ブッククラブニュース
平成25年6月号(発達年齢ブッククラブ)

ヤンキー化

 ジャップは日本人の蔑称だが、「ヤンキー」はアメリカ人の蔑称ではない。「NYヤンキース」という野球チームがあるくらいだ。蔑称であるわけがない。しかし、昔の日本語では髪型やファッションなどアメリカの風俗をまねた若者を「ヤンキー」と呼んだ。私くらいの年代の人間にとっては「素行が悪い若者のこと」だった。
 しかし、現代用語の「ヤンキー」は、意味が違うらしい。
 この間、知り合いの学校図書館司書が貸してくれた精神科医・斎藤環さんの『世界が土曜の夜の夢なら--ヤンキーと精神分析』を読んで、はっきりとヤンキーの意味がわかった。感覚的に「こんな連中を指す言葉かな。」という感じでいたが、きちんと解説されるとなるほどと思う。
 斎藤先生によれば「暴走族あるいはレデイースのノリで、何事も気合を入れてやればなんとかなる」と思っている人種を指す言葉だと言う。暴走族、レディースは現代の風俗だが、これは以前ではチンピラ、不良少女であり、その昔から考えればかなり歴史がある集団でもある。大昔は任侠の人々だったのではないかとも思わせるところもあるからだ。
 彼らは、仲間を大切にする、ボランティアに熱い、気に食わないと体罰を食らわせる、反省するときは丸坊主になったり、土下座をする。鳥肌が立つようなことが好き、ノリの悪い奴をイジめたり、村八分にする・・・イメージ的には、ヨサコイソーランやかつての派手な身なりの暴走族あるいは竹の子族のような感じ、お祭りや催し物に行く浴衣を来たギャル集団やサッカーのサポーターが騒いでいる状態を想像すればいいらしい。とにかく、気合いで生きているということは、「粋(いき)」や「気風(きっぷ)」につながるものがあるのかもしれない。

一億総ヤンキー化

 しかし、斉藤環先生は「一般の人たちにも、このヤンキー化が進んでいる」という。震災復興に走ったスポーツ選手たちの言動や行動も、またAKB現象もヤンキー化であって、「ノリノリ、アゲアゲ」、「気合を入れればなんとかなる」、「盛り上げることが先決」、一瞬でもメディアに取り上げてもらおう」、「それが生きがい!」・・・なんて動きである。つまり「目立てば何でもいい!」というわけだ。
 「ギャル文化もお笑い芸人文化も軽いノリから表面的なマジの主張まで、みんな『ヤンキー』なのだ」と言う。ここでは、言ったこと、やったことに対する責任感はなく、ひたすら「気合が入っていればよい!」「一歩踏み出すことが大切だ!」という表面的な主張だ。つまり「芸能界的なウケ、スポーツ界的な精神主義が、この国を覆い始めた」ということらしい。こういうことは、すでに80年代から教育界でも始まっていて、とにかく「感動させる、みんなでやる」という雰囲気が強くなっていたと言う。

教育のヤンキー化

 私は個人的には「アブネェなあ!」と感じるが、金八先生以来、ある特定の日本的なムードを出して、それ以外を「気合が入っていない!」「感動が足りない!」と判定する環境がどんどん出来上がっている。教育者側は、子どもたちに感動を与える教育を施すのに積極的で、学級王国をある一つのまとまりや目標で一致団結させ、一糸乱れぬ運営でやっていくのがベストという思いである。こういうことから考えると、子どものうちからヤンキー化する土壌はできあがっているのだと思わざるをえない。なるほど幼稚園や保育園での企画イベントを見ていると、誰もが一丸となって物事に当たり、良い汗をかき、充実した結果を得る、というのが主流である。お遊戯でそれはよくあらわれるが、体育関係の科目や芸術関係(文化祭など)では、そういう「まとまり」を重視する傾向が強くなっている。教科にダンスが入り、ヒップホップなどが定着すれば、ますます子どもたちの中でヤンキー化は進むだろう。ノリの悪い者は排除・・・静かに考えるより、あるいは批判的に考えるより、ブームにどう乗るか、どう気合いを入れるか、テンションをどうアゲるか、それが煽り立てられる。困ったものである。

ヤンキー政権

 さらに、斎藤先生は「国までそうなっている!」と指摘する。安倍政権は「ヤンキー的だ!」というのだ。協調性を要求したり、村制度的な子育て観、家族観で「美しい国」をつくろうとするノリノリ、アゲアゲ。なるほど、言われて見れば、たしかにアベノミクスはヤンキー的である。目立てばよい。気合いで経済成長。何だかんだ言っても景気がよくなれば国民の気分はよくなる。よくなれば弱者の存在は目に入らなくなる。お祭り気分で、見たくないものは見ないでいこう!というものである。
 斎藤先生は、「安倍内閣が景気最優先を掲げたのは、目くらましとしては最高でしょう。」と分析する。なるほど、首相自らコンサートで歌を歌ったり、無意味にいろいろなところに出張るのはまさに芸能界的なノリ。体育会的な脳天気。これは、パフォーマンスであり、まさに低俗なテレビメディアと同質の動きである。
 たとえば、宇宙誕生の謎に迫る超大型加速器「国際リニアコライダー」を日本に誘致しようという動きがある。こういう動きは世界遺産誘致など山ほどあるが、そんな金のかかるものを持ってきて、宇宙誕生の謎が解明されたところで政権が言う「国益」になどはつながらない。それでも話が出るのは、ヤンキー性で誘致するからである。失敗したって誰も責任なんか取らない。こういうバカな精神主義、経済至上主義は必ず破綻するが、国民のヤンキー化もスゴいからあまり批判も出ない。政府もヤンキー、国民もヤンキーでは本家本元のアメリカも真っ青だ。このまま憲法改正、所得世界一を目指す? AKBの総選挙並みにノリノリ、アゲアゲで破綻まで行っちゃうかも。
 三十歳になっても四十歳になっても学芸会のような小娘数十人のコンサートに応援のランプを振っているオタクじみたファン。同じようなことが選挙でも五十歳、六十歳の中高年で行われる。知性も教養もへったくれもなく、何も考えない、何も反省しない。戦後七十年で何もかも忘れた結果、老いにも若きにもこういうヤンキーが出現してきてしまったわけだ。
 でも、自分の子だけは脳天気なヤンキーにはしたくないですよね。(6月号ニュース一部閲覧)

憲法

 2007年の高学年の配本から井上ひさしの「子どもにつたえる日本国憲法」を入れた。もちろん、子どもの本なので、条文の解説などといった複雑極まる表現はない。憲法の心をわかりやすく描いたものだ。前の半分は詩のような表現だが、後半はしっかりと憲法についての井上さんの見解が書かれている。大人でも「なるほど!」と思える良い本だ。
 なぜ2007年から、この本を入れ始めたか。それは、その年の5月に国民投票法が成立することがわかっていたからである。国民投票法は改憲のための法律だ。かんたんに言えば戦争ができない国から戦争ができる国にするために国民投票法を成立させたのである。
 そのまえには、ガイドライン三法という有事法制ができあがっている。小渕政権のときだ。そして、じょじょに憲法の骨抜き解釈が進められ、自衛隊が海外派遣されても法的には何ら問題がないところまで来ている。海外派遣はやがて「海外派兵」になるだろう。
 もちろん国民の多くは憲法をよく知らない。子どもはなおさらだ。憲法が、政府や政権の暴走を抑える法律だってこともほとんどの人は知らない。それが、簡単な発議で改憲できれば、政権はどんどん自分にとって都合のよいことをするだろう。危ない!

日本人はルールを守る国民だったが

 昔の日本人は、よくルールを守る国民だった。だから憲法を変えることはしなかった。憲法を変えない歴史はほんとうに古く、じつは大宝律令(701年)までさかのぼる。この律令は平安時代でも変えられることがなく、犯罪の広域化や荘園の問題で律令が対応できなくなると別の行政組織を作って、それで対処しようとしていた。元の法律をいじらないのである。たとえば律令が裁けなくなったものを検非違使という官位を作って対応させる。犯罪の広域化は追捕使という官が対処する。これらの官は「令外官」と呼ばれて、なんと律令以外の官なのだ。そういうことが許される基礎には、元の法律を改正しないという民族性が色濃く滲んでいる。実際、関東御成敗式目も武家諸法度も改変された経緯がない。明治の大日本帝国憲法など「不磨の大典」と呼ばれるくらい、一行も改変されなかった。それは、日本人が基本的にはルールを守る国民だったからかもしれない。
 しかし、最近は自分の都合や欲でルールを変えていく傾向が出ている。リーグ優勝したもの同士がペナントレースで決戦するのが日本の野球だったが、最近はクライマックスゲームなんてことをやってリーグ優勝したのにペナントレースに出られない不思議も起こっている。これも試合数を増やして観客動員。儲けたいゆえにルールを変えたわけだ。市場原理主義が欲のためにルールを変えてしまうことがいたるところで起こり始めているというわけだ。

戦争できる国は武器で儲かる

 こういう視点から見れば、戦争ができる国にしたいのは「周囲の国々が危険だから」という理由だけではない。戦争できる国になれば武器が製造できるし、それを売って儲けることもできるわけで、実際、武器輸出三原則など骨抜きになっている実態もある。実際、昔ならともかく、これだけグローバル化するとさまざまな絡みがあって、そうたやすく戦争ができるわけもない。北朝鮮の脅威をNHKまで中心となって騒ぐが、ミサイルなど打ちこんで来たら北朝鮮自体が滅ぶことになるのを一番わかっているのは北朝鮮自身だ。中国だって、尖閣諸島の領土問題で戦争などはしたくない。経済の絡みがそれをさせないのである。しかし、原発事故の情報と同じようにほんとうのことは報道されないから、国民にはよくわからないことが多い。これはメディアに大きな責任がある。
 そして、国民の常識の中には、「自衛隊はシビリアンコントロール(文民統制)されているから、自衛隊の暴走は文民が止められる」、と多くの人は思っているものがある。しかし、武官より文官が戦争好きということだってあるだろう。そういう危険な暴走を抑えるのが憲法である。「アメリカから押し付けられた憲法だから自主憲法をつくる」という言い分もあるが、アメリカに追随している政権が言うのもおかしな話だ。それは表向きの話で、裏では戦争ができる国を目指すわけである。
 とにかく、武器を生産して売るというのはひじょうに儲かる話である。武器は大量消費されるからだ。自国が戦争でで使うばあいは負けたときに困るが、他国同士が戦っているところに売ることができれば、これほどおいしいことはない。日本製の武器は優秀かもしれないし・・・・売れる可能性も高いから・・・・。

歯止めがなくなると・・・

 しかし、9条があることで、日本はかろうじて信頼されているところがある。ミャンマーやカンボジアに埋められている地雷に日本製がひとつもないことは誇ってもいいことで、これも憲法が軍産共同体を抑えているからである。アメリカのように軍産共同体が国のゆくえに影響を与えれば、戦争をしつづけなければならなくなる。と、いうよりは、戦争のないことは儲けられないことなので、戦争を作っていくことになる。
 イラク戦争などがいい例で、軍産共同体のトップにいた大領領が「イラクは原子爆弾を持っている」と主張して戦争を始めた話は有名だ。つまり、そういうことで、次々と戦争を起こしていくのである。そうすれば戦死者が山のように出続ける。軍産共同体は儲かる。
 しかし、日本では9条があるかぎり徴兵制がないので、若者が戦死しないですむ。武器で儲からないが、子どもが戦争に行かなくてもすむのだ。このことを女性は、あるいは母親はもっと知るべきだと思う。「どんな腐った平和であっても戦争よりははるかにいい」と言うことだ。「身を捨てるほどの祖国はない」・・・それが、戦後70年くらいで忘れられてしまったのである。
 第二次世界大戦が終わったとき、みんな「戦争は悲惨で残酷だからなんとか平和をつくろう!」と思って作った憲法が、いま一儲けしたい一部の宣伝でゴマかされ始めている。ある特定の個人の趣味や欲で「国のかたち」を変えられたら、たまったものではないのだが・・・。
 井上ひさしさんは、「子どもにつたえる日本国憲法」のあとがきで、こう書いている。「憲法が古いと言って改憲しようとする人たちがいるが、そういう人たちが教育勅語はすばらしいなどと言う。教育勅語の方がずっと古いではないか。憲法はアメリカに押し付けられたのではなく、そのころの人たちの希望をすべて集めたものだ。この日本では捨ててよいものもあれば捨ててはならないものもある」・・・なるほど、まったく同感である。(6月号新聞一部閲覧)



(2013年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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