ブッククラブニュース
平成30年6月号(発達年齢ブッククラブ)

人間を前に進ませてきたもの

 相変わらず嫌な事件が続く。新潟・西区の小2殺人、東京・目黒区の幼女虐待死、さらに新幹線のぞみ殺人事件・・・30年くらい前から同じような事件がどのくらい起きたのか。以前ならメディアも世間も大騒ぎしたが、いまでは「またか!」でおしまい。鈍感になっているというか無関心が強まっているというか、親たちも30年前とはずいぶん変わってしまったように思う。自分に降りかかってくるという想像力が弱すぎる。
 もともと人間は「非力な子どもを慈しむこと」で前に進んできた。子育ての経験があれば誰でもわかるが、非力な幼児を育てるのには、自分のことを最後にしないと成り立たない。このことに気づく人は少ないが、「子どもを最初に考え、自分のことを後回しにする」ことこそ、人類の道徳的基礎を形作ってきたのだ。この気持ちが薄れたら、社会は崩壊する。子どもを無視して自分を優先すると「親の欲」が先立つ。そして、「最後は金目」という邪悪な発想が出て社会も家族も機能しなくなる。これでは困るし希望もないが、上の人間が規範を破り、社会通念を壊せば当然ながら下の人間も後追いしていくことになる。社会の壊れだ。それにしても大人が子どもを殺し、親が我が子を殺す、さらに殺すのは誰でも良い・・・とまで言う。これは人間の心の壊れが行きつくところまでいったということか。

子どもを育てる力も失われたか

 人間以外の動物は、種別が違う子どもでも平気で育てる。アンデルセンの『みにくいアヒルの子』は現実にあり得る話なのだ。いや人間もネコやイヌなどの動物を育てるし、極端なばあいは敵国の子どもでも拾って育てる力がある。
 では、身の回りで動く小さなものを「かわいい」「私の子どもに!」「守らなくては!」と思う親が本来もっている機能を壊すものは何か? それは、功利や利権であり、金銭や権勢への欲だ。高度成長期に豊かになるために母親だけに子どもをゆだねた時代があった。豊かにもなったが何か失った。
 個人的に人生を振り返ってみるとわかるかもしれない。現在40歳くらいの人の幼少期、父親は「日常いない」存在ではなかったか。その後、バブル崩壊が起こって母親まで子どもの傍らからいなくなる時代となった。求めて得たものは何だろう? 昔から目先の小利や刹那的な快楽に身をゆだね、それが良いことをもたらしたことが一度でもあっただろうか? 

悪魔の策略

 さらにその後、学校教育でも「自己実現」なる抽象的な目標を与えて、子育てしながらの労働が美しいかのように吹き込んだ。当然、成人すれば、車や家のローンで縛られながら男も女も目先の小利や刹那的な快楽に身をゆだね始める。株やバクチ、不倫、浪費、自堕落な生活・・・
 そういうものは人間を破滅させるための〈悪魔の策略〉と昔から多くの高等宗教が教えている。たとえ、欲をかいて全世界を手に入れても、魂を失ったら何の益があるか?とも言っている。
 われわれはそういうことを本から学んでいるが、多くの親は狭い経験からしか考えない。子どもを育て、また子どもとして育てられるとき、われわれは人生の最重要事を学んでいるのだが、そのことに気づく人は少ない。若くしてそのことに気づけば周囲に多くの幸せをもたらすだろうが、現代の学校教育ではそんな学びはありえないだろう。

壊れた家庭からまた親になる人々

 父親の暴行で虐待死した5歳の女の子、幼稚園の担任に「ママとパパが結婚する」と無邪気に報告していた。しかし、新しい父親は〈鬼畜〉だった。暴力を振るわれ、食事は毎日スープ一杯だったという。これではアウシュヴィッツ以下である。父親の暴力を見て見ぬふりをする母。「ママ、どうして変わっちゃたの?」と5歳の子は思い、文章でまで謝り続け、必死に愛を取り戻そうとする。しかし、新しい夫に嫌われまいとする母親は、母であることを捨て、これまでと似た虐待殺人となった。
 かれらはヤンキーな親だからふつう人間の私たちとは無関係? 先行きのことなど何も考えずに、また無節操に子どもを作り、その女の子には1歳の弟がいるという。この子は成人するまで親が獄中にいることを知らないだろうが、それがまた悪の連鎖を生み出さないとは限らない。この鬼畜親は、自分の娘を殺すだけでは飽き足らず、幼い息子にまで担いきれない重荷を背負わせたのだ。
 事件が起こると児童相談所や役所の対応がとやかく言われるが、カウンセラーとか弁護士とかは、家に文学全集やバッハの平均律があり、ラファエロの絵画展を見に行くような家庭の出身なのだから、下層階級のヤンキー親の実態など書物の中でしかしらないのである。実際にそれを知らない人には「気づいたときは手遅れ」というわけだ。私も子どもを育て、すぐれた物知りの人たちの意見を聞いて考えているが、世の中は後退しつつあると感じる。これでは人間を前に進ませることはできない。

不幸にならないようにするには

 えらそうなことを書いたが、こういう考えや上記の文の考え方を私自身が生み出したわけでもなんでもない。自分よりはるかにすぐれた人の考えや文を読んで得たものにすぎない。いわばコッピペである。しかし、その考えから危険を察知する力を得るわけだ。つまりは想像力や気配りの力を得るのである。考えが文になったものを自分の頭で吸収することを「読書」という。上の文は3月号で小平奈緒選手の日記について言及した松浦寛先生が5歳女児虐待死について怒りを持って書いたものを引き写させていただいたわけだが、要するに先見をかみ砕いて自分のものにしていかないと、危険を見抜けないことがある。「みなさんも親としてがんばって!」というよりない。
 そうは言うものの、最近の世情を見ていると「こりゃあ、もうおしまいかな?」という感じが強い。周囲でも理屈にあわないこと、無責任なことが平気で起こる。家庭の崩壊も急速に進んでいるようだ。
 ブッククラブの会員をやっていた人なら、ゆめやがここ30年、ずっと言い続けてきたことだとわかるだろうが、最近の若い親たちはわからない。裕福な時代に育ち、裕福はあたりまえで、「お金を使って楽しむのが人生だ!」と思っている。そして「昨日と同じ明日が来る」と思い込んでいる。相手のことなどどうでもいい。自分が良ければ相手などどうなったってかまわない・・・という状態だ。いまや学校さえ信用ならない。だいたい日本人というのは、狭い体験の中からしか物を考えないので、ある意味お人よしだが、別の意味では世間知らずでもある。目の前の物にばかり目が行って遠くが見えないからだろう。あるいは目の前の物の本質が見えてこないともいえる。
 こういうふうに言うと「まわりとは違うお考えで変わってますね。」と括って、少しも考えようとしない。今回の「のぞみ新幹線無差別殺人事件」など、じつは身近に迫っている危険だという認識はなく、頭は他人事で当然女性をかばって命を落とした男性への思いなどカケラもないだろう。そして、この危険を誰が生み出しているのかも。(ニュース一部閲覧)

でんでん虫のかなしみ

 じつは、今年度の配本体系の一部を大幅に変えた。それは、昨年の配本で中学年(3,4年)での読書挫折や「厚い本が読めない」、「字が小さいと読む気にならない」という以前はあまりなかったことが起きたからである。そして、相変わらず「ゾロリ」のシリーズ、「おしりたんてい」のシリーズなどの影響が大きく、なかには月1の配本に手がつかない子すら出てきた。このため、四月から五月まで変更プログラムを個別につくる量が多くなり、さすがに疲れた。中学年の一部でグレードダウン、2割くらいが逆に増量・高度なものへ。B配本そのままが3割・・・二極分化が進む。
 原因は何度も述べてきたことだが、多様である。最大の問題は「忙しい」「余裕がない」ということだろう。低学年どころか幼児の頃からスケジュール過密で習い事、お勉強では、そりゃあ、本をじっくり読むことなどできない。影響はジワリジワリと出ていたが、ここで噴出した感じ。
 あれほど読書推進を叫んでいた学校も、沈黙しているのがふしぎな話だが、もともと識字率だけを上げることが目標だったわけだから、じっくり読むことなどどうでもいいわけで、それもしかたがない! その証拠に中学・高校では「本を読め!」という運動はもともとない。部活と試験勉強だけ。

もう本というより文が読めない状態

 その結果、3月号増ページで述べたように、わずか2行の文意がつかめなかったり、本を年間通じて1冊も読まない大学生が50%を超えるなど、すごい統計も出始めた。脳みそがウニになるライトノベルでも読みさえすれば本だから読書となるが、それすら読めない状態が起きている。
 しかし、そんなことで教科書そのものが読めるのだろうか。自学ができなくなったらさらに理解力は落ちていくだろうに・・・・。おそらく、背後にそうさせるもの、あるいはそうさせたいものがあるのだろう。つまり、考えない方がいいという力である。
 さらに深刻なのがLineやYoutubeの影響だ。従来からゲームやアニメ、漫画が影響力の強いものとしてあったが、相手も進化してきている。進化すればするほど親も子どもも周りの圧力に負けてどんどんハマる。これが依存を招く。「していないといられない」「見たり聴いたりしていないといられない」というのが依存。半分は精神病である。当然、思考力や洞察力が落ち、先の危険も読めなくなる。
 当然、言葉で考えない人間は精神に異常をきたして無差別に人を刺したり切ったりする事件は頻発するだろう。銃社会でないのがせめてもの救いだが人ゴミは多い、刃物はかんたんに手に入る。

なんでもあり=やぶれかぶれに

 さらに、なぜ言葉から物を考えないとダメなのか、あるいは言葉を軽視するとダメなのかを知っておく必要がある。
 言葉はただ「用足し」を伝えたり、何かするためにマニュアルを読むためのものではない。言葉は発したら、その言葉が意味することを実行したり、守ったりしなければならないのである。
 そうしないと生きていくうえで「信用や信頼が得られなくなる」という大問題が生じる。ゲームで育った世代は「臨機応変に対応する」とか「状況が変わったら対応を変える」という習性が身についてしまうが、一見、良いように見えるこの考え方も、じつは「ご都合主義」「なんでもあり」に変化してしまうのである。「言ったことが守られなかったら約束は無意味になる」し、状況が変わったからやり方を変えるということは「都合が悪くなるとしない」ということになる。やがて人から信用されなくなるだろう。やってはいけないことは、どこまでいってもやってはいけないことなのだ。気持ちの変化で何をしてもいいということではない。
 あの秋葉原無差別殺傷事件から今月でもう10年。犯人はゲームばかりしていた少年時代に身に付けた「何でもあり」で行動した。弁護する人々は、彼にも悩みがあったというが、悩みのない人間などいない。「云々」を「でんでん」と読む脳天気には悩みなどないかもしれないが、どの人も重い悩みの殻を背負って生きる「でんでん虫」(引用・新美南吉・作「でんでんむしのかなしみ」)である。だから何をしてもいいという理由にはならない。自分を抑える発想、それは、いまのところすぐれた本を読んで考えを高めていくより方法がないように見える。(新聞一部閲覧)

ブック・トーク「はてしない物語」のこと

 5月20日、恒例の大月図書館ホール。今回はミヒャエル・エンデの傑作を今回取り上げたわけだが、大作!・・・すべてを語るのは難しい・・・虚無に襲われたファンタジエンの国を救いに行くファンタジーだが、それは見かけのお話だ。この物語は、まさに異常と化した現代世界そのままだ。
 虚無とは物事を作り出す想像力の消失。あらたに言葉をつけていかないとこの国もわれわれも消滅する。ところが、あれほど80年代に評価されたこの本を多くの人が読んでいない。この本だってもう40歳になるのに。
 そこで「軽く説明をしよう」か。まあ、こういう長い物語はしっかり読まないと何も得られないし何も感じないのだけれどね。
 ところが会場で「読んだ人?」と聞いたら四、五人が手を挙げただけ。やはり厚い本は敬遠されるか。読んでいない人が多いと、語るのもむずかしい。しかし、厚いのが敬遠されるとはいえ、ハリポタなども厚いし、シリーズなのに読まれている・・・はてさて・・・その辺の意味も後で探ってみるか。

あらすじなど無意味だが

 ・・・主人公バスチアンは、母と死別し、父と関係が悪化している内気な少年である。成績が悪く弱虫で読書が好き。まるで小学生のときの私みたい、である。このバスチアンが、ある日、いじめっ子から逃げるために入った古本屋で二匹の蛇が絡み合う紋章「アウリン」のついた不思議な本を手にする。古本屋のコレアンダーさんの仕掛けとも知らずにね。その本が 「はてしない物語」。つまり、日本では岩波書店から出されている重厚な装丁で箱入りの「はてしない物語」と同じものなのである。われわれ読者は、ここからバスチアンとなる。
 こっそりと盗むようにして本を借りたバスチアンはその本を読み始め、しだいに本の世界へ没頭していく。やがて彼はこの不思議な本の中に存在する異世界の「ファンタージェン」へ入り込んでいくというわけだ。ところが生きて帰りし・・・だけではない。本を読むたびに頻繁に異世界へ行って帰ることを繰り返す。読者なのか本の中の勇者なのか、はてまた観察者なのかバスチアンにもわからなくなっている。そして、「ファンタジエンへ来い!」という呼び声が彼の頭の中で。
 その国ファンタジエンは・・・・『人間の想像力』を原動力として存在している。人間の子どもが支えているのだ。しかし、大人たちが現実とばかり向きあうようになったため滅亡寸前の状態。
 窮地に陥ったファンタージェンを救い、英雄となったバスチアンは、その代償としてなんでも望みが叶う力を手に入れる。但し、その力は一つの望みと引き換えに、現実世界での記憶を一つ失うと言う恐ろしいリスクを伴ったものだった。記憶を次々と失い、挙句ファンタージェンを自分の支配下に置こうとまで暴走するバスチアンが、最終的に行きつく結末とは・・・?

壮大な比喩である

 なんだか、同じようなことが現代の日本でも現実に起こり、その虚無の仲間が跋扈(ばっこ)しはじめている。あらゆる分野で文化を食い荒らす人々が出てきたというわけだ。
 後半はバスチアン自身がファンタジェンに呼ばれ、本当の自分を探す物語となっている・・・(少しも軽く説明するではなかったね、)
 しかしだ。来場者のほとんどの読んでいなかいので、ちょっと説明が回りくどくなってしまった。
 これが単なるファンタジーでないことは深読みすればわかるが、壮大な現実のたとえになっているというところがミソで。ここでは、ロマン主義者ノヴァリスの「青い花」が描く世界、ヴィトゲンシュタインの「意味論」が頭をもたげる世界、そして、シュペングラーの「文化の危機」思想などが総動員され、ギリシア以来の「汝自身を知る」命題の哲学が軸となって展開する。哲学、思想の大安売り状態(笑)である。
 しかし深読みできない読者は、この比喩さえなんだかわからない。まるでゲーテの「ファウスト」のような壮大な話だが、これらが現在の日本(あるいは世界)の文化の衰退や政治のテイタラク、あるいは人間の劣化と関係づけて考える力がつながっていくかどうか・・・・。暖簾に腕押しトークとなるか、あるいは堂々巡りでも何か考えてもらえるか。
 いまの日本、食うものに困らず、便利であれば何でもよい、先のことなどどうでも良いという老人性や想像力のない幼児性が現れて来ている。これでは「ファンタージエン」は消滅しまうのに。ファンタージエンがなければ現実の世界もなくなるのである。
 しかし、物語の中では消滅しつつあるファンタジエンの幼心の君を救うためにバスチアンは新しく言葉を探し、名付けていくことになる。新しい言葉、それは現代の世界でどういうものか。

新しい名をつける?

 虚無が破壊するファンタジエンは、じつは人間性や言葉が死滅し始めたからである。言葉の死滅とは、嘘、偽り、無責任な言動、言ったことをしない、ゴマカシ、反知性的な言語羅列・・・これらが文化を殺し、われわれに無を押し付けてくるということだ。まさに、ひたすら神経を刺激しようとする現代音楽やお笑い芸人の言葉・・・これが世界をダメにしていくのである。だから、新しい言葉で世界をつくり換えないと世界はいずれ虚無に呑み込まれる。
 新しい言葉とは「信頼」、「希望」、「勇気」を持つ言葉である。かつて言葉は重く、言ったことが実行できないとき、あるいは実行できてもそのとおりに行かなくなった時、人は生命をも投げ出したのである。
 まさに、いま、この世界で起きていることが、物語の中で起こっている。 
 弱虫の私たちはなかなか勇気を出せないで縮こまっているだけなのだ。保身のために声が上げられない! 子どもが殺されても大声で怒れない! 学校で異なった意見を言えない! あたらずさわらず、小さく息を吐くようにSNSでつぶやくだけ。これではファンタジエンの国は生き返らない。かつて、この国は言葉を言い間違えたり、言葉と違う結果が起きたら命と引き換えに責任を取る社会だった。言葉は重くそのぶん生き方も緊張感があふれていた。

虚無たちが国を壊そうとして・・・

 はてさてテレビやネットで便利で裕福な社会と錯覚させられて、自分の言葉、自分の個性が発揮できない世の中とは何なのか。自分で稼がず、他からのおこぼれで生きているから「何も言えないのではないか!。なんて考える。自分の言葉で生きるべきなのに、自分で稼がないで生きるからお金をくれる人間に忖度して弱くなる。それを大きな声で言ってはみたものの反応はどうなのだろうかと考える。「・・・何言ってるんだろ!この人は・・・」という視線が注がれるだけかもしれない。
 しかし、そう言っている間にも虚無が、この世界を侵食して大きな暗闇を広げている。おかしいことが平然と行われているのがそれなのだ。
 悪事を働いても言い逃れる・・・これも言葉が死んでいる証拠。しかし、みんな無関心だ。あれだけの原発事故があったのに、原発を輸出しようという狂気。これも虚無の浸食だ。戦争をすればもうかるという狂気にだけも何も言わない。想像力がどんどん失われ、やがては、人は言葉を失うだろう。アトレーユや幼心の君がいくら「もっと勇気を!」と言っても、聴く耳も持たずに虚無の横行を見ているだけ。バラエティのお笑い芸人の言葉で脳天気に笑いころげているようではおしまいだ。
 一回、ファンタジエンの国は壊れて消え、現実の世界で大悲劇が起こらないと、そして人々が苦しんだ後でないと、また新しいものには生まれ変れないとしたら大変なこととなる。大量の生命が失われる事態が起こらないことを祈るばかりである。みんなしっかり、本を読んで想像を働かせてください。そして自分の言葉で話してください。そうしないと大変な悲劇が起こる。すでに虚無たちは、この国を飲み込む準備はし終わっているからだ。(番外原稿一部閲覧)



(2018年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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