ブッククラブニュース
平成26年9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせと子どもの環境
2歳の本(1)

 2歳になると、ほとんどの子が親が話す言葉の多くがわかります。言葉の出ない子もいますが、心配することは、ありません。ものすごい量の言葉が耳から入っている状態なのですから・・・日常的なことはすべてわかっています。
 ところが、この時期の子は、一般的には「魔の2歳」とも言われています。自我が芽生え、1歳のときのように親がやる通り、言う通りをそのまま受け入れてはくれなくなるのです。何もかも自分でやりたい。言葉が出る子も出ない子も「自分、自分」の大合唱です。
 とにかく突然聞き分けがなくなります。男子女子関係なく、一度ツムジが曲がるとなだめるのがむずかしくなります。「自分で何かをしたい」というのは成長なのですが、親から見れば、ひじょうに危なっかしい。もちろん物事はうまくこなせませんから、自分でもじれることがあります。親も目が離せません。
 しかし、この「目が離せない」というのが親をして親にしていく原動力です。親も初めから親として存在することなどできず、子どもの成長に係わることで親になっていくのですが、現代ではなかなかそうはいきません。あるときから学校教育が社会に出て働くことを刷り込んでしまいました。現在の国力を維持するにはあまりにも労働力がないのです。目先に「良い生活(おいしい食事、すてきな車、快適なマイホーム・・・)」をぶるさげて、「ハイハイ、子どもは社会が預かりますよ。心置きなく働いてお金を稼いでください!」となります。誰も「節約して」とか「質素にして」・・・「生活をコンパクトにしないと、これから大変ですよ。」とは言いません。欲を掻いて、また欲を掻いてそれを実現するのが現代の生き方。国の生き方でもあります。エネルギーの争奪戦が終われば食料の争奪戦になりますが、TPP・・・勝てますかね。いやいや、これは、おっとおっとの脱線です。

大脳旧皮質が大切

 昔は「2歳なんて記憶がいつまでも持たないから何してもかまわない」という常識がありました。しかし、大脳の旧皮質がだいたい2歳半くらいで発達を終了するそうで、これ以上は機能しなくなると言うか、原始人だった昔は必要だった機能で今は必要ないから「旧皮質なんていわれている」とあります。しかし、じつはもっと重要なものを、この旧皮質は持っていたことがわかってきました。ここでは、「自分が愛されているかいないか」「自分は肯定されているかかいないか」「自分は何に属しているか」などで形づくられる自己肯定感や帰属意識(アイディンティティー=自己同一性)などが形づくられるのです。「子どもの成長など見る暇があったら働いてください!」と国は言う・・・そうなるとうまくしたもので、子どもとの係わりが減りますから、当然、「親」になっていく程度が低くなります。下層階級では虐待など話にならないような悲惨な状況も起きていますよね。あたりまえのことですが、外部依存したら何かのツケが回るのは当然です。ツケは子どもが思春期になったあたりから出始め、大人になってからもツケの回りは続くことでしょう。ま、目先の欲を満たすことなのか、子どもの成長を見る幸せなのか・・・それは、まあね、個人の選択です。たかが絵本屋が、どうのこうの言うことではありませんが・・・・。

2歳児は見ているとすごい

 さて、2歳児・・・自我の膨張はものすごいものがありますが、当然個人差もあれば個性もある。ただ、これと並行して、2歳代は想像力が増し、それとともに物語を追う力が大きく芽生える時期でもあります。先ほど述べたように自分が愛されているという自覚から生まれる自己肯定感や家族などの集団の中にいるというアイディンティティーが育つ時期なので、落ち着いた雰囲気や環境の中で読み聞かせをしていきたいものです。ここで「自分の形成」がうまくいくかいかないかは、思春期、あるいは大人になってから影響が大きく出ると言われているので、親と子が安定した時間を家庭の内部で長く持つことが大切です。
 2歳になると色彩への関心と想像力の拡大も始まり、クレヨンを持たせると「描く」ことが始まります。このきっかけとして「ごちゃまぜカメレオン」や「ぼくのくれよん」などを読みこんで絵を多様に描くことも重要な「読み聞かせの一環」です。ただ、「うまく描けない!」と焦ってはいけません。2歳児は「ぐるぐる渦巻」から「ある程度の目鼻がある」絵しか描けません。しかし、頭の中ではこれはみな顔であり動物であり、ぬいぐるみであり・・・世界そのものなのです。描くこと自体が重要です。その意味でも、この2歳児の絵本は、発達を刺激したり導いたりする絵本になることは請け合いです。

想像力

 また、想像力が高まるため、2歳児は見えないものが見えるという特異な力を持てる年齢です。暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のですが、2歳児は暗闇に「物が見えてしまうから怖い」のです。これを生かしてモノトーンの絵本や背景が黒い絵本を与えると大人が当たり前にしか見られないものを別の見方で他の物として見ています。「ちいさなたまねぎさん」の黒いページなども「怖さ」を引き出すかもしれませんが、想像力の高まりでもあります。「もりのなか」などは、この想像力を発揮させるのに適切な本だと言えるでしょうね。
 さらに、落ち着いた感覚で親と子の関係・周囲との関係などに目が行くようにするには「おでかけのまえに」(女子のみ)「ぼくのせかいをひとまわり」(男子のみ)」「おやすみなさいおつきさま」(女子のみ)のように性差を考慮したすぐれた本も想像力を高めていく本です。。とにかく、2歳の本は3歳代の本格的物語絵本へ入る前の重要な時期なので発達に沿った配本が個別に組まれています。ここでの選書は先行きの絵本の選択や読書への重要な基礎になるので、選書・読み聞かせ方法などには注意したいところなのです。(ニュース増ページ一部閲覧)

私の絵本棚

 最近、まったく旅行というものをしない。しないというよりできないというほうが正確だが、小さな自営業だと仕事で電車に乗り、東京まで行って、その日のうちに戻る・・・という旅とは言えないような悲しい動きしかできない。それでも子どもが中学生くらいまでは海水浴とか山登りとか家庭内イベントがあったからよく電車を使った。私は、電車での移動が好きで、そのためにわざと海水浴は新潟とか富山とか甲府からはかなり時間を必要とする電車にしたものだ。山登りも日頃乗ったことがないような飯田線とか中央西線などのマイナーなローカル線を使った。
 さらにその前の独身で若いころは時間だけはあったがお金がなかったから、運賃の安い鈍行、夜出て朝着く夜行列車などによく乗った。東京-大阪間を走った「銀河」は、それこそよく乗った夜行列車だが、もう、この「銀河」の存在を知っている人は少ないだろう。

速いだけが旅ではない

 「起点から終点まで乗る」という無駄な?電車旅もたくさんした。東京の日暮里駅から宮城の岩沼駅まで何と三日もかけて鈍行で行ったことがある。常磐本線の起点から終点までの旅だった。現在はご承知のように原発事故で南相馬や警戒区域で不通区間があり折り返しとなるが、昔は岩沼までほんとうに美しい海岸線や田園を見ながら乗ることができた。途中下車をすると駅がじつに田舎風の駅舎で、「旅をしている!」という感じになったものである。下車して予約もしていない宿屋を探すのも時間など無視した旅の良さで、何となく「男はつらいよ」の寅さんの旅のように気楽な旅だった。
 こういう旅では、電車で同席した人、途中下車で下りた町の人とよく話をしたものだ。スローな時代のスローな会話である。特急や新幹線を使っていてはそんな旅はできないし、いまは各駅停車の旅でもほとんど乗り合わせた人と話を交わすことはない。その意味ではたった30年くらいで淋しい国になってしまったものだと思う。そこで今回選んだのは下の絵本。

絵本・やこうれっしゃ 西村繁男 絵

 この絵本はブッククラブでは男子にしか入れていない。いまでは夜行列車自体が減ってしまったので、子どもは夜行列車というものを見たことがないかもしれない。しかも、この絵本の電車は上野-金沢間を走った寝台特急列車で、なんと東北本線の一部や高崎線と上越線、さらに信越本線を経て北陸本線へ入ったややこしい夜行列車なのだ。
 私のような老人にとっては懐かしい電車であり、三十歳代、四十歳代の親は一時代前の電車として見るだろう。読み聞かされる男の子は「むかし、むかし、こんな電車が走っておりました」という感覚になるかもしれない。
 でも、まあ、いいではないか。最近の子どもは昔のダイヤル式電話機を見ても、それが何なのかわからないという淋しい知識しかないのである。昔は、夜中を通して走る電車があったのだということがわかるだけでもいいのではなかろうか。

寡黙な人は饒舌な絵本を描く

 作者の西村繁男さんは私と同世代の方で、なんと生年月日まで同じで、岡谷にある絵本美術館で何度かお会いして話を聞いたことがある。ひじょうに無口な方で、自分から話すという感じではない。ある時、皇女・和宮が泊まったという諏訪の旅館にいっしょに泊まって、ちょうど大長編絵本「広島の原爆」に取り掛かる直前のことで風呂につかりながら、どういうふうに描くかをお尋ねしたが、明確な説明を聞くことができなかったくらい寡黙な方だったのを思い出す。
 しかし、こういう方だからこそ、この「やこうれっしゃ」という傑作が生まれたと思わざるを得ない。「やこうれっしゃ」は、文がない本だ。絵だけだ。文はないが、しかし、絵が生き生きと人の動きや列車の動きをを語っているのである。
 ギリギリ乗車に間に合った人のホッとした表情、荷物運びの人の力の入った動き、結婚式帰りの人のおだやかな笑顔、出張のサラリーマンの様子・・・どれも、まるでセリフを吐いているような動きが見える。それだけではない。発車時間が迫った慌ただしいホームの音まで聞こえてくるようだ。機関車の連結音や物売りの声まで聞こえて来そうである。写真絵本ではこうはいかない。動き出して時間が経つと、客席でのいろいろな様子が見えてくる。時間とともに変化する客の表情や行動が絵本を見ている子どもの目を飽きさせない。みんなが眠っている夜中にトイレに立つ子どもについていく親の姿などほほえましいもいいところだ。

リニア新幹線・品川〜甲府間15分

 誰も目的地まで急いでいる様子、あわてている様子がない。人々がゆっくりとおだやかに生きていた時代。隣に座った見知らぬ人といろいろな話を交せる時代・・・前述のごとく新幹線では、こんな風景はなくなってしまった。だいいち、座席が同じ方向を向いてしまっている。向かい合って座る席などない。向かい合わなければ会話もできない。もっとも、この「やこうれっしゃ」でも一等車の車両では座席は新幹線と同じく進行方向に向けた座席が描かれている。そのころでも豊かになった人と人の間では人とのかかわりは薄くなり始めていたのかもしれない。東京と名古屋を結ぶリニア中央新幹線・・・品川〜甲府間15分・・・これでは旅はできまい。人と人のかかわりなどできまい。
 しかし、この「やこうれっしゃ」・・・まさに消えてしまった歴史的産物だ。とにかく細かなところが優れた絵本。長く書棚に残したい一冊である。

しかたがねぇ!また書くか・・・(4)
本格的なサブカルチャーの定着

 先々月に表で示したサブカルチャーが原因となっている事件の話を会員の方々としていて、おどろいたことがある。多くの方が忘れたり、どういう事件だったか知らなかったり、全体としては「気に留めていない」という傾向が見られた。「いちいち考えていたら怖くなるから・・・」ということかもしれない。それに、「そういうことが自分の身に起こるわけもないし、自分の子がそんなふうになることもない」という「安全幻想」もあるのだろう。
 十数年前からサブカルチャーは、長く関わった人の精神を犯すような状態になっているが、じつはあまりにも複雑化し、多様化しているので、具体的にどう影響が起き、どんなものが強いのかなどはわからない。
 ただ、はっきり言えることは、利用する人間が多いので巨大な市場になっているわけで、ソフトからグッズまで膨大な利益を生んでいるということである。
 例えばLINEのスタンプをひとつ作って、それがヒットして売れれば1000〜1500万円の収入になるというのである。拝金主義の時代だから、買うバカが多ければこういうおいしいことは広がるばかりである。
 ネットにつながるのは、パソコンやスマホだけではなく、ゲーム機でもできるようになっているから、闇サイトであろうが、アダルトサイトであろうが、またサブカル・グッズを売るサイトであろうがどこにでもアクセスできる。こういう子どもの遊びの変化が成長に及ぼす影響は甚大である。極端な例は先に述べた奇怪な犯罪だが、ひきこもりやイジメなど社会現象になっているものの多くがサブカルチャーに起因していることはもう多くの人が感じていることだろう。
 この人間の精神や価値観を壊すサブカルの拡大は誰も止められない。おそらく多くの家庭内部で子どもの「欲しいよぉ!」という要求ひとつ否定できないのではないだろうか。その結果、どうなるか・・・。2000年以降のサブカルチャーの傾向は以下である。

パソコンの普及とオタク趣味の定着

 連続幼女誘拐殺人(宮崎勤)事件の影響から、アニメーション産業界にロリータ偏愛趣味傾向に対して自主規制が形成され、幼児や児童を使って性的興奮を催させるような描写が排除された。しかし、その分野のサブカルチャーは、アンダーグラウンド化してオタクの中に浸透している。同時期にはビデオデッキの本格的な普及とレンタルビデオ業界の発展も同時進行。この分野のアニメ・ホラー作品はレンタルビデオの特殊なコーナーで、これまたアンダーグラウンド化するようになる。またオリジナルアニメも数多くリリースされ、マニアックな青少年層向けの市場として定着していることは驚異的なスピードである。一般販売の形ではなく、マニア向け販売としてネット販売型、通信販売型になって拡大し始めたのだからすごい。またこのころDOSVマシン(PC/AT互換機)が日本では普及し、秋葉原を中心として自作パソコンを好むPCオタクが増加した。TVゲームはステージクリアー型のソフトからロール・プレーイング型のものが主流となり、一部ではロリコンもの、性的趣味のものも単発ソフトとして広がりを見せ始めた時期である。

エヴァンゲリオンとテレビゲーム

 視聴者に哲学的な命題を感じさせるアニメ・『新世紀エヴァンゲリオン』の登場は、学歴偏重社会の崩壊や景気鈍化傾向のなかで、漠然とした不安を抱える青少年層に強い影響を与えた。同作品の「セカイ系」と称されるものは「社会現象」にまでなった。一方、TVゲームやPCゲームの高度化や普及に伴い、ゲーム市場が広がったことは、ゲーム関連企業にとって大きな利益となり、多数のゲーム制作会社が多様なソフトを展開している。しかし、相変わらず一部にはスプラッターもの、幼女(アニメ)趣味 のものが含まれている。また、PCソフトである「バイオハザード」など攻撃的・暴力的なゲームが出現してきたのもこの時期の特徴といえるだろう。
 数多くの質の高い作品が登場する一方、DVDの普及により、旧来は「ビデオテープ・ソフト一本1万円弱」などという傾向が無くなり、3千円〜5千円で安価に販売される映像ソフトの販売が一般化。コンビニ店頭でも映画・ドラマ・アニメのDVDが販売されるようになった。一般の消費者でも「ビデオソフトを買って見る」という、かつてはコアなマニアやオタクくらいしかやらなかったことが子どもでもできるようになり、普通に売られ、普通に買われていくようになる。このため、家庭に特異な分野のサブカルチャーが入り込むようになり、親もそれが子どもにどのような影響を与えるかを吟味する余裕なくなっている。これが一般家庭でも浸透しているのが現状。またパソコンやゲーム機の普及は、かつての専門家やマニア主導ではなく、娯楽家電の一種として家電製品並みに普及し、裾野の広い市場を形成している。このため家庭でPCゲームは当たり前の遊びとなり、その一方で、オタク向け商品の市場も拡大しているから親子で娯楽として買う傾向も出てきている。かつての電気街であった秋葉原の様相を激変(フィギュア主流)させた傾向がこれである

ケータイ・スマホの進化

 2008年、ケータイ利用数は一億台を突破。ケータイの一般化にともなって、多様なサブカルチャーが定着をしはじめたことは、日常意識レベルにサブカルチャーが浸透ということで特筆すべき事柄である。ケータイは、手軽な個人間の通信手段という枠を飛び出して、好みの音楽やインターネット情報の端末となりつつあり、そこでは出会い系、薬物系など暗い側面も露出し始めた。日常、頻繁に使うものであるから精神に及ぼす影響は大である。ダウンロードゲームやアダルトサイト接続などは青少年を中心に価値観や倫理の基本となるような意識変化は大きいものがある。2012年代になるとスマホが子どもの間で普及が進み、LINEやダウンロードゲームは子どもの中でも一般化しつつある。この影響が精神的なものにも及んでさまざまな事件が起きているが、社会的なツールとして認められてしまったので批判したり排除することができないという問題がある。このような人格や精神形成にかなりの障害となる一連のサブカルチャーに対して、教育界からもメディアからも疑問や抑制の火の手があがらない。そして、危険性など誰も伝えない。(新聞九月号増頁一部閲覧)

高学年の配本

 溢れるビジュアルなメディアの中で、読書がむずかしい世の中ですが、やはり本を読むことは人間の品格を高めるうえで欠かせないものだと思っています。品格と言うと大げさかもしれませんが、私は読書が人間の質というか考えの深さというか、そういうものを形作ると思っています。
 しかし、現実は・・・・。いまや小学校高学年でまともな本を読んでいる子がクラスに何人いるでしょうか。多くは漫画、ゲームに浸食され、モラルも何もないライトノベル(これは本の体裁を持つサブカルチャーにすぎません)にハマる子・・・とても人格形成には役に立たないもの影響が日増しに大きくなっています。
 小学校高学年から中学・高校、ここは感受性の鋭い時期ですから一番読書をしなければならないときです。でも日本の学校教育はこの時期に読書ができないシステムを持っています。識字率が世界レベルでも、文を読む力が写真週刊誌や漫画、HOW TO本ということでは悲しいとしか言えません。中・高校生で、さきほどのライトノベル程度では、おバカなテレビ番組に熱を上げるよう人間しかできないのです。(ライトノベルについては次回で解説します。)
 ブッククラブのお子さんには、こういう風潮に負けずに中学や高校でも質の高い本を読み続けていってもらいたいと切に思っています。この時期には基本的な文学も含めて、相応の読書をしてほしいのです。いつも言うように紙面があればより良い本を列記したいのですが、そういうわけにも行かないので、高学年から中学への架け橋となるものだけを代表として挙げます。
 まず「モモ」や「はてしない物語」・・・このエンデの傑作は、ファンタジーを通して現代の閉塞を打ち破る力を与えてくれる名作です。これは読んでほしい! この時期に触れる良質なファンタジーは、大人になってからの生きる勇気の根本を形作ってくれるような気がします。次は「ホビットの冒険」。これは、あの「指輪物語」の前置き話。読んでおけば、壮大な指輪の物語が分かりやすい。また、古代を舞台に繰り広げられる日本のファンタジー・「空色勾玉」のシリーズ、「黄金の羅針盤」なども配本体系に組み込んであります。今話題の「赤毛のアン」も30年も前から配本に入っています。
 とにかく人間の「心」が危険にさらされている時代です。読書で心の劣化を防ぐ・・・これは、これからの時代、成長のための重要な手段になると思います。
 でも、まあ、世の中一般はそうは行きません。多くの子どもが流行るものに流されて行きます。大人が手本を見せないし、大人自身が本を読まないからです。で、結果的には大きな心の崩れが始まるでしょうが(いや、もう世の中の事件を見ていれば始まっていますが)、少なくともブッククラブの子どもたちは「おかしな人間」になってほしくないと思っています。そのためにも高学年の配本選書は高レベルのものを維持したいです。(新聞九月号一部閲覧)



(2014年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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