ブッククラブニュース
平成23年8月号(発達年齢ブッククラブ)

お祭りの夜

子どもを騙すおじさんたち

 今の子どもと同じで、私も子どものころ、縁日やお祭りの夜がとても楽しかった。現在と違ってワタアメもカキ氷も小銭で買えたので、わずかなお金でいろいろ楽しむことが出来た。カタヌキという小さなセンベイ状のものに魚の形をした切れ込みなんかあって、これをていねいに抜くと景品がもらえる。しかし、実際には子どもの技術ではとてもむずかしい。頭も指先も使わなくてはならない。十枚抜いても成功が一枚もないこともある。さらに、ガラスの箱にヒモで景品がブラ下がっていて、選んだヒモを引っ張ると当たったり外れたり。これも、ほとんどどれを引いてもハズレだ。巧妙にヒモが絡み合っていて、当たりが引けないように仕組まれている。
 極めつけは詰め将棋で、どう見てもかんたんに詰むものが絶対に勝てない。勝てばけっこうの賞品がもらえるが、その景品は見せびらかすためにおいてあるだけ。どう頭をひねっても子どもの力では詰めていくことができない。だから、まず勝てない。と、言うより、考えてみれば勝った人を見たこともない。
 しかし、負けると子どもはムキになる。小遣いには限度があるのに何度も挑戦するから、目的のものを食べないうちにお金が消える。食べたかったワタアメやカキ氷は、けっきょく我慢しなければならないのが毎回だった。

わずかなお金で学べた

 しかし、こういう経験は、だまされない感覚を身に付けるひじょうに良い訓練で、あのころは、わずかなお金で大人の巧妙なやり方が学習できたのである。甘い言葉には必ず苦い裏がある。これを小さい経験で学ぶわけだ。小さい経験は被害が少ない。少ない被害で物事の表裏がわかるということはひじょうに大切なことである。これで見抜く力がつくと、逆に信頼できる大人や性格の良い人も見えてくる。怖そうな顔つきの人の性格がよかったり、やさしそうな顔の人がズルかったり、人はよく観察しないとわからないものだということもわかる。子どものころからの人を見る訓練は、とても大事なことだと思う。子どもの周りにズルくて悪い人はいないに越したことはないが、世の中の大人全体がすべて善人で良い人ということはありえない。やはり大人の見分け方の学習は成長のうえで大切なことだと思う。子どもは、さまざまな機会を通して大人を観察して、実体を見抜く訓練を重ねなくてはいけないだろう。学校の先生だって、良い先生もいれば悪い先生もいる。悪いくらいならいいが、犯罪行為までする先生もいる。そういう大人を見ながら、誰が信頼できて、誰が信頼できないかの力を身につけていくのが成長である。これが人間の世の中を生きる力の基本だと思う。それをわずかなお金で学べた時代があったのだ。
 しかし、豊かな時代には、すべてがお金で済むから、なかなか生きる力が子どもの身につかない。さらに成長期に良くも悪くも子どもの力を引き出してくれる他人が少ない。嫌な目に遭うのを恐れすぎることで、実際に嫌なことが起こると、すぐに挫折してしまう若者も多い。
 まして、今は少子化で子どもは過保護に育っている。高齢出産の親などは、もはや、じいさん、ばあさんが子どもを育てるがごとく、子どもの言いなりである。過保護というよりわがままさせ放題で、叱ることもしなければたしなめることもない。かわいいことはわかるが、これでは子どもが生きていく力は衰えてしまう。親は子どもが死ぬまで面倒を見られるものではないのだから、やはり子どもには生きる力をつけないと後々、大変なことになってしまうだろう。

自己責任・・・なんです!

 うまいことを言って騙す人、信じられないほど巧妙な仕掛けで心理までコントロールする人は、テレビショッピングからやらせメールまで山ほどいるわけで、こういう善人面(ぜんにんづら)をした身なりの良い人に比べれば、縁日の夜店のおにいちゃんやおじさんのほうが、ずっと信頼できるというものである。だいいち、昔の夜店のおにいちゃんたちはウソを言わなかった。「こうすれば当たる」とか「もっと試してみれば取れる」など儲けるためのウソを決して言わなかった。およそ子どもの意思決定には口を挟まないで、見ているだけだった。判断は子どもに任せていたわけだ。つまり、結果は「自己責任」であることを最初から教えてくれていたのである。
 ところが現代の騙す人たち・・・この人たちは騙して、甘い汁を大量に吸った後で責任も取らずにただただ逃げ隠れしてしまう。事故の責任を取らないで消えるだけ。事故責任・・(字が違うぞ!) 儲けるだけ儲けて逃げるだけ・・・そんな人間に子どもをしたくはないですよね。私たちが、子どもに良い本を読み聞かせ、良い本を読むように薦めるのは、どういう目的からなのか。周囲の人間とより良い人間関係を築くことができるかということや不幸に陥らない生き方ができるかを学ばせたいからなのではないか。生きていくうえで信頼できる人を見分ける力こそ生きるうえで一番大切な力なのではないでしょうかね。騙されないようにする。もちろん、騙すような人間にはならない。私は、そのことを、まず最初に「お祭りの夜」にテキ屋のおにいちゃんやおじさんから教わりました。

小魚、怪魚に立ち向かう

レオレオニのスイミー

 親も子もレオ・レオニの「スイミー」を知らない人はいないだろう。長い間、教科書に載ってきたお話だ。もっとも私の世代では載ってなかった。教科書を開くと「ススメ!ススメ! へいたいさん、ススメ!」「さいた、さいた、サクラがさいた!」だった・・・なんて、それはウソ。いくらゆめやのおじいさんが年寄りでも、そこまで古い教科書ではなかった。
 冗談はともかく、この「スイミー」というお話・・・大きな魚を怖がっている小魚をまとめて、巨大な相手に立ち向かう魚・スイミーの活躍を描いたものだ。ブッククラブでもほとんどの子どもの配本に組み入れられている。社会性が身につき始めた4歳を対象にしているが、この年齢ではテーマは取れないかもしれない。しかし、物語を繰り返して聞くうちに「大きなものを怖がらないこと」、「力で迫ってくるものには力を合わせること」を感じ取ることはできる。これは「勇気」を描く物語でもある。具体的に分からなくても感覚的にわかってほしいと思う。けっこう、お母さん方からは「懐かしい!」「子どもがスイミーのようになってほしい」などという感想やお便りをいただく。たしかに、こういう話は、昔からよくある話だ。以前、白土三平の「忍者武芸帳」などを読んでいると横暴な領主を倒すために農民がまとまる話があるが、誰かが音頭を取ることで、ムシケラ扱いされていた弱者が理想的な方向に行くことがほとんどである。多くは、言う勇気も行動する勇気もない小さな存在だが、それを引っ張っていく人が出るというわけだ。それを動物の世界で行なうのが絵本「スイミー」である。

日本は民主主義国家?

 私は、個人的にレオ・レオニの作品は好きで、「彼は『民主主義』を描く作家」と思っている。小さいもの、弱いもの、無視されているもの、少数者、個性的なもの・・・を主人公にした絵本が多いからだ。日本は、かなり前から民主主義国らしいが、幼稚園でも学校でも弱いもの、少数者、個性的なものを囲い込む「民主主義」が横行している。みんなと違うものは排除しようという考え方があり、それが多数決を悪用して囲い込むのである。学校だけではない。親の世界でも同じようなことが起こっている。つまりは、どれもイジメ。特定の権力者の利益にならないものは排除してしまうというもので、これは民主主義ではなく全体主義なのである。囲い込まれるのが恐ろしくて、自分の意見をなるべく言わないようにしている大人も多い。
 原発政策などは、これをうまく利用したもので、文句を言う人、批判をする人はとにかく囲い込んで物を言わせないようにしてきたのである。これは民主主義とはほど遠いものだ。多様な意見をまな板の上に載せて、みんなで考えていくのが民主主義だと思うのだが、どうもこの国ではそうでないらしい。

笑ってしまった話

 九州電力(他の電力会社でも疑惑浮上)でやらせメールが発覚して問題になったが、じつは恥ずかしいことに私は、このやらせ事件に何も反応しなかった。と、言うのは、「そんなこと、今始まったことではなく昔から当然のようにどこでも行なわれていたものじゃん」と思っていたからだ。だから、マスコミや一般の人たちが驚いているのを見て、逆に驚いてしまったのである。
 たとえば公共事業の反対運動などをしていると住民説明会や公開討論会などで行政がバス仕立てで賛成派を会場に送り込んだり、自治体職員や事業で利益を得る業者を会場に入れることなどを平気で行なう。反対が多かろうと何であろうとけっきょくは事業はOKになるのだが、取り合えず民主主義的な手順だけは踏もうとするために、こういうことが起こる。会場が反対派ばかりではマスコミ受けも悪いので、サクラというか賛成派というか、そういう人間を一定数集めるわけである。動員された中に、県庁職員になった同級生なんかがいて、顔を合わせて「何だ! 動員か。大変だな、宮仕えも。」などというと、「今頃、家でビールでも飲んでいる時間だけれど・・・お達しがあったんじゃしかたないよ。」なんて会話になり、笑ってしまうこともある。こういうことがあるから、「やらせメールなんて当たり前のように使う手だ」と思ってしまうのもしかたがないといえばいえる。手順と言えば公共事業(原発も)は環境アセスメントをクリアしなければならないが、じつはほとんどの公共事業はクリアする。オオタカがいようとヨナクニサンがいようとアオウミガメがいようとアカウミガメがいようと、ブッタがいようとキリストがいようと環境アセスメントはOKを示す。多様な意見が吟味されるどころか、もう最初から結論は「GO!」で決まっているのである。で、民主主義の形を取るために説明会や討論会は行なわれるが行政は議論をする形を見せて、結論は「事業実施」に必ず向けるのである。

意見には個人差があり多様

 さて、震災後、メールや手紙でたくさんの会員からお便りをいただいた。この中で目立ったものは、「自分の価値観と周囲の価値観の違いを感じる」というものである。
 子どもを外で遊ばせたくないVS大げさすぎる、放射能が怖いVS気が小さすぎる、節電しなけりゃVS電気量を払うんだからいいじゃん、東北産なんてあぶなくてVS応援のために買う、・・・それこそ多様な考え方の違いが出てきたわけだ。私は、考え方の違いが出てくるのは、とてもいいことだと思う。違いから、その人(相手)の生き方の姿勢が見えてくる。相手の考えが見えてくることは自分の考えを判断するうえで重要なことだと思うからだ。感じ方の違いは、あってしかるべきもので、それについて話し合っていくことで、お互いの無神経さや考えすぎを抑えることができる。やがては、ベストな解決法ではなくとも、ベターな解決を生み出すことも出来るわけだ。

スイミーになるのは誰か?

 しかし、自分の意見も言わず、相手の意見も聞かないで『和をもって貴しとなす』という日本人が潜在意識の中に持っているものを利用して、反対意見や批判を囲い込むのはおかしくないか。数で押さえ込むのは民主主義ではない。そんなことをやっていたら、九州電力のやらせメールと同じで、数合わせの問答無用となってしまう。もっとも数で押さえ込むのではなく、多数を少数の強欲な連中が押さえ込むのである。これでは少数者が意見を言うのに勇気が必要な状態が生まれてしまうのだ。多数が正義とは限らない。99%が間違えている可能性もありうるし、その向こうにいる「巨悪」が見抜けなくなる。
 たとえば菅首相が浜岡原発を止めたとたん、菅おろしのバッシングが始まった。経団連、経済同友会などが猛反発である。当然、そのヒモつきの議員は自民党にも民主党にも山ほどいるからメディアも動員して囲い込もうとする。しかし、強欲な人たちと脱原発を思っている人たちの数は実際にはどうなのだろう。脱原発の人たちはごく一部の少数なのだろうか。これは、議論がしつくされたところで国民投票をすることで決まると思うのだが、まだ、強欲な人々の数が多い形を取っていくのだろうか。
 考えの違い、感じ方の違いは話し合うことで、その向こうにある原因を探ることが出来るのだが、一人の勇気ある意見を囲い込み、押さえ込むのは日本人が古来持ってきた独特の習性でもある。これでは、その後ろにいる巨大な魚や怪魚のエサになってしまうだけなのだが、子どもをそんな悲劇的な状態に持って行きたくないと思う。もう少し、互いの意見をぶつけて考えを深めることを子どもには教えたいし、大人が、親が、きちんと意見を言う姿勢を見せなければ、とも思う。スイミーが一匹出ても後に続く小魚がたくさんいなければ、けっきょくは大魚、怪魚のエジキになってしまうわけである。ここは大人がしっかりかながえていかなければならない正念場である。



(2011年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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