ブッククラブニュース
令和2年
6月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは?  ②生後10ケ月〜1歳半まで

 子どもが実物ではなく、描かれたものへの関心が出始めるのは、およそ生後十ケ月前後。生後十ケ月前後は配本も最初ですからここから絵本の読み聞かせは始まります。いくら早くても生後8ケ月ということはなく、その時期の対応は、前回述べたとおりです。
 最初にブッククラブ配本で入れるのは「認識絵本」というものです。動物や植物など自然なものから始めるのがいいと思います。実物に近い細密画がいいです。写真では固いうえ余計なものも写ってます。この読み聞かせ体験は個人的にですが、その後の読み聞かせに大きな影響をもたらすと考えています。場面に集中する力が最初につくからですが、子どもの反応がないもの(しつけ絵本やキャラクターもの)を無理やり与えるより、自然の発達に応じた認識絵本から与えるのがとても大切だと思っています。

大切だと思った時期

 わからないのは無理もないですが2歳近くからブッククラブを始めた方の多くは、このへんのことがわかっていない方が多く、お手持ちの本に認識絵本がないのです。
 さて、これらの本・・・二十年前には、尋ねられなかったことが最近ではあたりまえのように質問となって寄せられます。どういうことかというと、一歳前後から入る、いわゆる右に上げた本や、そのすぐ後の動作絵本(「おつむてんてん」や「おててがでたよ」など)の「文字の少ないもの、ないもの」は「どうやって読み聞かせればいいのか?」と、いうものです。
 ふつう、赤ちゃんを抱いて、本を拡げるときにサクランボの絵を示してブッキラボウに「さくらんぼ!」「さくらんぼ!」と繰り返す親はいないと思うのです。
 一歳児の絵本は親と子が絵本の中の事物を媒体にして会話していくものです。内容と無関係でなければ、ある意味、何をしゃべってもいいのです。アドリブはいくらでもOKです。

教え込むという気持ちは捨てる

認識絵本は、・・・「うわぁ!赤くておいしそうなモモねぇ。・・・さあ、どうぞ!おめしあがりください。」です。「ほうら、ライオンの赤ちゃんたちが遊んでいますよ。お母さんはどこにいるのかな。」・・・・こういう普通の話で語ればいいわけで、ことさら上手く読む必要もありませんし、詳しく解説する必要もありません。図書館や読み聞かせ会のイベントであまりに上手な読み聞かせおばさまの芸を見せられると不安になるかもしれませんが、子どもはそんな上手さよりも親と居られる快い時間を望んでいるのです。その証拠に、お母さんより百倍美人の女優が千倍上手な読み聞かせをするDVDを見ても、この時期の子どもの反応がないどころかお母さんの方を喜びます。実際にダッコしたり、寝ながら読んでくれるお母さんの読み聞かせが一番いいということ。読み聞かせが好きというよりは寄り添っていてくれる安心感が好きなんです。

歌ってあげる本も

 認識絵本だから!動作絵本だから!覚えるように教え込まなくては・・・という意気込みで、「はい、クマのぬいぐるみね。」「これは月にかかる雲」なんていい続けたら、子どもは本が嫌いになってしまいます。
 ひたすら親が赤ちゃんとの時間を楽しめば自然に子どもの心は本に向いてきます。「教える」などということは頭から抜いて、子どもとの会話をする時間と考えて親も楽しんでください。教え込みなど、この時期の子には無意味。歌や指遊びをしながらリズムで本を読む、歌ってやるというのも情感を高めます。
 歌絵本は1歳前後からがいいですね。お母さんの歌声でリズムをとりながら体を揺らしたり、指遊びをしたり。ここから半年間の頭の発達はすごいですよ。すぐわかるようになります。とくに歌は重要な耳と感覚の発達を促します。音楽だけでもいいのですが、せっかく歌があるのですから、メロディーやリズム、声の感じを判別する感覚も持てることは大切です。

1歳前半の読み聞かせは、物語絵本への基礎

 配本は、急激な一歳児の発達に対応させて、四半期ごとに大きく変化した配本体系になっています。何回も何回も読んでください。一冊の読み聞かせ回数は最低30回くらい(それ以上のことのほうが実際には多い)です。冊数を与えるより、あきらかに読み聞かせの回数を維持すべき時期です。たくさんの物を与えれば頭がよくなるというのは幻想です。1歳〜1歳半までの前半には生活の中の動作(あいさつ、家族とのつながりなどの本)、後半は感覚的な絵本が入ります。
 新しく配本された本にはなかなか関心が行かないのもこの時期の特徴です。大人と違って、慣れ親しんだ本が一番好きなのですから、新しい本も読み聞かせている冊数に新しい本を1冊加える形で新しい本も慣れ親しむようにしてください。この時期の絵本は大人にとっては物足りないものがあるかもしれませんが、お子さんの反応を見れば分るとおり、本格的な物語絵本へ入る前の下地をつくっているものでもあります。物語絵本は文章語でかかれます。2歳半ばまで文章語の絵本がほとんど入りませんから、口語、会話語、おしゃべり言葉を楽しむのに一番よい時期なのです。文章語の絵本になったらアドリブもパフォーマンスも入れないほうがいいですからね。
 ここは、親と子が関係を作っていく時期(脳の形成もその時期)ですから、本を介していろいろ話してください。

「新しい」環境(上)・身近な世界に目を

 長い春休み・・・どうしていましたか。親たちの困惑と愚痴も聞こえてきました。子どもは学校が休みで友達とも遊べず、会えず、部屋に閉じこもってゲーム三昧? 中には親子で一緒に過ごせたという話も聞きました。私は、どんどん外に出て遊べばいいと思います。子どもが必要とする環境は、かならずしも友だちとの遊びや学校ではないと思うのです。
 私の子ども時代は、遊びは自分の好きな物事に向けられていました。昆虫、植物採集、釣りなどの道具、あるいは「探検」や「観察」に必要な物・・・遊びには友だちも必要なこともあったけれど私の関心は周囲の「物」に向けられていました。物で遊べない子が増えていることは承知です。セッティングされた道具でないと遊べないのは残念です。子どもの世界は、たいてい物への関心が強まり、だんだん友達や大人が、その子どもの周辺にかかわってきます。でも、人とかかわる前に物とのかかわりがありました。「ひとりぼっちで悲しい」ということはなかったわけで、最初からたくさんの人=集団とでなければ遊べない環境にいるというのもちょっと悲しい話です。

子どもには独りで遊ぶ力がある

 集団がわずらわしいと、自分を主張したくなるので表の記事に書いたようにYoutubeやLINEに希薄なつながりを求めたりするわけですね。顔も知らないような相手と仲良くなるSNSの世界では大人もかかわるための自己表現を求めますから、子どもがまねても仕方ないでしょう。この時代、ほんとに子どもの心の先行きが心配です。
 若い親たちは昔のことを軽視するかもしれませんが、昔、子どもは一定の時間を一人で過ごしたり、一人で遊ぶ時間があったのです。「友達関係が重要」というのは、学校で刷り込まれた神話だと思います。
 多くの子は一人遊びから友達との遊びをつくっていったのですから、一人遊びや一人でいる時間を否定してはいけないのです。そうしないと、子どもの撃ちから人間関係に疲れてしまい、大きくなってから積極的に人にかかわることがなくなるのではないかと思います。そういう子が増えたので園や学校は「友達が大事」と言うのですが、友達の前にまず自分が大事なのです。そうしないと自己表現にばかり頭が行き、自分の内部で成長するものを失ってしまう可能性があります。
 Youtuberになりたい夢を否定はしませんが、大人になってから、いい加減な人間関係しか残らなかったら哀れというものです。子ども時代は人との関係より物への関心を強めたほうがいいと思いますし、もともと子どもはそういうものに関心を持っているはずなのです。

希薄なつながりをコロナが攻撃

 人からどう見られるか、人とどうつきあうか。こういう傾向を強めているのが学校やその外側の子どもが活動する集団です。集団の一員として成長するまえに自分はなんであるか・・・それを知るためには物と対話することから始まる必要があると思いますが、物と向き合う遊びをしてこなかった親は「物に凝るという子どもの習性」が納得できず、スポーツや習い事の世界で人間関係を学ばせたくなるようです。
 私は小学生の時代から、魚釣りや昆虫採集が趣味でした。ほとんどが一人で行動する「物を扱う世界」でした。きっと今の子どもたちの中にも、釣りや昆虫採集や草花の名を覚えるのが趣味だったり、本を読んでいくのが好きな子もいるはずなんです。群れずに自分を確認するためにするための一人遊び。相手に気を使わず自分がなんであるかを知るために物を扱うことからはじめる必要があると思うのです。
 実は今回のコロナ禍で影響を受けたのは、みんな希薄な関係を対象とする商売でした。飲食店やゲームセンター、カラオケや呑み屋。スポーツジムもそうかもしれません。塾も習い事も大きな影響を受けています。人を集めるイベント、人をコーディネートする商売はもっと大変だったでしょう。でも、昔はなかったか、少なかった商売でもあります。
 それに対して物を取り扱う世界、つまり農業や漁業はそれほど大きな影響を受けていないように見えます。ゆめやも物を取り扱っていますので、その面ではなんとか営業できています。自粛もしませんでした。ただ来店客とのコミュニケーションは抑えられた苦しさがありますが・・・物が人間関係を生む仕事なので自粛することはできませんでした。(つづく)

こんな絵本もあるよ (1)

 エルザ・ヴェスコフ作だが、同じ作者の「もりのこびとたち」は女の子に入る。しかし、この本はちょっとテーマが高度なので、お子さんの様子を知ってからでないと選書に加えない1冊でもある。
 男の子が新しい服をつくってもらう話だが、羊から毛を刈ることから始まる製造過程を見聞きしていくというもの・・・物はこうしてできる、どんなものでも作るプロセスにはさまざまな人の手が加わり、ていねいにできあがっていく・・・ということがわかりやすく描かれている。物をつくることがなくなった現代人、買うことにしか頭がいかない人々には、こういう絵本は何の効力もないが、かつては職人さんなどが細かな注意を払いながら物をつくっていたことを知るきっかけになる本でもある。

『ペレのあたらしいふく』

 エルザ・ヴェスコフ作だが、同じ作者の「もりのこびとたち」は女の子に入る。しかし、この本はちょっとテーマが高度なので、お子さんの様子を知ってからでないと選書に加えない1冊でもある。
 男の子が新しい服をつくってもらう話だが、羊から毛を刈ることから始まる製造過程を見聞きしていくというもの・・・物はこうしてできる、どんなものでも作るプロセスにはさまざまな人の手が加わり、ていねいにできあがっていく・・・ということがわかりやすく描かれている。物をつくることがなくなった現代人、買うことにしか頭がいかない人々には、こういう絵本は何の効力もないが、かつては職人さんなどが細かな注意を払いながら物をつくっていたことを知るきっかけになる本でもある。

『これはのみのぴこ』

 谷川俊太郎以外の言葉遊び絵本も、たくさん出ているがこれはある意味、古典の本でもある。
 「これはのみのぴこ」と書かれただけの最初のページに「のみのぴこ」がいる。そこから、とんでもなく長い文章がページごとに始まる。「これはのみのぴこのすんでいるねこのごえもん」・・・最後のページはページいっぱいの文になる。この発想はすごいと思った。
 こんなに長くては覚えられないと思っていたら、それは大人で、子どもは平気だ。どんどん長い文を覚えていく。言葉遊びという世界は、なんの意味もない言葉や文がつづられるのだが、じつは、世界とはそういう無意味なものでつながっていることもわかるという面白さがある。
 言葉遊びや詩の鑑賞が苦手な日本人だが、遊びや詩を実利的ではないと決めたのは明治以降の話で、それ以前は日本も言葉遊びや詩歌を楽しむ国だったのだ。世の中は生産性や効率だけで動くものではないことを知るおもしろい本でもある。さすがは谷川俊太郎先生だと思う。

サブカル問題・④ 家族への矢と世の中を刺す刃

 3月号のサブカル問題・Aに挙げた表に加えなければならない事件が、また起こってしまった。兵庫県宝塚市の大学生によるボウガンによる家族射殺事件である。
 全容がわからないので(この手の事件では裁判でもほとんど原因については分析も発表もされない)何とも言えないが、犯行対象が家族限定であることとひきこもり傾向を考えると、カリタス小事件とちがうことを感じる。
 成育環境期での兄弟格差が引き金になっていることは容易に類推できる。だから犯行対象が家族になったわけだ。
 カリタスでは、もらい子である犯人と実子である兄弟の待遇格差から心がゆがんでいったが、怒りのナイフは外に向けられ、養親には向かなかった。自分を不遇にした社会を敵視した結果、無差別な攻撃を仕掛けていったと思われる。
 それは、引きこもり中のゲームの影響というよりは、見たアニメやサブカル本の反社会性や暗い部分にひかれたことが原因になっていると感じたからだ。だから刃は、社会に向けられた。被害者は何の関係もない、犯人から見れば幸せな境遇の人々だった。社会に向いた目は、強い自己否定にもなって自殺という結果まで招いている。
 ところがボウガンの大学生の怒りは家族に向けられた。家族への強い殺意はひきこもりがちな自分と活発な弟の比較、どんどん人生をクリアしていく弟とダメな自分の差への焦りとなったのだろう。弟を肯定し、自分を否定する家族への怒りになっていったように思う。無力に見える母、祖母は、彼にとっては成績や生き方で弟と比較してくる強力な敵だったのだろう。識者は、ボウガンの選択がゲームで標的を練習していたことで決まったと指摘している。VRの世界では死ぬということの意味が確実に学べないので、安易に殺傷能力の高いボウガンを選択してしまったのかもしれない。殺人訓練がゲームでできることは、すでに軍隊が採用しているわけで、なんとも恐ろしい時代になったと感じざるを得ない。

もし、あの本を読んでいたら

 しかし、「もらい子」とか「兄弟の比較」はいつの時代でもあるものだ。それで、落ち込んだり、怒ったりすることもふつうに起こることである。
 そこで、私はいつも思うのである。彼らが中学から高校のときに「トムソーヤの冒険」や「レ・ミゼラブル」または「小公女」や「秘密の花園」のような古典文学を読んでいたら、どうだったろうと考える。
 こういう本を読めば、いつの時代にも、だれにでも起こる不幸、不遇であることがわかるはずだ。そこでは主人公たちが人生を切り開く知恵を出したり、不屈の闘志で切り抜けることをしている。運命を受け入れながらも運命と戦っている姿も見て取れる。だれもが自暴自棄にはならず、どうしたら新しい世界に行くことができるか悩んでいる姿も見て取れる。そのうち、心の中でそんな思いが発酵してくれば、大人になった時、自分の家族や子どもをそうさせないという意志も持てる。それがサブカルにはできるだろうか。はしょった物語、映像による刺激的な神経刺激・・・これでは人の心を動かすには底が浅すぎるように思うのだが。

いじめの構造 5

イジメの源はどこにある

 案の定、コロナ感染者へのイジメも各地で急速に増えている。
 住所が特定されたり、家族構成まで調べられたり、周囲のイジメ同調圧力はものすごい。前回、例に挙げた山梨県の感染女性の実家も周囲からの白い目で転居しなければならなくなったという。その理由は「行政の制止を無視して密となるバスを使って戻った」というものだが、これは犯罪でもなにもない。それなのにバッシングされ、家庭まで壊されるというひどいものだ。見せしめにして、こういう人間が出ないようにするという、はなはだ前近代的な意識がまだまだ地方には残っていると言わざるを得ない。放射能にしてもウイルスにしても浴びたり、罹ったりしたものが悪いわけではない。
 にもかかわらず、汚いものとして排除する意識があるのは、みんな同じであることが「ふつう」という意識を植え付けられているからではないのだろうか。で、実際には汚いものでなくても「みんなと違う」ということで「穢れている」いうレッテルを貼られてしまう。貼られたら囲まれて排除される。イジメが学校や職場で起こるというのは、「自分たちは基準を満たした人間だから正義」であるという気持ちが加害者側にあり、被害者を異質な人間として特定してしまうからである。それが学校や職場にはあたりまえのこととして認められる雰囲気があるのだと思う。

個人的な体験

 異質なもの、変わっているもの、多様なものを認めない何かが大昔から組織の中にあるような気がする。私が、イジメに関して特別にこだわるのは、中学の時にひどいイジメを受けた経験がある。あるグループが、私を標的にしてイジメてきた。イジメの主役が言うことには「おまえは変わっている」「俺たちと同じことをしない」「仲間になれ」という理不尽な決めつけで、数人で囲んではケリを入れたり、体育館裏でボコボコにされた。しかし、私は不登校になるどころか「間違っているのはおまえらだ」と学校をまったく休まなかった。するとなおさらそれが気に食わないので、さまざまな方法でいじめられた。メガネをいくつ割られ、顔を腫らしていても、その連中が怖いのか誰も助けてはくれなかったし、先生も「うまくやっていけよ」程度の言葉しかくれなかった。
 ようやくのことで卒業して高校に入ったら嘘のようにイジメがなくなった。中学は頭の程度がバラバラの学校だったが、高校は誰もが相手に干渉しようとはしなかったので快適だったのではないかと思う。このことからイジメのひとつの源は、「変わっている者を標的にして排除しようという共通意識」だと確信した。多様性を認めれば、かんたんに解決する問題なのである。ところがバカにはそれがわからないのだ。「みんな同じじゃないといけない」というのは、まだまだ「村」の意識が残っているとしかいえない。次回最終回では、その背景にある最も主な原因になっているものについて述べる。

配本選書で私の心に残った本 (1)

「あいうえおの き」(小1) レオレオニ・作

 3分ほどで読めてしまう短い短い物語。しかし、それが言葉と人間の行為の関係を見事に描き出す。「字」が葉っぱの上でバラバラになって風や雨におびえている。そして、飛ばされそうになって、困って一か所に・・・。すると、そこに「言葉」の虫がやってきて「くっつけば大丈夫」と教え、「字」はくっつく。「ね」と「こ」は「ねこ」に、「へ」と「い」と「わ」は「へいわ」に・・・でも、まだ強い風には弱い。 そこに「文」の虫が来る。言葉は文をつくれと教える。言葉たちは文となる。だができたのはバラバラの文。文の虫が言う。「それではだめだ!」「何か大事なことをいわなきゃ、だめだ」と。そこで、文たちは「地球に平和を」「すべての人にやさしさを」「戦争はもうまっぴら」とそれぞれ文を作ると文の虫は背中に乗せて歩き始める。文が「どこに行くの?」とたずねると 虫は言う。「大統領のところさ。」。1年生にはむずかしいテーマだが、読んでおけば思い起こすことも。
 ここでは識字だけの無意味さ、バラバラな意見の空虚さ、言葉は考えを持ち、考えのさらに向こうには行動があることが語られる。
 短文で物事がわかったように錯覚するSNS社会や成績さえよければ何をしてもいいという学校や社会、そして知識と情報の集積、あげくのはては知っているだけに過ぎない歩く百科事典たち。いまや知性的な考えや行動は地に堕ちている。まっとうな指導者や教師がいないからだ。
 言葉は思想を生み、思想は行動を生む。生まねば、人は「飲みたい」「食いたい」「行きたい」「やってみたい」「群れたい」という勝手(「自由」ともいうらしいが)の中で、やがて人でなくなっていくだろう。コロナウイルスが来なくても・・・でたらめな世の中になりそう。みんなで文を作らねば!

本とともに過ごしてきて

 本とともに過ごしてきて
 長野県松本市 小山順子さん 凌生くん 中1
 就学前までは暇さえあれば毎日何度も読み聞かせをしました。ですから一冊一冊、話が尽きない思い出深い本ばかりです。それが一変、小学生になると全く本を読まない子に。パラッと中を見て終わり。私が読んであげようとしても嫌がるので放つておくほか仕方ありませんでした。読み終わらないうちに次の配本が届くようになりお互いストレスでした。そんな状況が小2まで続きます。
 見かねた私は強制的に毎日20分間読書をするように決め、読み切れたらお小遣いも与えました。ゆめやのご主人からは、「そんな読書ならばやらなくてもよい」とのご指摘をいただいたことも。
 ただ親としては邪道であっても本だけは読んでもらいたい。読書嫌いでも習慣だけでも身に着けてもらいたい一心。放っておいては本人が読む気にならないことは明らかです。今はスマホさえあればYouTubeを見たり、ゲームができ、楽な方へ流されてしまうのです。息子は私が言わないと読書を始めないし、キッチンタイマーで20分ちょうど計って読む始末でした。それを見て、私は「YouTube見たさに読書しているふりをしている」と思ったものです。
 しかし、ある日、学校から帰ってくると息子が「今日の模試の問題、どこかで読んだことのある文章だと思ったらゆめやさんの配本だった。」とか、またある日は「松本へ講演に来る柳田理科雄さんの本、面白かった。」と言うではありませんか。「え!読んでいるの?」確かに配本を止めようと促すと拒否します。それなのに自分から20分以上読んだことはないし、感想や続巻の購入を希望することはありませんでした。
 「息子にとって読書とは何なのか?」疑問です。私が思い描いていた読書の風景からはかけ離れています。そんな息子も4月からは中学生となりますが、これまでのように配本を希望しています。理想的な読書は就学前の絵本のように愉しめることでしょうが、時には義務と強制も必要?と思う歳月でした。
 《ゆめやより》 これはまたすごいお便り(笑)をありがとうございました。そうはおっしゃいますが6年まで読めない子も多い中で、さらに中学まで読もうというのは並大抵ではないです。ほとんどの親が読書よりお勉強にシフトしてしまいます。親の言うことなど聞かないのが子ども、文句を言いながらでも読む、これはじゅうぶん見どころがありますよ。多くのお母さんの読ませたいという気持ちが読める子どもを作っているのは事実ですから。



(2020年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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