ブッククラブニュース
平成30年11月号(発達年齢ブッククラブ)

こわがり

 11月は日の暮れが早くなり、夕方5時ともなればゆめやの周辺は真っ暗です。あんまり暗いので入り口にロウソクを立てて足元を明るくします。まるで江戸時代ですが、電力の節約は大切。あれから7年後、東京などの都会は節電どころか逆に電気は使い放題。福島ではまだまだ高放射線量で汚染水の捨て場もないのにイケイケドンドンです。狂気の沙汰の再稼働が着々と。でも地震も頻発してます。そろそろ、日本海沿岸があぶないですね。原発はやめたほうがいいのですが、この国の人々はどうやら目先の利益だけで動いているので、批判が出て来ません。次に福島と同じことが起こればこの国は終わりです。危険この上ないのが原発の動きですが、この危険がわからない人々が山ほど出てきています。
 とにかく都会のきらめくほどの夜は猛烈な電力の消費でもあります。夜の暗さ、怖さがない。こういうところでは人間の危険感というのは育ちませんね。危険を感じる能力は幼いころから培われないと、自分が行く先がどういうものかさえ読めなくなります。危険を避けるということはそういうことです。まずは怖がることからですが、都会の夜は明るすぎて、危険察知能力が高まりません。電気は便利なようですが人間をどんどんダメにしていくようです。あわただしいので、誰も先のことは考えないから先のことは見えません。夕方暗闇が増しても、電気の明るさで怖さがなくなってしまいます。

怖がることから始まる

 さて、冬に向かって日暮れが早くなり、田舎では暗闇が増していきます。暗闇は怖い。何が潜んでいるかわからないし、何より私のような老人は足元が危ない(笑)。だから火を点します。
 ではなぜ、暗闇は怖いのでしょう。見えないから怖い?うーん、それは老人の能力劣化から出る怖がりで、子どもは暗闇に物が見えるので怖いようです。
 そういえば、5歳のころ夜、庭に出たとき、暗闇にいろいろ見えてしまった記憶があります。親たちは「何もいないよ!」と言っていましたが、私には確かにに怖いものが見えたのです。想像力が高まる時期だったからでしょうね。闇だからこそいろいろ見えてしまうし、少し明るい暗がりでは、物がみんな別の物に見えてしまうのかもしれません。

男の子は怖がり

 怖がる・・・これは、女子より男子の方が強い。例えば、ゆめやには音や刺激に反応してケタケタ笑う写真のような魔女がつるしてあります。プラハに旅行したお客様からいただいたものですが、この動きと声に驚いて、幼い男の子は泣きだすことがあります。一度、怖がると次に店に入って来なくなることもあります。鬼や狐のお面をかぶると男の子は怖がり、泣き出す子もいます。女の子はあまりいません。すぐに慣れ、楽しんでいるようにも見えます。
 では、男の子の怖がりは、どうしてなのか?というと私は危険察知能力が、前述のように「女子より男子の方が高いからだ」と思うのです。
 つまり、先に潜む危険を予知する能力ですね。この能力を高めて、危険を避け、どういうふうにすれば迫りくる危機をくぐり抜けられるかを考えるわけですが、その前にまず怖がるという感情が出ないと危険を察知できないんです。これは大人になって知識が増えたり、論理的な力がついたりしても、怖がるという感覚がもとになって未来を読んでいくことにつながります。
 では、女の子はさほど怖がらないのはなぜか。それは男の子以上に危険や危機の中で耐えて忍ぶ力があるからです。男子は予測する割には、現実の危機や危険に耐える力はないようです。この証拠に「自殺」は圧倒的に男子が多いのです。危機や危険に耐える力というのは、どんな状態になっても子どもや家族を守らねばという能力ですね。だから、さほど怖がらない。ひょっとすると怖がりは演じているのかもしれません。男の子にはどこかに「かよわい女性を守りたい」という意識もありますから、したたかに演じている(笑)のではないでしょうかね。

ところが最近の男の子は

 小さいころに怖く思う体験がないと大人になっても危険察知能力が身に付きません。もっと言うと先が読めない大人になる。これはひじょうに「危険なこと」です。経済的な浪費やヤンキーな行動、無責任な生き方となるのでコワい。先の危険が読めない人間が一家の主人になったり、共同体のリーダーになったら困るのですが、最近は「お育ちの良い」お坊ちゃんがそうなりますから、危機察知能力がないうえに危険や危機に耐えられない男性が増えています。こうなると女性は大変です。耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ばねばならないのは、もうけっこうですが、お坊ちゃん育ちは、したい放題をしたあげく、危機など何も考えずに危険の中に飛び込んでしまいます。これではやってくる危機は、男性に怖がってもらわないと、神風特攻隊をまた繰り返すことにもなりますよね。
 怖がることは大切な能力なんです。もちろん耐え忍ぶ能力も大切ですが、そこまでさせないやさしさを発揮するのも「危険察知」の力ということでしょう。怖ければ、身を引くこともできますし、はじめから避けていくことも可能です。ところが、何の苦労もなく育った子は、その力さえ身につきません。
 その証拠に、昔から政治や経済の変化についていろいろ関心を持って先の予測を論じるのは男性が圧倒的に多かったのですが、最近は若者(経験不足や純粋なだけに怖がる、あるいは先を予測する力が多いはずの)が、物事に無関心で、つまらぬ芸能やスポーツに興じるだけ、あるいは無気力で何にもしないという風潮も見られますね。
 ふつうの親は子どもが病気になったり、子どもや家族が事件や事故に遭わないように気を付けてます。それも実は、危険察知能力のなせるわざで、安全安心を生み出す力だと思います。
 さて、あなたのお子さんは怖がりですか? それとも無鉄砲にやらかすタイプですか?(ニュース一部閲覧)

秋深まる・・・

 ところでまったく関係ないことだが、秋が深まってきた。富士山も雪をかぶり始め、野原も秋の気配が濃厚。紅葉も見ごろだ。ブックトークを大月でやった帰りに河口湖で紅葉を見て来た(写真)。富士山をバックに柿の実が青空に映えている。紅葉はライトアップの中・・・美しい。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」・・・これは夢新聞表(下の文)で述べる正岡子規の俳句。
 いろいろ考える・・・子規は法隆寺を見ながら、柿を齧っていたのだろうが、その柿は剥いた柿だったのだろうか、それとも皮ごと食べていたのだろうか・・・法隆寺で鐘が鳴るのは時刻ごとなのだろうか、それとも、ある特定の時間なのか・・・それは真昼なのか、夕方なのか・・・17文字というのは想像をふくらましてくれる。

少年老いやすく、学・・・・

 「この旅は幣(ぬさ)も取り敢へず手向山(たむけやま)紅葉の錦 神の随(まにま)に」・・・これは、考えることとは何かを教えた学問の神様・菅原道真の歌。なんだか、学問というのは神の世界をのぞくようなもので、それには礼が必要なのか、必要でないのか、まあ幣などというオマジナイでは学問の成果は得られないのだから、真面目に勉強しなければ学は身につかないということだろうね。菅原道真は、ある意味、学がありすぎて正論をを時の政府に行ったものだから左遷されて、大宰府で死んだ。そして、怨霊となって政権に祟った。ほんとうにすざまじい祟りかただったらしい。馬鹿は権力を握ると、どうしても学問を遠ざけたくなる。その意味では怨霊にならないように学を身に付けないほうがいいのかもしれないが、金、金、金と焦って、貯めたところで死からは逃れられない。詐欺に遭って大金を取られてしまうことではなおさらおもしろくなかろう。紅葉の向こうに神々が見ているのだから、やはり清く、正しく、美しく真理を求めて勉学した方がいいかもしれない。痛い目に遭ったら怨霊になって、「東風吹かば匂い起こせよ、梅の花、主なしとて春を忘るな」・・・仇は誰かが撮ってくれるので、目先の欲だけで生きない方が、生きた!って感じにはなる。さて、これから何を学び、何を考えてみようかな。

坂の上の空

 正岡子規が「病牀六尺」という本の中で、子どもの育て方について述べている箇所がある。「・・・読んだ本がそのまま役に立つことはない。つまりまともな本から常識の基本を養えば十分なのだ。」と。
 そして、家庭での教育こそが、その常識を養うのに重要だと強く主張する。明治時代の文章のうえ、長文なので勝手に現代語に直して引用してみる。
家庭教育は子どもの品性を養っていくのに必要だが、学校ではやらない教育がたくさんある。品性や人格の多くは、その細部まで家庭で教えられるのがふつうだ。お辞儀をすることから始まって来客にはどういう風に接するかなどは親が教えなくてはならない。一家の和楽を失わないようにしていくことは多くは親の教育如何で善くも悪くもなるのである。ところが今の日本(明治時代)の習慣では家庭の和楽が乏しい。一家の団欒(だんらん)が欠乏しているのをみても分かる。一家の団欒は、食事の時を利用するのが簡便な方法だが、それさえ行われていない家庭が少なくない。食事の時に一家が一所に集まる。食事をしながら雑談する。食事を終えてまた雑談。これだけのことができれば家庭は平和で愉快なものになる。」・・・こういう主張である。
 エーッ、いまの日本の話じゃないの? 百年前の日本も今の日本も変わらないじゃないか! 貧しくて余裕がなかった昔と豊かさのために忙しい現代が似ているというのは何ともはや。子規はさらに続ける。
 「一家が平和であれば子どもの性質も自(おのず)から平和になる。父、母、姉、兄などの雑談で、子どもはそれを聞きながら良き感化を受けるだろう。むずかしい道徳的なことを話すのではなく、高尚な品性を備えた人の話なら無駄話にも品性が表れるので、聞いた子どもは自然に感化を受けるのである。この感化は学校などで教える、教えられるというものではない。また、教えられるとも思わないが、子どもの人格を育むこと、学校教育より効能がある。だから家庭教育は学校教育よりも重いと言っても過言でない。」・・・

富国強兵・殖産興業・立身出世

 ま、百年前の考えである。古すぎるかもしれないが参考になるかどうか。どうも、現代の子どもはお稽古事、学校、塾学習で家庭滞在時間が少ないのは事実。大人も何でもありの世界で子どもにまともなことを教えることがない。
 明治時代も富国強兵で庶民の生活は大変だった。稼ぐに追いつく貧乏ばかりで親は追いまくられていたが現代のほうが圧倒的に忙しい。考える暇もない。子どもは学校に6時間以上拘束され、その他で2時間以上、一日のうち8時間は家庭外である。睡眠も8時間、親と一緒にいる時間は何時間だろう。
 子どもは18歳でふつう家庭から出て行く。ならば18年間のうち親と子が接する期間は6年くらいしかない。乳児期から朝から晩まで保育園ではさらにその時間は短くなる。親子が会話する時間さえほとんどないのではないか。これでは世の中を生きていくための基本ができないだろう。悲惨な子ども時代を体験すれば、いい人生は送れないかもしれない。究極は、子の親殺し、親の子殺しである。

人生を縛られて平気な人々

 反論があるかもしれない。「だって、そうしなければ暮らしていかれない!」と。「いい車にも乗れないし、家もほしい、」と。また「子どもに学歴をつけないと社会で上層部に行けない!」とも・・・。明治時代もそうだった。庶民は殖産興業と立身出世に煽られて急がされていた。その先にやってきたのは相次ぐ戦争である。いやいや、その前に多くの人が貧しさにあえぎ、子どもを兵隊にしたり身売りさせたりした。どこが明るい明治なのか?司馬遼太郎は何を勘違いして、「竜馬が行く」や「坂の上の雲」を書いたのか。
 「坂の上の雲」が、あわただしい時代を経て、この国を不幸な戦争に導いたことを忘れない方がいい。司馬遼太郎は、主人公の秋山兄弟を帝国陸海軍の生みの親と見ているようで英雄として描いたが、それがもたらした悲劇は何も書いていない。
 文人の子規は、ただただ付け足し。同郷の秋山兄弟の知人としてしか描かれなかった。0歳児保育・長時間保育・・・親をローンとクレジットで縛り付けて、「子どもは社会が育てる、」か。また明治と同じことが繰り返されるのだろうか。
 明治150年の今年、「坂の上の空」は雲一つない明るく澄み切った秋の空のようであってほしいと思う。

そうは言うものの・・・現実はデジタル化

 現政権の文教政策は、なるべく子どもが物を考えないように読書をしないようにさせ、文などはマニュアルや説明書が読めればいいというお粗末なもので、まさに明治・福澤諭吉の実学をまねたもの。これは兵隊さん製造の政策でもある。その証拠に大学から文学部をなくし、哲学や史学、言語研究関係の学科を激減させようとしている。
 東京芸術大学にはなんとゲーム専攻の科ができるらしい。テレビでくだらないお笑い番組を流し、ゲームを賛美し、デジタル教科書とタブレット端末を導入することで、子どもの学力を伸ばせるのか。批判力や生きる力を本当に伸ばせるのか。どうみても政権側の施策は科学的証拠が十分でなく、教科書がデジタル化する必然性は特にないと言われている。
 デジタル教科書の長所は、問題に答えたものを即時採点できることだけ。解答がすぐに出る「速効性」もメリットという。しかし、その前提となる自動採点ができるのは算数だと計算問題まで。算数で子どもがつまずくのはそこではなく、文章題の式を立てるあたりからで、この部分は対応できない。国語も漢字の書き取りは自動採点できるが、それ以外の記述式問題などはできない。 つまり1対1対応の問いと答えでなければ採点など不可能で、文科省としては、それでいいという考えもあるのだろう。つまり成績の良い子は、ただひたすらクイズ王であって、いまの東大生に見られるような知っているだけ、何もできない・・・という結果が生まれるだけなのだ。

学習のゲーム化がなにをもたらすか

 また画面上ですぐ回答が出るということはゲーム感覚になり、子どもが慣れてしまうと、多様な答えの出し方や解答の順番に神経が向いて耐えられなくなる。いろんな角度から時間をかけて考える力がなくなり、思考力の低下につながることはあきらかである。 もちろん、このへんも文科省側では想定内だろう。考える力がついてもらっちゃ困るのだから。
 デジタル教科書は閲覧した履歴を取ることで一人一人の個性に合わせた教育プログラムが可能になるともいわれるが、そんな複雑な処理を学校ができるわけがない。学習履歴は子どもが実際にその内容を理解したこととは一致しないことも多いのだ。つまずきの原因や、「どうすればいいか」を指導する手立ては、ずっと出てこないだろう。
 ハード面の問題もある。タブレットは狭い画面にコンテンツを次々と切り替えて表示する。紙の教科書のように複数を並べて一覧しながら学習を進めることができない。画面がガラッと切り替わるため、認知的に途切れてしまい、ひとまとまりの記憶として定着しにくい面がある。確かにリンクを参照しながら読めるが、リンクなしで頭を使って読むよりも内容の理解度は下がるとされる。 だいいち、検索するにはそれなりの知識があり、それを打ち込んで情報を得るということが子どもにできるのかどうかも問題だ。また、それを教師が指導できるとは到底思えない。
 タブレットを共有することで協調的な学習ができるといわれるが、東京大などの実験結果によると、複数によるグループワーク講義でパソコンを持ち込むと皆が画面に目を奪われて会話が減少してしまうことがわかった。逆に紙と付箋を使ったほうが対面での議論が活発になったという結果が出ている。 つまり対話ができるようになるかならないかだ。

悪は悪魔が一番よくわかっている

 タブレットはもとをただせば情報を得るためだけのデバイスで、生産端末ではない。何かを創造したり、想像したものを絵画化、文章化したりするには、入力しやすいキーボードのほうが勝っている。それなのにタッチパネルでは、スマホ感覚で画面を消費するだけのことになるだろう。。画面も大きいほうがいい。画面が小さく、入力が難しいタブレットより、紙のノートのほうが効率良く勉強できるはずである。ただし、おもしろいことには発達障害のある子どもにはタブレットが有効なケースがよくあり、デジタル教材だと関心を示すことが多い。つまりすべて一律に行えば弊害も大きいということだろう。
 スマホ「iPhone(アイフォーン)」を作成して世界中に流行させたアップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、「デジタル端末は小さい子どもを依存症にする」とはっきり断言している。そして、自分の子どもにタブレットを渡していなかったことを語った。悪い結果は悪魔が一番よく知っている(笑)ということかな。 だが、この国の国民は、半導体を売って目先の利益だけしか狙っていないお上から洗脳されて猫も杓子もスマホ、スマホである。
 デジタルに詳しい人であればあるほど、子どもにリアルな体験をさせている。「デジタル教科書とタブレットを中心として教育を設計しますか」と問われれば、心ある教育者は「ノー」と答えるだろうが、ヒラメ教師はお上に逆らわず、粛々と受け入れることだろう。それに追随する保護者も多いだろうが、子どもがおかしくなろうとなるまいと批判力がないのだから自己責任だろう。(新聞一部閲覧)



(2018年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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