもしれない。
 NHKの「子どもニュース」で経済評論家が、「これからはアメリカ依存の経済をやめましょう。マネーゲームもやめよう。精密な物づくりや工夫で国を盛り上げましょう。」と勝手なこと言っていた。「もっと早くにアメリカン・グローバリズムはダメだと言っていたら信じてやるよ!」と言いたいが、評論家とはそんなものだ。彼らがアメリカ経済に依存して儲けることを煽っていた時期もある。メディアもそうだ。ホリエモンを新しい経済感覚として持ち上げたこともあるし、小室哲哉を新しい時代の音楽感覚だと褒め称えた時期もあった。いまだって、そうだ。音痴としかいいようのない歌手を持ち上げ、心の劣化を煽る映画やアニメを持ち上げている。
 何か起きなければ何も言わない。何か起きても都合の悪いことには口を閉ざす。今だって金融不安が起きなければ何も言わなかっただろう。
 ゆめやのニュースでは昭和六十三年三月号でボーダーレス社会の危険とアメリカのグローバリズムの悪影響を書いている。「よく記憶しておいて欲しい」と2000年には「ガイドライン三法」の追従型危険性を書いた。「アメリカはもういいよ」とも書いて、紙上で会員の討論をしたこともある。
 でも世の中の流れは変わらない。あたりまえだ、こんな小さい店の一枚のニュースがオピニオンリーダーになれるわけもないが、そんなことより人倫の崩壊のほうがきっと早いのだろう。どんどん勝ち負けの傾向は進んで、マネーゲームもとどまるところを知らない。「真面目にやったら損だ」という発想も強くなっている。
 G20では金融機関の暴走に政府が歯止めをかけると言っているが、その暴走を許し、煽っていたのは政府ではなかったか。
 しかし、多くの日本人は、メデイアがいくらバクチを煽っても、パチンコもしなければ競馬もしない人のほうが多い。みんなマジメに仕事をしているのだ。公共事業ばかりしてきたツケが回って、不況の時代に突入しても多くの人は黙々とがんばっている。役人がGDPの半分を食っている時代でも、多くは真面目に税金を払い、がんばっている。日本がなんとか持っているのは、もともと市場原理に走らないで、マジメに働いている人たちのお陰なのではないか、と思う。日本の多くの人はまだまだマジメで、その人々が下支えをしているから、この国は何とか持っているのだ。儲けたい、儲けたい!と思う人々が詐欺をしたり、偽装をしたり、使い回しをするのであって、多くの人々はマジメに生きている。
 先日、久しぶりに湘南ラインに乗って横浜に行ったが、ホームや電車の中はなんと静かなことだろう。みんな話一つしないで、半数は眠り、半数はケータイの画面を見つめている。何ともマジメ?でおとなしい?人々である。疲れているようにも見える。物事に無関心になっているように思える。でも、そういう気持ちを抱かせてしまったのも、この国のあり方を考えずに、ひたすら儲けることを煽り、アメリカに追従してきた無策の政治である。たしかに「みなとみらい地区」は未来都市のように豊かさを象徴する風景だが、駅のホームで私のようなケータイももたない田舎者は、いつ刃物で襲われてもいいように身構えてピリピリしていたが、都会の人は意外に平気なものだ。イヤホンを耳に突っ込んでいるから、周囲の気配さえ分からない。危機意識もなく、ひたすらマジメに働く、こういう人々が日本を支えていると思うが、なんとも無防備で、危ない!・・・・彼等は何が起きても「しかたがない!」で過ごすのだろうか。何と、この国は真面目な人々であふれかえっているのだろう。その真面目な人々を大盤振舞の経済破綻で痛めつけ、赤字をチャラにするために戦争でも引き起こしたら、国も振り込め詐欺の犯人やひき逃げ犯の無反省と変わりがなくなる。まじめな人が安心できる時代は、いつ戻って来るのだろう。

「ぼくは王様」症候群


こんな名のシンドロームはない。ないが、平成12年のフレンドシップニュースで初めて使った。つまり、それまで、かなり「しつけ」について書いていた。ところが、世の中はまったくそれと逆で「自由」「押し付けない」「強制しない」という傾向に流れていた。もちろん、その現われとして、子どもたちのわがままが肥大化して、自分勝手、何か言うとキレるということが起きた。だから、その現象を親が子どもの召使になってしまう意味で「ぼくは王様症候群」と名付けた。その時期の子どもはもう二十歳を過ぎた。
 当時、「叱るより説明を繰り返して理解させたほうがいい」「叱ることで精神的な傷が残る」「体罰を受けた子は、自分が大人になったとき同じことをする」などが反論の主なものだった。私のように叱られて躾けられた世代には納得のいかない理屈なのだが、「そういうことで社会性が育つものなのだろうか」と思った。
 親を召使いのように「自分のいいなり」にして育った子が、学校や会社という組織の意志で動かねばならないときに「ぼくは王様」では通らない。引きこもるか、不登校になる可能性は高い。「組織では生きない」という自立性の高い人間になれば、「ぼくは王様」もいいが、自分では何一つできない人間になったら、ただのわがままだ。

「叱る必要性」


その突出するわがままを抑えるのが、「躾け」であり「叱り」であると思う。ちゃんとした家庭ではあたりまえのことだが行われているものだ。この「躾け」や「叱り」がないと子どもに注意力や観察力が育たないのである。「熱くなっているヤカンや流れている側溝に近づいてはいけない」ことを説明してもその場では理解できないこともある。そういうばあいは叱るだろう。本を破いたら、その場で叱るはずだ。そうすれば次にはしなくなる。自分のわがままが、危険を作ることがわかるからだ。叱らない親、優しく諭す親、弱くて何もいえない親の子は多く、わがままなことが証明されている。
 たしかに、赤ちゃんは天使のような存在で、かわいい。しかし、それは現実を知らないことによるかわいらしさでもある。もちろんヒューマニズムとやらで「叱らない」ことを主義にしてもかまわないが、子どもは小さければ小さいほど動物と同じで叱られなければ増長して親でも奴隷にしかねないものだ。この点は昔の親のほうが、そういうことはよくわかっていて、適切な叱り、躾けができたが、最近は権利教育という戦後民主主義の成果(弊害)で親自身も叱りや躾ができなくなっている。まあ、それで一番困っているのは、そういうことをしてきた学校なのだが・・・・・・・。

「成長に応じた躾け」


ただ、叱るといっても、発達対応で叱らねばならない。そうしないと虐待にもつながりかねない、あるいは大きくなって叱っても効き目がない・・・などのことが起こる。社会性も育たず、親を親とも思っていないような二十代の男女を見ていると「ああ、あのとき叱られなかったからかなぁ。」などと思う。ふつうの家庭では、さまざまな原則があって、子どもがそれから逸脱すると抑制が働くようにする機能があるはずだ。それが「躾け」となる。わがままを容認していくことは、子どもが成長しても手が抜けないことになり、親がいつまでも楽になれないことにつながる。わがままに手がつけられなくなれば放ったらかすよりない。子どもがなかなか大人になれないということから考えると親子ともに利益のないことになるが・・・・忙しさも手伝って、そういう家庭は増えている。
 我慢しなければならないことは我慢する。しなければならないことはする。・・・こういうメリハリをつけることが脳を活性化して、物事を見極める力を増すのだが・・・・それが、なされないために、中学生になっても大人になっても周囲を観察して、きちんとした自分自身の対応を考える力を持った人間ができないでいる。むずかしいことを言っているわけではない。「社会性」をつけるためには、親の叱りや躾が重要だということである。

ZOY


KYから始まって日本語のアルファベット化が進む。麻生首相はZOY「全部オレがやる」と来た。藤原正彦は「国語がダメになると国が滅びる」と言ったが、私はそういう国は滅んだほうがいいと思っているので、逆に「国が滅びるとき国語がダメになる」と思っていた。 そうしたら十月十四日に横浜の神奈川大学外国語学部で「九十分話していい」という機会を得た。「国語がダメなら外国語で行くか」と思って、「言葉の力:言葉は力を持てるか?」ということで英語英文学科の学生に授業をさせてもらった。もちろんレジメをたくさん作って・・・。私の論理が二十歳前後の学生さんがたに完全理解などとうていしてもらえないと思ったから、かなり大量のレジメを渡してみた。後で、読み込んでもらってもいいし、実際に、それに応じて本を読んでもらって、少しでも言わんとすることの理解をしてもらいたかったからだ。
 しかし、言葉は力を持てるか?と投げかけても、その材料は暗いものが多い。
 そこで、ます前回述べた「空疎な言葉の時代」で取り上げた政府広報の言葉を例に出した。
「政府広報)」【2008年8月14日付け・内閣府発行】

 (北島康介、谷亮子、内柴正人らのメダル獲得の背後に身近な人の支えや声なき応援があったと述べたあと)
 「・・・・私は、世の中に聞こえてこない声の中に多くの国民の気持ちが込められていると思うのです。この声なき声をどのようにしたら聞くことができるか。そして、どう応えていけばよいのか、それこそ身体全体を耳にして聞かなければと考えます。国民経済に重大な影響を及ぼしつつある物価高や景気悪化に対応するための「安心実現のための総合対策」の骨子を取りまとめました。原油、食料価格の高騰、地球温暖化などの課題に対して、しっかりと効果的な対策を実行します。時機を逸せず実現するよう、全力を尽くしてまいります。 」福田康夫
 これほど空疎な言葉はない。これだけ言っておきながら二週間後には政権を放り出したからである。
 「政治家が出来もしないことを言い、途中で仕事を投げ出す。偽装がバレると心にもない謝罪を繰り返す。そういう環境で言葉の力が信じられなくなっているはずだ。」と切り出した。「だから、恋人から『愛している』『結婚しよう』と言われてもすぐには舞い上がらない。離婚やDV、浮気や家庭放棄などが平気で行われる。言ったにも関わらず実行しない大人がたくさんの例を出せば、若い世代は言葉をだんだん信用しなくなるのは当たり前ではないか。「愛している」「結婚しよう」で、舞い上がるのは女しか売り物にできない頭の悪いギャルだけ。これも言葉が力を失っている証拠です。」と続けた。
 とくに、ここの学生さんたちは外国語学部の方々なので、言葉やその置き換えには一般の学生さんよりは敏感なはずである。例えば、日本語に翻訳するばあい、ただ置き換えればいいかといえば、そんなことでは言葉は力を失ってしまう。そこで例文の提示をした。
例文@【Soeren Kierkegaard 8 「Philosophische Brocken」 】
Was geschehen ist, das ist so geschehen ,wie es geschehen ist, also ist es nveranderslich,aber is diese Unveraenderlichkeit die der Notwendigkeit? Die Unveraenderlichkeit des Vergangenen ist, dass dessen wirkliches So nicht anderes werden kann ; folgt aber daraus ,dass sein moegliches Wie nicht haette anders warden koennen?

【キエルケゴール第八巻 大谷長・訳】
 起こったものは、それが起こったように起こったのである。それ故それは不変である。しかし、この不変性は必然性であるか? 過去のものの不変性は、その現実的な定相が別様にはなりえないということにある。ただし、それからその可能的な様相が別様になりえなかったということが出てくるであろうか。・・・・

 いくら何でも、この訳は日本語とは言いがたい。これでは誰もわからない。こんな文を書いていたのでは、いくらありがたい宗教や哲学の本でも誰もわからないし、心を揺さぶられることはない。これは、翻訳自体に日本語を無視する無責任さがある。

 これと同じことは、最近でも起きており、例えば、エーリッヒフロムの【Sein und Haben(生きるということ)】佐野哲郎・訳では同じようにチンプンカンプンの訳だ。
 「未来は、やがて過去となるものの予測である。それは過去と同じように、持つ様式で経験され、「この人は未来を持っている」という言い方で表現されるが、その意味は、彼もしくは彼女は今はそれらを持っていないが、やがて多くの物を持つであろうということである。フォードの会社が広告に使っている標語は、「あなたのフォードがある」であって、未来において持つことを強調している。ちょうど或る種の商取引において、"先物商品"の売り買いをするように。過去を扱う場合も、未来を扱う場合も、持つという基本的な経験は同じである。」

 専門的な内容だから難解でも頭の良い人たちなら理解できる・・・・というのは傲慢なことである。これは日本語が分かっていないというよりは、日本そのものがわかっていないのではないか、と思われる訳である。読み手のことなど考えず、ひたすら語彙の日本語置き換え。これは漢文か?と思うような言葉が続く。「日本語に正確に対応していればいい」という学者らしさが命取りの訳文だと思う。大学内の紀要ならともかく本として売り出されるものなのだから少しは考えてほしいわけだ。

 では、良い翻訳とは何か。そこで英文で「Memoirs of a Geisha」を出した。
【Memoirs of a Geisha CP27―3】
 Everyone knows that a wounded tiger is a dangerous beast; and for this reason, Mameha insisted that we follow Hatsumomo around Gion during the evenings over the next few weeks.. Partly Mameha wanted to keep an eye on her, because neither of us would have been surprised if she’d sought out Nobu to tell him about the contents of my journal, and about all my secret feelings for “ Mr.Haa,” whom Nobu might have recognized as the Chairman. But more important, Mameha wanted to make Hatsumomo’s life difficult for her to bear.
“When you want to break a boad,” Mameha said “cracking it in the middle is only the first step.Success comes when you bounce up and down with all your weight until the board snaps in half.”So every evening ,except when she had an engagement she couldn’t miss・・・・・・・・・
【さゆり 小川高義・訳】

 虎が手負いになったら危ないというのはわかりきったことですから、しばらくは初桃の行く先々へ目を光らせなければならない、と豆葉がいいだしました。あの日記のことを延さんあたりに告げ口してやろう企むかもしれないというのです。また「ハアさん」への忍ぶ恋でも漏らされたら、それが会長さんなのだと延さんには察しがついてしまうでしょう。さらに、この際だから初桃が居たたまれなくなるように仕向けたらいい、というのが豆葉の本音でした。
「もし板を割ろうと思うたら、ひびが一本真ん中に入ったかて、まだ序の口やろ。どしんどしん踏んづけて、ぽりんと割らなしょうないわなあ。」というわけで、よんどころないお座敷でもなければ、豆葉が置屋にやってきて・・・・

 これは、邦題が「さゆり」・・・映画でも有名になったアーサー・ゴールデンの原作の翻訳である。

 「さゆり」の訳はこなれていて日本文化を充分に消化して(当たり前のことだが)見事な文だ。外人が書いた日本を日本人が描きなおすためには日本について熟知していなければこなれた日本語訳は無理なことだろう。訳が的を射ていれば、日本語として人の気持ちを打てる。日本人が外国向けに英文で書いた文章を再翻訳する場合でも同じことは言える。例えば、新渡戸稲造の「Bushido」。この翻訳も須知徳平のこなれた訳で、よく理解できるものだ。
【「Bushido」 Nitobe Inazou】

 Now my readers will understand that seppuku was not a mere suicidal process. It was an institution, legal and ceremonial. An invention of the middle ages, it was a process by which warriors could expiate their crimes, apologise for errors, escape from disgrace, redeem their friends, or prove their sincerity. When enforced as a legal punishment, it was practiced with due ceremony. It was a refinement of self-destruction, and none could perform it without the utmost coolness of temper and composure of demeanour, and for these reasons it was particularly befit-ting the profession of bushi.
【武士道 須知徳平・訳】
読者には、切腹がたんなる自殺の行為でないことがわかったであろうか。切腹は法律上ならびに礼法上の制度であった。切腹はわが国の中世にはじまって、武士がその罪をつぐない、過ちを謝し、恥をまぬがれ、友人につぐない、そして自分の誠実を証明する方法であった。それが法律上の刑罰として命じられたときには荘重な儀式をもって執り行われた。切腹は洗練された自殺であって、感情の冷静さと態度の沈着さとがなくては、誰もこれを実行することができなかった。それ故に、切腹はとくに武士にとってふさわしい作法だったのである。

 言葉がメッセージになるためには迫力のある訴えが出なければならない。・・・学生たちに提示した例文は、すべて短い原文と訳文だったが、じつはつなぎ合わせると、例えば、その本を読んでいくと、例え日本語としてチンプンカンプンな哲学の本もじつは、現代を生きる日本人の一つの選択肢が浮かび上がるように連続的なガイドラインを持つように作ってみたわけだ。
 どの文にもサブカルチャー言語のようなKYやZOY、「超〜」も「キモい」も「〜なくねっ!?」も使われていない。むずかしくても良い文には綺麗な言葉の強さがある。綺麗な言葉は残っていく。汚い若者言葉が批判されるのは今に始まったことではなく、「枕草子」の昔からあった。黙っていれば十年後には消えていく。ZOYも「キモい」も長続きはしないだろう。
 問題は言葉の空疎化・・・「言ったことはやろう」「まじめさがないと人間関係が持たないよ。」「社会とのつながりもむずかしいよ。」と言ってみた。思いのほか学生たちはよく聴いてくれた。人間関係に悩む世代?だからだろうか。思い込みの激しい読み聞かせおばさんたちより、はるかに熱心だったし、自分たちの成育過程がサブカルチャーで汚染されていることも自覚していた。後日、たくさんの感想レポートが戻ってきた。「言葉に行為が伴えば、言葉は力を持ってくる。
 「行ったたことの責任は取ろう! 言葉は実行が伴わなければ人の心を打たない。黙って自分一人ででも言葉と矛盾しないことをやろうじゃないか。」・・・・そう、それぞれのレポに返事を書いた。全部一人でやることである。アレッ!・・・・これってZOYですね。「全部オレがやる!」・・・。


(ブッククラブニュース一部掲載11月分)

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