ブッククラブニュース
平成24年5月号(発達年齢ブッククラブ)

自暴自棄の世相

 ここのところ、ひどい交通事故や事件が続いている。繁華街を歩く列に、花見の客の列にに、登園児童の集団に・・・小中学生の登下校の列に車が突っ込む、さらに不可解な、ほとんど理由らしき理由もない殺人事件の連続・・・。容疑者はいずれも自暴自棄に見える。「人などどうなってもいい」・・・ついでに「自分もどうなってもいい」という感じだ。おそらく、この心理は、上は政治から、下は自動車運転や各種社会的な事件まで広がっているのではないか、と思われる。責任感もなければ思いやりもない。おまけに自己愛さえもない・・・あたかも人間が壊れてしまったかに見える犯人像である。
 秋葉原の刺殺事件から二年、いきなり刃物を振り回す事件も激増している。
それもけっこうの年齢の大人がやるのだ。狂っているとしか思えない自暴自棄 である。  こういうことは何が原因となって起きているのだろう? それは、たとえば京都の祇園で通りを歩く人をなぎ倒した暴走車の事件から類推できるのではないだろうか。この犯人は、テンカンの発作が起きて車を暴走させたという見方がされているが、映像を見る限り、意識を失って暴走しているとは思えないものがある。ハンドルを切って障害物を避けているのは、あきらかに無意識ではなく、「意識がある自暴自棄」なのではないか。これは居眠り運転で登園児童をなぎ倒した京都・亀岡市の暴走も同じである。一晩中車を運転していれば居眠りするのは分かりきったことだ。これもどこかに自暴自棄がある。安い運賃で高速バスを走らせて防音壁に激突したバスの運転手もある意味「未必の故意」で、やはり「自暴自棄」なものが見える。このところ続く、理由のない殺人もどこかで「相手はもちろん自分もどうなってもいい」というものが透けて見える。
 いま、こういう人種が激増している背景はどういうものなのだろう。当然、「相手も自分もどうなってもいい」という意識の裏には「自己肯定感」などないわけで、半分は自殺する人間に等しい「否定的なもの」しか持っていないのだろう。つまりは、自己肯定感も他を思う気持ちもサラサラ持ち合わせのない人間が増えているということだ。

幼少期を知りたい!

 私としては、こういう不可解な事件や事故の犯人の幼少期がどうだったかを知りたいのだが、まずもって公表されない。研究がなされていないわけではないだろうが、研究結果が出てこない。プライバシーの問題も大きいのだろうが、どこかに共通項があるはずなのである。
 その犯人は幼いころ、親の愛を受けていたのだろうか。一緒に過ごす時間は長かったのだろうか、それとも短かったのだろうか。絵本の読み聞かせや外遊びを一緒にしていたのだろうか。知りたいことは山ほどある。
 彼らが他人を考えることなく無責任な行為を実行した裏には、そしてそれを行う自暴自棄の裏には何か共通なものがるのだと思う。
 こういうことを考えるとき、私は作家の藤本義一さんが、凶悪な殺人事件を起こした少年たちの過去の家庭環境を調べたことを思い出す。彼は、その結果、「ほとんど共通な環境や家族関係を見出せなかった」と言っている。そして、「共通することといえば、その少年たちの家に神棚も仏壇もなかったことだ」と文学者らしい見かたをしていた。たしかに、その共通項は恐ろしいものがあるが、私はもっと調べれば幼少期にかけていた何か同じものが見つかるのではないかと思っている。もし、そういう研究成果が分かれば、幼少期の子どもにどのように接したらよいのか、どういうことをしたらダメなのか・・・が分かってくるのだが、・・・・残念だ。

視覚的断崖

 話が急に変わって申し訳ないが、発達心理学の実験で「視覚的断崖」というものがある。人工の谷間をつくってこちら岸からあちら岸まで強化ガラスを渡す。そして、這い這いするくらいの月齢の赤ちゃんを置き、向こう岸にお母さんを立たせる。赤ちゃんは、ガラスの下の「断崖」が見えるから、渡るのを躊躇する。谷間に落ちてしまうと思うからだ。ところが、向こう岸でお母さんが「おいで!おいで!」と手を振り、声をかけると何とそのガラスの上を這い這いして渡って来るのである。
「この風景、どこかで見たことがある!」という人もいるはずだ。そう! 「インディージョーンズ・最後の聖戦」で、聖杯を守る騎士のいるところへ渡る時に現れた断崖と目の錯覚を利用して造られた橋である・・・どう見ても橋は見えず、インディーは渡れない。橋が断崖の岩の形状とそっくりにできていて、保護色のようになっているのだ。見えないのである。しかし、インディーは、その存在を信じることで渡ることができた。これも視覚的断崖の応用だ。映画はともかく、まだ現実を認識できない赤ちゃんが信頼できる人の言葉や手招きを信用して、透明のガラスの板の上を渡る自らの行動を決めるというのはすごいことだ。悲しいことに父親の「おいで!おいで!」では渡る確率が低くなるらしい(笑)。当然、見知らぬ他人が「おいで!おいで!」をしても泣き出すのがふつうである。母というものはすごい!

実験の意味

 この実験は、もともと谷間や断崖を認識する知覚がどの月齢で発達するかを調べる目的だったが、信用できる相手がいれば赤ちゃんがガラスの上を渡ることができるという結果をもたらした。こんな幼い赤ちゃんでも視覚で、「ここを渡ると堕ちて危ない!」という認識力を持っているのである。
 子どもだけではない。大人が生きていく日常でも、このような視覚的断崖がいっぱいあって、不安で引いてしまうことが起こる。少年時代に、そのような経験をした人も多いと思う。しかし、赤ちゃんと同じく、信頼している人が手招きしてくれれば、見えている「断崖」を渡れるのである。それは、おそらく小さいころから親が安心感や自己肯定感を植え付けてくれているからだろう。「大丈夫!大丈夫!」「渡って行って大丈夫!」と、手招きや背中を押すことをしてくれているのである。さらに大きくなれば、親だけでなく周囲に信頼できる人も出てくる。それが、インチキ新興宗教の教祖やマジナイ師、暴力団の組長ではマズいけれど、信頼できる人は自分を肯定してくれて、勇気をくれる人でもある。
つまり、われわれは挫折しても立ち直れる力を赤ちゃんのころからの「信頼体験」という形で蓄積しているというわけだ。その信頼の本は親であり、親との関係であり、それが自己肯定感や存在肯定につながるのだと思う。
こういう信頼関係を小さいうちから持てなかったとすると、どういうことになるだろう。自分を肯定できない人間は他人を肯定しない。あたりまえのことながら、「相手を思いやる」などということもないだろう。「頼れるものは自分だけ」が、人生の視覚的断崖の前で「自分も頼りにならない」と思ってしまう。つまり「人などどうなってもいい」・・・から「自分もどうなってもいい」という自暴自棄に陥っていくのである。具体的に言えば生きるうえでの責任感の喪失だ。

責任感・・・?

 なるほど、こういうふうに考えると、世の中には無責任が横行している。これも幼いときに家庭や親から自己肯定感を植え付けてもらえず、身勝手に生きざるを得ず、自己愛も形作れなかった結果なのではないとも思える。自分で引き起こして多くの人に迷惑をかけながら、責任を感じるどころか、逆に自分が生き残るためにまた迷惑をかけていくという現象・・・東電の開き直りにも似た無責任さ、政治的決断で普天間の基地は県外移設と断言しながら平気で翻す鳩ちゃんの意識・・・これは狂っている以外の何ものでもない・・・やがて、彼らは追いつめられたとき犯人たちと同じく自暴自棄になるのではないか・・・。これは、じつは東電や鳩ちゃんばかりではなく、政治全体、企業全体にも広がりつつある。言うだけ言って何もしなくても辞任すればあとは「野となれ、山となれ!」という雰囲気が出てきてはいないか。自分が生き残るためならどんどん社員を切り捨てていくという市場原理が動いてはいないか。

背中を見る子ども

 だいたいにおいて、子どもは大人を見て育っていくものだ。大人がすることを真似て、多くは成長する。親の背中を見て子どもは育つが、世の中の子どもは、学校の先生やテレビなどのメディアを通して大人を学習し、大人になる。もし、その大人が無責任で、悪いことを平気で行い、シラを切り、ずるいことをしていれば、批判する子も出るかもしれないが、多くは真似ていく。「それで生きられるなら真似たほうが得だから」だ。大人が飲酒運転をしているのだから子どもが覚せい剤くらい飲んでもいいだろう。先生が買春をしているなら、子どもが売春してもいいだろう。無責任なことを平気で大人がやっているのだから、子どもがやるべきことをしなくてもいいだろう。当然、こういう風潮は生まれる。
 この歯止めはもう利かなくなっているような気がする。まじめに生きるヤツは損なのだ。人を安全神話でだまし、放射能をバラ撒いた会社の社長が引責辞任するどころか、平気で年棒7000万円余、そして何億円もの退職金をもらって辞める。さらには開き直って、「菅政権の対応がひどかった!」「撤退なんて考えていなかった」などと原発擁護政権を後ろ盾にして自己弁護を始める。それがまかり通るのを子どもは見ている。子どもは見ていないようで見ている。そして、うまいことやれば、逃げ切れる、と思うことだろう。
 昔なら、四条河原に引き出されて打ち首、獄門という大罪が「逃げ切れる」という不思議が現代にはある。責任など取るほうがバカだ!という時代になってしまったのである。まさに、この言葉遊びのパロデイのように「逃狂電力」だ。責任逃れ、狂気の沙汰・・・こうした大人の態度は、子どもにどんどん影響していくだろう。

視覚的断崖を渡る

 しかし、彼らのようにしたたかに生きられればいいが、若者の多くは何度も言うように、挫折、破綻して自暴自棄になってしまうわけである。とても、政治家や電力会社のお偉方のように欲と二人連れで視覚的断崖を渡れない。就職ができない程度の断崖で、自殺してしまう若者も激増している。これも幼少期からの「信頼経験」がないからだと思う。私の青年時代も就職難だったが、就職ができなくて自殺した人などいなかった。「いい大学を出て、いい会社に就職しなければ幸福になれない」などとは誰も言わず、「どんなことがあっても大丈夫だ」「ダメなら他の道もある」と誰かが教えてくれた。それで多くの子ども、若者は「視覚的断崖」を渡れたというわけである。しかし、いまは・・・・親の期待を裏切れないで自己否定に走るか自暴自棄の行動に出るかどちらかである。
 この社会の人間が責任感をもたなくなった理由はひとつしかない。世の中が儲けること、つまりお金儲け一辺倒になり、儲かれば、誰がどうなろうとかまわないという思考が働いているからだ。商売ですら倫理が喪失して、もはや何でもありである。とにかく儲かればなんでもする。商品に思い入れなどなく、とにかく何でも売りまくる。その最たるものは儲かれば危険など無視して行う原発再稼動だ。「人の命より儲け」・・・すごい話である。もっとも自衛官の家庭で育てば、国の安全が優先という考えが叩き込まれるかもしれない。松下「生計」塾で学べば、やはり「明るいNATIONAL」・・・これも国家だ。まともな本を読んでこなかった政治家は、いつも未来を考えることなく現在の利益にすがりつく。経済成長で、この1000兆の借金が返せるはずもないのだが・・・。この行く末・・・・どのへんで破綻するのだろうか。あと何年・・・?。まちがいなく、この状態は長続きしない。(5月号ニュース一部閲覧)

「地獄」の思い出

 絵本「地獄」がブームである。 テレビ・コメンテーターが火付け役になって紹介した絵本だ。いわゆる、昔の地獄絵を写真製版したもので、おどろおどろしい地獄風景が展開する。血の池、針の山、鬼に体を切り刻まれる亡者たち・・・親より早く死んだ子どもたち・・・迫力満点である。それもそのはず、この地獄絵は千葉の延命寺(里見八犬伝で有名)の本物の地獄絵を絵本にしたものなのだ。悪いことをした人は無間地獄に落ちる・・・近年、悪人が増えているので、今日も無間地獄に落ちる人が三途の川で列をなしていることだろう。  さて、この本が発刊されたのは32年前・・・懐かしい。32年前というのは、ゆめやが出来た年。絵本「地獄」・・・個人的に知り合いだった風濤社の先代の社長・高橋さんが、絵本専門店を始めたときに、「新刊を出したので、これを売ってくれ!」と言ってきた本だった。しかし、 どう売ればいいのか分からない。しかたがないので、お寺さんを回ったが、寄進があたりまえのお寺さんでは売れなかった。どう考えても幼児には不適なものと思えたが、小学生くらいならいいだろうと思って在庫を持った。当時、まだブッククラブはなく、店頭に飾っておくよりないわけで、売れなかった本の一冊でもある。でも思い出深い一冊だ。風濤社の高橋社長は、私が勤めていた出版社が倒産したときに先輩だった筑摩書房の営業の小口さんに紹介されて出会った人だった。運悪く、私の親父が癌で亡くなったので甲府に戻らざるをえなかったが、そういうことがなければ風濤社に勤めていた。

その後、私は店を始めたのだが

 バブル前夜・・・ゆめやは、そのころは、甲府の繁華街の真ん中にあった。周囲は深夜飲食店ばかり。昼間営業する店は少ない。飲み屋へは、一般市民ばかりではなく学校の先生や役人が宴会で毎晩訪れる。真夜中まで飲めや歌えやの大騒ぎ・・・・ゆめやは6時半が閉店・・・それまでは静かだった町が、この時間ごろから騒がしくなる。 飲みに来る客が歩く通りに面したショーウインドウに絵本「地獄」を置いておくと、けっこう目を引いた。すると、ある夕方、いきなり入ってきた人が、「ワタシは小学校の校長だが、こういうふうに子どもに死を教えるようなものはけしからん。子どもを怖がらせてどうする。子どもの本屋がこんな本を売ってはいかん。子どもには生きる希望を与えなきゃ、イカンのだ」というようなことをおっしゃった。つまりお叱りを受けてしまったのである。まあ、飲みに来た人の戯言・・・・気にはしないでいたが・・・・・。  そんなことがあった数日後、一人の男性が入ってきて本を手に取り、店番していた私に「なんで、こういう本を置いているのか?」と尋ねてきた「じつは、知り合いの、この出版社の社長が新刊を持ってきて・・・・」と話しながら、「お寺が地獄絵を見せなくなったので、地獄絵というものがあるということを知ってもらおうと思いまして・・・・」と話した。  そうしたら、その方が、「私はYBSラジオでアナウンサーの奥脇洋子さんといっしょにパーソナリティーをしている斉藤というものだが、これをラジオで取り上げたい。どういうふうに子どもに与えたらいいのか話してくれ!」というので、さらに思いつくままいろいろ話した。

多くの人との出会いが「地獄」で

 後日、番組の放送日を教えてもらって、聞いているとシンセサイザーの音をバックに「地獄」の朗読が始まり、内容を斉藤さんがコメントしていた。いまだに、このとき頂いた山梨放送で録音したカセットテープがあるが、なかなかの迫力ある地獄八景亡者の戯れとなった。 この斉藤典男さんは、じつはゆめやの近くの高源寺という日蓮宗のお寺の住職で、そりゃあものすごい知識のある方、郷土史に関しては、博覧強記・・・その後はとても親密な仲となった。教えてもらったことは山ほど・・・となった。 で、その放送のことを風濤社・高橋社長に話した。とても喜んだけれど、「それでも売れない!やはり刺激が強すぎたか!」という苦笑で終わり・・・三十年が過ぎてしまった。 なぜ話題にもならなかったのか? 三十年前はまだ世の中が安定していたから、誰にも倫理を全うするために地獄絵図を見せて脅す必要はなかったのかもしれない。でも、八犬伝のころの中世では、親の子殺し、子の親殺し、殺人、窃盗。政治は乱れ、外敵が圧迫してくる危機があり、人心麻のごとく乱れていたのだから、当然、こうなれば宗教の出番だ。因果応報で脅さねば人は平気で悪いことをする。そこで地獄絵だったのだろう。  いまごろ、ブームになって高橋社長はどう思っているのか。斉藤典男さんはどう思っているのか、お亡くなりになっているので聞くことは出来ないが、私はテレビの安直な報道で火がついたブームだから、このブームは一過性だと思っている。もう、このHPで公開するころには、他の本に話題が移っていることだろう。 だいいち、この火付けは漫画家で、その漫画家「東村アキコさん」が「この本で自分の子が悪さをしなくなった」と言って、その言葉をメディアが拾い上げたものだ。すぐにブームとなり、絵本「地獄」の帯にも、その漫画家の「推薦の言葉」がついている。 しかし、自分の育て方は置いておいて、結果、いうことを聞かない子ができたら、安直に地獄絵の絵本で脅す。こういう絵本は悪い子を良くするのために存在するのではなく、子どもが悪くならない家庭環境や親の生き方を見せる中で、真っ当な人間を育てるために使ったほうがいいように思うのだが、どうなのだろう。まずは、悪い子を作らないことが先決なのだ。(5月号新聞一部閲覧)



(2012年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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