ブッククラブニュース
平成24年2月号(発達年齢ブッククラブ)

イクメンは昔からあった

 いやはや今年の冬は寒くて参っていますが、胃腸をやられる風邪、RSウイルスやノロウイルスなど昔はあまり聞かなかった伝染病が蔓延しています。皆様のお便りにも「風邪で一家全滅」「枕を並べて討ち死にしてます」などという言葉が並びました。いくら科学が発達しても人間は生命体で、自然の部品ですから、家族で力を合わせてムリせずに生きていかないと思わぬことになって大変です。
 「近代」は、「自然」を無視して、科学とか合理性で何とかなると進んできたところがあり、それがどうも最近になって限界に来ていて、つまり「自然のシッペ返し」を食らっているようなところがあるような気がします。あたかも孫悟空が「世界の果てまで行った」と豪語しても、じつはお釈迦様の手の内から出られなかったのと同じですね。もともと科学で自然を越えられるわけがないのですが・・・。人間の遺伝子の中にも「自然の仕組み」が隠れていますから、無理や不自然で「狂い」が出ます。
 たとえば、子育ても父親と母親が協力して育てるのが自然だと思うのですが、近代では母親の負担が大きくなっていて、父親は参加しないことが多かったように思います。最近は「イクメン」という言葉で代表されるように、父親の協力が再認識されていますが、この傾向は協力を自然にやっていた昔に戻っているのかもしれません。

出産後の記憶力増加

 八十歳になる叔母が、我が家に来るたびに「出産のときに夫は仕事や遊びで家に寄り付かなかった」というグチをコボします。叔父は「そんな五十年も前のことをずっと言われるのはタマラン!」と、これまたグチをコボします。でも・・・これって、高度経済成長の問題でも夫婦関係のギクシャクでも何でもなくて、「遺伝子の中の自然」なんですね。
 女性は子どもを産むと、その子どもの特性や育てる環境を熟知していないときちんと育てられないので、出産後に異常なほど記憶力が増すのです。そういう機能が働くようにできているわけで「夫が帰ってこない」「協力しない」などの事実はドカンと頭の中に叩き込まれるわけです。ふつうの生活の時には働かない記憶力が、このときは働く・・・だから、いつまでも覚えていて、「あなたは、あのとき・・!」となるのです。

近代の家庭は協力が不要だった?

 昔は農業など第一次産業の比率も高かったので、出産時の精神的な部分の協力体制はできあがっていました。ところが核家族で外働きが多い近代は出産や育児が母親だけの負担になっていったところがあります。かつては「男尊女卑」で育てられた男、今は甘やかされて過保護で育った男・・・彼らは、子育てになかなか入り込めないのです。最近の子育て関連の事件、たとえば虐待や遺棄を見ていても父親の存在が感じられないのは、その延長なのでしょうね。
 我が家は自営業なので母親は戦力です。協力しなかったら大変なので、そりゃあもう、五十年後に言われないためではなく、すぐにやらざるを得ませんでした。と、いうより、夫婦で協力しないと生活ができないのです。人間は爬虫類でも魚類でもないので、やはり産みっぱなしというわけにはいきません。父親も子育てに参加しないと子どもに影響が出てくると思うのですよ。「忙しい!」は理由になりません。

失われた絆

 震災以後「絆」という言葉が大はやりですが、震災で絆が大切だと再認識されたからではなく、多くの人が、近代の家庭は、あるいは家族は、そして地域社会は、人間の絆を切り離して進んできたと感じたからでしょう。もともと家族は協力し合うもので、それは子どももある程度成長すれば要求される働きです。ところが学歴社会では子どもはお勉強していれば何もしなくてよろしい、家の手伝いも家事も何もしなくてよろしい。その代わり家族にもそれぞれの役割があるわけで、「協力」は危険とか危機に直面したときに大きく役に立つと思われます。おそらく、この「協力心」も人間の遺伝子にインプットされた機能だと思います。
 そういうものがなくなると、バーチャルな世界の影響が大きくなって、人間力が劣化してきてしまいます。最近、商売上、とても異常なことが起きていますが、みな通信機器や便利な生活器具が原因のことが多いのです。たとえば、お客さんから配本の問い合わせや住所の変更のお知らせの電話を受けますが、名乗らないのです。
 ウチの電話はナンバーディスプレイ機能はないです。ナンバーが出たからといって、千人余の名前が出たら大変・・・そんなものを記憶させておいて流出したらなお大変・・・こういうことがわからず・・・その人は名乗りませんから、相手が誰だかわからない。いきなり話が切り出されても「あなたは、だぁれ?」というよりないです。ケータイの悪影響ですね。電話は「もしもし」と言って「○○ですが、ゆめやさんですか?」というのが常識の機械なのです。もしそうでなくて、名乗らずにすむケータイの相手なら関係も狭くなると思うのです。よく知った相手を百人登録するのも困難な人が多いでしょうから・・・・便利さの弊害・・・これはいたるところで出てきていますね。

その箱に答えはないよ

 昼食で食堂に入ったら、私たち夫婦以外、みんなケータイをいじっている異様な光景に出会いました。これもバーチャルな世界の影響なのでしょう。習慣というより中毒という感じです。ケータイを操作するか、スマホをスクロールするか・・・それをしていないと落ち着かないのかもしれません。ただ、ある意味、くだらない情報が垂れ流しされ、ある者はゲームをし、ある者は無意味にものを調べ、べつに、ホイットニー・ヒューストンが何年に生まれたか・・・どういう歌を歌っていたかなどどうでもいいのですが、そういうものに明け暮れていたとき、肝心の「相手」つまり対話をする人がいなくなってしまうことにはならないでしょうか。
 スマホの中には情報は、入っているでしょうが、人生について、恋について、生きる意味について、考えさせてくれるものは何一つ入っていないのです。これは、ある意味パンドラの箱で、最後には希望というものが出てくるかもしれませんが、希望は「それでも人が生きなければならない」最悪の原動力でもあります。はたして、そんな箱を開けてしまっていいのか、この箱の中には「人間が求める答え」はありません。

多くのものが昔に戻る

 科学技術が暴走してきた、ここ数十年・・・みかけは便利で豊かです。でも、よく目を凝らせば、不幸の種ばかりが播かれています。この時代を見て、深く考えている人の中には、「うまく人間が死ねなくなった」と感じている人も多いでしょう。「うまく親が子を育てられなくなった」と思っている人も多いでしょう。「年齢を重ねても少しも経験が頭の良さをつくらない」と思っている方も多いはずです。これは、なぜでしょうか。理由はかんたんなことです。人間が成長するときに必要な他の人間との接触や自然界との接触がなくなったからです。人間にとって必要なものは自然な状態なんです。でも、いまだに、バカ親はケータイをいじりながら授乳したり、赤ちゃんに話しかけることもせずに何と生後三ヶ月で保育園に追いやることもします。これじゃ絆は切れます。時代のスピードは速いですから、その結果ももう出ています。おどろくほどの小学校の荒れ、中学はさらに荒れ・・・まともな授業さえ行えないところも出ています。人間の劣化ですね。
 だから、いま、一部で、生きる手法を「昔に戻す」方法が取られ始めました。まず農業で始まったのはご存知でしょう。化成肥料に頼らず、手間がかかっても昔ながらの有機的な栽培をする方法・・・品質の高い食物が採れます。赤ちゃんを育てるときでも、生まれたらすぐに抱いて母親の心音を聞かせる、隔離せずに母親の声や顔を聞かせたり見せたりしてインプリンティングをはかる。昔ながらの方法です。昔やっていたことです。
 これが、高度経済成長のときは行われなかったのですよ。古いことはすべて間違いであったという考えで・・・。そして「絆」が切れてしまった。そして、教育。いまでもそうですが、子育てでは進学にばかり気が行ってしまいました。「成績しか見てこなかった」親が絆が切れたといって騒いだところで元に戻るものではありません。子どもとの縁はどんどん切れていきます。自然なことがなされなかったのだから当たり前です。そうなれば、老後の頼りはお金ですが、さてさて・・・今後の日本、お金が頼りになるでしょうか。

イクメンも昔からあった

 前述のように男親が育児をすることは昔は当たり前でした。幕末に活躍した米国の日本領事・タウンゼントハリスの「日本滞在記」には、男親が子どもたちと交流する生活習慣を描いた部分があります。英国人女性のイザベラ・バードが書いた明治初期の紀行書「日本奥地紀行」でも、そういう子どもと親の関わりが散見されます。
 こういうのを読むと、明治以降の近代化がイクメンを押さえ込んできたのではないかと思うのです。男は企業のために働く、国家のために働く・・・そうですよね、その背後には殖産興業があり、富国強兵があった。これは現代でも形を変えてそうなんです。企業戦士という言葉さえありました。いまでもそうです。現代ではもう明らかに経済至上主義、市場原理主義が男親の育児への参入を阻んでいます。でもね。親と子、夫と妻の人間関係の修復をするためにはイクメンは必要なことです。
 だからイクメン(あまり好きな言葉ではないのですが)をしましょう。あまりベタベタするのも気持ち悪いですが、出産のときに、ふりをするだけでもいいですから(笑)、協力すれば、五十年も不満を言われなくてすみます。私は、やむを得ずオムツ替えから授乳、遊び相手からいろいろなことを教える時間まで担当してやらざるをえませんでした。女房が店で仕事をしているときに二人の年子の娘を連れて公園に遊びに行きました。娘たちは砂場で、あるいはブランコで遊ぶ・・・それを私は本を読みながら見ているのですが、・・・・周囲の母子たちは・・・不思議な目で私を見ていました。「奥さんに逃げられたダンナ・・・??」というような目で・・・・。
 読み聞かせもおもしろいのですよ。やってみると・・・・。私は、6歳までやりましたが、子どもの面白い部分、あるいは想像もできない部分を発見できるのです。そして、反抗期には徹底的に戦えました。終わればなんでもなくなります。ところが、脅すわけではありませんが、子育てにかかわらなかった父親のなかには子どもとうまくいっていない例も多いのです。
 これからは何があるかわからない時代です。・・・危機に直面したとき協力と団結は家庭内でも必要です。そのためにくイクメンは・・・・したほうが・・・・よい。

ベビーシッターは見た・・・

 十二月から一月は、こんな山の中の小さな絵本屋でも、会員以外のフリーの客が訪れる。最近はHPを見てやってくる人もいる。時代は変わったものだ。年の初めにこんなお客さんが来た。若い女性・・・二十代前半・・・「HPを見て、甲府駅からタクシーで来た」と言う。年齢別に代表的な絵本を数冊買ったのだが、その合間にお茶を飲みながら話をした。
 彼女は、横浜に住んでいて、職業はベビーシッター。横浜は待機児童や共稼ぎが多いのでベビーシッターの仕事が成り立つらしい。田舎の山梨では保育園が忙しいが、さすがは大都会。ベビーシッターに託す人もいるわけだ。
 その彼女が言う。「0歳から小学低学年の子を預かるが、相手をしていて子どもがおかしいと感じることが多い。」
 「どこがおかしいの?」と尋ねるといろいろ説明し始めた。「かんたんには言えないけれど、これでいいのかな、と思うことが多い。」らしい・・・。「まず家の中に置いてあるおもちゃや絵本がおかしい。」「相手をしてやっても子どもの反応がおかしい。」「その家の生活習慣がおかしい。」とにかく、さまざまな異常が感じられるという。私は、この仕事をしていて近年の子育ての傾向が分かっているから、だいたい推理できるが、絵本の読み聞かせを受け、ふつうの遊びをして昔ながらの家庭で育った彼女には違和感があるのだろう。
 実際、ときおりテレビの子育て番組に出てくる家庭や震災で被災した家庭を見ていると本棚(あればいいほう)の中の本・・・置いてあるおもちゃ・・・ちょっとひどいなぁ!と思うようなものが並んでいる。子どもの表情もおかしいことがあるし、体が大きいのに頭が進んでいないことも感じる。生活の状態までは見られないが、かなりデタラメな家もあるような気がする。
 ベビーシッターに預ける親たちの年齢を聞くと「だいたい三十歳代だ」と言う。そんな話から、いろいろ絞っていくと「活力がない子が多い」とか「おかしいのは男の子だけではない」という感想が出てきた。たしかに家庭の状態はさまざまだが、子どもにコスプレをさせる、「これは良い」と聞けばどんどん与える、させる・・・など常識的ではないことも。親たちが裕福なのだろうが、子どもは時間に追い立てられて、ちゃんと遊ぶこともしないで一日を過ごす、という。

同じことを繰り返す

 このベビーシッターがミタものは、「子どもが子どもらしい遊びや行動をしない」というもので、だからこそ「絵本を読んでやったり、まともな遊びをしてやりたい」と考えたらしい。
 人間というものは、自分が受けた育ちを親になるとまた再現するという習性があるらしい。児童相談所の職員が「非行で入ってきた子が更生して結婚して、家庭をつくっても破綻してしまうことが多い」という。なぜかというと、「自分で家庭を持っても、モデルになる基本の家庭像を持っていないので、どうしたらいいかわからずに、自分の子ども時代を再現してしまうからだ」という。一家団欒の食事の経験のない親には、どうしたらそういう食事風景を作れるのかわからないのだろう。
 ベビーシッターは、それと同じものをミタわけだ。つまりゲームを与えられて育った家庭では、自分の子どもにゲームを与えるのに躊躇がない。チャレンジで育った親は「赤ちゃんチャレンジ」を与えるのに抵抗がない。絵本の読み聞かせもなく、お金を与えられて遊ぶことで育った家庭では、当然、同じことが繰り返される。
 ベビーシッターの彼女は、それをミタわけだ。そして、なんとかしようと思ったのだろう。
 じつは、私も同じ感覚を1980年ごろ持ったことがある。テレビゲームが主流になってきて、子どもの遊びが変質したころだ。

ゆめやの昔のニュース

 この結果が1990年ごろには出始めたので、そのことを、ゆめやのニュースで書いた。「男の子があぶない!」シリーズを書いたのが平成2年、翌年「女の子も危ない!」を書いた。ベビーシッターの彼女に、そのバックナンバーを見せてやると、「このころに子どもだった人が、いま親なんだぁ!」と言った。なるほど、そうですね。
 当時は一部分だったが、いまや家庭にも子どもの頭の中にもそういうサブカルチャーが入り込むのは当たり前になっている。テレビはもちろん、パソコン、ケータイ、DSなどのゲーム機、雑誌、漫画、DVDなど・・・、どこかで「異常」をつくるものがドッと入り込む。これはもう防げるものではない。つまりは「一儲けしたい人」の宣伝に騙されて導入してしまうわけで、その影響も世の中に出ているというのに・・・まだまだ気がつかない人も多い。
 とにかく、こういうサブカルチャーに侵食されると頭が大人になっていかないのだ。不惑の年齢を超えた女が、ディズニーランドのパスポートを持ちたがる。テレビショッピングに狂う。ネットゲームにハマる・・・これは到底、頭が成長しているとはいえない。こういうものの影響はジワジワ出てきて、三十歳を過ぎるとドバーっと全人格を構成するから怖い。男なら、三十歳を過ぎてもAKB48の追いかけをやったり、アニメキャラの「すぐに結果が見えないものにはみんな鈍感で、実際に影響が出たときには遅いこともありえる」と私は言った。
 「放射能みたいですね。防げないものですか?」とベビーシッターが言う。「とても防げるものではありません。」と答える。「ただ、自分が推進する側ではないことを言っておきたい。だから、あなたもお子さんたちに接して、親たちにチラっと言ってくださいよ。」と頼んだ。
 「できれば、テレビの長い視聴はやめて!」「できれば、アニメDVDを子どもに見せるのはやめて!」「できれば、幼い子に早期教育はやめて!」・・・「できれば、で、いいんです。おそらく親たちは、自分が受けてきたことなので不安感などなく、きっと言うことは聞かないだろうけれど・・・。言うことだけは行っておく必要はある。」



(2012年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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