ブッククラブニュース
平成20年8月追加分

読み聞かせの周辺C - 2歳前半

●2歳の発達は目に見える●

▼ 2歳になると、あらゆる力が目に見えて発達してきます。運動能力もですが、好奇心や物事への関心が顕著になる時期です。大脳の旧皮質の発達が完成期に達し始めていて、意識的ではありませんが、「自分が何に属しているのか」、「誰によって一番愛されているか」が分かってくるのです。「自分」ということを意識して、主張したり、「自分でやってみたい」という欲求も強くなります。危険でない程度のことはどんどんやらせるべきでしょうね。不快なことや痛いことも知っておかねばなりませんからね。

▼ 2歳前半で、本を丸暗記する子も出現します。BC配本の絵本は、この時期になると急に長いものになりますが、ページをめくると、立て板に水でしゃべり始める子が出るのです。「かお、あらったし、かみのけとかしたし、さあ、あさごはん・・・」親はびっくりします。「天才ではないか!」と思います。でも、これは、ごくふつうのことで、急速に発達し始める新皮質の言語野が水を吸い込むように「言語」を吸い込むからです。もちろん、大人が言う「記憶」とは大違いで、長続きしません。たくさんの言葉が入ってきた段階では止まってしまいます。早期教育は、子どもの、この時期の特徴を捉えてお勉強の成果を見せ付けますが、ごく当たり前の現象で、すぐにそんなことはしなくなります。ブッククラブでも親は「読み聞かせた甲斐があった」と思いますが、そうたいしたことではありません。まったく、そういうことをしない子もいます。記憶力の強弱とは関係がないので、それも心配することはないです。話される言葉より、頭の中で分かっているけれど口には出ない言葉を増やしていくこと、耳から言葉は入ってきますから・・・・・読み聞かせは大切!

▼ 配本では「ちいさなたまねぎさん」や「ゆびくん」のような身近なもの、身近なことに関するものが入ります。よくご覧になっていただけば分かると思いますが、すべて「しゃべり言葉」で書かれています。つまり会話語。1歳代からの語り掛けの読み聞かせを、ここで集大成する配本パターンです。ここから3歳に向けてじょじょに物語を語る「文章語=書き言葉」に変わっていきます。書き言葉は、論理的で緊張感のある言葉ですが、このへんから慣れていけばまったく違和感なく物語に入れるでしょう。キャラクター絵本やアニメ漫画を見てください。どこまでいっても「しゃべり言葉」で、そういうもので育った子は書き言葉になかなか入れないのです。拒否反応さえでます、7歳、8歳になっても読んでもらわないと本を見ないという子の増加は、それを端的に現すものでしょう。ブッククラブ配本で文章語の絵本は「おおきなかぶ」が始まりです。「・・・しました。・・・です・」という地の文が入ったら文章語、アドリブやパフォーマンスを加えず淡々と読んでくださいね。くれぐれも読み聞かせおばさんのような派手な調子を真似することなくやってほしいです。ここは、その後の大きな分岐点です。

▼ さらにこの時期で大切なことは、「現物との照合」です。野菜とは? 着るものとは? けものとは?・・・「これが、それだよ」と実際に見せて、触らせることも必要です。 また、この時期の子は大人が見ればくだらないもの、汚らしいものにも強い関心を示します。何事も「こわい!こわい!」で手を出さない子は、0歳から大人が触らせないように刷り込んでいて、体験自体が嫌だということにさせられているのかもしれません。ダンゴムシをポケットにいっぱいにつめ、トカゲや石を持ってくる・・・これらは普通で自然の発達です。

▼ もちろん 2歳児の特徴として、暗闇を怖がることも起きてきます。1歳のときは真っ暗闇でも寝たのに、電気をつけないと寝ないという子も出てきます。これは大人とちがって、この頃の子どもには暗闇で物が見えてしまうので怖がるのです。つまり想像力の発達ですよね。これについては、3歳代の物語絵本の読み聞かせに直接リンクするものなので次々回にも触れたいと思います。とにかく読み聞かせが定着し始める時期です。毎日、一定の時間、読んであげてください。



親や子がいる場所C「偶有(ぐうゆう)」


またまた「偶有」なんて難しい言葉使ちゃって!」と思う人も多いだろうが、「本質的属性」とか「他でもありえること」という辞書の意味は逆に意味不明になる・・・とにかく新たな意味の模索のためのヒントの言葉

◆犯罪が象徴する家庭や家族の変化◆

 長い間、ゆめやの新聞を読んできた人には、「少年が主役の犯罪に関心が強いなぁ。ブッククラブで本を読んで育つ子がそんなことするわけないだろ!」と思っている方も多いはずだ。「もちろんです。本をちゃんと読んで育った子が、そんなこと出来るはずもない」と言い切れる。私が少年事件に関心があるのは、原因がサブカルチャーばかりではなく、事件の姿が世の中のいろいろなものの変化を暗示してくれているのが分かるからだ。つまり、これから先を予測する材料になる。だから関心がある。いわば転ばぬ先の杖の材料・・・。

◆事件が暗示する変化◆

 最近の少年事件が、標的を外側ではなく内側に向けてきたと感じないだろうか。犯行対象が身内に向っているというのは何を意味するのか。かんたんに言えば「家庭の崩壊」だが、多くの会員の方の家庭は崩壊していないから「そんなの特殊な例だよ」でタカをくくる。しかし、皆さんのもっている「家庭」というイメージはどんなものだろう。少なくとも高度成長期の「夫は仕事、妻は子どもを育てて家を守る」ではないだろう。それだけでも大きな変化だ。しかし、それでもまだ「家族とは選びようがない確固とした運命的な関係」と思っているかもしれない。「だって子どもは親を選べないし、だからこそ血のつながる家族は必然的なものだ」と・・・。

◆親や家庭が置かれている変化◆

 ところが世の中は変わって来ている。例えば、NHK放送文化研究所の意識調査によると、この三十年間で家庭(家族)を崩す要素の変化が顕著だという。三十年前は女の子と男の子でも教育の与え方に違いがあったが、男女とも成人後に仕事に就くことを前提にした教育シフトになってきている。また、まったく別の意識変化もある。婚前交渉を認める意識が20%に満たなかったのが三十年前(五十年前はもっと低かった)だが、認める側が現在は50%を越えた。婚外交渉も10%以上が認めているという。離婚に対する意識の変化も大きい。「他の選択肢もあるうる」という変化が出た。三十年前は離婚を容認する意識は1割にも満たなかったが、いまや「何が起きても不思議でない」という意識が大半を占める。家庭の、あるいは家族の構造は着実に変化しているのである。理想の家庭像を描いている皆さんも、おそらく「何が起きても不思議でないレベル」の予感はきっとあることだろう。これは大きな変化だ。

◆「偶有」のなかに子どもたちが置かれ始めた変化◆

 この変化を具体的に示したのは2003年の父と弟を刺した少年(大阪河内長野市)の事件である。少年には付き合っていた少女がいて、彼女と暮らし、やがて心中したいという意図があった。別に親を殺さなくても問題ないし心中なら勝手にすればいいわけだが・・・。おどろいたのは少女も自分の家族の殺害計画を立てていたことである。はじめ、これは???で、わけのわからない事件だった。しかし、オウム真理教事件でサリンを撒いた林郁夫被告の手記「オウムと私」を読んだとき、大阪の少年事件の全貌が見えてきた。かんたんに言えば、私たちが「絶対だ」と思っている親子関係や血縁関係・・・・家族・家庭というものに対する意識がまったくないのである。オウムの連中もそいうだった。「唯一ここでなければ存在できない」というのではなく「いつでもどこでも自分は存在できる」という浮遊感覚。じつは「自分の邪魔だから殺そう」という意識もないのである。自分の存在をリセットするきっかけ、あるいは「どこにでも存在する」ために必要な魔法を行うこと、それが身近にいる者を殺すということにつながっているだけではないか、と思える。オウムのテロは日本を政治的に変える意志を持った作戦とは言いがたいものだった。子どもの遊びか精神病である。偶有意識のなせる業である。
しかし、実は「どこにでも存在したい」という意識の流れは私たちのなかにもある。ハイスピード移動の目的も情報ツールを使うことも「どこでも存在したい」欲望を満たす手段のひとつである。メディアもサブカルチャーもその一翼を担っている。「この親でなくてもいい」「この兄弟でなくてもいい」「この妻でなくていい」という意識はそういう環境の中で生まれる。オカルトや怪奇現象オタクの中には、なんと「自分の前世の家族や仲間を探したい」という者がたくさんいる。前世の仲間・・・生まれる前の家族?・・これは現世の親子・家族より、はるかに優先順位が高いではないか! 「偶有」は、そんなものへ精神の傾斜を引き出すのである。先月、埼玉川口でわけのわからない父親殺人が起きたが、この少女の中にも「どこにでも存在したい」という究極の自由を求める気持ちがなかったとはいえない。「自由」とは行き過ぎるとこんな恐ろしさも発揮するのである。


(ニュース一部閲覧2008年8月号追加分)
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