ブッククラブニュース
平成20年5月追加分

読み聞かせの周辺@
0歳児の周辺

●10カ月以前●

▼ 最近は、「早期教育」の影響か、「生まれてすぐの赤ちゃんも耳は聞こえているのだから読み聞かせをしましょう」という文言をよく目にします。私には「なんだかなぁ・・・」という感じです。赤ちゃんといっても実際にはお母さんのお腹の中で生物の進化・五十億年を繰り返してきて(単細胞→多細胞、魚類から哺乳類の原型まで)生まれたばかり。まだ這うこともできない単純な哺乳類です。でも、生まれてすぐから触覚で物を認識することは始めます。認識能力は段階を追ってじょじょに発達していくので、平面にプリントされた事物を見せる読み聞かせが可能になるのは、いくら早くても八ヶ月をすぎないとダメでしょうね。喜んだり、笑ったりするのは親の声や動作に反応しているだけなのです。
こういう時期には、ほかにやらなければならないことがいっぱいあります。もっとも、BCの会員は十ヶ月からの方ばかりなので、「失敗したぁ!」と思う方もいるかもしれません。でも、まだ時期が時期で大人が思うようにどんどん受け入れることもないので、読み聞かせをしても反応や効果は大してありません。その意味では心配無用です。

●快い・不快が最初の区別●

▼ よく言われる話ですが、赤ちゃんには最初から図形認識の力が備わっているようです。と、言っても絵本に描かれたような図形や事物がわかる機能ではありません。ごく単純な形を快さと不快だけで反応する力なのです。例えば左の図のように円形に点があるものに快さを感じたり、四角張ったものに拒否反応を出したりする現象です。また柔らかな音、優しい声など音響的なことでも同じようなことが起きます。一定のdb(デシベル)以上の音になると不快感が増して泣いたりします。赤ちゃんのそばで太い声で大声を出すと、泣き出す例をよく見ますよね。これは、自分を守ってくれるものを識別していく能力なのでしょう。つまり、「親」を特定している活動のひとつなのです。
その後、だんだん多様なものに慣れていきますが、けっこう大きくなってもまだその能力が働きます。もう2歳くらいで私をよく見知っている子と話していても、急にヘルメットをかぶってサングラスをすると「ギョ!」としたような表情になります。泣き出すことも・・・。これも経験的に慣れていたものが突如不快なものに変化したときの反応でしょうね。

●言葉や絵で見る時期ではなく、肌で感じる時期●

▼ 赤ちゃんを育ててみれば分かりますが、六〜九ヶ月の赤ちゃんはあらゆるものをペロペロしゃぶったり、口に入れたり、手で握ったり、投げてみたり、そりゃあさまざまなことをします。でも、これも大切な認識作業です。快いもの、不快なもの、食べられるもの、食べられないものなどを判別しているのです。もちろんダッコやオンブで親が自分を守ってくれる存在であることを肌で感じとらせることことも重要。。こういうことを十分やっておかないと、大きくなったときに察知能力がついていませんから、思いもかけぬ事故を起こすことがあります。 
やはり発達にはそれなりの意味があり、それを十分にしておかないと後で支障が出ることがあります。これを総合したものが「遊び」で、子どもは、いろいろな好奇心を持って察知能力、さらには危険予知能力も身につけていくわけです。「遊び」による力を高めるのはかなり大きくなるまで(思春期ごろまで)続きます。いきなり立って歩くよりハイハイが必要なのと同じです。そういう時期にはそれなりのことをする・・・何事も早ければよいというものではないでしょう。

●ですからですね●

▼ 生まれてから数ケ月間は、なるべく特定の保護者が優しく語りかけたりあやしたりする。これで、「特定なもの」への集中力が増します。目を見つめて話しかける時間を長く持つことです。その後、自由に動けるようになったら、いろいろなものを掴ませる、触らせる、舐めさせる・・・など、昔、あたりまえのこととして赤ちゃんに行われてきたことです。触覚による認識力を高める期間は必要です。これが十分に行われないと一歳を過ぎても紙と本の区別がなかなかつかなかったり、ページをペラペラとめくることだけがおもしろいという子が出てきます。
読み聞かせの前の準備段階では、その時期の発達にあったことをしていかなければならないでしょうね。

●親や子がいる場所@「市場(しじょう)」●

◆子育てがどういうところに置かれているのか、知っておこう!◆

 どう見ても、最近の世の中は以前と大違いである。いつの時代も変化はあるが、これほど短時間に大きな変化の中にいるのは大変だ。することなすこと、なんだか不確実で「自分が何を目ざしているのか」さえよくわからない。人というものは、いつでもどこでも周囲に左右され、影響されるもので独自に何かやることはむずかしいが、それでも最近は「何のために何をしているのか」がよくわからない。自殺が多いのもおかしな犯罪が多いのもズーっと後ろにはそんな混乱があるからではないだろうか。(ちょっと理解してもらえるかどうか分からん文ですが、以下、お読みください)
 いま、私たちが置かれている時間と空間・・・かんたんに言えば「忙しい」で表される。親も子どもも忙しい。その原因は何なのかは分かっていない。でも、世の中が市場型社会になったのだから、その影響はきっとあるのだろう。市場型というのは何もかもが「商品」ということ。売れるものは何でも売る。価値が高いものが高い評価を受ける。中身ではなく見かけでもいいから価値があるように見えれば「売れるのではないか」ということだ。つまり、一時の評価があって、瞬間的に交換(買ってくれる人がいる)ができれば、価値が高い。これがうまく行けば「成功」である。その後のことは一切考えない。
 こういう中で、家庭が営まれ、子育てが行われることは知っておいたほうがいいだろう。

◆親が置かれている場所◆

 市場社会では、個性も人も「望ましい商品」であることを目標にしている。例えばTVタレントが愚かなことを言ったり、やったりしていても「価値」である。いかに自分をうまく売るか、いかに自分を認めてもらうか・・・これは経歴や資格も同じである。本のことについて何も知らないでも「司書」の資格があれば給料はもらえる。爆弾に精通しているテロリストよりは「危険物取り扱い」の資格があるほうが給料はもらえる。しかし、大変なのは給料を得た先に仕事をこなす能力や熟練ではなく評価され、認められるための競争が待っていることだ。急激な変化の中では「価値」もどんどん変わるから、「私は『市場』にとってお望みしだいですよ」という変わり身をしていかなければならない。だから、ひとつのことにこだわってはいられない。真剣な話をして自分を深めるより、「まあ、あなたのお考えもひとつの考えです」とサラリと切り抜けるよりない。当然、どんどん人間関係など希薄になり、自分自身や個性など求めることもおかしなことになる。
こういう人々をハタで見ていると、ただ動き、効率的に仕事をするだけのように見える。「なぜ、そんなに早く働かねばならないのか?」「なぜ、効率的にしなければならないのか?」と質問しても、まず答えられないだろう。せいぜい「より多く売るため・・・」「会社を大きくするため・・」「給料をたくさんもらうため・・・」という空虚な答えしか返ってこない。「そのどこが悪いの?」という感覚で・・・。
「なぜ人間は生きていくのか」「人にとって幸福とはなにか」などは無関係の問題だ。だいいち「市場」のために自我をなくしているのだから、そんな問題を考えるほうがおかしいというものである。だから、実際に周囲や環境が悪い方向に行こうが住みにくくなろうが関心を示さない。新聞やTVでいろいろな情報を得ても、実はたいして気にもとめないのだ。知っているだけでいいし、知らなくてもいい。市場が自分に求めるものだけを追い求めて生きていればいいからである。そして、自分の価値を「給料」や「地位」で確認するだけでいいのである。  こういう「自分を売る」現象は、企業だけでなく、どこにでも見られる。ネットのブログなどその最たるもので、それこそ誰の目にも触れないような「自己PR」のオンパレードだ。「今日はケーキをこういうふうに焼いた」「こんなものが手に入った」など交換価値さえない情報が山のように並んでいる。誰も認めてくれない世の中でも「なんとか自分を売りたい」という哀れなつぶやきである。・・・・こういう世の中に私たち「親」は生きているわけだ。

◆子が置かれている場所◆

 子どもたちは、上で述べたような時間と空間のなかにいる。当然、言葉は悪いが「より価値の高い商品」になるように育てられている。80年代ごろから家庭のシフトが「教育」に傾いたのはそのためである。「人間性」とか「個性」とか「高い人格」とか言われるものの、実際はそんなことより「見かけのよさ」である。学歴も顔立ちもファッションも含めた見かけ。市場が要求するものに従順なものだけが求められている。中身の充実などどうでもいいことだ。
こういうところでは感情が豊かだったり、異なった発想をする子は市場には向かないので、とにかく従順であることが求められる。機械の一部として効率的に機能することだけが目標である。何かに疑問を出したり、批判をしてはいけない。「幸福」や「人生」など問うてもいけない。偏差値によって自分の位置を知り(位置などは本来ないのですが)、そこで上がっていくことしか「自分が機能していること」を確かめられない。ここでは、生きているという実感はまず体験できない。つきつめていけば無感動になれば「成功」なのである。しかし、子どもは大人とちがって理屈では生きられないから、厭世的になったり、反抗したり、さまざまな抵抗もするが・・・。そういう場所に子どもは置かれている。


(ニュース一部閲覧2008年5月号 追加分)
ページトップへ