ブッククラブニュース
平成20年6月分

読み聞かせはサブカルチャーとの戦い

  毎月、このようにニュースを書いていて一番困ることは、同じことを繰り返し言わねばならないことである。長い会員にとっては、「またか! 同じことをクドクドと。」と思われる。かといって考えを述べなければ次々と入ってくる新しい会員の方は知らないままだ。「ブッククラブとは受けた配本を読み聞かせればいいもの」としか思わない。最初に渡した「ご案内」を読んでいただければご理解いただけると思うのだが、読まないで入って来る人も多い。
世の中の状況を軽く見ているのはいいとしても、やはり眼前の子どもの「可愛らしさ」だけに目を奪われてホイホイと何でも与えるのは問題なのである。この時代は、物を売るのに節操がない時代だ。子ども向けの商品であろうが何であろうが、吟味もなく売る。利益が上がれば、たとえそれが子どもの心や体に影響があるものでも何でも売るようになっているのである。害のあるものでも儲かれば何だって売る時代になっているのだから困ってしまう。
問題は、すぐに影響が出るものか、そうでないかである。毒のようにすぐ影響が現れるものではなければいいという考え方で、かなりたってから影響が大きくなるものについては規制はない。一方、親は豊かさも手伝って、子どもかわいさのあまり、何でもかんでも与えることが「愛情」のように錯覚し始めている。 たしかに赤ちゃんは純真無垢。粗悪な物の影響など受けていないからやることなすこと可愛い。それを見ている親としては、いずれ、その子がサブカルチャーの影響を受けることなど想像さえしないで、どんどん与える。子どもが喜べばそれでいい。影響の現実感もないことだろう。「戦隊ものはダメですよね。よい本を選ばなくちゃ。」と言っている親が連れてきた子の靴にゲキレンジャーのキャラクターがついていたりすると、「何もわかっちゃいないな」と思ってしまうことも多い。
 「ブッククラブ入会のご案内」の「読み聞かせや読書を阻害するもの」のところで述べているように、いまや子どもは生まれてからすぐTV,アニメ、キャラクターから始まり、戦隊もの、電子ゲーム、TVゲーム、コミック・・・長じてはインターネット、ケータイ媒体のゲーム、掲示板などのサイト・・・まで、多種多様のサブカルチャーに襲われているのである。
これには政府もメディアも甘い対応しかしていない。それはそうだ。多くは半導体や文化輸出の旗手である漫画やアニメが背後にある。これを否定したら、巨大企業になっているPC関連会社やニンテンドーのようなゲームソフト会社が痛手を食う。メディアも本当のところは報じない。因果関係がはっきりしなければ批判をしないのがメディアだ。背後にはニンテンドーやソフトバンクなどの産業があるから、いろいろ言えないのだろう。いや、言えば、スポンサーがなくなりばかりではない。自分たち自身が流しているもの自体を批判しなければならない自己矛盾に陥るからである。
こうしてサブカルチャーによって引き起こされた犯罪も直接原因の究明のみで終わり、幼少期の精神形成をしたサブカルチャー群に対してはまったく分析がされない。残酷な事件が起きるたびに犯人の成育過程でサブカルチャーの影がちらつくが、誰も指摘しない。警察も裁判も報道も特別な性格の持ち主と決め込んでしまっている。「そんな人間は多くの中にはいるもんだ。」くらいである。しかし、その犯人の下にはPCやケータイへ依存を強める若者(親も?)もいて実情は悲惨なのだ。
われわれとしては、犯人がどういう成育期間を経たのかを知りたいのだが、表面を削って深層はえぐらない。この結果、多くの家庭は、「事件は特殊な人が起こしたもの」としか見てとらないのである。犯人は大きなピラミッドの頂点であってその下には山のように予備軍がつくられている。
深刻なことを報道する媒体がないから、多くの家庭は事件を引き起こした家庭と同じように粗悪なサブカルを与えても平気になってしまうわけである。
周囲を見てごらんなさい。そういうものを与えるのが子育てだと思っている親が山ほどいる。 しかも、日本社会は異様な「和」の社会で、違うことをしていれば同じことをするように囲い込んでくる仕組みだ。イジメにも使われる仕組みで、異質なものを排除することは独特の日本型行き方である。こういう中で、われわれはサブカルの津波を避けるのがむずかしい状況だ。人々は「目クジラを立てるほど悪いものではない」と思い込まされてしまうわけで、周囲と違ったこと(サブカルを子どもに与えないで育てる)はイジメの対象になるので避けている。それは、とりもなおさず、サブカルチャーによって生まれた狂気が社会を覆っていることに目をつぶらされていることでもある。
 このブッククラブは二十八年前のTVゲーム出現から子どもを襲ってくるサブカルチャーとの戦いだった。この二十年間、サブカルチャーの弊害ばかり述べてきた。もちろん「わが子に限って、」だが、「あーこんな子にするつもりはなかったのに・・・」と十数年後に思わないように、やはりしっかりと避けるべきものは避けなければならない。心を病んでも、園や学校、会社や国は責任など取ってくれないのである。私の言っていることはまったく社会的な効果などないが、それでも今後もずっと言い続けようと思っている。

なぜ人を殺してはいけないか?

 まったく嫌になるほど毎日毎日「殺人」のニュースが流れる。こんなに人殺しが日常化する社会は異常なのだが、どうも深刻に受け止められていない。メディアも軽く扱いすぎている。異常に慣れれば、それは平常になるのだろうか。このへんのところが私はわからなかったので、これまでに「殺人」について書かれた本をかなり読んだ。しかし、どれもこれも納得の行く論理で書かれたものがない。「○○だから殺人はダメなのだ!」という論理がないので、どうも納得がいかない。「なぜ人を殺してはいけないか?」という根本的な問いに答えるものがないのである。そんなことあたりまえじゃん!と思う方も多いと思うが、よく考えると私にはよくわからないのである。
「どういうプロセスで殺人に至るのか?」も個々の例をとればバラバラで、そこからは何も見えてこない。理由はさまざま、ケースもさまざま。戦争もあれば、単純なケンカもあり、計画的なものもあれば衝動的なものもある。原因も形もさまざまでわけがわからない。
 そんなこんなをある人と話していたら、「もともと人間のDNAの中に殺人要素が含まれているのではないか」という恐ろしい話になった。つまり、「自分が生きるために邪魔になる他人を排除する遺伝子がなせる業だ」という。なるほど、そういうふうに考えれば、人を殺す理屈は分かる。競争社会では、その傾向がとくに強まるのも納得が行く。子どもを殺すのも「自分が生きるうえで邪魔だから」なんですね・・・。親を殺すのも、他人を殺すのも・・・自分が生きるのを妨げるものを消す作業である。そういう意味では、いじめもパワハラもDVも「消極的な殺人」なのかもしれない。たしかに、そういうふうに書いてある本もあった。しかし、このDNA論が「なぜ人を殺してはいけないか?」の答えにはならない。愛情があれば、あるいは正義のためなら人を殺していいのか・・・。これは無理心中や安楽死、死刑廃止や戦争の問題にもつながるむずかしい問題である。
それでも、どういうわけか昔から「人を殺してはいけない!」ということが言われている。宗教の本にも法律の本にも書いてある。しかし、「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いへの答えはない。・・・考えられるのは、「人類は『人を殺してはまずい』という学習を何となく続けてきているのではないか、ということである。その学習は今も「進行形」であって、だから答えは出ていない。
生きることを肯定しすぎた社会では、生存競争の中で結果的に「邪魔者は殺してもいい」という理屈が働き始める。生きるうえで適度な抑制が働く社会では「殺人」は起こらないとも言われている。そんな時期が戦後の一時期、戦争であまりもむやみに殺しすぎた日本にあった。
「なぜ自分のことばかり考えてはいけないか」、「なぜ物を盗んではいけないか」「なぜ不倫をしてはいけないか」の答えと同様「殺人をしてはいけない」理由は本当のところまだないのである。「なぜ挨拶をしなくていいのか」と同じである。
人間の社会を円滑に回していくためにはDNAの中にある「生きよう」とする部分を抑制する必要があるのだろう。最近の凶悪事件の犯人の親たちは、子育ての中で、「社会的に生きる抑制力」を育てることができなかったのではないか思うこともある。抑制が働かなければ子どもの心の中で「人を殺すこと」など大したことではなくなる。もちろん、自分の命を消すことも大したことではないだろう。


(ニュース一部閲覧2008年6月号)
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