ブッククラブニュース
平成28年10月号新聞一部閲覧 追加分

たかが絵本、されど絵本
Eちょっと意見を挟ませて!

自己肯定感についてもう一度

 2歳児の読み聞かせのところで、「2歳半くらいまでは大脳の旧皮質の発達があるので、いろいろしてあげると子どもは『愛されている』『自分は周囲とともにある』という自己肯定感が生まれてくるので大切な時期だ」というようなことを述べました。
 これについて、いくつかご意見が寄せられましたが、それを聞いて(読んで)いて「自己肯定感を育てるつもりなのに優越感だけが伸びてしまうのではないか」という不安も出てきました。つまり、褒めなければいけない、叱ってはいけないという強迫観念のようなものがあって、ベタベタ褒めの子育てになってしまうと大変だからです。
 子どもというのは快いことが好きです。不快なことは嫌います。しかし、人間の社会にはきまりというのがあり心がおもむくまま好きなことをやっていいということはありません。やってはならぬことを次第に教えていくためには叱る(子どもにとっては不快なこと)も入れていかねばなりません。何をしても許されるとなると我慢も何もありません。

褒めるだけの危険性

 自己肯定感の話といつも一緒に言われるのが「いっぱい褒めてあげましょう」というもの。これは、よく聞く言葉ですよね。とくに保育関係者から。たしかに、怒られてばかりいるよりは、褒めてもらえた方が自己肯定感は上がると思います。 
 しかし、これは長い目で見ると自己肯定感ばかり出来るのではないと思えるのです。親がアイマイなまま「とにかく褒める」と、本人の自己認識そっちのけで、褒め言葉のシャワーを受けるだけになります。
「100点が取れて、えらいね!すごいね!」「1位になれてカッコイイよ!」「さすがお兄ちゃんだね!」こうした言葉は、子どもにとってはうれしいものです。言った方も「子どもに活力を与えた!」という満足感や錯覚が出ます。

優越感だけが育つと・・・

 しかし、こういう褒め言葉は、子どもの中で「どうだ!たいしたものだろう!」という優越感や「親に褒められたい!」と認めてもらう要求にすり替わっていくことが多いのです。よく言われる「世間知らずの強引なお坊ちゃん、お嬢ちゃん」をつくってしまう可能性も出てきます。
 優越感は「他人との比較を前提としている」ため、比較する人がいなくなったり、レベルの高い子どもの集団に移ればすぐに揺らぎます。また常に誰かにヨイショしてもらわないと自分を認められなくなる危険性も出てきます。
 親が一方的に褒めていればいつか自己肯定感が育まれると思っていると違った結果になってしまうことが出てきます。では、親はどうすればいいか。
 確かめるのはただひとつ・どう感じているか、思っているか・・・。これだけです。例えば  親「運動会のかけっこどうだった?」(結果は当然親は知っている)
 子「うん、がんばった!」
 親「そうか! がんばったか!」
 これだけでいいと思いますよ。ことさら褒める必要もなし。子どもが充実感を感じているなら、それでよし、なのです。

学校図書館をどう利用するか
C だんだん劣化する?図書館

 以前、公共図書館にTSUTAYAが入って運営をし始めたことを書いた。スタバが入り、ブック・カフェも併設して客の入りが上々ということだったが、「図書館本来の機能が発揮されなくなっている」と問題になったからだ。図書館建設は公共事業で、書籍の購入も公共事業・・・しかし、自治体の歳入が減ってくれば不要なところから削ったり、民間委託となる。もともと真剣に「本を!」というのではなく「建物としての図書館を!」という発想から始まっているので削る時代になると削られていくのは当然だ。
 甲府の例で申訳ないが、いま甲府の小・中の学校図書館でとんでもないことが起きている。市内の学校司書は35名いるのだが、なんとそのうち17名が辞める(解雇?)ということになり、署名集めの騒動になっている。その理由は、その図書館司書が「非正規の嘱託職員だから」というだけの理由で辞めさせられるわけだ。嘱託職員と言っても知る限り、司書としてすぐれている人がほとんどである。待遇が非正規嘱託職員ということでワリを食う。これって企業で行われている非正規雇用問題とまったく同じ。国の方針で削れるものは削る・・・ということなのだろう。要はこどもたちにすぐれた本を!」「すぐれた読書を!」などという発想はないということになる。(ご来店の方は反対署名お願いします。)

本が好きになるのか?

 ゆめやが、学校図書館や公共図書館にズバズバ言えるのは図書館の書籍納入業者ではないからで、もちろん学校図書館にも納入はしていない。行政からお金をもらうと言いたいことも言えなくなるわけで、教科書納入業者など、まず何も言えないで言いなりになるよりない。幸い、ゆめやは顧客の皆さんが、お子さんのためにゆめやを支えてくれるので、自分の稼ぎということで自由にものが言える。だから、はっきり言うが、図書館から借りてきた本で子どもが読書を好きになり、大人になっても高度な本を読んでいく確率は極めて低い。子どもは家庭が読書環境の準備をしなければ本を読むようにはならないことはわかりきったことである。
 この三十年、子どもの本の仕事をしてきて経験的にだけれども感じたことは、親が与えさえすれば、そして読み聞かせさえすれば「子どもで本嫌いの子はいない」ということである。もし、本が嫌いで、聞くことも読むこともまったくしないという子がいるとするなら、その子は生まれたときから、そう仕向けられた環境で生きてきたとしか言いようがない。あるいは、途中で世の中の流れに流されるということだろう。
 先天的に「本嫌い」の子がいるかどうかは、研究も調査もしたことがないのでわからないが、知的障害や情緒障害を持つ子どもでも与えればそれなりに本が定着していく結果を見ると、「本を読むことを楽しむ因子」が「人間の遺伝子のなかに組み込まれているのではないか」と思うことさえある。

学校図書館は・・・

 このように考えると、本を読まない親の子は、いくら読み聞かせをしても真の意味で本を読まなくなるし、幼児期からゴチャマンとくだらないおもちゃやTVゲーム、キャラクター本に囲まれていれば真の読書への方向は閉ざされてしまうだろう。それは学校図書館が読書競争をさせても本を読む人間にはならないということだ。
 もっとも、ある人々に言わせると「本など読まなくても実生活には支障ないし、学校の国語の力と読書は関連がないので読書など重要ではない」ということにもなる。事実、ある人が私に「文学に走る子は素直ではないところが出るので、うちの孫には文学書を読ませない!」と公言した人がいた。おどろくことに元学校の先生だった。嘘ではない。世の中にはいろいろ見解もあり、なるほど、そういう人の意見の一部は的を射ていないこともない。私の意見も「個人差がある」もので、当然、絶対的な見解ではない。たしかに読書力と学校の成績は無関係であることは事実だ。たくさんの本を読んだからといって国語の成績が上昇することはないのである。また、高度な文学を読めば読むほど否応なく批判力がついてくるから、一般的な意味で言う「素直」になることはないだろう。この意味では、批判的な子は扱いにくいので学校側としては真の意味で読書を推進する気にはならないのかもしれない。まあ、文学は楽しみ程度でということで・・・ということか。
 さて、このへんのところが入り交じると、子どもに本を与えて、真の読書に向かわせるのに疑問も出てくるが、人間として成長するという点から見ると今のところ「正当な段階を踏んだ読書」しか手段がないというのも、これまた事実である。逆に言えば、学校の国語の成績が良かった作家、文学者が少ないように、成績こそ大人になってあまり役に立たないものであり、「素直な人間になること」によって最終的には「管理されてしまう人生」を送らなければならない問題もある。まっとうな環境づくりこそ親が「子育てに与えられた試練」のような気もするのだが・・・・。

むかしばなし裁判
Cサルカニ合戦 あらすじ

 カニがおにぎりを持って歩いてくると、ズルがしこいサルがその辺で拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は嫌がったが、「このタネを植えれば成長して柿がたくさんなって、ずっと得するよ」とサルが言ったので、けっきょく、おにぎりと柿の種を交換した。
 カニはさっそく、庭に埋めて「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃハサミでちょん切るぞ」と歌いながら種を植えると、すぐに柿がたくさんなった。そこへやって来たサルは、柿の木に登れないカニの代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、自分が食べるだけでカニにはやらない。カニが「おれにもくれ!」と言うとサルは青くて固い柿をカニに投げつけ、カニはそのショックで子どもを産んでから死んでしまった。
 子どものカニたちは「親のカタキを討とう!」と栗(くり)と臼(うす)と蜂(はち)を仲間にして牛糞(ぎゅうふん)持ち込み、カタキ討ちの計画を練る。栗は囲炉裏(イロリ)の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に置き、臼は屋根に隠れた。そしてサルが家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをしてサルはヤケドを負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと蜂に刺されて、おどろいて家から逃げようとすると牛糞で滑って転んだところに、屋根から臼が落ちてきて猿は死んでしまう。子どものカニ達はみごとに母親のカタキを討ったという事件。

起訴

 朗読された起訴状では被告は子どものカニたちだった。罪状は「共謀罪」と「殺人罪」。共謀罪は、何らかの反社会的な目的を達成するために仲間(ウスやハチたち)と秘密裏に行動するもの、あるいはその予定を立てること。殺人罪はサルを殺す目的で行動を起こしたため適用された。
 被告人の子ガニたちは、罪状は認めたが「あくまで母親のカタキを討ったもので、もともとはサルが悪いのだ。サルが母ガニを殺さなければこんなことにはならなかった。」と申し立てた。
 その後、検察官が共謀者のクリ、ウス、ハチ、ギュウフンを招致して犯行現場の再現を行った様子を述べた。また、サルの母ガニ殺しは被疑者死亡ですでに立件済みで、これは別の判決がでることを述べ、サルの死因は屋根から落ちたウスの重さによる圧死であることが冒頭陳述の結論となった。

冒頭陳述

 検察官「カニたちは共謀してサルを殺そうと計画して実行した。弁護人が言う母ガニのカタキ討ちという理由は認められない。すでに明治6年に復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)が出ている。恨みの連鎖をつくるカタキ討ちは近代では法的にも禁じられている。」
 弁護人「もとを正せばサルが母ガニを殺したことが原因である。現代において、こういう理不尽な殺しがたくさん起きているが、多くの被害者の遺族はカタキを討ちたいのをガマンしている。サルに厳罰をあたえないで見逃しておくと、今後もカタキ討ち的な事件は起きてくると思われるし、凶悪殺人が野放しになる。さらにつけ食わえれば、カニの子どもは未成年で少年法が適用されるので、強く無罪を主張いたします。

論告求刑判決

 検察官「すでにサルについては立件して、母ガニにあやまってカキが当たったということで過失致死罪で判決が出ており、被疑者死亡ということで一件は落着している。このカタキ討ちの件とは切り離すべきである。カニの子どもたちが他と共謀して反社会的な行動をとるということは、ある意味、子どもが行っているからこそ、将来テロにもつながる危険がある。計画的な犯行であることはハッキリしているので、少年であることを考慮しても最低、少年院送致、ウス、ハチ、クリ、ギュウフンは実行犯ということで懲役4年、執行猶予3年を求刑する。」
 裁判長「双方の主張は相反しているが、サルが死亡した原因がウスの落下であることは共通して認めていることである。ウスはサルを懲らしめようとして落下したわけであるから、サルが死んだのは故意か未必の故意かということで見なければならない。ウスは犯罪を行おう意思はなかったが、結果的に犯罪になってしまったとなれば未必の故意が適用される。よって禁固1年、執行猶予2年。残りのハチ、クリ、ギュウフンは無罪。カニの子どもたちは情状を酌量して無罪。
 この事件は死亡したサルの強欲さが引き起こしたものであり、このようなサルを出現させた、欲だけで動いている思いやりの欠ける社会にも問題がある。以後、カタキ討ちのような連鎖が起こらないように多くの者が発端になる事件を起こさないように心がけるべきである。これにて一件落着。」

天候不順

 まったく九月初旬から天候不順な日々が続き、まいっています。
 晴天日数では全国有数の山梨がもう一か月以上曇天ばかりでした。気分がクサクサしていたら風邪をひき、咳が半月も止まりません。作業能力も落ちています。今月の新聞の発行も半月くらい遅れてしまい、一部の方は後送・・・ご迷惑をおかけしています。
 でも、こういう気分の時も、下のようなお便りが来るとがんばってみようという気になります。時代が時代、首相でさえ、原稿の漢字のすべてにルビを振って(  )内に「ここで水を飲む」「拍手を待つ」まで書き込まれた原稿で答弁する時代です。
 反知性の時代、「何も知りませんが、なにか・・?」と平気で大の大人が言っているときに、百人の子どものうち一人でもしっかり本を読んで自分の力で考えているのを知るとホッとします。
 そんなことを考えながら、咳き込んでいた秋の夕方、下のようなお便りをお母さんとお子さんからもらいました。こういうのを読むとますます元気も湧いてきます。それも小さい時からのお写真までつけて、長いお手紙を・・・読んでいて、心が一気に温まって明るくなりましたら・・・外もきれいな夕焼けになっていました。

本とともに過ごしてきて

 千葉県 中島さんからのお便り
娘が赤ちゃんの頃からゆめやさんにお世話になり、読み聞かせは生活の一部でした。仕事で娘と一緒に移動する電車の中ではいつもゆめやさんからの絵本を持ち歩いていました。『しごと』『せいかつえほん』は穴があくほど絵本を二人でみつめた記憶がよみがえってきます。
 字も読めない娘が『よるくま』を一字一句、私が読む口調で全ページ読みあげたことは鮮明に覚えています。娘に読み聞かせながら本でつながっていた日々の思い出が今となっては本当に懐かしく愛おしくて胸があつくなってきます。
 子どもが幼いころはあわただしい生活で読み聞かせなんてしている余裕がない日もあるかもしれませんが、過ぎ去ってしまった人間からは羨ましく思う時間なので、どうぞ読み聞かせのできる一時を大切に過ごしてもらいたいと思っています。願いが叶うならば、もう一度読み聞かせがしたい母です。中学二年生になった娘はゆめやさんの配本には「はずれがなかった」と本の紹介をしてほしいとお手紙を出しました。長い年月で培った本に対する思いかと思っています。

そして娘さんからもお便りが

 ゆめやさんへ
 中学校生活も楽しんでおります。夏の課題図書は、読んでいるのですが、普段読む面白い本を探していたところ、ふと「ゆめやさんの送ってきてもらう本は必ず面白かったなぁ」と思い出し、この手紙を書いています。小さい頃からたくさんの本を読んでいたため、今も本が大好きです。        
 私は今も『マチルダは小さな天才』や『チョコレート工場の秘密』が好きで何回も読み返しています。『チョコレート工場の秘密』を小学生の頃、映画を見ましたが、自分が本で想像していたものが一気に壊されていったのを今でも覚えています。やはり、私は自分の頭で想像し、ドキドキ、ワクワクしながら本を読むのが大好きです。本の世界に入り込むとしばらく現実に戻ってこられなくなるときがあります(笑)。
 今はあまり本を読む時間が少なくなってはきましたが、電車の中では必ず本を読むようにしています。なので今、中学生の私が読んだほうが良い本やおススメな本はありますか?紹介していただけると幸いです。時節柄、お身体に気をつけてお過ごしください。中島
(増ページ一部閲覧)



(2016年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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