ブッククラブニュース
令和2年
8月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは?
④2歳〜2歳半まで

●信じられないことだが●

 2歳になったとたんに、多くの子がこちらの意志が通じるようになります。考えてみれば、読み聞かせを始めてたったの一年。言葉が通じるというのはものすごい成長です。中には1歳半で言葉を出し始める子さえいます。ほとんどが耳からだけしか集められていない言葉ですが、ちゃんと意味が分かり、こちらの言っていることが通じるというのは成長のあまりの速さに驚きます。半年前のぼーっとした表情はまったく消えて、物事への関心が高まっているのがよく見えます。
 言語では母国語の基礎が固まる時期ですから、2歳はとても重要な時期なんですね。
 物事への関心が高まるということは自ら言葉を得て、さまざまなことを学習できるのですから、頭のパターンをつくる重要な時期であることは言うまでもないです。粗悪な言葉や粗悪な映像を聞かせたり、見せたりすれば、それが蓄積されてやがては粗悪な言葉を話したり、粗悪なものが好きになったりします。なるべく質の高いものを見せ、聞かせ、遊ばせることが一番、大事になります。

●オウム返しで覚える●

 言葉の量は飛躍的増していきますが、もちろん話す子、話さない子さまざまにいます。早くしゃべるからすぐれているということはないですから、おむつはずしと同じで焦らないで言葉をかけていきましょう。物の名は身近にあるものからじゅんに覚えていきます。よく観察していると、必ず言った言葉をオウム返しで言います。
 「これ、食べる?」と言うと「食べる」と返してきます。それがすぐに2語文になり3語文になっていきますから、まずは語りかけをすることですね。読み聞かせは、何度も何度も要求してくるはずです。配本順に1冊平均30回くらいは読んであげましょう。内容をつかむ力も大きくなるので、この時期から読み聞かせは張り合いが出てきますよ。

●親にはわからない想像する力の増加●

 2歳代は想像力が大きくなり、物語を追う力が1歳の時にくらべて急速に伸びていきます。また、この時期には、「自分は愛されているんだ」という感情が出ないと自己肯定感や家族などの集団の中にいるというアイディンティティーが育たなくなるともいわれています。だから、安心のできる落ち着いた環境や体を接触させてのあったかな読み聞かせをしていきたいものです。ここで精神性の形成がうまくいくかいかないかは、思春期、あるいは大人になってから影響が大きく出るようなので、一日の中で親子が安定した時間を長く持つことが重要ですね。増ページで書いたような事件は、小さいうちに愛された感覚がない人が起こすものですから、2歳〜3歳はその基盤となる大切な時間なんです。
 この時期で快い時間の積み重ねることができたなら、思春期の問題や精神的な破綻は激減すると思います。

●少年期の読書に影響ある重要な時期●

 この時期の発達と言語の環境は、将来、読書に入れるかどうかの大きな関門で、分岐点でもあります。どういう傾向があるかというと、まず想像力が高まるため、見えないものが見えてしまうという特異な年齢が2歳。これはうまく育てないと想像力を必要とする読書の力が落ちてしまうことになりかねません。テレビばっかり見せていると当然想像力は落ちますからね。
 想像力が高まると1歳には何も怖がらなかった子が、突然怖がり始めることがあります。暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のですが、「闇に中に物が見えてしまうから怖い」のです。ですから配本では、そういう傾向のための本も用意してあります。じゅうぶんに怖がらせましょう。(笑)また、逆に、2歳後半になると色彩への関心と想像力の拡大が始まり、クレヨンを持たせると「描く」ことも始まります。すぐに色の本は入りますから、興味が出るように色鉛筆やクレヨンで描く遊びも始めるといいですね。
 また、2歳前半には性差がはっきりしてくるので、それを考慮した選書をしています。基本配本以外は性差を考慮して加えいれてあります。 配本の順を信頼していただいて順番に何度も読んでいただきたいと思います。
 いくら記憶力が増するときだからといって、たくさんの絵本をどっと与えるのは愚劣なことです。
 さて、2歳になって二つのアドバイスがあります。一つは会話語(しゃべり言葉)のみの絵本から文章語(書き言葉)の絵本に向うということ、もう一つは特定の分野への偏りや好き嫌いが出るので注意!という点。この二つの問題は、かなり重要なので詳しく次回で述べます。大人は、この違いがよくわかっていません。しゃべり言葉だけで育つといまの若者(アニメ・漫画・ラノベ・テレビ・スマホ会話・・・)のように論理的思考が育たない、物事をいい加減にしか考えない人になってしまいますよ。

こんな絵本もあるよ (2)

「紙しばい屋さん」 アラン・セイ

 アラン・セイは日本人の母、韓国人の父を持ち、アメリカに渡って波乱万丈の人生を送った人である。個人的には、この人の柔らかいタッチの絵が好きだ。最初「おじいさんの旅」という、「おじいさん=自分」がアメリカに旅立ったときの思い出を孫に聞かせる絵本(右)が出て、激動の時代を語りながらも、ほんわり感があって好ましかった。
 「紙しばい屋さん」も同じで半分は過去、そして半分は現在が語られるが、この時代の差の大きさと人間の変化に目を奪われる絵本だ。
 昭和のおだやかな時代、紙芝居全盛の時代、この紙芝居屋さんは町から町に物語を語って自転車を走らせる。まだ娯楽の少なかった時代、街頭で人の声がきちんと通る時代だった。紙芝居屋さんは語りながら、お金を持たないで聞いている一人の子どもを気にかけけている。・・・でも時代は変わり、テレビに時代に変わり、町は変わっていきます。おじさんは山にこもっておじいさんになっていく。過去の子どもたちの姿を思い出しながら・・・そして、もう一度町に降りて、紙芝居を語り始める。そして、古いかつて語られた物語は息を吹き返し、「元こどもたち」の心に沈んでいた思い出に光を当てていくことになる。子どものときに満ち足りた時間、周囲の大人に心をかけてもらった場所を持つことは、幸せな人生を送る必要条件だと言うがごとく・・・。さて、いまの子どもは・・・??

「てじな」 土屋富士夫

 夏休みもコロナで短縮・・・店では子どもが来ても遊ぶサービスができない。感染を防御するために飲み物をサービスすることもできない。まったくたいへんな春と夏になった。若い親や子どもはかかっても発症しなかったり、軽症だというし、幸い日本は重症者、死者が少ないようだ。気の使いすぎというかもしれないが、神経質な人もいれば鈍感な人もいる。より多くの人に気を遣わねばならないから、当分は消毒や分散来店、予告来店などをお願いするよりない。
 夏休みは子どもがたくさん来るので、ゆめやのインチキおじさんが手品で大いに遊んであげる時期なのだが・・・トホホ・・・何もできない。とにかく、私は「山田奈緒子奇術倶楽部」の終身会員だし、子どもも大人も騙せるのに、この夏はウラメシイ。
 最初に手品に関心を持ったのは、芥川龍之介の「魔術」だったが、やってみようと思ったのは上の本を見てからである。幼児用の手品の本だが、手品というのが単純であればあるほど人は不思議に思うということがわかった1冊だ。大仕掛けのイリュージョンもいいが、究極は小物を使ったテーブルマジックであることは誰でもわかることだろう。政治家が嘘を言って税金を流用するのは悪行だが、奇術師が一枚のハンカチを鳩に変えるのは人の心を和ませる善行であると思う。

配本選書で私の心に残った本 (3)

絵で読む広島の原爆 那須正幹・文 西村繁男・絵

 会員からの7月の振替通信で、いつも多い話題は小5全員に配本する「広島の原爆」である。「とてもわかりやすかった」「一度資料館を見せたい」「戦争はいけませんね」いくつもの感想が返ってくる。絵本だが低学年にはむずかしい解説があるので、この時期の子用なのだろう。いまの若い親たちには戦争など遠い昔の歴史の中の話かWar Gameの中のものなんだろうが、私たちの世代では焼け跡が残り、戦死した親や空襲で死んだ家族の話は山ほど聞いてきたから実感はある。
 この絵を描いた西村繁男さんも私と同世代で(と、いうより生年月日まで同じ)で、以前、諏訪の亀屋旅館でいっしょに泊まって話をしたことがある。そのとき撮った写真が下。写真右下に91年9月23日とあるから西村さんが広島に移住して「広島の原爆」を描き始める半年くらい前のことだ。「想像で描くのではなくちゃんと現地で体験した人の話を聞きながら描きたい」と言っていた。そして3年がかりで描き、本は1995年に出た。傑作と言える。もう30年近く前のことか!! びっくり。

戦争を感じた世代

 西村さんは高知市の出身である。「高知も終戦直前の7月3日に空襲があって町が廃墟になりました」と西村さんが言った・・・同じ世代である。「甲府は7月7日でしたよ。」広島の原爆はそれから一か月後のことだ。それまで、どのくらいの町が焼かれたのだろう。「子どもがたくさん死んだのは耐えられないよね。」「ぜひ、描いてください」などと話した記憶がある。
 戦争を知らない世代の政治屋がまたぞろ、この国を戦争ができるように画策している。コロナ対策もできないのに何が憲法改正だろう。次の戦争ではヒロシマがいくつも発生してしまうことも想像できないにちがいない。脳天気のゲーマーやスマホ世代は、この世のすべてがヴァーチャルで真剣に生きていない。老人はお金があればあとのことはどうでもいいと思っている。この国は、文化的にはもう終わっている。そういう人々には、この本を与えてもまったく意味がないだろう。はてさて、日本の子どもたち・・・学校のお勉強もいいが、少しは考える練習をしてみよう。そうすればテレビやスマホ画面では映らない現実も見えてくるはずだから。

いじめの構造 6

 いじめの原因については社会学、心理学、教育学などで高名な先生方がさまざまな分析をし、研究をしている。論文なども山のようにある。しかし、いずれも個別論、体質論に終わっていて、「ここが問題の核心で、だからこれをやめないとだめだ! いじめが肯定されるのはなぜか?」という研究がなされていない。要は、日本人の体質にあるのだから、その体質をつくったものを考えなくてはだめだと思う。
 しかし、どうもそこを攻めるのはタブーのような感じがあり、誰も「これが原因でしょう!」「おおもとはこれなんでしょう!」ということがない。
 前に述べたように「いじめをされた側は悲惨なのに、いじめをした側はノウノウとしていられる」という独特の構造がどこから始まったか・・・それを考えるとじつは見えてくるものもあるのだ。
 それは、今を去ること二千年くらい前に起きた事件が「いじめの構造」のおおもとになったと思うからである。どんな事件か? それはこの国に侵入してきた種族がもともといたおだやかな種族に戦争をしかけて「とんでもないこと」をやらかした、ということである。それは、古事記や日本書紀にある「出雲の国ゆずり」。「そんなの神話じゃん!」という人がいると思うが、神話は事実を反映した物語だ。世界中の神話は民族性質の基本を表しているものでもある。
 古事記や日本書紀にはさほどひどい表現がないが、勝者が都合の悪いことを「隠蔽」や「改竄」をするのは何もいまだけのことではない。たった150年前の戊辰戦争でさえ、われわれは教科書で「近代化を進めた明治維新」と教えこまれ、鳥羽伏見で始まり、江戸無血開城、五稜郭で終わったとしか教えられない。北越戦争・会津戦争・奥羽越列藩同盟などを知っている人は少ない。じつは東北ではとんでもないことが行われたのに、それがまったく教科書や歴史書に書かれなかったのも「いじめの構造」のひとつと言えるだろう。ひどい目に遭った人たちは無視されるのである。

大祓の祝詞

 で、最初の「国ゆずり」にもどるのだが、実際には筆舌に尽くしがたい残虐な行為が行われた。圧倒的に進歩した武器(青銅器)で殺戮を繰り返し、子どもも殺し、婦女暴行もあったに違いない。言葉上では国ゆずりだが、「国奪い」というのが正解だ。そして勝った方の侵略者の中にもあまりの残酷さでPTSDを起こすものがたくさん出た。罪の意識が起こらないわけがない。
 ここで考え出されたのが、罪を罪としない方法だった。罪を裁くのではなく、また法律をつくって「こういうことをしてはいけない」と教えることもなく、とにかく罪を犯してもその罪をなくしてしまえばいいというお気楽な方法を編み出したのである。それが「大祓の祝詞(おおはらえノのりと)」というものだ。罪を犯しても、それは水に流せば川から海に流れていき、やがて消えてしまう、という驚くべきものである。その罪で生まれたものは「穢れ」だから、それは水で洗い清めればなくなるという禊(みそぎ)の方法まで発明した。そういう流れが歴史漫画など軽いものでわかるわけがない。150年前の戊辰戦争でも同じ殺戮・強奪・婦女暴行が行われたが、行ったほうはノウノウと新政府を樹立して平気だった。背景に大祓の思想があったからである。PTSDにもならなかった。北越でも会津でも敗軍の兵士は死体が道端にそのままで、弔ってもいけないという非道がまかり通っていた。婦女暴行では多くの女性が自害をした。それが今に続く、まったく困った国である。(つづく)

サブカル問題・⑤
行きつくとこまで行くか!

 学校でリモート授業が行われ、ますますディプレイ画面が子どもたちの中に入り込んできた。これを起爆剤にしてスマホゲームや家庭用ゲーム機への依存が起きなければいいなと思うが、当然、なんでもあり価値観の家庭では親から率先して依存になっているから子どもも同じ道をたどらざるを得ないだろう。もちろん同じことをやっても誰もが悲劇的な結末にいたるわけがないが、人によっては依存が狂気につながってしまうこともある。十年ほど前から、自分の子をほっぽって遊びに行き、子どもが餓死する事件が続いてきて、直近の3年間で、かなり頻発するようになった。原因はいろいろあるだろうが、その親も自分がまともな家庭で育たなかったという暗い過去があることが多い。
 また、この「十年間」というのがじつは重要で、この十年でのスマホの進展は目覚ましく、当然、ゲームやLINEなどを日常で頻繁に行う人種も増えてきている。餓死させた親のSNS履歴を見ても操作時間、閲覧時間はかなり長い。自分を主張するためのインスタグラムまでやっていれば作成→投稿までの作業時間もばかにはならないだろう。当然、合間にはゲームもすることだろう。十年前、大阪のマンションで二人の幼児が餓死したとき母親はどのくらいケータイを使っていたか・・・今年、3歳児を8日間、放置して鹿児島まで行っていた母親などスマホ依存時間はかなりだったのではないか。こういうことが発表されないのは、事件を起こす人間は少数でもんだいにならないからなのだろうか。それとも犯人の権利を守るという力が働いているのだろうか。ならば名前を出さずに統計・集計データでも出してもらいたいものだ。なぜなら、そのデータは大いに一般家庭の子育て役になるだろうし、何が影響を及ぼすもので、何が大丈夫なものかがわかってくる。警察や心理学者は、なぜ、そういうデータを公表しないのだろう。
 行動履歴は対策を考える上で重要なデータだと思う。成育上の家庭の構成、どういう育ちだったか・・・どういうものを与えられ、どういうものにのめり込み、どういう性格になったか・・・それらがわかれば、
 当然、その裏には政治的背景があり、ゲーム業界、SNS業界の売り上げがよければ半導体の売り上げも伸び、その波及効果は見逃せない経済的効果を生む。そうなれば政府も事件や犯人は全部「自己責任」。餓死した子どもにまで自己責任はないだろうが、「かわいそうだったね」で終わられたらたまらない。

精神が蝕まれる時代

 誰に聞いても「八日間も幼児を部屋に閉じ込めて遊びにいくというのが理解できない」と言う。
 そういう意見の多くは「自分のことはさておいても子どものために頑張るという母性本能神話を信じている」からだと思う。それは、そういう社会規範があって、その中で育った親の在り方であって、そんな母性本能など自由勝手な時代ではもともと育ちようがないのではないか。
 何も考えず、まわりがそうだから同じ事をしていればいいと思いながら育つと、まわりがLINEをすれば自分も、まわりがこの写真のような流行を作れば自分も・・・と、どんどん流される。そうなると全部回りがやっていることはできるかぎりやるということになり、本来こうであらねばならないということはまったく考えなくなる。
 これが電子社会、サブカル社会の恐ろしい側面なのだが、電子・サブカル関連すら考えなくなるのだ。「だって、まわりがやっているんだもん!」である。快ければなんでもよい。人からとやかく言われなければなんでもよい。・・・そういう気持ちになってくる。そのうちに倫理も規範もへったくれもなくなる。欲望が赴くままだ。もちろん、全部が全部ではないが、幼児期から家庭に恵まれれず躾と言う規範も身に着けなくて来れば、世の中全体が「なんでもあり」なので、それでいいものだと思ってしまうのだ。
 言っておくが、これは餓死事件を起こした親だけではありませんよ。政治家たちの中、大学の先生たちの中・・・いわゆるエリートといわれている人たちでも欲の赴くままのことをやっているのは、なにも週刊文春だけを読んでいなくてもわかることである。

ボロ儲け

 任天堂の4〜6月期の売上高は前年同期の約2倍の3581億円、最終利益が6倍以上の1064億円、大幅な増収増益だ。本業の営業利益は1447億円(約5.2倍)。コロナの感染拡大で起きた「巣ごもり」需要が追い風だったという。家庭用ゲーム機「ニンテンドースイッチ」や人気のソフト「あつまれ どうぶつの森」などが好調らしい。もはや日本人はゲームなしではいきられないようだ。政府からもらった十万円のうち、どのくらいがゲームやソフトに使われたかはわからないが、まったくどうしようもない国になったものだ。
 大の大人がこんな子どもじみたゲームにのめり込んでいる姿を見ると、「なんだかもうこの国は終わりだな」と思ってしまう。
 人は意図的な宣伝に左右され、そこでばらまかれるものの影響を受ける。劣悪なお笑い芸人の話ばかり聞いていればほんとうの面白さはわからなくなるし(こういうことをいうと影響を受けた連中は「じゃあ、どういうのがほんとうの面白さなんだよ」と開き直るバカさ加減)いずれ、上からも下からも腐敗が始まり行きつくとこまでいくかも・・・!
 そのまえに天変地異があるか、コロナで世の中大混乱になるか・・・ま、なにはともあれ、残暑お見舞い申し上げます。

「新しい」環境 (下)

 短い夏休み・・・どうしています? 宿題はたくさん出ましたか。どこにも出かけられませんでしたか? 相変わらず時間に押されていますか? ともだちとは遊べていますか? ゲーム三昧になってはいませんか? 
 おそらく戦後初めての「右往左往」の中で学校も会社も不安を抱きつつの「暗中模索」を行っていると思います。
 まだ、新しい環境は出来上がらず、「試行錯誤」の前にいままでのやりかたで何とか切り抜けようとみんな焦っています。親たちの困惑と愚痴はいっぱい聞こえてきています。
 しかし、まだ頭を切り替えることができずに、遅れたものを取りもどす、少ない時間でやりくりする・・・・まだ、今年、来年ではなにも変わりません。
 コロナ後を見据えたというプランはまだ上がってきておらず、おそらく行き当たりばったりで、コロナにおびえながら、ぐちゃぐちゃになってしまってもしかたがないというあきらめみたいなものもそこここに見えています。
 いまを過去の状態で表せば、親たちは立身出世の妄想にとらわれ、食っていかねばならない殖産興業の競争の中で何も考えられず、やがて食えなくなる階層は富国強兵に煽られて、子どもを食える職業(軍人のような公務員)に就けることも出てくるかもしれません。明治時代と同じですね。その先に何があるか・・・想像したくないです。

学校は時間に追われる

 いま学校はカリキュラムをこなすので精一杯の状態です。もうそろそろ、部活にしても授業にしても効率主義はやめて個別主義に切り変えねばならない時期なのですが、まだまだヨーロッパの学校のようなわけには行きません。こんな時間に追われるようなことをやっていたら、みんな疲れ切って何も考えられなくなり、快い方に逃げ込んでいくでしょう。それはとてもまずいことです。スタートラインは別々でもみんなが充実して走れる生き方が一番なんですが・・・。
 先日、大都市の会員からちょっと悲しいお知らせが来ました。「有名な進学校の小学校に入れたが、とにかく低学年から課題が多すぎてみていられない状態になった。ついて行かれない教科も出てきて、公立の学校に転校させることにした」というものでした。なかなか踏み切れないことですが、よほどの状態だったのでしょう。でも、子どもが潰れる前にほかの道を選択するのはいいことです。「がんばらなくていいです。」と答えておきました。学校は変わらざるを得ないはずです。もう役に立たない東大王は不要なんです。もはや学歴や知識ではなく発想力が物を言う時代なのですから。
 おそらくコロナ後、生きるのに息苦しい時代がとりあえずやってくるでしょう。いまは経済も人的資源も余力で来ていますが、秋口から来年にかけてドカンと落ち込む時がやってきます。余力のあるうちは従来のやり方でイケイケドンドンが通じますが力がなくなったら、今までの立身出世主義は通用しなくなるでしょう。変な言い方ですが企業も社会も、ひょっとすると学校も「治安が悪くなり」、抑えが効かなくなる時代がやってきそうです。

踊るアホウに見るアホウ

 今年はコロナで阿波踊りなど多くのイベントが中止になっています。この損失だけでも大きいのに、GoToでコロナをかき混ぜてしまい、さらにイベントは縮小か中止に向かっています。東京五輪だって開催できるかできないかの瀬戸際ですよね。コロナ第3波が来るのか、来たら強毒化しているのか・・・政治家たちは無策で、まさに ♪踊るアホウに見るアホウで、ますますたいへん。これに国民は羊たちの沈黙です。自分たちもGo Toで、テーマパークへ出かける、実家を往来する・・・まったく、日本人は我慢ができない人種に成り下がりました。
 テレビは食い物で釣り、下品なお笑い芸人の言葉と行為でいっぱい。テレビも新聞も忖度記事、忖度番組が踊っています。それを子どもが見ていれば、世の中なんてこんなもの、大人なんてこんなものと思うことでしょう。
 いつまでバカ踊りをさせていいやら。新しい環境に行くまでには数年かかりそう。そのまえに、自分の生きる環境は、そういう家庭であり、どういう職場であり、どういう人間環境かを再度考え直さねばならないでしょう。上がダメなら下からやるよりありません。新しい環境造りには勇気がかかっています。

どうせアホなら踊らにゃソンソン・・・・

 それにしても日本人はおだやかな国民です。よその国なら、こんな政治や社会対策では暴動が起きかねません。おだやかなのか何も考えないのか・・・平気っで旅行に行き、割引目当てのGO TOでは、この夏の終わりには十万から二十万の爆発になることでしょう。まあ、どういうわけか若者や子どもは重症化しないので、これは日本の奇跡ですが、それにしても人々が脳天気であることは間違いないです。もう我慢自体ができないので、飲めや歌えやが我慢できません。♪・・・どうせアホなら金つかわにゃソンソン・・・昼間カラオケで老人まで含むクラスターが起こる、行政職員がキャバクラで感染する、この国は老人だから立派、お役人だからまともということはないようです。テレビは食い物番組で食うのを煽り、旅番組で行くのを煽る(当然、裏でそういう番組を流せという上からの操作が行われているのですが)・・・そうなるとみている方は「♪・・・どうせアホなら食わなきゃソンソン」「♪・・・どうせアホなら行かなきゃソンソン」となり、もはやアホ踊り状態。
 80年前、戦争に突入していくときも、みんなこんなふうにイケイケドンドンだったのではないでしょうか。そういう国民性なのかもしれません。最後は特攻隊かな? 一億玉砕かな? 昔は、日本人は質素でもっと我慢強く、礼儀正しかったと思うのですが、それはかなり昔の日本人のことだったんでしょうか。責任ある立場の人が言ったことをすぐさま変える、なりふり構わず欲に走る、甘んじてひどいことを見逃す・・・言葉が死ぬと国が亡ぶと歴史は教えていますが、なるほど・・・そんな感じがしてきました。(増ページ一部閲覧)



(2020年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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