ブッククラブニュース
平成24年10月号(発達年齢ブッククラブ)

選書はむずかしいか

 児童書の出版点数は年間5000点くらいだ。これに全部目を通して分析するのはとうていできない話である。そこで経験と勘を働かせて大まかに上位百点くらいを選ぶ。どのように選ぶかというと、まずは作家・出版社を見て区分する。これは長年の勘。当然、出来不出来もあり、出版社がいいからと言っても時には駄作も出て来ることがあるから、まずここでフルイにかける。問題は、新人の作品である。これは名前からはわからない。そこで、本の表紙を見る。その装丁の良し悪しで残す、残さないを決める。荒っぽいやり方だが、出版点数が点数なのでやむをえない。
 ネットの評価は最初から信用しない。ネットには必ずショッピングに誘うための靄がかかっていて、批判的に書いてあるものはほとんどない。しようもないアニメ絵本ですら、美しい肯定的評価で飾られているからとても信用はできないわけだ。さらにネットでは書評がほとんどない。読んでその感想や評価を書きこむ人がまずいないのである。まったく参考にならない。
 で、まず選んだ百点くらいの本を瞬発力で読む。そうすると文章や絵まで含めてすぐれたものか、しようもないものかがわかる。これで30点くらいに絞れる。あとは、良く読んでいる人から聞く評価の情報である。これで数点が上乗せできる。よく読んでいる人の評価は信用できるものが多いので傾聴する。そして最後に30数点の中から「これは・・!」と思うものをできる限り多く選定するというわけだ。
 もちろん、質が高く、優れた出来の作品でも洩れてしまうものはあるだろう。それを全部拾うことは不可能だが、これはしかたがないということであきらめることにする。ほんとうに優れたものは来年、再来年でも光を放ってくるだろうから・・・・そこまで出会いを待つよりない。
 まあ、子どもの本の選書は、「良い本」という視点からではなく、「どのくらいの月齢、年齢に対応しているか」というのが選ぶポイントである。いくら大人に定評がある1960年代の名作でも古びてしまっている本を採用するわけにはいかない。子どもに媚びてつくられたものも対象外、さらに芸術的にいくらすぐれていても子どもが反応しないようなものはダメで、ある意味では関連情報はたくさん必要はないのである。

情報は少ないほどいい

 これは、まったく同じことが食べ物でも言える。先日、昼食を中央商店街の中のウナギ屋で食べた。ネットの食べログで調べて、ポイント3.09・・メニューまで書いてないので行かなければわからなかったが、御勘定をするとウナ重が何と三千円・・・値上がりもいいところだ。稚魚が少なくて需給がひっ迫しているのはわかるが、売値に転嫁していいのかどうか。以前よりサービスがよくなったわけでもないし、店は汚い、満足度がまったくないの三拍子なのに値段だけはつり上がっている。これでは客足は落ちることだろう。多くの中小企業や零細がコストの上昇を抑えてシノギを削っているのに、こうした飲食店では平然と値上げ。食い物商売はつぶれないという神話はかつてのことなのだが・・・。現実には、ワンコイン・ランチでの競争が激化しているのに中央商店街の老舗は平気で値段を上げる。当然、次回また行こうという気はなくなる。
 数日後、友人が「それなら隣市の○○○へ行ったらどうだ。」というので行ってみると、ウナ重1800円・・・満足の味と大きさ。ドカンと大盛りの漬物の皿がつき、さらに横を見ると女性たちはウナギの定食のようないろいろな料理とのセットものを食べていた。従業員はアルバイトもいるのだろうけれど数人はいて、調理も数人でやっている、店内は活気があった。企業努力が感じられた。
 ウナギ料理の原価は定価の4分の一以下だというから、前者の(老舗)従業員二人の店なら2000円以上が儲けである。ボロ儲けだが、これから仕事になるのかどうか。
 こうして見ていると、やはりネットは現実を語れない。友人のクチコミのほうが正しかったのだと思う。たとえネット情報が正しくても、こちらには大量の情報量をさばく暇も判断力もないのである。目的のもの(この場合は店)遠くに行けば情報はさらに多くなり、自分で決めるのは難しい数になる。すべてベストでヒットさせるなど無理と言うものだ。宣伝の強い者は目につきやすいが、宣伝に騙されることも多いので、ここは自分の感覚を信じて選んでいく方がいいと思う。人生は短い。そうそうベストなものに当たることもない。大きく宣伝して知らしめる企業もあるのだろうけれど、それは逆に原価がベラボウに低いボロ儲けなのだ。だから品質は信用できないものが多いのだろう。

宣伝にだまされているかも

 大宣伝をするものは、商品の製作(生産)コストがものすごく低いからだと言われている。たとえば、東電は2010年度に広告宣伝費が116億円だが、これはTVCMやメディア関係のものだけで、実際に電力館などPR用施設の運営費(普及開発関係費)を入れると、この数倍が広告宣伝費となっている。最近では、事故が起きたり新規の原発建設が行われたりするたびに、その宣伝費が増加していたことがわかった。いわゆる安全神話の維持のためである。
 電力自体はものすごく安くつくられていて、それだけ利益が大きいわけだ。おそらく、我々が支払っている電気料の何百分の一かが電力の生産価格(原価)なのだろう。それに膨大な金額を上乗せして、社員に高額な給料を支払い、資産を固め、信じられないほどの俸給を幹部はもらっている。3・11以降、神話が崩壊して実態が見えてきたが、それまでは宣伝に騙されていたのだ。こういうことは、本の世界でもよくあることだ。「一週間で百万部売れた!」という宣伝文句が躍ることがよくあるが、これは事実上不可能な売りである。それを平気で宣伝として流すと、「みんなが買っている、私も買わねば!」という意識が出て来る。以前にも書いたが、もう噂にもならない村上春樹の「1Q84」・・・ものすごい宣伝だったが、私の周辺で買って読んだ人はたった一人である。宣伝の大きさの割に実数が出ているのかどうか疑問だ。
 もちろん、上記のウナギ屋のような例、つまり食べ物も同じで、TVCMの大きいもの、広告が年中行われているものは、人が集中していくようになっている。原価はおどろくほど安いにもかかわらず、人は宣伝に踊らされる。自分の頭で考えたり、自分の目で選ぶなどということはしない。

通信機器も宣伝の産物

 近年、この宣伝を山ほどして売る商品にサプリメントやダイエット商品ばかりでなくケータイのような通信機器がある。これもおそらく原価はタダに近いものなのだろう。だから、彼らは使用料で稼ぐわけである。ふつうのケータイよりスマホのほうが通話料+ネットアクセス料などを上乗せできるので各社競ってスマホへの移行を進めている。
 先日私のところにも「スマホに替えろ!」という電話がかかってきた。「その替えるべきケータイをそもそも持っていないのだ!」というと「嘘でしょ!信じられません。」という。1998年に「ケータイなどというものは便利のようで不便で、なければないで何とかなる。私は持ちません!」というようなことを、このニュースに書いた。書いたことを守らないのは不信を招くので、以後、持っていない。「コギャルがするケータイなるものを我もしてみんとてするなり」というほど落ちぶれた精神は持っていないので持たないできた。別に困ることもないで十数年来ている。その十数年・・・見ていると便利さより不都合さの方が多くなっていると思えるのだが、自動車と同じで一度使うとなかなか手放せなくなるのもこういうものの特徴だ。それは前述の電気も同じである。便利さと危険さが同居する両刃の剣で、その害は意識しない間に忍び寄ってくる。

スマホで子育て・子どものスマホ化

 この数年の通信機器や市場調査会社の調査によると、乳幼児を持つ母親の4割以上が子どもにスマホをいじらせたり、タブレット端末を使わせたりしているらしい。親が育児に関する情報を得たり、ショッピングに使うのは数年前からだが、スマホが定着したのは、ここ一年。機械の進歩が速いだけでなく、その機能に対応する親たちの変化も早くなった。
 その調査で驚いたことは「スマホを最初にいじる年齢が一歳前で45%」ということ。与える動機としては「動画を見せる」がトップで71%、乳児以外では「アプリを使わせる」が57%もある。「写真を見せる」は51%で予想外の低さだった。つまり動くものであやし、遊ばせているわけだ。
 誰も注意してくれない社会
 規制もなく、警告もない社会では、親が子どもの世界に通信機器を侵入させていくというわけだ。これは子どもの将来を考えない無頓着なバカ親から始まるのだが、誰も注意はしない。通信会社売れればいいわけだから害など一切知らせない。
 「依存になりますよ」などというのは特定の心理医学者、精神病学者、教育関係者で、多くの業者、あるいは教育関係者だって「これだけ世間に出回っているのだから悪いものであるわけがない」と容認している。そして、当然、子どもにもケータイは浸透していくことになったわけである。いずれにしても親の自己責任、与えられた子どもたちがどのような大人になろうと私どもの知ったことではない

それはギャルママから始まった?

 思い起こしてみれば、その最初はギャルママのケータイ使用だった。「ケータイで絵本のアプリを!」という要求をしていたのは、つい数年前のギャルママたちである。この連中が、電磁波の問題を始めとして、マナーの問題、スマホの背後にある闇の問題などを考えるわけがないから、ほとんど通信会社のいいなり。次には下層階級の親が導入し、やがては普通の親たちも無制限に使い始めることになる。誰も止められない。
 保育園や学校でさえ黙認と言うより、害を唱えることはできないのだから、これはもう行き着くところまでいく。この害は大きいのだが、ほとんど誰も何も言わない。
 「小さいうちから慣れておけばスマホがうまく使える」という大義名分はあるのだろうが、十数年後に現在と全く違う親子関係や精神病的な事件が頻発することを想像することはむずかしくない。子どもが、親の言葉よりスマホの中の情報を信用することも多くなるだろう。テレビが親の存在を希薄にしたのと同じである。スマホは「賢い電話機」の略だが、情報そのものは賢いとか賢くないとかいうものではなく、ただの情報。役に立てるか立てないかの判断は「賢い」人間の頭の判断だ。
 今年、四月の調査では、中高生の何と93.3%がケータイからスマホに替えたという。スマホはあらゆるネットに接続できるパソコンである。もはや電話機ではなくコンピュータだ。フィルタリングのあるキッズケータイやふつうのケータイとは違って、サイトに入るためにはフィルタリングを外さねばならない。フィルタリング機能を外さないとアクセスできない多様なポータルサイトがあって、中高校生を相手にするサイトは、この機能を外さなければならないものがほとんどである。ケータイではできないが、スマホならできるから、みんな替える。
 ポータルサイトの情報は、無料に見えて、どこかで必ず無意味な「消費」につながっている。インターネットでも必ず「物を売るサイト」にブチ当たるのだから、さらに行けば表現をはばかられるような危ない暗闇に入っていくこともありえるから怖い。自己責任といえば自己責任だが、そういう家庭環境や学校教育がなくて自己責任というのはどういうものだろうか。被害にあってからでは遅いが、それもしかたのないことなのだろうか。
 さらに電話機のスマホ化は大きな人格上の問題もはらんでいる。つまり、スマホ内部の情報を鵜呑みにしたり、さらには信仰にまで至ってしまう現象だ。

神となるマザーコンピュータ

 スマホで子育て情報を得ても、無料に見えても必ず消費に結びつき、けっきょくそれを利用することになる。必要、不必要の判断を自分の頭でする前に、親は消費欲を刺激されてしまうわけである。ネットというのは、無料で情報を得られるような錯覚を抱くが、じつはしっかりと何かを売るために作られている。知らぬうちに消費欲を刺激されて買ってしまうことにもなる。そして、それは依存をも引き起こす。
 子育ては親が自分の頭で考え、試行錯誤し、ときには失敗もして乗り切るものだが、学校で失敗は悪として育ったた人には、「情報を信じることが大切」という信仰が身についていて、スマホ情報も「マザーコンピュータの御言葉」として信じてしまう。怖いことだが、そんな親に育てられた子は、乳児のときから、その「マザーマシン」を操り、やがて、それ以外を信じなくなる人間にならないだろうか。これも大きな依存だ。親よりも強くマザーコンピュータの情報を信じる子どもが出てこないとは限らない。いや、じつは、そういう人間がすでに出ているのではないだろうか。
 しようもない情報は山ほど知っているが、自分の頭では何も考えられない「子どものスマホ化」が起こるのは時間の問題なのではないか。ここでもまた親の子育て上の自己責任が問われることになるが、やはり、多くの人が流行には弱いので、これまた。この傾向を止めることはむずかしいだろう。(ニュース十月号一部閲覧)

消える書店

 昨年、一年間で約350軒の書店が日本から消えたという。一日一軒のペースで本屋が廃業しているわけだ。甲府市内、近郊でもこの傾向は顕著で、中央商店街地域の書店は閑古鳥が鳴いている。もちろん店じまいをした店も多い。これまで地域の「本」を支えてきた書店は、店売りもだが、多くは客の注文書籍に応えていた。書店用語では「客注」というシステム。つまり、お客さんが書店の書棚にない本を注文し、それを取次店から取り寄せて渡す。この販売が書店では重要だったのだけれど、インターネットによる配送が増えてきたため、書店は大幅に「客注」を減らした。ほとんどのお客は、注文して十日も二週間もかかる「客注」を利用しなくなったのである。Amazonから取り寄せれば翌日、あるいは翌々日にはもう届くからだ。これではとても書店はかなわない。在庫を持って売り場面積で勝負してもとても勝ち目がない。だいたいにおいて出版社自体がネットで直販を始めているのだから書店など風の前の塵にオンじゃ位である。なんで、こんなふうになったのか・・・・。またそういう傾向はどういう意味を持つのか? あるいは、何が起こるのか?

目指すは日本一

 今、日本では多くの企業が収益で業界一番になることを目指す動きが加速している。儲かれば何でもいいわけだから、何にでも手を出して売上日本一を目指している。このために地方の経済がどんどん落ち込んでいるのだけれども、都会一極集中は止まらない。たとえば、Amazonにとっては本であろうがオムツであろうが、どら焼きであろうがDVDであろうが売れればなんでもいい。もちろん、客にとっても手軽で便利に買えればいいわけで、ますます巨大企業の一人勝ちが進むことだろう。商品に思い入れなどして売っているのは間違いの時代で、お客はそんなものは要求をしていないのだから・・・Amazon型営業は行き着くところまで行く。
 書店の衰退、客にとって不要のものだから、消えていくのである。書店を支えようとする客も地域も今はない。ゆめやも書店だから何の本でも売れるのだが、子どもの本しか売らないと思われているから客注は少ない。客注の固定客は数人。こういうお客はとてもありがたいが、ブッククラブをやっていなければ、とうの昔に350店舗のひとつとなり、店じまいしているはずである。どの営業もそうだと思うが、その地域に助けられて営業ができているところのほうが少ないように思える。指定業者にでもなって地域の学校や図書館にでも納入すれば別だが、近隣の人が、その店の支えになっていることなどほとんどないのである。コンビニが日本一を目指せば、周辺の商店はつぶれていく。ショッピングモールが日本一を目指せば地域の商業地域は陥没する。書店だって郊外型の売り場面積を広げた大きな規模の書店が地域の小さい書店をつぶし終わったあとで、Amazonのようなネット販売型書店につぶされようとしている。まさに弱肉強食だ。
 これで地方が疲弊していくだが、行政は何もしない。書店で言えば相変わらず公共図書館への納入でピラミッド体制をつくって、たらいまわしの指名納入だから、企業努力をする書店などほんどなく衰退していくにまかせている状態だ。

焚書坑儒

 さて、いきなり、話は変わってタイトルに挙げた「焚書坑儒」のことである。焚書坑儒とは、世の中の悪化に抗議した儒学者を処刑し、医学・占い・農業以外の本を焼却した秦の始皇帝の暴力政策だ。しかし、このようなことは、いつの時代でもどこの国でも行われてきた。最近ではナチスの焚書は有名だし、中国も文化大革命の時にやった。ソビエトでもあったし、独裁者のいた国では大小はともかく焚書坑儒が行われていた。四文字熟語としては難しい字が並ぶが、インディージョーンズ「最後の聖戦」のなかでも焚書坑儒の場面はあったから、知っている人も多いだろう。焚書坑儒が近未来でも起こることを描いたのは、SF作家レイ・ブラッドベリの小説「華氏451度」である。この温度は紙が燃え上がる温度を示す。つまり焚書。
 記録文化の国、文字の国・中国が最初に焚書をしたということはおもしろい事例だと思うが、権力者にとって都合の悪い思想や考え方は政権や体制を危うくするものであるから消し去りたいのである。中国のような広大な領土を持つ国にとって統一政権を揺るがす思想は存在しないほうがよい。だから、批判的な意見を抑え込もうとする。その究極が焚書坑儒なのだ。
 そのあとは、どうでもいいような本ばかり残って、やがて国も衰退するのだが・・・・。

権力者は大衆?

 ところで、多くの人は「日本は民主主義国家で独裁者などいないから焚書坑儒なんかない」と思っている。たしかに自分の政策に不都合なことを書いた本を燃やすという独裁者はいない。戦時中は思想統制が行われて、進歩的・左翼的・自由主義的な著作は発禁本となった経緯もあるが、戦後はそういうことはない。・・・
 しかし、ある哲学者(オルテガ・イ・ガセット)の説によると、現代の主役は「大衆」で、この無意識な集団の力が大きく、何かが流行ればそっちに流れ、他が流行ればこっちに流れる習性が強いという。そして、どんどん質の低いものに向かっていくから、質の高いものは敬遠されて消えていく。実際、一般大衆相手の郊外型書店では、まともな本など置かないで、流行の売れ筋本ばかりが並ぶ。それでも売れずに雑誌・アニメを並べ、それさえ売れずにグッズまで置くという状態だ。つまり、お客様は神様で、この「大衆」という消費の神様は権力者でもある。
 そして、書店店頭でもしっかりした本、基本的な本、文学書、哲学書などは消えていき、大手をふるうのはサブカル本、ハウツー本、マンガ、アニメの類ばかりである。すぐれた本が消え、どうでもいい本が残る・・・これは大衆による焚書坑儒ではないだろうか。

本が燃えずに消える

 つまり、「大衆という権力者」が行う焚書坑儒は、本が燃えずに消えてしまう形なのだ。そして、質の低い本がはびこり、質の高い本がなくなる。実際、ここ数年で基本的な本で絶版になるものは多い。嘘だと思ったらネットで検索してみればいい。日本文学の傑作のほとんどが手に入らない状態にある。文庫本で残るというが、これも絶版、再版待ちというのが多く、すぐに手に入らないものも多くなった。
 たとえば郊外型書店の店頭の児童書売り場にいってみよ。そこには、まともな絵本、児童書はほとんど置かれていない。アンパンマン、ノンタンから始まり、軽読書用のサブカル本が山のように置かれている。これだとて、子どもの意識がテレビなどで洗脳されて、劣悪なものにしか目が行かなくなったことを語るものだ。
 大衆が無意識に行う焚書坑儒は、ある意味、文化の没落ともいえるのだが、メディアを見ていると、日本におけるすぐれた本の温度は、もう華氏451度に近づいているような気がする。この流れは止められないし、止めたところで大衆の頭が覚醒するわけでもない。いわば、われわれは文化の末期に生きているわけだから、有様を見ているだけにしないと巻き込まれてしまいかねない。(新聞十月号一部閲覧)



(2012年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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