ブッククラブニュース
平成27年12月号(発達年齢ブッククラブ)

今年もありがとうございました。

 なんと一年の短いことか。時間の流れの速さを感じているのは私だけでしょうか。もう今年も終わり・・・2016年は目の前です。いったい、何をしたのだろう、し残したのだろうと考えていますが、考える暇もなく年末。子どもの成長も早く、あっという間に大人になっていくようで、眺めているとびっくりすることがあります。時間は平等に経つはずなので、同じ時間が私にも流れ、確実にわれわれは老いていきます。
 しかし、多くの人は忙しすぎて何も感じるひまもない・・・これではいけないと思います。来年こそはきちんとものごとをやっていかないと! 時代が大きく変わり、人の心も変わっています。しかも、あまり良くない方向に。
 子どもの未来を危うくする現象がいたるところで起きています。2015年は、後になって振り返ると、「過酷な未来への分岐点だった」とみんなが思うような年になりそうです。2016年はそれが加速していく年になりそうですが、一人一人は微力でも集まれば強い力になります。来年は、ゆめやとしては変化に左右されて崩れないで、きちんと皆様と接していこうと思います。もちろん、外に対してもブレない姿勢をでいきたいと思います。来年もよろしくお願いいたします。

2016年1月24日予定 午後1時開場

第三回大月市立図書館アリスブックトーク
「かさじぞう」

 今回のブックトークは季節に応じた絵本、有名な「かさじぞう」です。コメンテーターは4人に増員。作家のなかひらまいさん、都留文科大学の白須先生、猿橋幼稚園の仁科先生、私。司会は図書館長です。これまでと違った視点から述べたいと思います。近隣の方で関心のある方はぜひご来場ください。
 私は民話は、いまひとつ苦手な分野ですが、石でできたものが動くという視点から、人間の心の在り方と世の中の関係を考えてみたいお思います。いま失われたのは「思いやる心」・・・儲けることばかり考え、弱いものへの思いやりもなくないつつある世の中、「思いやる心」がなくなったためにかなりひどい事件・事故も起きています。以前、たつみや章さんが「夜の神話」で、われわれの周囲にいる精霊や小さな神々を人間が信じなくなったために起こる原発事故の話を書きました。目に見えない大切なものを無視する社会・・・・これがいずれ大きな破局を生むことは歴史も文学も予見しています。こういった視点から日本の昔話や西洋の同じような話を例にとってコメントを展開したいと思います。

でも、そのまえにクリスマス!

 この時期・・・ゆめやでもクリスマスものの絵本が並びます。みなさんのお子さんへの配本でもクリスマスものが入っていることでしょう。子どもはほんとうにこの時期の絵本が好きですね。
 ただ、イエス誕生の物語よりも圧倒的にサンタものが受けます。イエスの誕生は宗教的・哲学的すぎるので、日本人にはプレゼントをもってくるサンタの物語のほうがわかりやすいのだと思います。
 日本人に限らず誰も「もらうこと」が好きなのですが、とくにお願いしていたものがもらえるというのは子どもにとっても大人にとってもうれしいことにちがいありません。それをサンタさんが代行してくれるのですから子どもはクリスマス・・・それもサンタクロースが大好きです。物をあげる側の大人、物をもらう側の子ども・・・この両方が楽しい気持ちになるというのはとても豊かなことだと思います。

万年筆がほしかったころ

 私が子どものころはクリスマスはまだ定着していませんでしたが、裕福な家庭ではプレゼントが始まっていたようです。そういう話を聞くと、欲しいものをお願いすればクリスマスの朝には枕元に置いてあるのではないかと思ったりしました。しかし、欲しかった釣り道具一式、剣道の道具・・・何一つ、私のクリスマスの朝にはありませんでした。私のところにはサンタクロースは来なかったのです。
 小学校高学年のときのほしいものは、ほんものの万年筆でした。いまの子どもなら欲しくもないようなものですが、当時は万年筆で書くということが大人っぽいことで、どうしても欲しかったのです。映画・「三丁目の夕日」でも万年筆をクリスマスプレゼントでもらうシーンがありますので、当時は子どものほしいもののひとつだったのでしょう。映画では主人公は万年筆をもらえましたが、私は、このときもプレゼントとしてはもらえませんでした。当時の万年筆は日本製のものでも子どもにとっては高価なものだったのです。

あげる側になって・・・

 さて、私に子どもができて、その子たちが少し大きくなると「クリスマスにはプレゼント」という時代になりました。さすがに本は与えていたので、クリスマスくらいは奮発して・・・と思いましたが、欲しがるものを「はい、どうぞ!」では子どものためにならないような気がしたので、こちらの勝手で手作りのものや生き物を与えました。それでもじゅうぶん子どもは喜ぶものです。そして、あるとき、それは小学校5年のときででしたが、クリスマスのプレゼントは打ち切りました。私の子どもたちにはサンタクロースは、11歳でやってこなくなったのです。
 しかし、私がプレゼントされないことに失望しなかったように子どももすんなりと突然のプレゼントの終了を何も不平を言わずに受け入れて、次の年も要求はありませんでした。この時期が心も大人になっていく時期・・・つまり大人との境目で、人間はそういう意味でもどこかで大人になっていく必要があるわけで、誰もが大人への第一歩は十歳を過ぎたころから始まるのかもしれません。

ほしかったものが・・・

 さて、貧しい時代に育った私は、お願いしたものを何一つもらえなかったのですが、不思議なことが後で起こりました。中学2年のときに近所のA君が引っ越していったのですが、彼が使っていた釣り道具セットを私にくれたのです。継ぎ手の高価なものでした。
 大学2年のときに面白半分で出た校内の剣道大会で準優勝したのですが、防具を剣道部から借りていた私にN君が「弟が剣道をやめたので」と言って何と一式くれました。
 しかし、小学校5年のときに欲しかった万年筆は、相変わらず誰もくれませんでした。けっきょく、大人になったときに自分で買いました。初めはプラチナを買い、つぎがパイロットでしたが、一番、ほしかったのはモンブランでした。
 しかし、モンブランは高価です。太字のものは30万円もするのでとても買えません。で、長い間、プラチナやパイロットを使ってきました。私にとって書くのは仕事のひとつなので、書きやすいものは欲しかったのです。そこで、ドイツにいる友人に「中古でもいいから安いモンブランの太字を見つけてほしい」と頼みました。しかし、この小学校5年以来の願いは、なかなかかないませんでした。中古も高く、昔から使っているもので間に合わせるよりなかったのです。

ところが・・・これもまた・・・

 一昨年の夢新聞で私の大学時代からの唯一の友人が亡くなったことを書きました。彼はドイツに40年以上住み、私の仕事にもひじょうに力を貸してくれていて、ブッククラブの子どもたちの一部にサンタクロースに成り代わって手紙を書いてくれた人でもありました。
 で、彼が亡くなったので、25年の夢新聞12月号に「サンタクロースの手紙はもう来ない」というタイトルで記事を書いたのです。
 そして、それから時間が流れ、今年の秋に遺品整理が終わったようで、ドイツ人の奥さんから私宛に形見がいくつか送られてきました。声の吹き込まれた小型の録音機、愛用の時計、そして万年筆が二本。いずれもモンブランでした。そのうちの一本は、彼がサインに使っていたもので太字でした。私が望んでから50年以上の時間が経っていましたが、願いは不思議なかたちでかなったわけです。

願いは叶うこともある

 豊かな生活の時代では、望めばすぐに欲しいものが手に入ります。その意味ではお金は万能です。しかし、待つ時間の長さがあったり、あるいは手に入らないかもしれないと思ったりすることで、望んだものの価値が高くなっていくこともあるのです。逆にすぐに手に入るものの価値は低いといえるでしょう。世の中はお金さえあればより早く、より望んだものが手に入るような錯覚に満ちています。このため多くの人はお金を求めます。そのうち、与えることよりもらうことばかり考える人間も出てきます。拝金主義も広がってきていますよね。
 でもね。上にあげたいくつかの例のように「与えているうちに与えられる」こともあるのです。こういうふうに考えると大人にもやってくるプレゼントはたしかに存在するようです。サンタクロースは大人にもプレゼントを運んでいるようです。欲張りにはロクな結末が訪れないことは古今東西の逸話、昔話、哲学書、宗教書が書き連ねていますが、人間と言うのはバカなもので欲を刺激されるとお金欲しさに命さえも惜しまずに原発の再稼働でも戦争でもやります。(12月号ニュース一部閲覧)

おはなし会も終盤

 「おはなし会」対論の部第二回(11月18日)の様子はくわしくは会員に配布する新聞に書きますが、おおまかなことだけはお知らせしておきます。最初の話は、本を読むことで教科書にはない考え方が生まれ、人間的な思考ができることを4回にわたって述べました。まず教科書の答えがすべてではない、視点を変えないと真実が見えてこないことを話しました。次に、それをさまたげているのが偏差値教育やサブカルチャーであることを説明しました。教育が人の道を目指さず立身出世だけに使われていることを三回目で述べました。そこからは無責任で異常な人間が生まれて来るので、子どもをふつうの人間に育てるにはどうしたらいいか、を述べたわけです。そして、その後、実体験をしている方々と具体的な対論に入りました。最初は感性を研ぎ澄ますために夜空を眺める体験が子どものころから必要であるということで、天文アドヴァイザーで、星空の観察工房アルリシアの主宰である高橋真理子さんとお話しさせていただきました。それが行動につながるということもテーマに加えました。

自分の頭で考える

 今回は、教科書のコピペ知識ではなく、実際に体験して自分の頭で考えるということをテーマに世界を船で2周して、80ケ国以上を歩いた向井俊雄さんと対論したものです。アラビアのロレンスのような衣装で来てくださいまして、おもしろい話となりました。
 「答えを覚えるのではなく、自分の頭を使って、それぞれが自分の答えを出していく」・・・それが生きていくうえで、他人の真似ではない人生、経営、仕事につながっていくことをおはなしくださいました。本は冊数ではなくkg単位で本を読んできた方でもあります。視点の違うお話でひじょうにおもしろかったです。
 写真はアラブの大富豪ではありません。旅する写真家と銘打った「向井俊雄さん」です。すでにピースボートで世界を2周し、そのほかの旅行で世界80数ケ国を巡っている人です。「家はベースキャンプにすぎない!」と豪語しているのですが、家事全般すべてやる繊細な生活技術を持った方で、さまざまな面で教えられることが多いです。
 私が向井さんと出会ったのはちょうど十年前のことでした。そのとき向井さんはまだ現役の経営者で、山梨にある会社を再建するために京都の本社から派遣された方でした。専務取締役でありながら代表取締役でもある立場で社長職をやっている最中でした。
 私はNPO法人を起ち上げる仕事を始めているにもかかわらず、NPOそのものがよくわかりませんでした。経営方針がわからないまま、定款設定や登記など具体的な作業に入ろうとしていたのですが、その経営理念について向井さんが講義してくれるということで、聞くことになりました。しかし、そのまえに「向井さんが貸してくれた本なので事前に読んでおいてくれ。」とP・ドラッカーの『非営利組織の経営』という本を設立者の方が渡してくれました。

非営利=非利益?

 そこで講義の前にP・ドラッカーを読んだのですが、ひじょうに画期的なもので、従来企業の基本的な方針ではなく、社会還元が目的、社会問題を解決する作業、得た利益は雇用などでより良い労働環境を作ることなどが書かれていたのです。しかも、最近こそNPOは騒がれているが、じつは「この原型は古代の日本にあった」と述べられていたのです。それは「寺」で、「寺の僧侶たちが農民や漁民などが抱える問題を知恵と力を使って解決していく姿があった。それが最初のNPOだ。」ということです。そして問題解決した際には、農民たちからなにがしか食物などをもらうというものでした。労働は奉仕の精神もあるが、対価として報酬もあるわけです。それがなければ雇用が継続的に生まれません。
 で・・・、向井さんが、このやり方について講義をしてくださいました。
 ところが、その後問題が起こりました。多くの理事が「NPOは、参加する人のボランティアでやっていく」というのです。本の内容とはずいぶん方針が違うわけです。よくよくみなさんの意見を聞くと「NPOは特定非営利活動法人だから非営利ということで利益を上げてはいけないのだ。」というのです。これでは字面解釈だけで本当の意味がわからなくなってしまいます。すべてのことが、字面で理解されていくというすごい話で、これこそ本などまったく読む必要がないこととなります。字面で解釈されると、解釈した人の狭い料簡や少ない体験だけで物事が進められていき、すべてが本質を見ずに上っ面で行われることになります。やっておけばよい、やった、やったでおしまいです。これが政治的言語になるとさらに利用されやすくなります。第一回のおはなし会で述べたように「集団的自衛権はみんなで集まって攻撃を防ぐ」という意味だけの理解になってしまいます。「軽減税率」というから8%からさらに低くするという意味だと思っていたら、8%ままです。それを言うなら「据え置き税率」でしょう。しかし、偏差値の高い大学を出ている人ですら、役人がごまかしに使う用語をすんなりと受け取ってしまうようです。
 私が、ドラッカーの考えをうまく実現できなかったといきさつを話すと、向井さんは、なんと何もアドバイスや意見をくれずにニヤニヤしているだけでした。そして、それから私に頻繁にメールをくれるようになり、「山梨はブドウやモモなどが有名だが、人間もまったく同じで、周囲にぶらさがっている人が多い。いわば、『ぶらさがり症候群』ですね。」というのです。これは自分の頭で考えて行動しないので、周りの視線ばかり気にして、何かくれるのを待っているという傾向が見えるそうです。つまり、自分の考えは言わない、出さない、それでいて、物欲しげにぶらさがる。

ぶらさがり症候群

 向井さんが傾いた山梨の会社、工場の再建の際でも、周囲はおよそ自分の頭で考えず、自分の意見は言わず、みんなといっしょ、あるいは、だれかにぶらさがって行動するというのはよく見られたようです。しかし、私も山梨県人ですので、同じように「ぶらさがり」と思われるのが嫌で、よく向井さんに抗弁しましたが、どうもこれは山梨県人だけでないと思うようにもなりました。
 「日本人全体が『和』を重んじる人種で、これは聖徳太子が十七条憲法でも最初に『和をもって貴しとなす』と言っているくらいで、自分の発想より集団との和が重要だと思っているのではないか。」ということです。
 しかし、そういう症候群があるとどっちつかずになり、改革や改善はむずかしくなるそうです。なにしろ、自分がなく、こっちの旗色が良くなるとこっちにつき、あっちの旗色が良くなるとあっちにつく・・・そういう変わり身は上手になりますが、当然、意見や考え方、行動の責任はまったく取られないことになります。悪かろうがなんであろうが、勝ち組につく、勝ち馬に乗りたいという傾向も強いようです。
 これは、「本を読まないからだ!」と向井さんは言います。向井さんの読書量は私たちが冊数で数えるのに対して、重さKg単位で計算するとのことです。とにかく2500年前の哲学者が書いた本でも現代の経済学者でもザックリと読みこなし、言わんとすることを頭に入れ、それを実行に移す人というわけです。しかし、実行するには、狭い経験主義だけで生きている集団、あるいは狭い地域に君臨するボスとも戦わなければならない、と言われました。たしかに、山梨でもどこでも考えない人々、それを牛耳るボスがいるものです。

権威のある人が問題

 自治会などという小規模な組織でもとかくそこにボスがいて、それがわけのわからない「見識」を振り回すと、みんな「おかしいな?」と思いながらも賛同してしまうという例が出てきます。
 向井さんの住む地域でもそういう例がありました。高校の校長(元)が、「ここに住んだらみな諏訪神社の氏子だから・・・」と平然と言い放ったそうです。向井さんは「それはおかしい。あなたは憲法の信教の自由のところを読んだのですか?」と言ったのですが、多くの周りの人たちは怪訝な顔つきをしていたということです。
 意見を言うと「あの人は変わっている」の一言で片づけられてしまうのが日本社会で、その側で力を持てば「ぶらさがり症候群」の人など操るのは簡単になってきます。多くの人は自分の頭で考えずに、より声の大きい人についていくからです。
 とくに、この和という独特の考え方は日本中のいたるところで発揮され、他と異なった意見は排除されていきます。これでは憲法をいくら読んで考えても、読まない「権威ある人々」が勝手なことを言って物事を進めても文句が言えない社会であるともいえます。

こういう社会を支えるものは?

 このある種の「権威」を作っているのが、学歴社会で、それを支える基準が偏差値です。向井さんは、この「答えが必ず一つしかない資格社会は、自由な思考や行動ができないで枯渇する」と言います。
 ですから、なるべく就職を目前にした大学生に「同じ失敗を二度としないようして、多くの経験(失敗)をすること」
 「失敗から逃げず、失敗を自分の頭に入れること」「様々なことに興味を持つこと」「本を片っ端から読んでみることで自分の考えが生まれる」「自分が社長だったらどうするのかを考えること」「自分の頭で考える習慣をつけることが大切」「少しずつ努力した人が勝つ」「我慢とロジカル、自分のスキルの向上が必要」「仕事は誰かに与えられるものではなく、自分で作り出すもの」
 などという講義をしていました。多くが偏差値を高めるために汲々として、与えられた仕事しかしない現代社会で「自分のしたいこと」を「自分の頭で考える」というものです。
 実際、ゆめやが近くの大学の就職部の教授に頼まれて、学生の就職面接を向井さんの会社に頼んだことがあります。
 就職先がなくて弱っていた学生なのですが、決められた時間に会社訪問をしませんでした。慌てた私は教授に連絡しましたが、なかなかその学生と連絡がつきません。ようやく数日後に会って訊くと「いっしょに行く友人が探せなかった」ということでした。自分の就職ができるかできないかの瀬戸際に、このようなやる気のなさは何でしょう。
 私も恥ずかしくなって、就職部の教授に向井さんに謝りにいくようにつたえたくらいです。約束も守れず、責任も果たさない・・・・こんな状態では企業の活力も何もなくなります。そのうちマニュアルでしか物事ができないのではなく、マニュアルも使えないで仕事さえもできなくなる可能性があります。たしかにブッククラブでもきちんとものが言えない親たちも増えてきました。自分の意見がないということは考えていないのと同じことですね。

組織はできたときから腐り始める

 自分の頭で考えられない人間が増えて、マニュアルや慣例で物事を行い始めると、何か起きても誰も責任を取らなくなります。トップが責任を取らなければ下が取るわけはないので、ますます組織は歪み、経営の分析もなくなり、言い逃れやごまかしが進んでいきます。これは東電原発事故や東芝粉飾決算の例を見ればわかることです。小さい規模のものでは山ほどあるでしょう。この原因は近くでは先の大戦の責任をトップが何一つ取らなかったために、その後の戦後の社会に大きな禍根を残すことになったということです。敗戦処理は大きな失敗の一つだったと向井俊雄さんは言います。
 まして、偏差値で一つの答えしか出せない人間が組織や社会の上層部に行くと下の者はたまらないではないか。天皇など何も責任を取らない飾り物で、その意味では憲法の「天皇」条項をなくす改憲には賛成ということです。
 現代社会は、市場原理で欲が拡大していますが、人間は必ず死ぬので、どこまで欲を拡大するのか、アベノミクス(原発再稼働、国債乱発、経済成長論)がどのくらい日本をダメにするか・・・日本国内での社会変化、および地殻変動などの問題、それらに対してどう向き合うか、自分の頭で考えられる子どもを期待したいところだということで、まったく私も同意見です。
 まずは、本をたくさん読んで多様な考え方を知る・・・そこから自分の頭で独自の生き方をする・・・たった一回の人生ですので、周りに左右されてつまらない「和」だけで生きることはしないほうがいいように思います。(増ページ一部閲覧)

サンタはまたやってくる

 少年時代に読んだ本のなかでいちばん印象的で、いまでも、この時期になると思い出す本はいくつもあります。まず「マッチ売りの少女」。戦後の物資のないころに少年時代を送った私には、あの少女が裸足(はだし)で立っていた足の冷たさや空腹でいる様子が自分の体験からよくわかるのです。それから「フランダースの犬」、この悲しい物語はいまだに心から離れません。多くの方がこの涙を流さざるをえない物語に言葉が出なくなったことと思います。
 でも、その反対がサンタクロースものの話です。私が子どものころには絵本のサンタクロースものはほとんどありませんでしが、サンタクロースの本は、いくつも読みました。だって、子どもにとっては、年末最大の関心事が、この白いひげの小太りのおじいさんだったからです。

夢は覚めるが・・・

 サンタクロースについての本・・・これはなかなかおもしろいものがたくさんありました。背負ってきた袋の中に言うことを聞かない子を詰め込んでさらっていってしまうナマハゲより怖いサンタクロース、ほんとうの名前は聖ニコラウス=セイント・ニコラウス、それが訛ってサンタクロース・・・子どもには「ほんとかな?」「いやほんとだな!」と思わせる話ばかりです。遠い北の国からやってくると聞かされていたのに、なんとトルコ出身だったとか、ラップランドからのサンタは「ずいぶん後になってから作られたサンタ像!」などと聞くと、なんのことはない。サンタクロースは、「ごく最近の消費社会が生み出した夢」で、チョコレート会社が仕組んだセントバレンタインデーと何も変わらいものと感じてしまったこともあります。実際、私が小さいころにはサンタのプレゼントの習慣はなかったように思います。これがわかったのは大人になってからことですが・・・。それでも、子どものころの期待は大きいのです。そして、サンタクロースはどんな人で、どんなところから来るのか・・・を考え続けるのが子どもというものです。ただ、不思議なことに、ある時期からサンタクロースのプレゼントを考えもしなければ、期待もしなくなります。・・・「だまされていた!」とも思いません。

夢は変わる

 先日、写真家の大竹英洋さんと初めて会ってお話を聞いているうちに、サンタクロースの存在が消えた失望や大人にだまされてきた感じが起きなかった意味がわかりました。自分が進む新しい目的が見えてきて、それを大きな想像力がバックアップする時期になったからです。
 つまり、夢とは、もらうばかりの楽しい夢ではなく、自分が挑戦していく夢になるのです。もっと言えば、自分の考えたものを誰かに与えていく夢です。大竹さんはまだ若い写真家なのですが、大学を出てカナダのノースウッズの森に魅了され、そこの自然を撮り続けています。ノースウッズで一年のほとんどをシャッターチャンスに賭けて暮らし、それを多くの人に見せているのです。
 偶然にも写真家・星野道夫さんに出会って人生が変わった高橋真理子さんの「おはなし」を先月号で書きました。これとあまりにも似た話を12月6日に大月市立図書館で聞けるとは思いませんでした。大竹さんが見せてくれたものはヘラジカあり、シロクマであり・・・それはそれは美しいカナダの自然でしたが、話を聞きながら偶然の積み重なりに私は唖然としていたものです。大竹さんとは初めて会ったのですが、じつは何年も前に東京・世田谷での写真展に微力ながら協力をしたことはあるのです。それから今日まで何年かお会いできず、大月ではまさに偶然の出会いでした。

自分の考えで行動できる人に

 偶然と言えば前回の「おはなし会」は「自分の頭で考える」というテーマで旅する写真家で企業顧問の向井俊雄さんとお話をしましたが、じつはこの向井さんも大月で就職を目前にした大学生に前述のように「自分の頭で考える習慣をつけることが大切」「少しずつ努力した人が勝つ」「我慢とロジカル、自分のスキルの向上が必要」「仕事は誰かに与えられるものではなく、自分で作り出すもの」などという講義をしていました。多くが偏差値を高めるために汲々として、与えられた仕事しかしない現代社会で「自分のしたいこと」を「自分の頭で考える」というものです(後日詳報)。
 私は、どんなことでもよいから自分が夢みたことをまじめに実行していると「良い出会い」が重なると思っています。良い出会いは人生の大きなプレゼントです。もし、一攫千金だけを夢見て手軽に生きようとしたら、周りはそういう欲張りばかりとなって良い出会いはないことでしょう。最近は、多くの人が一儲けばかり考えて人生を棒に振るようになってきました。子どもたちにも、もう少し想像力を働かせて、より良い自分の未来をつくってもらいたいのですが、その想像力を働かせる体験が学校を含めて成育過程の中で少なすぎるように思います。

危険を避けるには・・・

 SFはもちろん古典文学であろうがファンタジーであろうが、あらゆる物語は現実を越える想像力を要求して、悲惨なことにならないようにブレーキをかけてくれていますが、世の中はこぞって「金儲け」「欲の拡大」です。政治がそういう方向ですから、誰もが影響されることはわかります。しかし、その先の危険が見えないと大変なのです。
 でも、子どもは受験、お稽古事、お勉強に追われて遊ぶことさえできずに、想像力を育む時間がなくなり、疲れの穴埋めのためにゲームやLINEにはまりこんでいきます。当然、貧困家庭は本を読むどころか粗悪な遊びに終始していることでしょう。こんな人間がこれからも本など読んで心を訓練することなどありえないでしょう。
 危険なことですが、いよいよ読書がむずかしい時代になったのです。最近、大学生と話しても「知っていなければならない話」「常識的なエピソード」「必読の本」などがまったく話題に出ません。偏差値は高いのでしょうが、かれらは多くを知らないのです。おそらく漫画ばかり読んできたからでしょうか。この人たちが大人になったとき(すぐですが)、かなりひどい世の中になるでしょうね。善い出会いがなく、人と人がつながらなくなるのですから・・・これからは何が幸福かを考えながら生きなければならない時代になるでしょう。
 でも今月号では、ゆめやは何が何でも「メリークリスマス!」「良いお年を!」を言わねばなりませんが・・・。まあ、何はともあれ「メリークリスマス!」(12月号新聞一部閲覧)



(2015年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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