ブッククラブニュース
平成31年8月号新聞一部閲覧 追加分

発達に応じるということ④

2歳〜3歳

 2歳から3歳にかけては会話が自由にこなせるようになっていく時期ですが、絵本の読み聞かせのなかでも大きな変化が起きるときです。まず、(個人差はありますが)数回読み聞かせただけで、そのページを開くと一字一句間違えずに語りだす子がけっこういることです。これには読み聞かせている親がびっくりします。1歳のときはあまり反応がなく聞いていた子が、こういうことをし始めるとびっくりするのは親です。私は読み聞かされた経験はないのですが、2歳半のとき毎朝父が唱える般若心経を丸暗記してしゃべりだしたということです。祖母は「この子は天才だ」と思ったとのことですが、3歳になったら覚えていなかったので「あれは何だったんだ」と言っていました。何のことはない,白紙状態の前頭葉に聞いた言葉が吸い込まれて、それを口にするということでしょう。また、この時期に子どもが天才ぶりを見せることで親の育児力を高めるきっかけにはなります。いわば「神様が与えた一時的な超能力」なのかもしれません。私も長女が2歳の前半で「ゆびくん」という絵本を丸暗記したのには驚きました。夫婦で「天才かもしれない」と思いましたが、今では「ふつうの大人」です。

初めに脳へ入る言葉は正確できれいでないと

 2歳の前半では、これまで受け身で聞いていた子が飛躍的に言葉に関心を持ち始めるのがわかります。ふつうのことなのですが、読み聞かせている側には、この変化はおどろきです。1歳代の配本ではあまり筋のしっかりしたものは入りませんが、2歳の前半から徐々に筋のあるものに変わっていきます。これに子どもが食いつくのはよく聞く話です。
 この変化は画期的なもので、ひょっとすると子どもの成長の言語獲得上で、いちばん大きな変化かもしれません。もう一つ際立った力は、赤ちゃん絵本の中の言葉、つまり。おしゃべりで使う言葉だけではなく書き言葉(文章語)が分かるようになることです。おしゃべりで使う言葉は、いわゆる「カギカッコ」文で、セリフのつながりです。たとえば、基本配本の「ちいさなたまねぎさん」を開いてみてください。一見、長い文ですが、「  」がなくても話し言葉がひじょうに多いのです。当然、1歳のときはお母さん(お父さん)の語りかけで、読み聞かせも話し言葉ですが、2歳の前半になると話し言葉の絵本はここまで進化します。ところが2歳半ともなると「〜しました。」「〜です。」という地の文がある書き言葉がわかってきます。ここも、この時期の子の発達の凄いところなんです。言葉が大脳新皮質に初めて入っていくときは、やはりぞんざいなアニメっぽい話し言葉ではなく、きちんとした正確できれいな母国語を入れたいものです。それが言語理解の大きな基本となるのですからね。

書き言葉の大切さ

 この2歳前半の書き言葉獲得の時期にうまく文章語絵本を与えることは、後の物語絵本が読み込める子どもに育てるうえで、とても大切な作業です。文章語(書き言葉)とは、前述の「・・・です。」「・・・でした。」と地の文があるもの。典型的なのは基本配本の「おおきなかぶ」ですね。「おじいさんはかぶをひっぱりました。」です。これは「語り手が何かを語っているぞ!」ということを表すもので、ひじょうに客観的な文です。
 つまり、本格的な物語に行く途中である2歳の時期には、こういう本が必要なわけです。「もりのなか」なども地味な本ですが、2歳児が3歳児と決定的に違うのは、激しい物語展開にまだまだついていかれない面があるということでしょう。書き言葉への緊張感がありますし、後先のつながりをすぐに把握できないこともあります。このため、同じようなことが繰り返される絵本が、この時期にはピッタリなのです。ただ、これらの本がいくら良い本だからといって、4歳や5歳の子に適当とは思えません。やはり、絵本の本格的な入り口である2歳児のものでしょうね。

適切にタイムリーに

 もちろん、ここは過渡期でもありますし、性差もじょじょに出てくる時期でもあります。かなり、この時期の配本は神経を使って個別に構成しています。その後の文章語の物語配本でも「タンタンのずぼん」、「わたしのワンピース」、「でんしゃにのって」など(しゃべり言葉による本もまだまだ)、男女別々の就寝儀式絵本「おやすみなさいおつきさま」なども入ります。でも、これは入れている配本の説明にすぎません。どうぞ配本されたら、それをその時期に、ただただ何度も何度も読んであげてください。そうすれば、自然にお子さんの頭の中に言語の基礎になる「論理的なもの」がたまっていきます。
 読み聞かせたことに反応が大きく出てくる親としては楽しい時期でもあります。眠くてもがんばってくださ〜い。
 よけいなお世話と思うかもしれませんが、ここ数年で働くお母さんが激増したため読み聞かせの時間も激減しています。このため親と子の接点も激減し始めました。ぜひ毎日30分でいいですから、絵本を中にして親と子が言葉で交わる世界をつくってあげてください。必ずその成果は子どもが少年時代、思春期になったときに出てきます。

低学年の読書
③本借り競争で読解力はつくか?

▼手法は、企業の売り上げ成績のような・・・?▼

 テスト結果がすべてを表すものではないことは先に言っておくが、全国学力テストで山梨県はいつも全国平均より微妙に下である。とくに読解力が標準に行かない。あんなに学校挙げて貸し出しコンクールのような競争をして本を貸し出ししているのに成果が上がらない。全国最低は大阪だが、ここも学校は必死で本を貸し出すことをしているのだろう。
 学校が読書推進運動をし始めると、たいていが読書コンテストのようなものになる。まるで、企業の営業部の売り上げ競争だ。右のような「家読記録票」が配られ、親のコメントまで入れる欄がある。こんなの子も親も楽しく本が読めるわけがない。ある市教委の実施方法はもっとすごい。なんと名付けて「国語力をつけるための読書活動事業」・・・なんともお役所的な名がつけられている。「事業」ねぇ!・・・国語力をつける事業・・! びっくりぽんだ。もっとも、これは私の言葉へのこだわりで、ふつうの保護者は何も感じないのかもしれないが、その事業たるものは、読書記録カードを発行して、一年間、一冊につき一回のコメントを親からもらい捺印してもらって、担任教師がまた印を押す・・・まるで企業事務や行政事務でやる連絡票そのもの・・・。私は、読書などどこまでいっても個人的な体験で、あれこれ操作されるなんて読書じゃないと思うが・・・。数字として出る、あるいは目に見える作業でないとダメという行政の悪弊が出てきている。これで効果が上がるか?上がるわけがない。結果は上記のようになる。

▼不純! 家庭の会話を増やすために読書?▼

 ただ、「この事業の目的は違うところにある」と教委は言うだろう。読書記録ノートは「保護者との関わりを通して」と付随事項があり、「親が関わること」が事業対象となっている。子どもが読書後の感想を書き込んで、それを親が見て、親の一言を書き込む・・・これを繰り返して子どもに親が関わることが促されるわけだ。目的は家庭内の会話量の増加・・・「本の内容や心に残ったことを親子で話し合って会話を広げる」・・・これに関してはゆめやの個人的な考えだが、読んだ本の内容を親と話し合うなどという気持ちの悪いことがほんとうにできると思っているのか・・・仰天である。
 子「ねえ、人間がこわいのに母さんキツネは子ぎつねになぜお使いに行かせたの?」
 父「子どもなら許してくれるかもしれないと思ったんじゃないか。」
 母「お母さんは、あなたを一人でお使いになんか行かせませんよ。安心して!」・・・・
 こういう会話が増えることを教委は望んでいるのだろうか。「大人になるということは、親への疑問や秘密も多くなること」だということを、読書活動事業を行う人は、これがわかっていない。

▼読書競争で読解力?▼

 これが読書競争につながるかどうかは分からないが、読書の努力を「賞状」として学校や親から手渡すということもよく行われていて、実際に活動に盛り込まれている。これまで、全国の学校図書館では、読書コンテストでは、シールを与えたり、表を貼り出したり、子どもの気持ちをひきつけることを行ってきた。上記事業でも年度末の授業参観などで「賞状」を保護者から子どもに渡し、一年間の子どものがんばりを認める・・・ことが明記されていた。基本的に学校図書館の読書推進運動は数の論理だ。数が目標で、質は二の次、三の次である。どのような本を読むのか、選書リストもなければ、ガイドラインも学校は示さない。「借りろ!」「借りろ!」「もっと借りろ!」である。この事業も「質より量」、「質より数」なのだろう。この結果、子どもの読書は高度な本へは向かわず、読みやすい文章の短い絵本や軽い読み物で数を競うことになってしまっている。読解力が上がるわけがない。まだ、それなら良い。五月、六月のこの欄で述べてきたような劣悪な本が置いてある学校図書館もあって、子どもがそれに流れていけば読書推進は、悪書推進にもなりかねないのである。

▼国語力と読書力?▼

 いわゆる学校の国語というものは解答しなければならないものなので、テーマや意図を感じ取ることとは関係のない。しかし、読書は楽しみであって、その結果としての効果が言葉への感覚や言葉の増量になるものである。解答能力が高まることとは比例しない。もし内容の把握だけだったら右のような本の内容を手短かにまとめた本を丸暗記すれば読書クイズ王になれるだろう。だが読書とはそういうものではない。何を感じて何を考えるかだ。その証拠に読書が大好きな子で国語の成績が悪い子もいるし、本を一冊も読まない子で成績の良い子がいる。偏差値の高い大学の学生と話してごらん。ほとんど本など読んでいない。おそらく、お役所の方々も推進運動をする人たちも本など読まなくて成績がよかった人だ。だから国語力を挙げるために読書競争? なんだかなぁと思う。学校の国語力など(英語で導入しているように)タブレットで決まりきった国語の問題をプログラムしたほうがずっと上がると思うよ。でも、読書とはそんなレベルの低いものではないのです。

子どもは何が好きか?
②子どもの好きな話

 先月7月7日にかねてからご案内していた杉山亮さんの「ものがたりライブ」が行われた。ブッククラブ会員の家族も数組いらっしゃっていて、なかなかの盛況だった。軽妙な語りのトークはいつもながらだったが、子どもたちの気持ちを引き付ける要素満載の「ものがたり」で、まさに「もの」をみごとに「語る」ライブだった。

 そんなことあるわけがないと思われるネタが次から次に語られ、笑いの渦が起こる。子どもはおもしろいものが好きなのであることが実感できたライブだった。・・・杉山さんの住む八ヶ岳のふもとの昆虫の話はいいのだが、その昆虫、カブトムシは信じられないほど巨大で、渋滞する横断道を「ええい、めんどうな!」
 とばかり、人はそのカブトムシやクワガタに乗って飛行する・・・その展開のおもしろいこと、おもしろいこと、大人でも思わず笑い声が出てしまう。
 夏の八ヶ岳は交通渋滞や環境問題など切実なことがあるのだが、そんなことは後で考えればよいというもので、話はこれでもか、これでもかと誇張されて笑いが噴き出すように仕掛けられている。つまり、語りというのは本質に真実があれば、語ることは荒唐無稽でもじゅうぶん心に落ちてくるという見本だった。
 中でも笑えたのが味噌をもらいに行って糞を持って帰る話・・・これは説明するより聞いた方が楽しいので内容は教えないが、最後のオチが杉山さん流に美しくまとめられていたのにはおどろいた。こういうところが子どもを高い世界につれていく芸の細かさなのだと思った。
 最近のお笑い芸人の芸の貧困さは、真実とは程遠い表面の面白さだけを強調する下品なパフォーマンスなので、その場限りの浅い条件反射でしかない。以前は落語でも講談でも、よく聞けば、周囲にある現実の話、切実な問題なのだが、噺そのものはおもしろおかしく出来上がっている。何度も聞くことで、なるほど世の中にはこういう問題があるのだな!と思わされる。ここに話芸のすばらしさがあるわけだ。テレビのバラエティー番組ばかり見ていると、ほんとうの笑いがどんなものかがわからなくなってしまうね。(つづく)

今回の公開ブックトーク

 9月1日(日曜日)13;30〜15:00
 大月市立図書館 会議室
 「わたしのいもうと」松谷みよ子
 今回はちょっと重いテーマで「いじめ」です。これまでは大ホールでコメンテーターが話すことを聴く形を取っていましたが、今回は「いじめ」という深い問題のため、聴く方々も意見が言えるように大会議室で行うことになりました。
 松谷さんの渾身の名作「わたしのいもうと」からテーマを掘り起こして、いま社会問題となっているいじめを考えてみたいと思っています。今回は、コメンテーターが幼児教育の現場で奮闘されている猿橋幼稚園の仁科美芳先生と二人でのブックトークなのですが、多様な意見も聞かせていただきたいので、参加される方もいろいろご意見をお出しください。
 いじめは根の深い問題であり、もちろん答え・解決方法など出るものではありません。しかし、多くの人が考えるべき問題であり、どういうふうに世の中を見て、どうういうふうに変えていかねばならないかを考えるくらいはできると思います。大ホールと違って人数限定になりますが、参加のお申込みを期待しています。

大人になるということ
②合理的になることが大人になること?

 最近、かつての会員の方のお子さんが結婚して、子どもが生まれ、また会員になるという例が多くなってきました。小さいブッククラブなので、そういう例は数にするとけっこう多いのです。ありがたいことでもあり、かつての会員でおばあちゃんになった方と話ができるのもまたいいもので、「年寄りの昔話」に花が咲くことがあります。
 そんな一人の方と話していて、世代の移り変わり、親そのものの変化などを強く感じざるを得ないことがありました。例えば、ゆめやの近くに住まわれている杉山さんが、こういう思い出を語ってくれました。「あのころは親が数人集まって、子育てのグループをつくり、クリスマス会をやったり、ハイキングに出かけたり、そんな協力がいまでも共通の価値観を持った仲間という感じで続いてます。」・・・それは知っていました。なぜなら仲間のグループメンバーの青木さん、岩波さん、村上さん、山中さんは全員ブッククラブの会員だったからです。その仲の良さ、活動の活発さには脱帽していました。それが続いていることも知っています。
 しかし、話は最近の親のことになっていきます。
 「最近の親は、行政やボランティアグループがセッティングするイベントやサークルはうまく利用するけれど、自分たちで協力して子どもために何かするってことはないようですね。だから親が孤立していて、歳を取ったとき共通の思い出や体験のない人間関係の中を生きなければならないじゃないような気がします。」
 たしかに合理的に利用するのはドライで、あとくされもいさかいもなくていいかもしれないのですが、ほかの家族との交流や遊びがないと子どもも孤立していきます。学校の友だちなんて卒業すれば希薄になり縁が切れていくもの。しかし、子どもが小さいときに家ぐるみで共通体験をした家族はいつまでもつながっているように思うのです。夏は、とくにそういう共通体験がしやすい季節でもあります。そういわれれば、我が家もほかの家族と海水浴に行ったり山登りをしたもので、今でも子どもたちは幼なじみ感覚だし、親たちはそのときの失敗談や困った話まで楽しい思い出として語っている仲になっているのです。
 合理的に生きるのもいいかもしれないけれど、将来、みんなが孤独ではつまらないようにも思います。いろいろな共通体験を通して親も大人になっていく。現代はそういうことができない時代なのかな。ちょっと悲しい感じがします。合理的でないことをやることで親は大人になっていく面もあると思います。
 ま、なにはともあれ、仲の良い友達、家族をつくって何かをするというのは子どもが大きくなってから、また親が老いてから、なかなか楽しく懐かしい思い出をつくることになり、結果的にはいい効果を生みます。(一部閲覧)

『本とともにすごしてきて』

 小林裕美さん 陽樹くん(中1)
 私自身が読書をあまりしてこなかったので、子どもには本好きになってもらいたくて、十年ばかり前の春にゆめやさんに伺いました。転勤が多い仕事なのでどう本を選んでいいか迷っていたときに、知り合いになった近所の方がゆめやさんの会員で「一度、お店に行ってみたら」と言われたので訪ねてみました。でもブッククラブのいろいろな説明をお聞きしているうちに、私に読み聞かせができるかどうかすごく不安になったのを覚えています。とくに痛かったのは「親が本を読まない家のお子さんで本を読むようになる子は少ないです。」と言われたことです。恥ずかしい話、名作と言われる本をほとんど読んでいませんでしたからグサっと来ました。でも、どういうわけか配本をお願いしてしまいました。息子が10ケ月のときでした。
 最初の本を読み聞かそうとした時も息子はほとんど関心を示さないで、パラパラめくったり重ねたり落ち着かず、読んでも聞いているようには思えませんでした。次に行ったとき、そのことを話すと、「なんでもいいので一日に数回、本を広げて読んであげて。そうすればすぐ楽しいことが分かりますよ」と言われました。で、やったのですが、なかなか落ち着きのなさは収まりませんでした。ところが、その月に配本された「おつむてんてん」という本を読んだとき、なんとそのマネをしたのです。その日から本はなくてはならないものになりました。
 もちろん、怪獣ものにハマったり、ゲームを欲しがったり、どこのお子さんにもあるような問題は起きました。その都度、ゆめやさんに相談したものです。ゆめやさんはよく「子育ては格闘技ですよ。全部受け入れたら負けです。」と言ってました。
 読み聞かせが終わって、見守っていると小3になったとたんに心配になるほど本の虫になりました。「トガリ山のぼうけん」という本が大好きになり、そのシリーズを毎月配本してもらって読み終えたときに自信が出てきたのだと思います。継続は力だと思いますが、そればかりではないと思いました。いろいろな本を読んでいると頭が広がっているのがわかります。最近は私に物を教えるくらい生意気になっていますが、そのことをゆめやさんに言うと「そうでなくては成長じゃないですよ。」と言われました。本を読まない親から例外的に本を読む子が出てきているかもしれません。ゆめやさんのニュースは引っ越しが重なってもずっと大切に取ってあります。私の大切な思い出の素ですから。



(2019年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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