ブッククラブニュース
平成30年11月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのHow To
⑥ お勉強ではない

 今月初旬に大月市立図書館で恒例のブックトークを行った。これまで絵本から児童書まで、かなりの回数をこなしたが、いろいろ取り上げた中で大人の本、親の本は初めてだった。何を取り上げたかというと、もう40年も前に出た「クシュラの奇跡」。身体・知的障害児クシュラに絵本140冊を与えて育てたことを書いた本である。数年以内に死ぬと言われた少女が言葉を獲得して成長してきた記録でもある。これを今回のブックトークに選びたいと館長の仁科幸子さんが伝えてきたのが9月の終わり、準備時間がなかったが、慌てることはなかった。
 じつは、この本、ブッククラブを始めたときに配本体系のタタキ台にしたものだ。ただ、クシュラに与えた絵本はすべて欧米の本。そのまま日本の子どもに適用するのは不可能で、発達段階と選書している本のグレードも合わない感じがしたから「親の熱意」だけを参考とした。その意味ではゆめやのブッククラブ誕生に大きな貢献をしてくれた本であることに間違いない。
 また、トークのメンバーである都留文科大学や学習院大学の講師である白須康子先生は12年前に、ゆめやの選書と大きな児童書研究センターの選書の比較をされた方で(論文はゆめやの、このHPで閲覧できる)英文学の研究者なので、ドロシーバトラーの考え方には大きな共感を持っておられる先生である。
 知的障害児は言葉の支障が大きいとひじょうに生活しづらくなる。自立もなかなかしにくい。クシュラの母親は学者で父親は仕事もやめて育児に全力を挙げた。この両親のたゆまない読み聞かせの結果と成長の軌跡が細かく綴ったのがこの本である。
 結果から言うと、この育児は成功し、クシュラは社会的に不自由のない生活を今も送っている。今年46歳。

読み聞かせした子、しなかった子

 このトークで私は二つの実例を出した。親が言葉を子どもに伝えることは子どもの心の成長も大きく促すことになるわけで、まずダウン症児の例を出した。ブッククラブにもダウン症の子に読み聞かせをしていた親が数例あって、この子たちもクシュラと同じように生活にほとんど支障がない育ち方をしている。ところが、ほかの同じようなダウン症児の親で、まったく読み聞かせなどせず、テレビ漬けにしていた家もあった。私のことだから、無理に読み聞かせを薦めることはなかったので、ずっと見守ってきたが、大人になっても対話もできないし、漫画を見ても意味が取れないという状態である。この差は大きい。
 と、いうことは幼少期に読み聞かせはものすごく、さまざまな面で効果を高めるということでもある。

健常児は大丈夫か?

 この差を知ったときに、これは健常児たちでも同じことが起きているのではないかと思った。読み聞かせをする家庭としない家庭、差は歴然。さらに、読み聞かせする家庭でも、現在では親が忙しすぎて読み聞かせをする時間も取れないという過酷さもある。一日15分から20分でいいのだが、信じられないことに「毎日は不可能だ!」という声が聞こえてくる。保育園の先生は「朝8時半に連れて来て、連れ帰るのは午後7時では家庭生活時間などほとんどないのじゃないか?」と自分の労働状態の過酷さを嘆きながら心配する。
 それでも若い親は平気だ。自分が大丈夫なんだから、子どもも大丈夫だろうくらいしか思っていない。時代が違うんだよ。30年前までの、この国はまだ安定していて地域があり、家族が隣近所や親戚などに支えられていた。友達も精神がおかしくなっているような人間はほとんどいなかった。現在の親と子、友人と友人で起こる事件を見てごらん、親殺し、子殺し、ストーカー、デートDV・・・完全に社会崩壊状態で、それを誰も異常とは思っていない。
 統計では、この30年間で少年犯罪や虐待など子どもにまつわるさまざまな事件が、ものすごく増えている。幼少期の環境が劣悪になっている事態も報告されている。また、犯罪者は一般的に語彙が貧しいという調査結果も出て来た。いま、若者たちのヤンキー化が問題となってるが、渋谷のハロウインを見ればわかるように、これも精神の劣化なのだろう。サブカル漬け生活の究極結果ともいえる。
 この若者たちは読み聞かせを受け、まっとうな本を読んできただろうか。とてもありえないと思う。事実、30年前に比べて読み聞かせをする家庭は日本全体で減っているのだ。自分の子が、写真にあるようなこんな娘でも平気な親はいるだろうが、もし平気なら私に言わせれば親もおかしいというわけである。
 読み聞かせ・あるいは本を読むということは、字を覚えたり国語のテストに強くなることではない。どう人と接し、どう世界を見るかという力をつけるためである。このことをトークの会場では強調したが、まだまだ「子育て」で立身出世の幻想にとらわれている親たち・・・わかるかな、わかってないだろうな。

中流から格差へ ⑤
40年で変化の方向が分かる

 ゆめやは1980年の開業である。長くやっていると約40年の流れの変化と方向が見えてくる。
 40年前、絵本や児童書は低所得層もかなり買って子どもに与えていた。すでにゲーム機はあり、テレビは全盛で漫画大国になっていたにも関わらず、子どもの本を買う層は上層階級だけではなく中流階級も同じだった。それが、2000年ごろから危うくなった。書籍をはじめ、週刊誌・雑誌類がまず売れなくなった。あきらかにケータイやスマホの通信料に取られてしまうのが、右の図で下がり具合と一致する。下層階級ほどケータイ、スマホを持つ傾向があり、収入の中で大きなウエイトを占めるから、当然、書籍や新聞を買わなくなる。90年代半ばから、ゲームソフトなどの消費も拡大してきて、いわば水は低きに流れるという需給の状態になったわけだ。この傾向は、これからもどんどん進む。書籍などはすぐに上層階級のものだけになってしまうだろう。

本を読ませない力

 格差社会では上は富裕階級だから、下は労働だけしていればよいわけで、本など読んで考えたりすれば批判が出てくるのでなるべく本など読まないで、何も考えずに働くように仕向ける。車や家のローンやクレジットで物を先に獲得すれば、後は働いて返すよりない。忙しい。でも豊かになった気分はする。格差の下層は、読書なんかより頭はパープリンにしてイケイケ神風特攻隊でいいわけだ。
 小学校ではあんなに読み聞かせや読書推進をしているのにと思う人もいるが、それは「識字率」を高めたいだけで、要は仕事上でのマニュアルが読めたり、最小限の書類が書ければいいということ。つまり生産性さえ上がればいいのだ。
 その証拠に、中学に行けば、あるいは高校に行けばスポーツと受験勉強だけで読書などしなくていいという状態になるではないか。この背後にはまともな本など読んでもらっては困る不文律があり、「本なんか読まないで、成績向上にがんばりなさい」というのが本音なのである。
 これは「教科書の内容さえ知っていればいい」というもので、しっかりした本など読めば「教科書の嘘がバレて、下が上を批判するようになっては困るということ。本など埃をかぶっているほうがいいというわけだ。このために短文化社会というのがつくられている。マンガやLINEなどばかりやっていると長文を読めなくなるから、論理性や感性が育たない。自然観察や風景を見るなんてことは無駄なわけである。これは上から見れば好都合な話だ。小学校にタブレットを入れれば税金で半導体産業を支えることができるうえ、深く考える子どもが減っていく。さて、その中で読書はどういう位置になっていくのだろうね。

低・中学年の本読み 
④ どこへ行った?読書推進

 数年前まで、うるさいほど小学校の「読書推進」ムードの情報が飛び交っていた。ところが、この2,3年あまり、読書推進運動の話を耳にしない。もちろん、私の情報不足で、実際にはまだ貸出コンクールや朝読書などは続いているのだろうが、学校の先生から本についての話題がひじょうに乏しくなった。学校図書館の問題点の第一は「しようもない本」を蔵書にして、生徒間で流行る低レベルの本が貸出コンテストによってけっこう悪影響を及ぼしているということである。中には赤ちゃん絵本まで置いてある学校図書館があり、いくら子どもが見るからと言って小学校低・中学年で3・4歳の文字の極端に少ない本ばかり見ていたらどうなんだろう。
 幼いころ読み聞かせの嫌いな子はいなかった! しかし、小学校に入ると本を読むのが嫌いな子が増えてくる。どうしてなんだろう。なぜ読まなくなるか?
 読んでさえやれば読み聞かせが嫌いな赤ちゃんはいなかったのだ。
 子どもが親の読み聞かせを好きなのは、親の声と暖かみのある状態を好むことから自然に本が好きになっているからである。だから読み聞かせの嫌いな子は、ほとんどいない。
 では、読書は・・・?耳から入った段階の次の言葉の獲得はどうなるか。当然、字を認識して言葉は目から取り込まれていく。これは幼児期に始まる。耳から十分に言葉が入っているので、字を認識するといっても記号としての文字ではなく、言葉として取り込んでいく。耳から入った赤ちゃん時代からの言葉から生じるさまざまな感覚を生かして想像を膨らませて新たに言葉を捉えるわけだ。
 やがて、これは「本を読む」ということになっていくが、ここで問題が出る。不思議なことに読書好きな子と嫌いな子が出てくる。読み聞かせをしていたにもかかわらずに、である。もちろん、読み聞かせをしなかった子たちの中では読書が嫌いになる子は多いが、読み聞かせをしたから読書が好きになるとも限らない。この原因は、いつもいうように好奇心の方向がサブカルチャーやスポーツなどに偏ったり、お勉強やお稽古事で固められて想像力を使うこと(読書)に疲れてしまうのが原因だ。だが、文字情報を取り込んで役に立たせるという先天的な能力は持っているから、HOW TO本は読むことができるし、テクニックを解説した本も読める。もちろん、息抜きにマンガも読める。低中学年が読書ができるかどうかの分かれ目なのである。しかし、すでに学校は読書を薦めなくなりつつある。

おどろくべき動き

 ところがだ。なんと文科省の方針は、マニュアルとか説明書が読めればいいという生産性重視の国語で、実際に大学の文学部廃止を視野に文科系潰しに入っているのである。これを受けて私立中学校の入試は「算数」「数学」だけというところも出て来た。決まった答えの出る教科は学力差がはっきりするからだ。例えば実学を重んじる福沢諭吉の慶応大学入試には国語はない。つまり「国語の学力は数学と英語で十分に問うことができる」という考え方だというが、これではますます、国語は衰退して生産性だけが重視される理工系のウエイトが大きくなるだろう。いずれ、これで大学は潰れる(もう潰れる寸前まで来ているが)が、親は学歴が欲しいし、私立中高は流れに逆らわず客集めのために数学だけの試験に変わっていくだろう。4年後の大学入試はとんでもないものに変わりそうだ。
 でもね。これじゃ困るんですね。読書はもっと深いものを持っているのだから。深く多面的に考えることを目指さねばならないのですよ。それを教育(学校)が放棄し始めているわけだから世も末です。

こんな政策でいいのかどうか?

 読書は楽しみでなければ続かないが、そんな楽しみが何かの役に立つのだろうか。じつは、高度な読書には「遺伝子に刷り込まれた必要性」がある。人間は高度な本から何かを得る必要性を感じる習性を持っているからだ。
 すぐれた本には(神話などから始まる古今東西の名著)過去の頭脳明晰な人々が書き記した生きるうえのヒントのようなものがあり、それを読むことで危険を回避したり、意志を持って何かをすることができるのである。読みさえすれば、困ったときに本の内部に書かれたヒントを思い起こして困難を切り抜けることができる。だが、その能力を奪われれば、テクニックだけで生きていくよりなくなるのだ。思考がなくなれば科学も人間活動も暴走することだろう。危険な時代になる。それを承知で読書推進、つまり子どもたちの心を正常に保とうとする運動がなくなってくれば、それは国民を愚民にして生産性だけで存在させようとする悪辣な勢力が台頭してくるだろう。企業や国の目先の欲だけのために自分の子を犠牲にしていいなら話は別だが・・・・。

昔ばなしの中に出てくるツール 
⑦ シンボル

 昔話やファンタジーの中には、さまざまなシンボルが出てくる。桃太郎では彼が背負う「日本一」という旗、「これは自分は日本一なんだ!」と鼓舞するシンボルでもある。旗は願いの達成や力を集めるにはひじょうに良いシンボルとされ、ゆめやの地では「風林火山」の旗が有名だ。これは「孫子の旗」というもので、戦うときは「風のごとく素速く動き、姿を見られないように林のように静かにしている。また侵略するときは火のように、敵に出会ったら山のように動かない」という戦法の極意を書いたものだ。戦国最強・・・この旗を見て震え上がった軍勢も多かったことだろう。
 旗は鬼が島の鬼や武田軍団の敵を蹴散らすシンボルである。これは、かなり古代から使われてきた。軍勢が敵か味方かを判別するに使われたようだが、実際は勢力を誇示するシンボルであり、「旗を立てる」ということは占領や勝利を意味することでもある。三国志を読んでも、古代ローマ帝国の本を読んでも旗は必ず登場する。歴史的にも集団と旗は切っても切れないシンボルを意味する存在でもあるのだろう。旗が多く戦いに使われるというのは哀しいものがあるが、いま日韓問題で旭日旗がやり玉に挙げられている。旭日旗は日韓併合の忌まわしい旗印である。明治初期に軍隊旗として登場して以来、大日本帝国の象徴となった。いまでも海上自衛隊の艦旗は旭日旗だ。歴史を知る者には哀しい過去を示すシンボルでもある。やはり悲惨な過去をイメージさせるものは相手が嫌がる。無理やり物事を押し通すのはよくない。わざわざ旭日旗を使うことはないだろう。

身に付ける魔除け

 さらにシンボルは身を守るものにも使われる。その第一は「ドラキュラ」に向かって突きつけると効果があると言われる十字架(写真左)。映画「エクソシスト」で十字架の力が効かない場面は怖かったね。キリスト教徒の人は写真のようなネックレスで身を守る人も多い。宗教では、けっこう、こういうシンボルが使われる。有名な「陰陽師」で安倍清明は五芒星(写真右)というシンボルを魔除けの呪術として使っている。ユダヤの星も二つの三角形を重ねた六芒星というダビデの星。これも聖書物語から始まって多くのヨーロッパの昔話に出てくる。一節によると角の突端を結んでできる三角形の内部は、いわば結界に守られた聖域で、そこにいれば安全というシンボルなんだという。
 児童文学で有名なシンボルは、「はてしない物語」に登場する「アウリン」(写真下)だろう。二匹の蛇が相手の尻尾を飲み込んでいるシンボル。言葉が死んだ国に新しい言葉を吹き込み、国を再生させる力のあるシンボルだ。いま国が売られ、壊されようとしている。この国も虚無に飲み込まれて、生きた絶え絶えだ。このアウリンがほしい。これさえあれば国を売国奴や無気力からすくうことができる。テレビの中の目ん玉だけデカい少女ではなく、言葉を消耗しきるお笑い芸人ではなく、とにかく「幼心を持つ」子どもの中にバスチアンやアトレーユのような少年が出てきてほしい。それを手伝うコレアンダーさんになってもいいから、救国の英雄の出現を期待している。

復活してはいけないシンボル

 いま、ネットの時代、これらのシンボルを参考に旗からユルキャラ、ロゴマークまで無数に出てきているが、復活してはいけないシンボルもある。
 ドイツの歯医者が考案した鉤十字(ハーケンクロイツ)だ。これは「アウリン」とは逆に国を亡ぼすマークである。一部のネオナチのような極右翼はともかく多くのヨーロッパ人は大嫌いである。ハーケンクロイツの徽章、旗、腕章などがあふれかえったヒトラーの時代は、悪夢の時代だったからだろう。 アジア人はあまり嫌悪感がなく、ハーケンクロイツは平気で売られたりするが、世界を悲劇的にしたシンボルといえば、この鉤十字が一番だということである。
 ところが日本ではお寺さんのマークがハーケンクロイツに似ているので意外にみんなが鈍感でもある。しかし、近年、外国人観光客も多くなっているので、寺を示すシンボルマークは写真下のように三重塔に改められた。これはある意味、いいことでもある。

本とともに過ごしてきて

 東京都大田区 早川紀美子さん
 子どもが生まれたら絵本を読んでやろうと思っていました。1歳の子どもを連れて書店の絵本コーナーに足を何度か運んだのですが、たくさんの本に目移りして、目についたものを買って読んでみましたが、あまり反応がなく、困っていました。たまたま従姉と会う機会があって、どのように本を選んでいるかと聞くと、「ゆめやというところから本を取っている」とのことでした。
 うまくいくかどうか半信半疑でしたが1歳半から配本を受けました。最初に来た本は「もこもこもこ」という、とても、この本が子どもに受けるとは思えないものでしたが、一度読んでやると驚くほど関心を示しました。それまでほとんど言葉を出さなかったのに、本の中の音を言うのです。それから、どの本も何回読まされたかわからないうちにあっという間に大きくなりました。読み聞かせがなくなったころはちょっとさびしかったです。
 ゆめやさんとはお便りをよくしました。通信欄に困りごとや成長の様子を書くと、必ずお返事をいただきまして安心感も出ました。小学校に入ったころなかなか一人読みができませんで、学校からお友達の間で流行っているものばかり借りてきましたが、配本に慣れるにしたがって長い物語が読めるようになりました。これもブッククラブのおかげだと思っています。毎月いただくニュースや新聞も参考になることが多く、またびっくりすることもたくさんあって、母のファイルにはバックナンバーとしてたくさん挟んであります。とてもいい思い出です。これからは大人の本が読めるようにがんばってもらいたいです。



(2018年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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