ブッククラブニュース
平成25年9月号新聞一部閲覧 追加分

ゆめやが読み解く昔話F姥捨て山

 むかし、わがままな殿様がいて年寄りが大嫌い。そして「六十を過ぎた年寄りは山に捨てるべし。従わない家はみなごろし。」という立札を立てて民に守るよう命令をした。  年老いた母親を持つ若者はしかたなく母親を山に捨てに行く。母親は息子が無事に家に戻れるように枝を折って道しるべにしたりする。若者は、そんな母を山に置き去りにすることはできない。母親を背負って、夜こっそり家に戻り、家の床下に隠してしまった。  ところが殿様は隣国の殿様からいくつかの難題を出され、弱る羽目に。そして、解ける村人を探し歩く。「@灰の縄を作る方法」「A一本の棒のどちらが根元かわかる方法」「B叩かなくても太鼓が鳴る方法」・・・ところが出された問題を見事に解いていく老いた母親・・・若者は、こ殿様にこう言う。「年寄りは、体は弱くなっても、若い者より物知り。山に捨てるなどできることではありません。」・・・・すると殿様はしばらく考えて言った。「その通りだな。わしが間違っていた。もう年寄りを山に捨てるのはよそう。」殿様は、「若い者は年寄りを大事にするべし」というお触れを国中に出したという話。めでたしめでたし・・・ですが。

読み解く

 この「姥捨て山」という話は異説がたくさんあって、難問もこの3つではなくいろいろある。ガラス玉の中のクネクネ曲がる穴に糸を通す方法なども有名。でも、どんな難問でも老いた母親は、たちどころに解いてしまうのだ。ところが現代は、この答えはネットを引けば出て来る。老人はネットもうまく使えない。さてどうするか。
 「姥捨て山」の話は、食料が不足していた時代のことで、老人は「口減らし」として捨てられることが現実にあったようだ。豊かな現代では、老人が捨てられることはありえない。しかし、ほんとうにありえないかというとそうでもない。厳密に言えば老人施設も老人の生活も世の中から切り離されていれば「姥捨て山」といえるのである。社会が豊かでも「姥捨て」は存在するというわけだ。実際、息子、娘が年に数回も訪れないような施設の老人もいるのである。
 さらに現代にはもっと大きな問題がある。老人は昔のように身につけてきた経験や知識が使えないのである。時代が速く進みすぎて、技術や知識がまったく使えないからだ。もちろん、仕事上では積み重ねの技術知識は役に立つが、スマホひとつ操作できないと置き去りにされる。スマホやネットの情報など単純に手軽な生活をする道具にすぎないから、それ以上の知恵を社会で発揮すれば老人の存在も重要視されるはずだが、それができない。なかなかそんな知恵は発揮できないのが現代の老人の現実である。
 今月16日は敬老の日である。この日はおじいちゃん、おばあちゃんを敬って長寿を祝う日だ。ところが、おじいちゃん、おばあちゃんは年金ぶくれで若者のプレゼントなどに価値を感じない。無謀な生活を戒めたり、節約を教える老人など少なくなってしまって、逆に息子・娘夫婦、孫に食事をおごったりするのがふつうになっている家もあるだろう。それを当てにする若夫婦も多い。
 老人の知恵とは、自分の失敗経験から若者に警告を発信することだと思うが、そんなことを言う人はわずかだ。これでは老人は敬われなくなる。お金があるうちは当てにされるだろうが、なくなれば哀れなことにもなりかねない。
 実際、社会的にも敬老会などというものは廃れて来ていて、ほとんど儀礼的な祝い物、金一封が渡されるだけになってしまった。さあ、この昔話「姥捨て山」問題・・・現代では、問題があるのは老人のほうになっている。
 【教訓】経験と知恵を持つ老人は敬まわねばならないが、ただ年を取っているだけでは敬えない。

夏・・・遊びましたか?

 写真は、ゆめやの九月の店内です。日に焼けた子が次々にやってきます。中には遠い外国からもお客様が来ます。子どもは、大人のように「暑い!暑い!」と言いませんから、子どもの声、笑顔、しぐさを見たり聞いたりしながら、自分の子ども時代を思い返したりする・・・夏の終わりは、そんな楽しい時期です。子どもの動きは、ほんとうに大人を癒してくれるもので元気になります。でも。甲府は暑く、私は寄る年波で夏バテもしてます。
 子どもは放っておけば、どんなことでも関心を持って遊んでいきます。遊び道具がなくても遊ぶ力を持っています。ゲーム機とか用途の決まったおもちゃで遊ぶのが当たり前では、こまったものですが、ニュース本文でも書いたように、ちゃんと遊べない親も増えています。子どもを外部の何かにゆだねて親が手をかけないよりはゲームもしかたがないかとあきらめます。
 でも、子どもは自然な状態で遊ばないと、想像力が出てきません。これは、断言できます。とくに幼少期は自然の中で、さまざまなものを見て触って、聞く・・・ことで、言葉がその感覚を再び感じさせるわけです。美しい夕暮れを見れば、いずれ「夕方」という言葉や「黄昏」という言葉を出会った時に、体験した風景や感覚を想起する・・・これが想像力です。テレビの映像ではそれがハイビジョンであっても無理なことでしょう。
 想像力がないと、人生はひじょうに現実的なことで終始してしまいます。読書は言葉を羅列した本を読むことですが、言葉から何かを想像できなかったら、読むと言うことはじつにつまらないことになります。行政文書や手続き書類などいくら言葉があっても、そこには想像する楽しさがないですよね。やはり想像力で想像することで人は物を楽しめるようにできているのです。

子どもがいれば未来を心配する

 私は「政治家や企業家たちが子どもにもっと関わっていたら、あるいは、その未来を考えていたら、現在やっているようなことは、とてもできないはず」と思っています。子どものいない人が子どもの未来について考えることは少ないですし、心配する度合いも低いでしょう。決して子どもがいない親を責めているのではなく、とかく子どものいない人は自分の考えだけで判断するので、「未来の安全より、今がよければいい」と考えがちだということです。
 それはそうでしょう。子どもを育てているといろいろな心配をします。健康のこと、将来のこと・・・心配の種は尽きません。でも独身のとき、そんな心配をしたでしょうか。まず、よほど用心深い人でないとしませんよね。およそ何も心配せずにイケイケドンドンが多いのです。しかし、子どもができて未来のことを考え始めると、「これではいけない!」と思い始めます。「貯金もせねば!」「家庭もきちんとせねば!」と思います。借金があるのに家の建て増しや次々と車の買い替えなどできません。450万円の収入しかないのに980万円も支出するなんてことは考えもしません。排水溝が壊れて汚水が垂れ流しになり、その修理にかなりのお金がかかりそうなのに、7年後に自宅でお金のかかる宴会を開催して、汚水が流れている近くに客間を増築するなんてできません。まあ、子どもがいない人は、平気で、そういうバブリーなことを考えますが、やはり結婚して子どもができると、無鉄砲な生活を改める人は多いのです。子どものことを優先して考えるからです。ふつう自分の子の世代のことを考えればむやみに借金はできませんし、目先の経済だけを追う欲の深さ、考えのなさは出てきません。想像力を働かせれば、自分の子どもを兵隊になどできませんし、まして核兵器や放射能の犠牲にすることなどとても考えられません。でも、子どもを持たない人は、後のことなどお構いなしにその時が良ければ何でもする可能性があります。

世の中のお勉強を!

 なぜ、先の考えられない人ができてしまうのでしょうか。おそらくは、お金に何不自由なく育てば、気配りも先のことを考える力もなくなってしまうのでしょうね。「お坊ちゃま、お坊ちゃま」で育てば、周囲は言うことを聞くものだと思います。豊かさの中だけで育ってきて、月・一千万円のおこづかいをもらえば考えることだっておかしくなりますよねぇ、生活だけではなくて心の方も・・・ね。こんな人が人の上に立ったら大変です。遊ぶことも世間を知ることも成長にはとても大切なことなのですが・・・これをちゃんとしていなくて、ちやほやされて育った人は、人の痛みも感じなければ思いをかけることもありません。
 お金がありすぎるがゆえに相手のことを考えられなくなる哀しさです。
 ゆめやには小学生になると配本を一人で受け取りに来る子もいます。親がお金の大切さを教えているのだと思います。ささいなことですが、最近の親はなかなかさせません。やはり。しつけというか生活の基本になることは小さいうちから順に教えていかなければなりませんよね。これは学校のお勉強では教えてもらえないことです。
 日本の偉い人(?)は、お勉強、お勉強ばかりできっと楽しくなかったと思いますね。ちゃんと遊んでこなかった人たちがするデタラメで無責任・・・なんだか最近の大人も壊れてきているように思うのは私だけでしょうか。子どものころの体験は重要とつくづく思います。

低学年の読書@

 小学校1〜2年の読書は、ひじょうに大切だと思う。読み聞かせから一人読みへの重要なステップであり、この時期に一人読みへの準備ができないと中・高学年の読書がおぼつかなくなる。低学年は読み聞かせから一人読みへの時期。その意味では、いちばん重要な時期でもある。
 毎年、そのテクニックを書くのだが、なかには一人読み読書への移行がスムーズに行かないケースも出てきて相談も多くなる。相談くらいならいつでもOKだが、3・4年生で、しっかりした本が読めなくなって、けっきょく読書放棄になる例もあり、「せっかく、ここまで来たのに‥‥残念だなあ!」という結果にもなる。
 そこで、これから、その辺のところを3回に分けて述べてみたい。
 1年生の配本を見てもらえればわかるが、文章量も少なく、6才のときの配本にくらべて内容的にもかんたんになっていることに気がつくと思う。この理由は、なるべく自分で読んでもらいたいからだ。もちろん、1年生になったからといって、すぐに読めるものではない。初めの何回かは読み聞かせだろう。何回か読み聞かせればこの年齢では内容が頭に入る。そうしたら、自分で読むことが、なんとかできるはずだ。しかし、なかには字を読むことが苦痛な子もいる。まして、文が長くなると大変である。そういう場合は・・・・
 Point1初め何回か読みきかせた後、逆に子どもが親に読み間かせるということを試みる。
 うまく読めたら、ほめてあげよう。うまく読めなかったら練習させてみよう。弟妹がいるばあいは、弟妹に読み聞かせる練習もさせよう。次に、子どもが自分で読める本は、実は「この時期の本ではなく4才代〜のものである」ことを親は知らねばならない。教科書を見よ!『おおきなかぶ』や『かさじぞう』などが載っている。一般水準はそんなものなのである。だから‥‥
 Point1自分で読む本の多くは3〜5才のときに配本された本でいい。これで一人読みを練習させよう。
 さらに、テクニックのひとつとして「暗誦」がある。最近の国語授業では失われてしまったテクニックだが、暗誦や素読の効果は大いにある。好きな本のあるページのある部分を限定して暗誦させる。親も一緒だとなおいい。暗誦した後、本を見ながらもう一度。これでうまく読めないはずがない。(つづく)

紙面楚歌

 「四面楚歌」の入力ミスではない。先日、五年くらい前の新聞の切り抜きを読んでいると小学校の英語教育の開始とともに「英単語や発音が効率的かつ正確に学習できる」としてニンテンドーDSを導入しようという動きが出てきたとあった。小学校の先生の賛成意見も載っていた。アニメ立国の日本は、教科書までアニメを登場させ、どんな残酷なTVゲームも野放し、「キャラクター文化のどこが悪い」と開き直った感じで、すべてが認められ始めた。そして、そんな幼稚な内容のものが大手を振って世の中に蔓延している。メディアの論調もサブカルチャーの危ないところに目をつぶり、問題視を避けている。新聞紙面でもほとんど、この重要な現象の危険性が取り上げられず、サブカルチャーを批判する私としては、まさに紙面楚歌なのである。「サブカルチャーは危ない!」という私の言葉は、ついには一人で異様な言葉を叫んでいる変り者になりつつあるようだ。なんだか垓下(がいか)で戦う史記の項羽のような気持ちである。味方はいなくて、見渡せば花も紅葉もなかりけり、周囲はすべて敵ばかり。

苦肉の計

 じつは、ゆめやのブッククラブは最初からサブカルとの戦いを旗印に掲げていた。1980年は開店の年だが、それは初めてファミコンが登場した年でもある。急速にビデオや電子ゲームでサブカルチャーが進化し、広がり始めた時期だ。「この影響は大きい」と思った私は、最初のニュース、新聞から「サブカルの害」について述べていった。そして、苦肉の策として幼児期からの読書をサブカルの防壁にするブッククラブを始めたわけである。当時の会員になんとか認められ、90年代は乗り切れた。2000年前後に少年の異常な事件が頻発して、その原因がサブカルにあることを多くの会員は知ったが、当然、世の中の多くは、ただの異常少年の犯罪が起こったとしか見ていない。それからまた十年、親も幼児期からキティちゃんグッズに囲まれ、アニメ映画や電子ゲームが主流の少年時代を経たアラフォー、アラサーの世代が前面に出てきている。アラフィフのバブルの後遺症も残る異常価値観の世代だ。ブランドものが最高価値の人々だ。頭では分かっても体がまともなものに反応しない。「誰が何と言おうとディズニーランド大好き!」と開き直る人もいる。
 サブカルチャーの最大の弊害は「頭のオタク化」「頭を大人にしない」ことである。これは何度も言い続けるよ。いまや、日本は子どもっぽい行動、脈絡のない言葉で満ち溢れているからだ。政治の世界から芸能、スポーツの世界まで。そして、一般の人たちもサブカルに汚染されて育ってしまったのだ。人間は「刷り込まれたものは良いもの」として認識する。鳥が生まれたときに最初に見たものが親だと認識するように・・・・。
 これとどう戦うか。赤壁(レッドクリフの赤壁)の周瑜のように偽計でも考え付かなければ、サブカル汚染された親子の大軍と戦うことはできない。困った!!!

隗より始めよ

 困ったら「手近なところから始めろ!」という言葉がある。二千五百年も前の中国の言葉だが、手近なところから始めろと言われてもどうしたらいいのだろう。何とかサブカルから逃れて成長した子どもたちも大人になってしまって身近にいない。「ケータイなんて百害あって一利もないですね。」と言っていた人も、着信音が鳴れば、その場で話し始める。信用できない! 同じことは「子どもにケータイは持たせないほうがいいですよね。」と言っている親が一年後には就学前の幼児に持たせる可能性も否定できない。(そんなこと言って大丈夫なの?・・・心配ない、心配ない、そういう人は、こんな字数の多いニュ−スなんか誰も細かく読みませんから・・・みんな、飛ばし読み、斜め読み) さて、そんなことより「手近から始める」と言っても、どこから、誰から始めればいいのだろう。とりあえず「隗より始めよ」のようにかつての優れた会員に手厚く連絡を取れば(「戦国策」では死んだ馬に大金を払う)、いずれ、すぐれた助っ人が三人(千里を翔る馬三匹)現れるのだろうか。

背水の陣

 今年三十三年目に入ったゆめやだが、こんな時代状況では四十周年はないことは確実だ。と、なれば、背水の陣で臨むのが一番。退いたらおしまい。何から始めるかなのだが、やはり「もう一度サブカルチャーについて真剣に書く」よりない。それしかない。幾人かの子どもは救えるかもしれないし、何人かの親に理解してもらえるかもしれない。訳知り顔のおばさんや危機に鈍感なお母さんを尻目に最後の戦いを仕掛けなければ、ここまでやってきたゆめやとしては「腰砕けになった」と見られてしまう。そこで、サブカルとどう向きあうか(どう戦うか)についていずれシリーズで書きます。難しい内容になるかも・・・。ご支援、ご協力のほどお願い申し上げます。背水の陣を敷いても漢の韓信の目論見通りに、ゆめやが勝つということはまずないだろうが、戦わずして滅びるのもシャクなので、「敵が百万人でもさあ戦うぞ!」という気概でサブカルを再攻撃してみようと思います。
 そうすれば、やがて、「あの精神病的な事件の原因はサブカルチャーだったのだ」ということや「社会の異常の原因もそうだったのか」ということがわかってくる。(九月号増ページ・一部閲覧)



(2013年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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