ブッククラブニュース
令和2年
7月号(発達年齢ブッククラブ)

来店受け取りのお客様へ

コロナ終息まで
 感染を防ぐためマスクをつけてご来店ください。
 暑いのでお子様のマスクは熱中症を誘うこともあるので緩和します。
 お顔が判別できないこともあるので、お名前をお願いします。
 当分の間、飲み物のサービスは中止させていただきます。
 頻繁に消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 受け取り可能時間 (10:30am〜18:30pm)です。
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主 7月10日

暑中お見舞い申し上げます

 今年は梅雨らしい梅雨となって、夏は炎熱地獄となる甲府も涼しい夜が続いています。いつまでも続いてほしい梅雨ですが、ちゃんと季節は巡る。明ければ、40度を越すかもしれない甲府の夏がやってきます。
 でも、いまは暑さどころではなく、コロナです。店の前を小学生がマスクをつけて走っていく・・・大丈夫かなぁ・・・心配になります。
 「つけろ!」と言われたらまじめにマスクする子どもたち、コロナもだけど熱中症も怖いです。近くに人がいなければマスクをしなくてもいいのではないか、そのへんの臨機応変さも教えたいところです。
 いずれにしても今年の夏は人込みには行かれません。あーあ、私の大好きな夏の花火も観られそうもありませんよ、トホホ。でも、新鮮な空気は吸いたいですね。すべて、リモートやネット会話ではおもしろくありません。なんとか工夫して夏を楽しむ方法を子どもと考えましょう。

コロナ禍でありがたさを感じる

 6月16日・・・NHK甲府が、ゆめやのブッククラブの紹介をしてくれました。木村英利子ディレクターが、コロナ禍の中の店の対応だけでなく、ブッククラブの配本システムについても詳細な紹介をしてくれました。零細店なので広告も宣伝もできませんので、こういう紹介番組はありがたいことです。
 6日に「ヤマナシクエスト」でも紹介していただいたのに、連続ではさらにありがたいことです。5時間にもわたるていねいな収録をしてくださったことに感謝です。いま、小売店は接客が問題となっており、いかにしてコロナに対応し、いかに切り抜けるかが大問題です。おそらく、これではすまず、第2波
 同業者の間では、閉業を考えているところもありますが、寂しい話にならないよう、それぞれが個性を生かした継続の仕方を試みてほしいですね。
 前回も述べたようにコロナは「集まるな」「向き合うな」「行くな」「来るな」・・・でした。小売業は、これで成立しますからひじょうに難しい課題が山積みになります。リモートで商売をする・・・? どういうふうに。

リモート出演

 リモートと言えば、この番組の中でリモート出演もありました。横浜の会員・小馬瀬さんご一家で、久しぶりに対面できました。いちばん下のお子さんはお会いしたことがありませんでしたが、テレビ画面での初顔合わせです。大きくなられましたね。配達で伺っていたころはまだ二番目のお嬢さんが赤ちゃんだったころでした。リモートは、こういう「現状」もおしえてくれますからとても便利なものです。しかし、やはりどこか痒いところに手が届かないもどかしさもありますね。慣れていかねばならないことなのでしょうか。思わず、放映の後、電話をしてしまいました。わざわざ、PCの前に座っての御出演、ご迷惑をおかけしました。久しぶりにお子さんたちの顔が見られたのはよかったです。またお会いしたいものです。
 小馬瀬さんとはもう11年にもなるおつきあいですが、甲府から転居されてずいぶん長い間、配送配本でお世話になっています。これも一種のリモートで、そう考えると、ゆめやのブッククラブはリモートの方が、7割はいます。
 遠くはNZ、近くは甲府市外・・・そういうお客さんとも長く付き合ってきた歴史がありますから、じつはゆめやはリモートが、もともと主だったのかもしれません。でも、お便りを交わし、電話で声を聴き、中には訪ねてきてくれる会員もいますから、これはこれでもともと「コロナ対応」の基本だったのかもしれませんね。

接客も重要な手法

 また、収録中には来店客へのインタビューもあり、いつも来店で配本をしている長田知恵子さんに話していただいたことはありがたかったです。もともと甲府の方ではなく、甲府に結婚で来られた方ですが、もう6年くらいになりますかね。毎月、お会いできますが、下のお子さんが生まれて、いつも楽しい話、世の中の話ができて、毎回、話す時間が楽しいです。
 いつの間にか、おたがいの気持ちがわかってくるというのは対面のよさでもあります。コロナ禍では、お茶を飲みながら話すということがむずかしくなっています。でも人間は、そういう無駄な時間を共有することで、信頼関係を高めていくものです。コロナ後・・・この国の人間関係はどうなっていくのでしょうね。

対面の接客はなくならない

 また、収録中、知らずに来店された岡那奈子さんと櫻井香代子さんも映ってしまいました。突然のご出演(笑)ありがとうございました。
 ブッククラブは、零細ですからコロナであってもよほどのことがない限り「自粛」ができません。長く付き合っているお客様に、たいしたこともできないのに、このような形で支えてもらうというのも、ほんとうにありがたいことです。ご協力に感謝します。
 最近は、電話一本で商売しようという連中が山のように出てきています。「電気量が安くなる」「電子決済にすれば」「WiFiを自社の物にすれば通信代は安くなる」などと詐欺まがいの電話が毎日かかってきます。声はみんな若い人ですが、若いうちからこんな不毛な仕事をしていて、頭がおかしくならないのでしょうか。これもコロナが最終的には退治する現代の課題になりそうです。
 まったく、世の中は何があるかわかりません。この疫病は、長丁場になりそうです。社会がこういう状態になっていますから、治安も悪くなり、暴発的な事件が起きたり、これに乗じて実際に詐欺を働こうなどという人たちも多くなってくるでしょう。
 脅して物を売りつけたり、上から下までだますことが横行しているので、嫌なことですが、疑うことから始めなくてはならない世の中になりました。みなさんもどうか被害に遭わないように心してください。そして、信頼というものの大切さをコロナ禍から学ぶようにしたいものです。
 この夏はストレスの大きい夏になるかもしれませんが、まずは人のいない広い場所へ行って楽しく過ごすことを試みましょうかね。なにも遠くにいくだけが旅ではありません。私どもゆめやも暑い夏、コロナ禍の夏を頭を働かせてやりすごしたいと思います。 (ニュース一部閲覧)

道草を食う

 小学校のころ、よく道草をした。ほぼ六年間、道草をしないで家に帰ったことはなかった。学校は、我が家から徒歩5分くらいのところで道草のしようがない距離なのだが、校庭には遊び場もあるし、近くには荒川という大きな川があるし、まだ畑はいたるところに残っていた。・・・・だから遊び場には事欠かなかった。
 先日、「こころ旅」という番組で、その遊び場のひとつである母校の校庭の藤棚の下で手紙を読む火野正平が映った。手紙を書いた人は、どうやら同年齢の女性らしく、「この藤棚の下で遊んだのが懐かしい。いまに比べてゆっくりと時間が流れていた」と書いていた。ひょっとすると同級生かもしれない。でも、1クラス55人、一学年4クラスでは、とてもクラスメートを覚えきれるものではない。しかし、その女性も楽しい道草をしていたことだけはわかった。この藤棚は、夏は日除けにもなり、さまざまな遊びができた場所でもある。川を越えて道草をすれば、その近くの畑には桑の実がいっぱいあり、夏には口が真っ黒になるまで食べたものだ。

中学時代も

 その前の週に、火野正平が訪れた場所は私の中学校だった。バス通学の女性が長い橋の真ん中にあるバス停の思い出を語っていた。南アルプスの連峰がすべて見え、八ヶ岳や富士山まで見える絶景の場所。
 これが中学から一番近いバス停だった。その女性も、きっと道草をしていたことだろう。夏の暑い日にはカキ氷を売るお店もあったし、駄菓子屋もあった。でも、この女性は隣の席に座っていても絶対に覚えていないことうけいあである。中学は、1クラス55人、一学年は15クラスもあった・・・。
 人数が多いと、先生や大人の目が届かないので、どこで道草をしても誰も気にしなかったし、なにより子どもが犯罪や事故に巻き込まれるような怖い時代ではなかった。時間は山ほどあったし、中学までは3kmほどもあって、道草場所など河原もあれば、畑もある、街の通りもあれば神社の境内もある、探すまでもなく通学圏内には道草場所は時間と同じく山ほどあった。

「道草を食う」もの

 道草は、するのではなく食うものだということを後で知った。「道草を食う」。馬が道端の草を食べるので「到着が遅くなる」という意味があるらしい。でも江戸時代の人はゆっくり道の草を馬に食わせたという。飼い葉桶の枯れた草だけではなく、みずみずしい草を食べさせて栄養を取らせたということだ。
 TVCMでマルベリーから抽出した液体がアントシアニンを大量に含んでいて目にいいと宣伝していた。私が「マルベリーって?」と言うと、妻は、「桑の実らしいわよ。」と答えた。
 桑の実?! それなら山ほど食べた。あのころはブドウもモモも高価でかんたんには食べられなかった。それで、いまでも老眼鏡なしでパソコンが打てるのか!! 本が読めるのか? である。
 火野正平は、私と同世代だが、あの道草だらけの「こころ旅」ができるバイタリティは、子どものころたくさんの道草をして身に着けた能力かもしれない。
 そういう成果よりさらに大事だと思うのは、夏のある日、道草で知ったデラ葡萄や白桃の味、入道雲の白と空の青のコントラスト、・・・みんな懐かしい記憶となって積み重なっている。その成果だけも大きな人生の宝物だと思う。(新聞一部閲覧)

新しい環境(中)

 子どものころに物とつきあわないと頭の中が仮想現実になってしまうことを述べたが、これは、できれば中学生くらいまでに体感や実感で学んでほしいことなのである。
 それは、なぜかというと、じつは、想像力と大きな関係がある。子どもは物に接するときに、おとなのように物を物としか見ないということはない。「見立てて遊ぶ」ということがよく言われるが、想像力を発揮して「物」を別のものに置き替える力を発揮するからだ。これは、想像力を大きくする大きな訓練となる。
 本を読んだときに人は活字を「意味で考えて」読み進んでいるわけではない。
 「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」(川端康成「雪国」)と読んだとき、蒸気機関車がもくもくと煙を吐きながらトンネルを出て、車輪が大きな音を立てて力強く回り、暗闇から明るい真っ白な世界に出ていくことを想像する。これが体験した人とそうでない人では大きな想像の差がでるのである。人は論理的に理解する前に感覚的につかみ取ることをする。そうなれば、この想像力で考える世界は、個人個人別のもので、独自の思考の世界が開けていくのである。

さらにその向こうを読む

 「おばけ葉っぱは、手のひらの形をしたかぼちゃくらいでかい葉っぱを二階の教室にまでのぞかしている」(夏の庭フレンズ)を読むとき、かぼちゃやキュウリがどんどん伸びていく状態を想像できるかどうか・・・これは、後で展開する話をシンボル化した重要な冒頭の文だが、見たこともない子には実感が乏しい無意味な文となるだろう。
 文学だけでなく数学もそうなのだが、字面で書かれたもの、あるいは数式などは、その向こうに何かを暗示するものである。A=aという決まった答えを示すのではなく、もっともっと巨大なものを、その向こうに表現するのであるから、それを文章や数式から読み取らなければならない。
 例えば、子どもはあまり「死」というものは考えない。幼ければ幼いほど生きることしか思わないが、あるとき「他(自分のではない)」の死を意識するときがくる。それまでの子どもの想像力はかぼちゃやキュウリの育つときの勢いに似たものすごく巨大な成長を感じさせるもので、あるものは躍動する「生」だけである。それが、やがて「他の死」を意識し、関心が芽生え、発達心理学的に言えば大人にさしかかるのである・・・・。そんな表現は文学でないとできないかもしれない。

手ごたえとは何か

 本だけではない。これは映像の世界でも同じことが言える。
 映画「リバーランズスルーイット」では川釣りで兄弟愛や親子の関係が描かれるが、頻繁に釣る場面が出てくる。これも子どものころ釣りの体験をした人とそうでない人は胸に迫ってくるものが大きく違うことだろう。実感や体感は物を「理解する」うえでとても大切な経験なのである。
 もし、赤ちゃんの頃から、アニメばかり見て、少年時代はゲームやyoutubeばかりだったら、その感性はどうなるだろうか。かなり理解力は貧弱になるのではないだろうか。
 ウイルスが暗示するコロナ後の世界では、人は実感をともなう生活にじょじょに変わっていかねばならないだろう。経済が落ち込んでくれば、(あと半年くらいは余力があるので感じないが)否が応でも便利一筋の時代は終わり、生活を変えなくてはならなくなってくるからだ。それは想像力を増すことができる実感の時代、対物の時代になっていくということでもある。

配本選書で私の心に残った本(2)

「ちいさなともだち・・・星ねこさんのおはなし」(小2)仁科幸子・作

 常に文学は時代を先読みして、テーマを作り出すが、この本はなんと天敵どうしの友情のようなものを取り扱われている。かつて佐野洋子は「さかな1ぴきまるのまま」でネコが友達を探しに出る話を書いたが、この仁科幸子・作「ちいさなともだち」では、食べる対象の魚と仲良くなる期待を感じさせながら、ともだちとは何かを考える作品だ。
 ふりかえって現代をみると・・・人種間の差別問題、企業内部での差別問題、男女差別、子どもの権利問題などジェンダーに関わる問題が大きくクローズアップされている。もちろんたやすく乗り越えられる問題ではない。我が子を自分の勝手で餓死させてしまう親にとっては子どもは邪魔者であり、愛するものがいても平気で不倫をしてしまう人間にとっては妻子は不要のものかもしれない。ここでは、あたりまえに存在していた人間関係を再び考えなければならない大きな問題が横たわっていることに気付くべきだ。この本は、その、「相いれない存在がある」という入り口で「なかよくなれるものだろうか」と考える猫が主人公となる。この作品は、浜田広介童話賞を取った作品だが、「泣いた赤鬼」や「椋鳥の夢」で人間のもつ越えられない領域(しかし、越えなければならない)を描いた浜田広介のさらに向こうにあるテーマをとらえている。越えなければならないテーマ、食べる者と食べられる者の関係の超越・・・高度で難しい問題だ。いつか優秀な人が育って、新しい思想を生み出してくれるのではないか、われわれの中に存在する越えねばならない問題を解決していってくれるのではないか。そんな期待を持たせてくれる作品である。
 (増ページ一部閲覧)

読み聞かせとは ③ 1歳半〜2歳まで

 この時期は、子どもの発達がすごい時期です。1歳のころぼんやりした表情で世界を眺めていた子が、突然、表情が豊かになり、いろんなものに関心を示しているのがわかる。
 1歳の時何も言葉がわからなかった子が2歳ともなると話し始めますからね。この発達は信じられない速さです。当たり前と思っている親が多いですが、考えても見ましょう、歩き始めてたった1年です。直立猿人がネアンデルタール人並みになり、すぐにホモ・サピエンスになる過程がたった一年間で起こるのです。
 ところが親は、こういう発達がよくわからないので「数の本」「五十音の本」や「しつけの本」・・・ひどいときには「時計の本」を与えたりします。子どもは読み聞かせれば、とりあえず何でも聞きますけどね。たとえ、天才でも、この時期に数や字、決まりや時間観念を受け取る力はないでしょう。

覚えさせる時期ではない

 この時期には感覚的な絵本や始まりがあって終わりがある単純な絵本が適切ですが、成績主義でつくられた親の頭は、だれよりも先に「あいうえお」「1+2+3」「何時何分」を早く覚させれば勝てる!と錯覚していて、手が伸びてしまうのでしょう。
 驚いた例があります。あるメソッド形式で覚え込ませる手法に感化された親だと思うのですが、時刻を指した時計の絵のあるカードを出してその時刻を言うことを繰り返せば時計を覚えると思い込んで1歳半の子にやっていたことがありました。馬鹿らしくて注意もしませんでした。その年齢の子が時計を読めるわけがないのです。まったく、何かに洗脳されるということは恐ろしいことです。私が嘆くのは、そのカード遊びではなく、それで覚え込ませようという親が大学を出ていることでした。
 発達にプロセスがあるように物には順番があります。これを飛び越してしまうと、どこかに欠陥が生じます。1歳代の絵本が重要なのは、2歳以降の物語絵本の基礎になるものを、取り込める最初の時期だからと思います。これも「はじめが肝心」ということでしょうね。

与える時期によって無意味なことに

 ブッククラブ配本では、微妙に性差が出る、この時期も考慮して選書で組み上げてあります。
 配本順に読んでいってもらえれば2歳前半のかんたんな物語絵本へは問題なく入っていかれると思います。
 ここで重要なのは読み聞かせのパターンです。最初から半年ですが、じょじょに読み聞かせの時間も朝とか寝るときに定着してくるでしょう。毎日の継続できれば、まず物語絵本への準備は完了です。まだまだ親には内容が単純すぎて面白くないかもしれませんが、子どもといっしょに楽しく遊んでください。あたりまえのことですが、絵本だけではダメな時期でもあります。とくに生活の中でいろいろ化難で行くわけですから、楽しく学ぶのが第一です。
 「きんぎょがにげた」は探し物絵本ですが、現物を使って遊ぶことは大切です。ボタンや積み木をつかって、どこかに置いて探す。同じものを見つけさせる。1歳後半では代表的な遊びだと思います。なによりこの時期の子どもは、まだ強い自我が出ないのでとてもかわいいのです。親がいっしょに遊んでやれば潜在意識の中に「親というもの」が刷り込まれて、その後の成長に大きな影響を持つつながりをつくることもできるでしょう。

生活のなかで楽しむことも教えてやろう

 まずは、いっしょにホットケーキを焼いたりして本の内容の言葉を使う、なにか物を使って隠したものを探す遊び、音感で遊ぶものを考えたり、この時期しかできない遊びを一緒にすることだと思います。そうすれば、どんな内容の本でも食いついてきます。
 このとき気にとめておきたいことは、何かをするときに擬音や掛け声をかけることです。「しろくまちゃんのほっとけーき」などは、家でホットプレートでパンケーキを焼くときに、「じゅうじゅう」「ペタペタ」などおのまとべを使って楽しみナガタ発語させていくのはおもしろいです。ぜひやってみてください。10人中1,2人の子は言葉をオウム返し的に話すこともできます。日常の読み聞かせや会話から耳が真奈でいますから、それを促すのも、このような遊びがいいです。

最初のナンセンス絵本を与える

 例えば一般にナンセンス絵本と言って、無意味なことが繰り返される絵本があります。この「ごろごろにゃーん」のようなものですね。このタイプの本は各年齢でいろいろあり、ひじょうに重要な分野の本ですが、この感覚、この大人にとっては理解しがたい内容を楽しむ最初の時期が1歳後半なのです。教え込むことはやめて、一緒に楽しめば子どもも乗ってきます。親の工夫が本の存在を高めますからね。この与え方の工夫は、年齢が上がっていくほどに大切になってきます。教え込みではなく遊びであり、楽しみでなければ子どもはいやになってきます。いくら赤ちゃん向けのものでも、1歳でしつける必要はないでしょう。しつけは本ではなく、親が日常生活の中で教えていくものですよ。

本とともに過ごしてきて

 山梨県北杜市 小宮山典子さん 碧生くん(小6)優乃さん(小3)
 妊娠中に職場の先輩に勧められ、息子が10ヵ月になると、早速入会させていただきました。
 幼い頃は毎日絵本を読むのに加え、『うたえほん』が気に入った息子に、四六時中歌わされていたのを覚えています。
 読み聞かせの習慣は小学生になってからも続き、小3になる時に配本の追加をお願いしました。
 ここで、今後一人で読めるか読めないかが決まると感じていたからです。
 私の心配をよそに、息子は『トガリ山のぼうけん』に夢中になり、シリーズを読破しました。
 一人で読む楽しさを知った息子は、その後どんどん自分から本を手に取るようになりました。
 昨年のクリスマスには、『はてしない物語』の追加配本をお願いし、これが読めればもう大丈夫だろうと、心の中で確信しました。
 ゆめやさんのおかげで、本が好きな子に、そして本が読める子に育ちました。心より感謝申し上げます。
 次は、娘の番ですね。読めるかの過渡期なので、慎重に進めたいと思います。今後もよろしくお願いします。
ゆめやより
 ほんとうに長いお付き合いでありがとうございます。あれから11年も経ちましたか?! 10年ひと昔ですから、もう昔の記憶になってしまっているということですね。でも、ちゃんと記憶にある・・・・「心より感謝」なんてとんでもない、子どもが本に向かえるか向かえないかは、なんといっても親がどういう環境をつくるかで決まりです。読み聞かせなければ子どもは本に向かえませんものね。親によって子どもは違ってしまう・・・これは、いま起こっている社会的な事件の背景を見ればわかるはずです。「トガリ山」で読書力を増す子は多いです。「はてしない物語」・・・これが読め、いずれテーマの意味が分かれば、これはもう「立派な」大人です。



(2020年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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