ブッククラブニュース
平成23年3月号(発達年齢ブッククラブ)

お便り・・・

 春の決まり文句は「別れと出会い」・・・でも、「出会いと別れ」の間にはたくさんのコミュニケーションがつまっているはずです。コミュニケーションというよりは、つまりお付き合いかな。これがないと人が出会って接する関係が薄いものになってしまいます。ときおり喫茶店で若いカップルが向かい合って無言でケータイをいじっているのを見ると寒々しい感じになりますが、出会いと別れの中間に「充実した付き合い」があれば無縁社会もなくなることでしょう。
 さて、ゆめやも会員の皆さんとのお付き合いはしているつもりです。電話、FAX、ハガキ、手紙・・・たくさんのお便りが毎日来ますが、かならず返信します。だいたい一日平均ハガキは二十枚くらい書き、手紙は3通くらいは書きます。電話は何本くらいでしょうか、これは日によってかなり違います。FAXもけっこう来ます。3月は用紙の補給に大ワラワになることも。店のFAXは古い機種で感熱ロールですから一日平均数メートルというところ。
 今月、まいったのは四十二年間使った万年筆がついに壊れたこと。これはモンブランのマイスター・シュツックというもので、もう私のお小遣いでは買えない代物になっています。それが壊れた! ペン先が折れたのです。悲しいですが、何万字と書いてきたもの・・・ご苦労様ですね。筆箱の底でおやすみになってもらいます。そんなこともともないながら、まだまだお便りの交換は続きます。この合理化、効率化の時代にハガキ、手紙というのは「時代遅れ」かもしれませんが、出逢った人との接触は続けないと切れてしまいます。どんなお便りかといわれると、そうそう大した交信ではないのですが、人と人のやりとりは大したものでなくとも日常的に続けなくてはなりません。そういうお便りの中から・・・

EncounterとContactと

 例えば・・・
 先日の寒い日、東京の大田区のKさんから「お風呂が壊れてしまったので銭湯へ行った。子どもが楽しそうだった。」なんてお便りがあり「銭湯もいいですね、じゃあ、寒いので私も銭湯に行ってみようかな。」と書きました。そして、娘と近くの銭湯・喜久の湯へ行きました。ここは太宰治の旧居の近くで太宰がよく来た銭湯です。太宰は風呂上りに近くの豆腐屋で酒のツマミに豆腐を買い、湯上りの晩酌を楽しんだといいます。私は酒タバコ、女、バクチやらない聖人君主ですから酒で温まれないので、長湯に浸かりました。
 すっかり温まって出てくると、娘が「このオフロに入ると太宰の弱さが伝染るらしい。」などと冗談をいいます。「大丈夫だ。父はもともと弱い。」などと返します。すると娘は、「このお風呂は昼間や夕方に来ると、おばあさんたちが憩いの場所にしていて、お風呂の入り方が悪い若い女性に注意したりするよ。」と言います。娘は小さい頃から銭湯好きで小学校一年の時には一人でタオルとシャンプーを持って銭湯に出入りしていたくらいです。「男湯は、そんな風呂名主のようなおじいさんはいないなぁ。」と私は答えます。寒い帰り道ですが、そんな他愛もない話はおもしろく、Kさんが言うように、たしかに楽しいです。

おふろやさん

 ふと、西村繁男さんの絵本「おふろやさん」を思い出します。湯船をバシャバシャさせてフザける子どもたちを叱るおじいさん・・・・もうそんな風景もなくなったなぁと思っていましたが、銭湯・喜久の湯では、まだ残っているようです。きっとKさんのところのお子さんもお風呂に入って入って遊んでいたら「ここは、プールじゃねぇぞ!」と怒るおじさんがいたりしてビックリしたのじゃないかな、なんて想像はどんどん膨らみます。
  銭湯に行った経験のない子がほとんどの現代・・・修学旅行では水泳パンツをはいてお風呂に入るという小学生・・・すべてがなんだか歪んできています。太宰の弱さが伝染っても何でもいいから、地域の人と裸で触れ合う・・・個人主義の世界ではそういう人間が大人になっていきときに必要な社会性の訓練もできなくなってしまいました。
 Kさんから感想が戻ってきたら、今度は「小金井市の東京たてもの園には銭湯建築の典型的な《子宝湯》という銭湯が移築保存されているので、ぜひ見に行ってください・」と書こうなどとも思っています。「そこの風呂絵の楽しさは子どもさんが目を見張ることでしょう」とも書きたいです。

遠くてもつながりがあった

 佐賀のAさんからは「一月号の新聞の表紙に載っていた年賀状は仙台に住む知り合いのもので、十三年前に外国旅行の時に知り合った方のご家族です。ビックリしました!」と来ました。「十三年前というとお子さんは生まれてないですよね。奇遇ですね。」とお便りを返します。十三年間、遠く離れて年賀状だけのお付き合いが、突然ゆめやの新聞上で確認できる不思議さ・・・もあります。私は私で「写真のお嬢さんの病気は完治しただろうか?」と思ったり、「旅行で知り合っただけで、十三年も年賀状のやりとりができるなんてすごいなぁ。」などと思ったりしていました。こういうコンタクトは想像を大きく膨らませるばかりでなく、人間への好奇心も高めると思います。くだらない芸能番組で、だれそれがくっついた、彼、彼女が別れた・・・なんて劣悪な好奇心より、知っている人への思いを高めることは重要なことだと思うのです。現代は、こういう思いもなくなっているような気がしますからね。
 東京のSさんから配本のことで電話が来て、「じゃあ、そういうふうに組み替えますね」などと言いながら雑談に突入すると「郷里の福井に帰省して、知り合いの家に行ったらウチの配本と似たような本が並んでいたので、聞いたらゆめやさんから取っている、ということで・・・・。びっくりしました。旧姓しか知らなかったので、誕生日欄では分りませんでした。」とのこと。これも偶然なので「小さい小さいブッククラブですから、それは、ほんとに珍しいことです」と答えます。
 こうして毎日の細かな返事、返信で私はつながりを切らないようにしています。

つながりを切る社会

 こういうお便りや電話での交流も最初は皆さんと私の出会いがあったからで、もちろんコンタクトには濃淡がありますが、長いお付き合いは不思議なつながりももたらします。出会い(邂逅=encounter)があって、接触(contact)が始まり、他愛もない会話やお便りが積もり積もって、人というものはつながっていくものなのでしょう。現代は高度に通信機器が発達して、外国までたやすく交信ができるようになりました。しかし、それによって人間の孤独が増し、無縁化が起こっている・・・これでは低開発国(あえて発展途上国とはいいませんよ。発展が良いというのは幻想です)のほうが家族の絆が強く、地域共同体がやさしく子どもたちを見守るよさがあります。通信機器が発達は、人間からつながりも思いもなくしているような気がします。発達のし過ぎで、コンタクトが面倒になり、発信をせずに受信だけ。その受信するものは垂れ流しの情報ばかりです。人のぬくもりがない。友人も夫婦も親子も共同体も・・・みんな出会いから始まるわけで、それを切るのは付き合い方が薄いからかもしれません。付き合いが面倒になっているからかもしれません。

最初の出会い

 でも私たちは、まず出会いから始まりました。生まれるということ、生まれて初めて親の顔を見ること、親は初めて子どもの顔を見ること・・・ときおり、思うのです。「あらゆる出会いの中で親子の出会いはまったく奇跡的だ」と・・・。どの親だって、この子と出会うと意図して産むわけではありませんよね。それが親と子になるわけですが、考えれば何十億分の一の確率で奇跡的な出会いです。これを大切にしないわけにはいきませんよね。ひょっとすると親子は何よりも大切な出会いとつながりなのではないでしょうか。ふつう、その大切な出会いは子育てというコンタクトを通して強いつながりになっていきます。読み聞かせで毎日毎晩接する時間もそのコンタクトのひとつ。いっしょに遊んだり話したりする時間もコンタクトそのものです。そう考えると子どもといる時間は貴重な貴重な時間でもあります。自分の欲ばかりで子殺しをしてしまう親もいますが、それは例外も例外の悲しい出会いでしょう。つまり働きかけがコンタクト・・・出会いは、この働きかけがないと持続しないものなのかもしれません。何も物をたくさん与えるとか、そういうことではなく、ふつうに、物理的にいっしょにいること、ともにいること・・・それが奇跡的な出逢いを持続させるコトなのではないでしょうか。「Bestの子育てをしよう」などと、むずかしいことを考えずに、とにかく楽しい時間が過ごせれば、やがて強い「つながり」が生まれると思います。親と子の絆が切れてしまうほど悲しいことはありませんものね。(ニュース本文・一部閲覧)

「国語力を高めます」ってかぁ?

 ある会員のお母さんが「こんなものが郵便受けに入っていました!」とパンフを見せてくれた。「ああ、よくある教育産業の無料体験の勧誘ね。昔からありましたよ。ウチの子の頃は個人情報管理も甘かったから生徒のリストがかんたんに手に入ったらしく、毎月来てました。でも、個人情報がうるさく言われるのに、こうした教育産業はどこでリストを手に入れるのでしょうね。宛名がお子さんの名前ですものね。アブナイ話ですよね。」なんて言っていると、そのお母さんは「いえ、そういうことではなく、中身なんですが・・・」と開いて見せてくれた。
 キャッチコピーは「すべての科目の土台となる国語力を高めます!」である。「マンガやゲームばっかりの子どもでも読書力がつく」「読書感想文がかけない子が書けるようになる」「人前で話せるようになる」という内容である。私などブッククラブ配本で悪戦苦闘しているのに、なんだかこの教室に通えば読む力・書く力がどんどん育つらしい。これは、ものすごい話だ。塾の学習のように問題があって、それを解くテクニックを教えて答を出させるのとはまったく違う分野の話だ。なんてったって、子どもたちがなかなか身につけられない読書の力を高めようというテクニックである。そんな魔法のようなことができるのだろうか。私なんか、高学年の読書がうまく行かない状態に危機感もあり、徒労感もあり、読み聞かせから始めても60%くらいしか残らないブッククラブを抱えているというのに・・・・小学校中学年から、しかも本体験のない子を本好きにする魔法・・・まさか、ゾロリを読んで・・・なぁんてのじゃないだろな。それにしても、すごいよ。このパンフ・・・。おいしいことばが並んでいる。

ポイント ゲット!

 さすが大手教育産業は高度な技術力とノウハウを持っているらしい。見ると、こういうパンフにありがちな国語教育学会の理事とか大学の教授、助教授が推奨のコメントを載せている。あまりよく知られていない人たちだが、こういうわずかな謝礼で名前貸しをする教育者もけっこういるんだなぁ。
 さらに・・・これもありがちだが、成果を上げた子どもたちの親のコメントも並ぶ。「まったくと言っていいほど本を読まなかった子が自分から読むように!」「知らない間に国語力がついて本も大好きに!」と賛辞が続く・・・私としては、どうやってそういう成果が上がるのか知りたい。「ノウハウはきっと秘密なんだろうな」と思っていると、実際には町のおばさんが開いている教室に通って、そこで読書力学習が行われる、とあった。誰でも指導できるわけだ。すごい!
 で、どういう指導か?・・・読んできた内容について質問をして正解だとポイントをゲットできる・・・なるほど今のネットショッピングの応用か。ポイント集めると大漢和辞典でももらえるのかしら。それとも3DSでももらえるのかな。

答を言えばいいということ

 私は、読書したあとに「誰かが内容を確かめるなんてトンデモナイことだ」と思っていた。「カブをおじいさんが引っ張って、その後に引っ張ったのは誰ですか?」「おばあさん!」「はぁーい正解!5ポイント、ゲット!」・・・「カブが抜けたとき、あなたはどう思いましたか?」「・・・」「よかったと思ったんでしょ! 答えられないからポイントはゼロね。」・・・・というわけか。
 「ゴンギツネが兵十の家に持っていったものは何ですか?」「クリやマツタケです。」「正解! 5ポイント、ゲット!」・・・「ゴンギツネは悪いことをしなかったのになぜ鉄砲で撃たれてしまったのですか?」「・・・・」「答えられないなら、ポイントはゼロ!」・・・なるほど、子どもの得点獲得欲を刺激して、読書を進めていくというわけだ・・・考えもしなかったやりかただ。
 だいいち、私には読書を町の教室や他人の指導の下で行うという発想自体がなかった。読書は個人的な体験で、楽しく読めなかったらダメで、読書をしたら何か報酬が出るなどということは思いつきもしなかった。ブックトークだことのアニマシオンだことの読書のおもしろさを伝えることさえ、子どもの読む自由を阻害するものとして考えていた。だいいち本の中身を紹介してしまったら、読むおもしろさも何もない。答がないのがすぐれた文学なのに答があったら、推理小説を後ろから読むようなものじゃないか。
 もし、指導者が読書家で、真に文学を考えているような人なら、こんなセコい答を教えるような指導はできないはずだが、「教室で子どもを教える」という幻想に捉われたヒマな主婦の小遣い稼ぎならやめてほしいと思うばかりだ。

とにかく答を出せばいい世の中

 でもまあ、世の中は進んでいる。これでいいわけだ。分らないことはケータイ取り出して、検索すればいい。「ええっと、おおきなかぶと打ち込んで、ダウンロードすると、あった!あった! おばあさんの後は孫娘が引っ張るんじゃん。」「ごんぎつね・・・ごんぎつね・・・うん、クリとマツタケだ。 盗んだイワシもあったな。よしよし。」・・・ダウンロード分のポイント、ゲットだぜ! この程度で世の中は渡れる・・・答さえ出ればいいのだから試験問題の解答だって何も勉強して解答する必要はない。ネット検索で投稿・回答。ベスト・アンサーでポイント・ゲット。読書力も同じ、先生に答えてポイント、ゲット! それで読書大好きになる。
こういう教室が私の子育てをしているときにもあったらなあ。私も通いたいくらいだ。そうすれば、こんな年齢になってもウロウロ「ああでもない、こうでもない」と考えているような人間はできずに、答一発アリナミンで生きられたのに・・・残念無念。



(2011年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)



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