ブッククラブニュース
平成25年11月号(発達年齢ブッククラブ)

初めに言葉ありき

 よく、「本は心の栄養だ」と言う。つまり、物語が「人の心に生きる力を与える」ということらしい。ただ生きていくだけだったら物を食べてエネルギーにすればいいし、実際、多くの動物はそれだけで生きている。
 物語など百聞いても千聞いてもお腹がいっぱいになるわけはないのだが、太古の昔から物語はあり、人はその言葉を聞いて来た。文字がなかった時代でも、人が住んでいるところには、必ずストーリーテラーがいて人に話を語っていた。人々の心を安定させるために、あるいは周囲とうまくやる力をつけるために必要なことだったのだろう。
 これは、母親が自分の子どもに語りかけるのと似ている。と、いうことは、語ることで子どもの心をおだやかにしてやるというわけだ。まあ、物語は心があるかぎり、心の健康状態を保つために不可欠なものなのだろう。実際、子どもに限らず、本やテレビや映画など、いろいろな形で多くの人が物語に触れている。つまり人は物語が好きな動物というわけだが、生活上、何の役にも立たない「物語」を、なぜ人は好きなのか。
 もっと言えば、かなり低能な少年少女でもしようもないアニメ漫画を読むし、教養などカケラもないようなおばさんも芸能人のゴシップ記事に目が行く。これらも低俗ではあるが「物語」である。つまり、ある意味誰でも物語には関心があるわけだ。

誰もが物語を好む

 ひとつには、人間には「言葉を聞くことや読むことで物事を想像する」という性質があるからだ。もうひとつは、現実では体験できないことを想像することで、生きていくうえの力や勇気を持つ訓練になる。もちろん、警戒心や危険察知能力も身につく。とりわけ子どもたちには、物語体験は何もわからない現実の世界に向かって行く心のサポートになっているはずである。
 ただ本が「心の栄養」というなら、ちゃんと栄養を取らねばならないだろう。粗悪な食事やジャンクフード、または過度な少食は病気や栄養不良で健康をおびやかす。同じことは「物語」でも言える。アンパンマンばかり読んでいたら浅薄な判断しかできなくなるだろう。自己犠牲が「お国のために」などという変なものにもなりかねない。また「戦隊もの」などを読み聞かせ続ければ、こりゃあもう脳天気なヤンキーをつくりだすだけだ。ディズニーやプリキュアで育てば「この世は極楽で幸せ、不幸なんかぜったいやってこない」というお気楽な頭になってしまう。周囲を見てごらん。そんなものばかり見て、聞いて、浅薄なお気楽頭のヤンキー青年、おばさん、おじさんがいっぱいだ。
 栄養不良のメディア型媒体ばかりで育てば、想像力も危険を察知する能力も身につかない。おかしな食べ物で尿酸、血糖、コレステロールが高まり、命を危うくするのと同じである。

想像力の低下と生活行動

 今の子どもたちは、幼いころからテレビやDVDなど映像を伴う形で物語に触れる機会が多くある。0歳児にスマホの映像を見せているバカ親もいるが、子どもは「物語」は大好きだ。しかし、このような映像刺激を受動的に受けていると、当然、想像力は低くなり、画面の刺激をおもしろがるだけの人間となる。いやいや、これは3D映画やCG駆使の映画を喜ぶ大人も同じだ。つまり刺激的展開を楽しむだけで、心の安定をもたらす「物語」を受け入れる力はなくなってしまうのである。
 忙しい時代で、親が読み聞かせをしなければ、子どもは親の語る「物語」を体験しないまま成長してしまう。さらにゲームや漫画で刺激だけを受ければ、おかしな行動をするようになるかもしれない。いや、する可能性は高い。

まず初めに物語を

 人間の歴史の初めに「言葉」があったように、子どもの初めにも「言葉」がなければならない。それも、それぞれの年齢に合った「質の良い物語」の読み聞かせが・・・。3歳の子に合う本が6歳の子に合うわけがない。その逆も同じことだ。できれば、親が直接、語り掛け、読み聞かせてもらいたいものである。太古の昔も親はわが子に語り掛けて大きくしてきたのだ。
 図書館で本を借りてきて読んでやるのも否定はしないが、幼い子は存在しないものは「ない」としか思わない。返却すれば物語の内容など「ない」に等しいのである。多くの物語を読み聞かせてすぐ返すよりは、同じ物語を何度も読んでやるのが幼い子の物語感覚を高める。
 絵本は高くない。絵本を高いと思うのは、その人が幼いころから絵本というものに触れてこなかったからである。マックで食べる2回分、ファミレスの食事1回分で一か月分の絵本は子どもの書棚に収まる。食べるものには平気で金を払い、本は高くて買えないという。ま、そうならそれでもいい。結果はそれなりに出てくる。 (11月号ニュース一部閲覧)

子どもには「ダメ!」を伝えないと・・・

 小さいころ「バクチはいけないことだ」と教わった。バクチのなかにはパチンコも競馬も入っていた。当時、私の周辺にはそういうことをする人々を蔑視する雰囲気があった。もちろん、バクチにとどまらず水商売やバクチなどヤクザが介在するようなものを嫌ったり軽蔑する考え方がどの家庭のなかにもあった。射倖心(しゃこうしん/幸運によって他人よりも幸せで恵まれたいと思う気持ち)が人格を崩すというのが、その主な理由である。
「なぜ、やってはいけないか」の具体的な理由を大人たちから聞いたことはなかったが、やっているうちに悪魔的な世界に引きづり込まれていくものはふつうの家庭では「禁止」だった。「必要悪」とも言われていたが、社会的には「日陰の存在」だったのである。つまり一般市民の世界では、雰囲気的に賭博や水商売の世界に対する意識的な一線が引かれていたのである。

闇に光が当たる時代

 ところが、時代が変わるにつれ、これらが日の当たるところに出てきた。ダメなものがどんどん社会的に認められ始めた。家族そろって競馬場に行くという明るいムードのTVコマーシャルも流れたし、パチンコなどは娯楽として認められるようになった。考えてみると、これは戦後日本の「自由」と「権利」を拡張する傾向の中であたりまえの結果だったといえる。また「蔑視」とか「差別」そのものを嫌う風潮のなかで、「ダメなもの」がなくなっていく過程だったような気がする。売春でさえ「援助交際」と名前を変えれば日が当たる。お金が最優先の価値になっている世の中である。儲かれば世の中の治安などどうでもよい人も多い。いずれカジノも公然と行われるだろう。
 以前、歌舞伎町の雑居ビル火災のときにインタビューを受けたキャバクラ嬢が「私たちはこんな劣悪な環境で働いているのに周囲からは白い目で見られている」という本末転倒の言葉を吐いたときにはおどろいたが、「権利」の主張はこのような日陰者ばかりでなく犯罪者にまで広がってきているようである。このキャバクラ嬢の主張について、ある女性の教育関係者に尋ねたら「高度な教育を受けないためにそんな世界に流れ込んでいく女性をなくさなければならないし、原因は風俗営業を必要とする男性側にあるのではないか」という話だった。この意見は、五十年も前の「娘を人買いに売らねばならない貧しい時代」には当てはまるような気がするが、現代でもそういうものなのだろうか。こういう風潮に子どもたちが浸っていくとすると、絵本や物語の効力などほとんどなく、品の無い生活に陥ってしまうだろう。

ダメなものがあるということを

 自由もお金もあふれている時代にあって、何も水商売や売春を選ばなくてもいいと思うが、「ブランド物を身につけたい自由と権利」は「ダメなもの」もどんどんOKにしていくのだと思う。これを抑えていたのは以前は「蔑視」と「差別」だったわけだ。蔑視や差別は、そんな世界に子どもが入り込むことを抑える役目も果たしていたわけである。自由や権利は必要不可欠なものだが、いまや勝手とエゴに変っている。蔑視や差別は不必要なものだが、いまやそれがないと勝手やエゴを抑えられない。皮肉な話である。
 昔は、学校や家庭の雰囲気には「ダメなことはダメ!」があったが、戦後数十年・・・「自由」や「権利」という言葉にはさからえなかった。「蔑視」とか「差別」という言葉そのものにさえ拒否反応を示す人達も増えてきている(ほんとうのところは心の内部でしているのに・・・だからイジメのようなものに置き換えられてしまう)。そして、殺人犯人でさえ、変な権利を主張して、しまいには世の中が混乱するのである。もう、かつてあった穏やかな時代は来ないのだろうか。
 私は、子どもには自由や権利を教える前に、やっては「ダメなもの」「ダメなこと」を教えておく必要があるような気がする。何もかもがOKである状態、「何でもあり」で育てば倫理観も社会性も育たない。そういう状態で育った子どもがいま大人になっているが、その人たちの行動がひどいものであることは皆さんのほうがテレビを見ていてわかっているだろう。「ダメ!」を行えば、不幸になる確率は高い。最近の事件を見ていると、大人(親)が子どもに「ダメを伝えられなかったことが原因である」と強く感じる。(11月号新聞一部閲覧)



(2013年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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