ブッククラブニュース
令和5年
2月号(発達年齢ブッククラブ)

2023年2月と3月の予定

定休日は日曜、月曜、祝祭日です。
 2月〜3月の定休・臨時休業のスケジュール
 日曜・月曜のほか2月11,12,13日が連休となります。
 (いずれも定休は休業日と重なっていますのでいつもどおり)
 時間外受け取りは事前にお電話ください。外出していないかぎりOK。
★3月3日まで冬時間の営業(午後6時閉店)となります。
 3月3日から通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
3月は春分の日が休業です。
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。
 【コロナ対応について】
 2月はひじょうに感染者が減りました。実状はインフルエンザ状態なのでお子様のマスクの着用は強制しません。。今回は8波ですからもうちょっとで終息でしょうか。通常日は飲み物のサービスしていますが、込み合ってきたらお出しできないことも・・・・土曜日は特に。

配本の読み聞かせ 4歳

⑧物語絵本を楽しむ

 4歳の配本は、3歳のときに比べて内容がはるかに長く深まってきます。ここまで来れば読み聞かせも定着しているはずで、親がおどろくほど長い話が聞けるようになっています。キャラクター絵本や戦隊もの絵本、あるいはyoutubeばかり見ているお子さんはどうでしょうか。おそらく、この長さ・深さをまったく楽しめないでしょう。でも、配本で順を追ってきた子にとっては何でもないと思います。前回述べたように、ふつうに読んであげれば、じゅうぶん物語の展開が楽しめるものになっています。
 また内容も社会性を考慮した深いもの(テーマが高度なもの)に変わってきます。女子に入る「もりのこびとたち」は家族がいろいろ学び、戦う話ですが、これも親子との交流を表現した良いお話です。男子では逆にルールを無視したい反抗と自立の重要性を表現した「かいじゅうたちのいるところ」などが入ります。「スイミー」も周囲と、どう自分をつなげるかという話です。

社会性が出る年齢でもある

 4歳になると子どもの多くは家族とは違う何かに属しているという意識が芽生えてきます。
 このため一方では、精神的にプレッシャーを受けて不安定になる子もいれば、逆にすんなりと組織に入り込める子も出てきて、さまざまです。いずれにしても自我が調整できる子か、できない子かの違いです。
 昔は「第一反抗期」と言われた時期で、自我がどのくらい突出するかしないか・・・ですから、こういう時期には周囲との関係を描く物語を多く入れて一体感、属するという意識などの配本を組んでいます。「こうしなければいけない、ああしなければいけない!」という決まり事ではなく、「社会とはこういうものだ」と自然に感じさせることが大切ですね。そのために物語を活用するのが一番です。「からすのぱんやさん」など適切な本です。主人公に共感しながら、世の中と、どう関わかっていくか・・・こういうことが、繰り返して読めれば、モラルは自然に身についてくるものです。だから一冊を何回も読むことが大事なのです。

わけのわからない反抗も・・・・

 最近、「反抗期がない子どもが多い」と聞きます。4歳くらいの反抗は、反抗といってもかわいいもので、ほとんどが口ごたえ程度です。暴れまわることなどほとんどない。ジタバタする子もいますけどね(笑)。自我が出てきて家庭や世の中のルールとのズレを感じる年ごろ・・・子どもは、反抗を繰り返して、じょじょに世の中に慣れていくものですが、中にはルールを学べないままで大きくなる子もいます。きちんとルールを教えないと大きくなってモラルが希薄な人間になりがちなので対応が大切です。
 多くは、親が先回りして、やってしまったり、代弁したりしますが、・・・これでは社会性は出てきません。後は放任がまずい。自我出しっぱなし。子どもを注意する人が少なくなっているので、傍若無人なことをやり、ルールが学べない子が育ちます。そうなると大変・・・学級崩壊の原因はみんなこれです。
 4歳は重要な時期なんですね。うまく子どもの反抗と付き合い、社会性を身につけさせる・・・。甘やかしてはいけません。しつけは大切な社会性の基本です。こういう時期、やはり、自我と社会性の葛藤はあったほうがいいのです。あることで、自分が世の中のどの位置にいるかも分かってきます。相手を考える力も生まれてきますからね。 この時期の読み聞かせは、以上のこと考慮して組んであります。4歳過ぎれば、深く長い話でも子どもの心に沁み込むはずです。

泣き声が聞こえる

 今年の冬は「どこが温暖化じゃ!」と言いたくなるほど寒く、甲府でもマイナス9度まで下がりました。連日氷点下、日中も一桁の気温ですから大変。寒がり屋の私はコタツで丸くなりましたが、「猫みたい」というのは嘘で、猫は真冬の夜中でも活発です。冬は猫の発情期で赤ちゃんが泣くような鳴き声を立てます。「よく寒くないな」と思いますが、この甲高(かんだか)い鳴き声は耳に障ってイライラすることも。
 赤ちゃんが泣き止まないときも親はイライラすることがありますが、赤ちゃんの場合、「なぜ泣いているか?」がわからないから困ります。親は、ひたすらあやすよりない。
 我が家の長女も癇(かん)の強い子で、泣き始めると止まりませんでした。抱っこして、おんぶして、ようやく寝たかとベットに降ろすと「ワッ!」と泣き出すのです。ドアの小さな音にも反応して体を震わせて泣く。真夜中でも頻繁、背中にしょって階段を上がったり下りたり、寝かせるとまた同じ・・・まったく「泣く子と地頭」には勝てないのです。
 長めの入浴で疲れさせ、起こす時間を早めるなどグラフまで作成して対策を試みました。でも、泣く、泣かないは、その子の性質で、次女はどんな音がしても平気で寝る子でした。
 電車や飛行機の中で子どもが泣き始めると親は大変です。母親が必死であやして、「もうすぐ着くからね」「着いたら○○を食べようね。」などと言っても効果はほとんどありません。そりゃあ密閉空間の狭い座席では子どもも居心地はよくないでしょう。「降りたい!」と騒ぐ子に横で父親が「泣くな! 静かにしろ!!」・・・なんて言っています。いや、それはお父さん、赤ん坊や小さい子に言っても無理でしょ・・・と思いながら見ていると子どもは到着まで泣いています。

現代はストレスが大きいから

 泣き声や唸り声に敏感なのは、どちらかというと男で、きっと太古の昔、獣に襲われたりしたときの記憶が染色体のどこかに刷り込まれて「なにか対策は!」「どうすれば逃れられる?」などを反射的に考えてしまうのでしょうね。
 対策といえば私たちが子育てをしていたころ参考にしたのは松田道雄先生の育児書でした。かなりラフな物言いで親としては安心できた本です。家の中、あるいは車内、機内で、泣いたり騒いだりする子への相談で、「広い野原に連れて行った子が大人を困らせるようなことはしない」と言っていました。
 なるほど公園や野原に置かれた子はおもちゃやゲーム機、スマホがなくても、大喜びで騒ぎ、声を上げ、笑い(泣くことも)、屈託(くったく)なく動き回って飽きません。海や川や森、草原や雪原で遊んでいる子どもを見ていると、科学万能の近代より昔のほうが子育ては良かったのではないかと思ったりします。
 昔に戻ることはできませんが、我々は楽で便利なシステムの中で無理をしながら生きているという認識は持った方がいいような気がします。
 機内や車内など狭い生活空間に閉じ込められて泣いたり、苛立(いらだ)ったりするのは、その子やわれわれが悪いのではなく、生き物として苦しい環境に置かれているからではないかと思うのです。
 いま、私たちはかなり息苦しい世の中に生きています。なかなか本当に頼れる人がいない。自分だけで生きていると、相手を傷つけたりだましたりになり、「泣く」人も多くなります。

助け人走る

 泣き声は気になるものです。なんとかしたい。でも新米の親は悪戦苦闘します。でも、この悪戦苦闘が親をして親にならしめる体験になるのではないでしょうか。
 なにごともそうですが、苦しんだり悩んだりする経験が人をより大きくするように思えます。全部、他人の手にゆだねて楽で便利なことばかりしていたら、人間が大きくならないので、人とのつながりも希薄になります。仕事仲間、遊び仲間なんて頼りにならないことが多いですよ。
 最近、中学生くらいの子が親を殺そうとしたり、殺す練習のために他人を傷つけたりする仰天の事件が頻発しています。なんでだろうと考えていると60―50問題にぶちあたって合点がいきました。50歳代の子が80歳前後の両親を殺した事件です。この親たちは50年前、働くのでいっぱいで子どもとの濃密な接点がなかったんじゃないでしょうか。保育施設で泣いていても親身になってあやしてくれる人がいなかったのかもしれません。親と子のつながりが薄くなっていたのではないかと思うのです。それが、どんどん進んで、いまや泣いている子にかまう時間が親の中で激減しているのではないとと感じています。親も働かされて大変、子は見捨てられて大変な時代・・・・
 「どこかで誰かが泣いている 誰が助けてくれようか この世は人情紙風船 泣き声目指して走る影 この世は闇の助け人」・・・これは必殺シリーズ「助け人走る」の冒頭ですが、息苦しい世の中にいるのはわれわれでもあり、泣いても騒いでも助け人はなかなかやってこないものです。大人さえも泣く世の中に追い込んでいるのは一体誰なんでしょうね。
 (ニュース一部閲覧)

「鬼は外!」は乗っ取りの話?!

 節分の日は甲府は一番寒い季節。今年は1月末にマイナス9度まで行き、夜中の寒さはひどいもので、夜、仕事をする私にはつらい。
 節分の夜、我が家では大神宮さんにお参りに行くが、その夜の寒いこと寒いこと、暖かだった記憶がない。
 鬼も寒いので厚着で出てきて、子どもはワーワーキャアキャア。しかし、この豆を撒く行事。鬼に豆をぶつけると、なぜ福が来るのか・・・よくわからなかった。鬼は豆になぜ弱いのかもわからない。さらに考えると、あんな怖い顔の人種が古代にはいたのだろうかとさえ思ってしまう。ところが、いろいろ調べたら次のようなことがわかった。なかなか神話は面白い。ちょうど前回配本で高学年には古事記の抄訳版、読み下し版の2種を配本してある。5年生なら十分に読める本だから読んで何か疑問を感じてほしい。ただ物語として読むと、神がつくった国となるが、記紀に描かれる神は人だったと思えば見方が変わってくる。

侵入・国譲り・征服

 昔、大陸から来た一族が 「この国を俺たちに譲れ! さもないと血を見ることになるぞ!」と脅したという。話し合いで収まる相手ではなく、抵抗すると殺された。侵入者は最新式の青銅の武器をもっていたから勝ち目がなかったのだ。
 でも、原住民たちは「いつの日かこの国を私たちに返して・・・」と涙ながらに頼んだ。すると征服者の一族は、いともたやすく、「いいよ!」と言ったという。
 「いつ、国を返してくれるの?」と聞くと「炒り豆から芽が出たときにね。」と意地悪く彼らは答えた。
 炒った豆から芽が出るわけはないのに・・・。
 それからというもの、もともとこの国にいた人々は山や森の奥へと追いやられ、いつの日か「鬼」と呼ばれるようになった。征服者は、毎年、節分になると「鬼は外、福は内」と叫んで、「ホレ!まだ炒り豆から芽が出ないぞ。まだ、お前たちに国は返さんぞ!」と言い続けてきた。

炒り豆からは芽が出ない

 なぜ、それが節分なのか。季節の節目は世の中の流れが乱れ、支配者がつくった流れが変わるかもしれないから、自分たちを守るために鬼(原住民・征服された人々)を寄せ付けない行事を節分にしたという。
 しかし、いまや、この国の人々のほとんどは、そんなことは忘れ、征服者といっしょになって、「鬼は外!」と叫ぶ。日本中のほとんどの人が節分の夜に、この言葉を発するのだから、いつまでも国を取り返せるわけがない。征服者のつくった「和」は逆らわせない「和」でもあったようだ。炒り豆から芽が出ない約束も嘘とダマシだったのだ。
 さて、あなたは鬼の子孫? それとも侵入者(福)の末裔? 最近の遺伝子調査でもわかりつつありますね。東日本と九州南部は同じ遺伝子で、北九州から関西までが違う遺伝子の分布。入り込んできた連中は誰なんでしょう。侵入者(福)たちは、その後も鬼を嫌って征夷大将軍を征伐に向かわせ続けました。
 でも、私たちの多くは「心のやさしい争いの嫌いな鬼」だと思うのです。「福」の親玉が世界中に金をばらまいて、この国をまだ乗っ取り続けていますが、「鬼」たちはまじめにひたすら働くだけ。それでも、豆から芽が出ないので、この国はまだまだ取り戻せないようです。

閉じ込められた王

 出雲大社の拝殿に行った人は不思議なことに気がつきます。正面に出雲の神・オオクニヌシがいないのです。横の小部屋に押し込められ、西の方を向いています。手を合わせて拝む私たちの前方にいるのは侵入者の五人の神々。形としてはオオクニヌシに向かって拝んでいるつもりが、じつは侵入者を拝むようになっている配置なんです。巧妙な仕掛けですね!
 オオクニヌシは侵入者に恫喝され、幽閉された(ひょっとしたら殺された)人ですから、恨みを抱いているはずです。 恨みが祟ると怖いので出てこられないように五人の神に閉じ込められているというわけです。祟り神は怖い。どこの神社も二礼二拍手で拝みますが、出雲大社と宇佐神宮は違うのです。柏手は4つ打つ。祟り神はこのしきたりがあるんですね。
 これは嘘でもなんでもないのです。古事記や日本書紀をしっかり読めば書いてあります。「国譲り」のところにね。一回読んだのでは騙されるので何度も読んでくださいね。
 こういうことから考えると、やっぱり鬼は圧迫を受けてきた弱い人々と思えます。そして、福は、この国を力で乗っ取った人たちなんでしょうね。(新聞・一部閲覧)

Dr.Sawadaの🍓通信

④成人と小児の睡眠

 この国の五、六十年の変化は大きい。私が子どものころ、子どもはほとんど午後八時か九時には寝ていて、十時まで起きている子はいなかませんでした。テレビもなかったし、あっても夜中に子どもが見る番組はまったくなかったからです。それが、どうでしょう。いまやテレビはネットをつないで見たいものを見る機械と化しつつあり、スマホはyoutubeなどを無制限に垂れ流す。まともに睡眠をとり、きちんとした生活時間を確保しなければ・・・・健康が保てない時代になりつつあります。この先に何があるのか、起きるのか・・・・。なんか、空恐ろしい気がしますね。
 おそらく、この十数年の生活変化(とくにスマホやゲーム、アニメなど映像主体の媒体の進化、変化)は睡眠の質と長さをかなり大きく変えてきているのではないかと思われます。
 近年、私たちの生活は大きく変化しました。子どもも、遅寝朝寝、終夜テレビ、ゲームにネット、おとなのお付き合いの家族団らん、こんな生活が多いようです。
 その結果、子どもの睡眠リズム作りができず、子どもの成長や性格形成に悪い影響が見られます。明るい部屋で夜遅くまで起きていれば、眠りをもたらす睡眠ホルモン、メラトニンが作りにくくなります。結果、睡眠不足になって、イライラ、攻撃的、無表情とメンタル面で好ましい子どもが育ちません。

人工的に明暗をつくらねば・・・・

 私の子ども時代は、昼間は戸外で遊びまわり、夜は遊び疲れて暗い部屋でぐっすり眠ることが当然で、親はある時間が来ると、子どもはもう寝なさいとしつけてくれました。
 今の生活環境でも、、窓際にカーテンで光を遮った寝床を寝室に作ることはできるでしょう。朝になったらカーテンを開け、朝日を浴びて一日を始めることをプレゼントできれば、子どもの健康に大きなプラスになります。
 身体の成長で必要な成長ホルモンは寝入りばなの深い眠りの時が分泌のピークです。睡眠ホルモンのメラトニンは眠くなると分泌されはじめ、深夜にピークになります。成人も子どもも眠りの役割、良い眠り。快い目覚めは大切なのです。

気をつけ! 例! 直れ!

⑤最終回 子どもの6%は「ゲーム障害」で大変らしい・・・

 プログラミング教育が始まって、まだ2年そこそこ。しかし、youtube依存や不登校、理解力の低下、成績の二極分化が、去年から激しく増え始めた。コロナのせいだとも言われているが、昔から文科省の新しい試み(改革)はほとんど失敗している。こんどは、教えるのが人ではなくAI機能を持つタブレットという機械がなんとかしてくれるので大丈夫なのだろうか?
 2年前の2018年に富山県で小学生約1万3000人を対象に実施した調査がある。オンラインゲームでは、「日常生活に問題が起きてもゲームがやめられない」など「ゲーム障害(依存を通り越した状態)」が疑われる児童が5・6%に上った。6%弱、1万3000人中700人ていどだから大したことはないといえばいえる。だが、ことは将来の人間像に関わるもので、治るコロナとはちがう怖さもある。

依存から障害へ

 世界保健機関は。2019年に「ゲーム障害」を依存症の一つに認定した。「子供にとって、オンラインゲームは依存性をもつ。将来大きな問題につながる可能性があり、家庭内でルール作りが必要だ」と警告しているが、障害まで行かないふつうの依存は30%とも言われるので3人に1人がゲーム依存とも考えられる。前にも述べたように依存になったら時間決めルールなど、ほとんど効果はない。
 また、香川県ではネットゲーム条例が制定された。国内で初めての条例で、「ネットゲームは1日60分まで」と決めて大きな話題になった。ところが、県内の元高校生が県を相手に「違憲だ!」と損害賠償裁判を起こした。高松の裁判所は「条例は合憲」として請求を棄却したが、これもむずかしい問題だ。
 ゲームをする自由を侵害する可能性もあるし、依存・障害を止めたいという意図もわからないではない。県としては、オンラインゲームに依存して日常生活に問題が生じている「ゲーム障害」から県民を守るためということだが、問題視されているのは、条例が言う「ネットゲーム依存症」の定義が曖昧だという点。「スマホやゲームをする時間は平日60分・休日90分、ゲームの時間は義務教育期間が午後9時まで、それ以降は午後10時まで」と定められた点の根拠が不明確ということらしい。元高校生とその親は、この規定で自己決定権や幸福追求権を侵害され精神的苦痛を受けたとして慰謝料を求めたのが今回の裁判で、早い話、「自分で決める」「自分では決められないから条例」という戦いというわけだ。

病んでしまう仕掛け

 AIが選んで推奨してくる情報源はどちらにせよ偏向していくわけで、操作する人の好みに合わせて傾向を読んで先回りするから、ゲームでもyoutubeでも「快くなる方に導く」のがあたりまえになる。AIとはそういうものだ。スマホをやっている人は、このことは御存じだと思う。検索したり、学習したりする事項も多くはゲーム感覚なのだが、そこで動くAIが問題。
 AIは、Big Data を根拠に学習するというが、Dataを意図的に操作すること、事実にちょっとした嘘や特定の考えを混ぜることもできるから怖い。これはゲームでもyoutubeでも可能だ。もし、悪い考えが含まれたDataを元にAIが情報を分配し始めたら、正常な考えに戻す機能がないから、われわれは言いなりになってしまう可能性も出る。ゲーム障害にでもなれば、言いなりどころか狂気にまでつながるだろう。
 メディアがAIを使っているが、情報を分析しても権力監視機能など吹き飛んでしまうのだろう。いやもうすでにそうなってる。今の世の中の情報の流れは明らかに歪んだ意志のようなものが働いていると思われる。テレビも新聞もSNSも偏向情報だとしたら、何をもとに考えたらいいのだろう。むずかしい。子どもをダメにしないように考えるのはわれわれなのだが。

教育改革はいつも社会変化の後追い

 1958年は人的能力を高める教育に変わった。さらに1970年の生徒多様化に対応する情操や創造力重視教育、その延長で2008年まで続いたゆとり教育・・・。1987年の個性尊重も含めて・・・しかし、うまくは行かず、悪い結果も出てきている。
 1960年代の国は学校教育が企業戦士(均一で差がない)を目指したが、90年代からの情報社会では、情報処理能力を持つ一部だけの情報戦士が望まれるようになった。ここで生まれたのは、真面目さや優しさなどは必要としない「儲けることしか考えない人間」が生まれていく状態である。早い話、拝金主義が広がって、人間性や責任感がない人々が出現したということ。各世代で、いずれの改革からでも悪影響が生まれた。「〇〇世代」という名は、負け組の代名詞である。しらけ世代は人間関係のつながりが薄く、バブル世代はお金がすべてで倫理感が消えた世代。氷河期世代は貧困層を増えたし、Z世代は一儲けだけを考える利己主義者を多くした。α世代(いまの子どもたちだが)・・・さて、この世代の格差がどんな風になるか・・・心配だ。

人間は一つの答えで動く動物ではない・・・・

 日本では教育だけではなく何でもそうだが始めるときは「希望と夢」を掲げる。批判的でない人々は「そうだ!そうだ!」と新しいものに乗せられる。
 1960年の電化時代は「時間を節約できる洗濯機・冷蔵庫・クーラー」という豊かで余裕のある生活への夢と希望が語られた。
 1970年の原発も「明るい未来のエネルギー」というふれこみで、夢と希望のシンボルだった。リニア新幹線も「想像できる未来を超えよう!」のキャッチフレーズで時間の節約と快適な移動を謳っている。
 アベノミクスは、若いころバブル景気で味をしめた政治家たちが「夢よ!もう一度」という「一儲け」の経済政策だった。倫理感や金銭感覚を失った人々の贅沢でいた願望そして、その延長にプログラミング教育が来ている。決められたことに逆らわずに合理的に答えるという情報化社会に合う人材が必要だからだ。そんな社会が「夢と希望の結果」になるのは怖い。
 夢と希望の結果は、かなりひどい格差社会を生み、人を騙し、酷い場合は相手をやっつけても生き残ろうと何でもする社会をつくってしまったような気がする。ネット広告の大半は騙しだし、ニュースやコメントはひじょうに嘘が多くなった。
 もっと、ゆるやかにのんびり生活が楽しめる行き方はないのだろうか。

学校教育では答えはひとつ

 「冷凍食品ばかりの食事で不足するのはなんでしょうか?」という問いに「栄養バランス」「ビタミン」という答えではなく「愛情」が正解に近いと思うが、採点上では×らしい。「新□の車」の□が「型」ではなく「新潟の車」でもいいではないか。もっとファジーに!。 算数にいたっては、式の立て方が一定のきまりと違うと、答えが合っていても式が×になることが頻繁にある。考え方までひとつだけ!。これでは頭は固くなる。
 世の中で生じる問題は、解法も多様にあり、答えもいくつもある。人生の答えをスマホに求めるバカはいないだろうが、答えが多様にあることを知っておかないと行き詰ったときに精神的に孤立する可能性が高くなる。学校では、これが正解だったのに、人生では・・・・世の中では違い結果が次々に出るのだから。
 人格とか 人間性は不要なのだろうか・・・と・・・思わざるをえない。
 夢と希望はたいていうまくいかない。うまく行くのは一握りの成功者。これはスポーツでも芸能でもなんでもそうだ。そんな確率の低いものより、ふつうで、まともなことができる人を多くして、暮らしやすい世の中にするのが政治の役目だと思うのだが・・・経済政策に教育を合わせるので、変化が起これば教育改革も合わなくなってしまうのである。プログラミング教育は、負の側面が早く大きく出て、数年後にはまちがいなく破綻するだろう。プログラミングに習熟した少数の成功者も出るだろうが、反社会的な人間のほうが多く出てしまう可能性も大きいのですよ。倫理や生き方を学べないから。

自分で考える力

⑦最終回 心配だなぁ

 いろいろ考えると、とても心配になる。周りが心配していないように見えるぶん、さらに心配になる。考えれば考えるほど150年前と同じことが繰り返されているからだ。未来は見えないが過去は参考にできる。
 明治時代は「明るく治める」という夢と希望で始まったが、「殖産興業」は人を忙しくさせて考えるひまもなくなった。「立身出世」競争は高学歴への受験を激しくさせ、結果、上に立ったものが偉い、立派という腐敗を生み始めた。それと並行して電話や鉄道が、のんびりした生活を消し、仮想の敵を想定した富国強兵になっていく…これと同じことが、この二十数年で起きている。悪い夢を二度見ているかのようだ。
 戦争ができる法律が、たやすく閣議決定でつくられても庶民は、スポーツや演芸にごまかされて何も感じない。そのうち閣議決定で徴兵令が敷かれても「しかたない!」となるかも。子育ても自分の生き方も脳天気でいると困ったことになるのですけどね。個性とか多様性が叫ばれてきたのに、みんな同じ方向に向くのは危ない!



(2023年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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