ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2023/秋 comment
ブロッター1  「敗者としての東京」・・・ひじょうに面白い視点から見ている東京論なのだが、じつはそれはこの国の文化論にもなっている。曰く・・・東京は3度の占領を経験した都市である、と作者は言う。
 古代の帰化人定着から坂東平氏が跋扈した「武蔵」を、頼朝に始まる占領勢力が家康までの長時間をかけて占領されたのが第一回目。この占領で武蔵は270年の安定期を持つにいたった。弱体化していた坂東八平氏を抑えての占領だったが平氏は抵抗もなくかんたんに江戸を明け渡した。
 二度目は、戊辰戦争の結果の薩長による占領。このときも十五代将軍慶喜は無責任きわまる対応で西軍(薩長土肥軍)に江戸をたやすく明け渡した。三度目は連合軍(米軍主体)の占領だが、同じことが繰り返された。昭和天皇も慶喜と同じく戦争責任を取ることなくたやすく77年続いた東京を明け渡した。
 このような歴史的同一性、同時代性を基本に作者はメガロポリス化した東京を俯瞰する。その結論は「敗者としての東京」という視点から見える未来だ。
 では、この次の占領はどこの誰が行い、またここを無責任に放棄するのは誰か?!このことは興味が湧く。四度目ともなると不死鳥・東京ともいえるが、存在価値から考えたとき、どういう意味があるのか考えざるをえなかった。
ブロッター2  江戸から明治を描いた文献を読む必要性が二十数年前にあった。初めに、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読んでいたら、巻末に「逝きし世の面影」の宣伝があり、すぐに手に入れた。すべて幕末から明治初期までのものすごい数の異邦人の目から見た日本観が網羅されたものだ。
 学者というのは、こういう断片のような感想、意見を事細かに整理し、分析し、なんとも見事な維新前後の江戸時代評、あるいは江戸文化観に結び付けている。そして、その外国人の90%以上の意見・感想が江戸時代の日本を高評価なのに驚くばかりである。
 われわれは、明治から現代までつづく官製教科書で江戸時代は封建的で、世界から遅れている文化、国家形態だと教えられてきた。しかし、この本を読むと、明治以降の文明のほうが野蛮で、国民にやさしくない形態になったとしか思えない。実際、現代日本が「日本的なもの」として世界に売り出せるものは、歌舞伎とかキモノとか浮世絵、あるいは寿司とか天ぷら、刺身料理などまったく江戸のものばかりである。
 それは「逝きし世の面影」を描く外国人の賛美しているものにつながるわけで、幕府を倒した薩長の視点とは違う外国人の視点(江戸時代の高評価)を渡辺京二は精密に描き出しているというわけだ。
ブロッター3  「あいうえおのき」は「スイミー」で有名なレオレオニの連作のひとつである。短い物語だが、字を覚えること、言葉を知ること、文を表現することの目的が、行動するための基本作業だということをあまりにも見事な比喩で描き出している。
 字が風に揺れてびくびくしているところに言葉の虫がやってきて、「くっついてひとつの言葉になれ!」と教える。それぞれの文字は、組み合わされることによって<単語>になり、単語が組み合わされることで<文章>になる。そうなると、揺れてもなかなか動じなくなる文字たち。
 それにしても、文字が持つ力は文章という考えの表現となると強い。考えを持った人が行動するために言葉を操り、表現するために考えを文にするというのは当たり前のことでもあり、論理的でなければ指示を得られない。
 この絵本で文字たちが最後に作った文章は「ちきゅうにへいわを すべてのひとびとにやさしさを せんそうはもうまっぴら」だったが、まさに、この言葉は21世紀のわれわれ人類を滅ぼさせないための言葉であり、行動するための言葉になると思う。
   

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