ブッククラブニュース
平成22年12月号(発達年齢ブッククラブ)

今年もありがとうございました

 また今年も一年が暮れていきます。一年間、ブッククラブをご利用くださいまして、まことにありがとうございました。年の瀬であわただしくなりますが、良いクリスマス、新年をお迎えください。
 今年の冬はじめの甲府は、とてもおだやかで信じられないほど暖かかったです。「このままクリスマスもお正月も暖かい日になるといいな」と思います。でも、それでは自然も農業もダメになるわけで、寒いときは寒い、そして、暑いときは暑くなければふつうではないのでしょう。
 世の中も自然と同じ状態が起きています。ほんとうは、そんなことじゃダメなのに見かけは楽しく平和な状態。なんて言ったってニュースのトップに歌舞伎役者の暴力事件が来て、毎日、毎日、しようもない芸能人のアホ・トークが流されているのですから、日本はおだやかで平和な国だと思います。(見かけはね・・・)
「そういう中で、本来、人間が持っている自然な機能が壊れていかなければいいなぁ」と思うのは私だけなのでしょうか。・・・「また、ゆめやが、お説教じみたことを言い始めるのか」と辟易している会員もいることでしょうが、ハハハハハ・・・今始まったことでなし・・・それに、クリスマスはキリシタン・バテレンのお祭り、説教はつきものです。

と、思ったのだけれど・・・

 じつは、日本ではクリスマスはキリストの生誕を祝うお祭りではありませんよね。この日は、ただただ、サンタクロースがプレゼントを持ってくる日で、キリスト教がラテン諸国ではマリア信仰になってしまったように、日本ではクリスマスはサンタさんの日です。所変われば品変わる。
 なぜ、そういうふうに変わったのか・・・社会学者でも民俗学者でもないので、むずかしいことはわかりませんが、きっと日本人の気持ちの底に子どもを思う気持ちが強いのだと思います。
 おそらく、社会が儒教によってつくられ、家族が大事にされ、子どもが大事にされてきた歴史が400年くらい続いたからでしょう。その精神がまだ残っていて、クリスマスがサンタの日になっていると思うのです。
 こんな多忙な現代でもクリスマス・プレゼントのことになると親は、とにかく頭を悩ませます。これはギャルママも日ごろ子どもの相手もしない大忙しパパも、ひょっとすると虐待をしている親もクリスマスになると「贈り物」のことを思い浮かべるのではないでしょうか。
 さらに、よく観察していると、サンタクロースの存在を信じさせようと努力する親の姿も見えてきます。思い返せば、私もそうでした。

親になったのではなく、親になっていく

 いま考えれば、笑ってしまうほど、サンタの存在を信じさせることや贈り物に「気を入れている」時期がありました。そんな気持ちになることなど独身のときも、子どもが赤ん坊のときもありませんでした。こういう気持ちの移り変わりを見てみると、「子どもが成長することで人は親になっていくのだなぁ」とつくづく思います。
 子どもが生まれれば人は自動的に親になりますが、それは、ある意味、物理的な関係で、子どもへの思いが出てこなければ親になっていくことはできません。女性は最初からお腹を痛め、おっぱいを与え、いろんな世話ができますので、親意識はすぐ出ますが、男はなかなかそういうことができません。関わることでしか実感が出ません。つまり成長に関わらねば、なかなか意識が親になっていかないわけで、その意味では子どもの成長儀式は人を親として自覚させる、よく考えられたイベントだと思うのです。
 成長儀式は、最初からたくさんあります。お七夜、お宮参り、お食い初め・・・さらに、七五三、入園・入学式、卒業式・・・結婚式が最後でしょうかね。とにかく、たくさんあります。儀式だけではないですね。お誕生日、年中行事、日々折々、子どもに関わることは山のようにあります。その数が多ければ多いほど、多様であれば多様なほど、関わりが人を親にしていくように思います。最近、人がなかなか親になれないでいるのは、サブカルチャーで頭が幼児化してしまっていることに加えて、儀式の簡略化、合理化、外部依存化・・・そんな傾向が出てきたからではないか、と思っています。金ばかりかかる無意味な儀式はなくしてもいいと思うのですが、昔からのものは、それなりの意味を持っています。軽々しく「削除」することで親としての自覚が形づくられなくなったら、それはそれで不幸な結末をもたらすことになるでしょうね。

クリスマスの思い出

 親が親であることを意識せざるをえないのがクリスマスです。我が家はほとんどのプレゼントを手づくりのものにしたのですが、あるときハムスターを欲しがっていましたので、「では、今年はハムスターにするか!」と思って、買ってきたのです。前の晩に家の隅に隠しておきました。ところが、何と夜になって子どもたちに見つかってしまい、あわてて別のプレゼントを考えなければならないという失態も犯しました。
 友人に赤い服を着せて、窓の外をスーっと歩いてもらったり、成長してからは、外国の友人に頼んで原語のサンタクロースの手紙を送ってもらったり、そりゃあ涙ぐましい努力をしました。おそらく、子どもの気持ちをより長く持ち続けてもらうことが、より良い大人への条件という感覚がどこかにあったのでしょうね。
 どうして、そういう気持ちになるのか? 先ほど親は「子どもに関わることで親になる」と言いましたが、もう一歩深く考えると、「自分がそういう体験を子どもの時にしたからではないのか」とも思えます。プレゼントをもらうというのは「うれしい体験」なんです。「その体験を子どもにもさせたい」・・・そんな気持ちが親になると出てくるのでしょうか。Give and
Takeという言葉がありますが、子どものときにTakeしたものを親になったらGiveしていくということだと思います。良い体験を受けると、それを子どもにもしてやりたくなる。これが「善の連鎖」。その逆は自分の不幸な体験をついつい子どもにもしてしまうのが「悪の連鎖」・・・なんだか、豊かさが増すのに比例して、この悪の連鎖が増えているような気がするのです。親というものは、自分が幼い時、そして少年時代に受けてきたことを繰り返す存在。どう考えても、親と子どもは善の連鎖でつないでいきたいものです。

Always 三丁目の夕日では

 映画「Always三丁目の夕日」で、養っている他人の子にクリスマス・プレゼントをするシーンがあります。実の親から捨てられた子が「自分にはプレゼントなど来ない」と思っているところに赤の他人の保護者がクリスマス・プレゼントをする感動的な?場面です。
 これを見ていると、自分の子どもに与えるだけでなく、プレゼントの範囲は広げていく必要があるようにも思えます。つまり、Take and Giveは、「自分が与えられたことや物をより広い範囲に還元していくこと」にあるのではないかということです。より広げていく親としての心・・・なかなかむずかしいことですが、それが歳末助け合いの街頭募金100円でもいいし、国境なき医師団への1500円の寄付金でもよい。不要な衣服や食糧を失職者支援団体に送るだけでも良いプレゼントになるのではないでしょうかね。偽善と言われれば偽善かも、自己満足と言われれば自己満足かもしれませんが、「偽善も善も善の内」「自己満足も満足の内」です。
 こういう形で何かをするということは、自分の子にだけ向いた目を、多くの子ども、ひいては世の中に向けていくこともできるでしょう。それは物ではない贈り物につながっていくかもしれません。物で押しつぶされつつある現代人が、その蟻地獄から抜け出すためにも誰か他の人にGiveする気持ちを高める・・・・そうすれば自殺者も激減するような気がします。
こういう殺伐とした時代です。今年のクリスマスは、子どもへのプレゼントの質を見定めながら、そんな「心を考える」クリスマスにしてみませんか。(ニュース一部閲覧)

今年もありがとうございました。

 残りの日もわずか。今年も、ブッククラブをご利用いただきましてまことにありがとうございました。
 さて、この一年、県外の会員のお客様からのお便りで一番多いのは、「なんと一日が早く終わってしまうのだろう!」というものでした。もちろん、来店のお客様からも同じような言葉が出ます。年末になるとそれが「一日」から「一年」に変わります。「あっと言う間に一年が経ってしまった!」・・・子どもの中を流れる時間は、ひじょうにゆっくりとしたものだと言われていますが、その子どもの口からも「忙しくて何もできない!」という言葉が洩れます。
 言葉だけでなく、忙しさがにじみ出ている方も多いです。ゆめやは、通常、配本を受け取りに来るお客様にはお茶を出して、短い時間でも会話を交わすように心がけていますが、「急いでいますから・・・・」とすぐに帰られる方も多くなってきました。実際、ここ二年くらいの間に配本を毎月受け取りに来ることができず、溜めてしまう方も増えています。秋になって夏がテーマの配本を渡すというのも季節対応を心がけている私どもとしては何とも辛いものがあります・・・・紅葉がいつでも見られないように、配本にも旬があるのですが・・・ね。
 忙しい!・・・なるほど、そりゃあ、そうでしょう。一週間の間に塾から始まり、各種お稽古事で放課後が詰まってくれば息つく暇もないでしょう。余裕なく過ぎていく毎日のなかで追い立てられるような生活・・・・これでは、子どもたちが大人になったときが思いやられます。そんなにお勉強をして、才能を磨いて、いったい何になるというのでしょうか。少子化で高校どころか大学でもかんたんに入れる時代です。全部が全部とは言いませんが、大学生も大学卒もかなり頭の程度が悪くなっています。それ以上にモラルハザードも進んでいて、大げさに言えば人間が壊れ始めているのに、子どもたちを時間で追い立てて幸福な幼年時代を送らせない。この影響は大人になって必ず出ますよ。
 でも親は、「そうでもしないと豊かな生活ができない」と言うでしょう。豊かな生活イコール幸福な生活なら、それも認められますが、なんだかどんどん人間が壊れるような気がします。これも時代の流れでしかたのないことなのでしょうか。遅れを取れば取り残されるという不安感・・・それは、わかりますが・・・・。

昔、むかしの年末のある日・・・・

 さて、クリスマスが近づくと思い出すことがあります。もう二十数年も前のことですが、当時は店も忙しくなく、(今もそうですが・・・)私はストーヴに当たりながら本を読んでいました。今でこそ、新刊しか目を通しませんが、当時は暇も手伝って一日に十数冊の絵本を読み、数冊の児童書を読んでいたのです。時間的余裕があるということは、この意味でもとても役に立つことだと長い時間が経ってから実感しています。私は絵本で育っていない世代ですから、なおさら。
 で、読んでいると、スーッと冷たい風を感じました。目を上げると、小学校一年生くらいの女の子が立っていました。  「こんにちは」と声をかけたのですが。その子は恥ずかしそうに目をそらせて、展示してある本を手に取って見ています。今でもそうですが、ふつう子ども一人でやってきて本を買うことなどまずありません。絵本「はじめてのおつかい」に描かれているように、この年齢の子どもが一人で買い物をするのは、かなり勇気がいることです。そのへんの事情はよくわかっているので声をかけずにそのままにしていました。
 平置きの本はクリスマス関連の本ばかりですが、彼女はそのなかの一冊を手に取って丁寧にページをめくりながら読んでいます。けっこう長い時間が経って、私が一冊を読み終えても彼女はまだ本を広げています。そのうち本を手に持って、お金を添えて置きました。本はブレア・レントの絵がついた「マッチうりの少女」(当時の定価は980円)でしたが、女の子の出したお金は五百円でした。現代の子どもと違って、当時の一年生ではまだ金銭感覚は希薄で、お勘定の計算はできません。彼女はそれで十分買えると思っていたらしいのです。
 『まあ、いいか。小さなお客さんにクリスマスプレゼントだ』と思いながら、包装紙に包みはじめました。
 「誰かにプレゼント?」・・・女の子は首を振ります。
 「自分で読むの?」・・・・・うなづきます。
 「ちょっと悲しいお話だよ・」・・・また、うなづきます。
 「はい、お待たせ!」・・・・女の子は、おつりを期待していたようですが、それでもリボンのついた包みを大事そう抱えて外に出て行きました。
 こういうことをすると実に気持ちがいいものです。自己満足の典型だし、意図的なことだから偽善的なうしろめたさもあります。「なあに、偽善も善のうち・・・」とうそぶいている自分も発見して、おもしろいのです。とにかく何が善で何が偽善かは昔からよくわかっていません。悪もまた必要悪などという言葉があるように、これまた不分明な部分もありますが、まあ、ある程度の倫理感覚を持っていれば、線引きくらいはできます。
 たかが480円をまけてやる偽善くらい膳の内でしょう。いろいろ考える必要もない瑣末なことです。

ポツリポツリの会話

 さて、じつは話はそれで終わらりません。その女の子は春休みや夏休みになると必ず店に入って来て、一冊、本を買って行きます。もちろん、次の冬休みもやってきました。
 何度目かのとき(もう中学年くらいになっていたとき)に、私は声をかけてみました。
 「どこの小学校?」「K小学校です。」
 「K小って、どこにあるの?」「横浜。」
 学校が休みになると、おばあちゃんの家に泊まりに来ていて、近くにある私の店を訪れていたわけでした。考えてみれば、それが一番最初に彼女が口を開いたときの言葉でした。
 「どんな本が好き?」
 「グリムの話とかアンデルセンのものが好きです。」頬を赤らめて女の子は答えました。
 それから何回か来店し、やがて高学年になったときに手紙をもらいました。手紙はいつもの口数の少ない女の子のものとは思えないほど饒舌で、なんと便箋5枚。本を読んでいるときが一番楽しい時間だ、ということが書かれ、どんな本を読んできたか、一番最初に自分で買った本は「マッチうりの少女」だった・・・などメンメンと書き綴られていました。すぐに返事を書いたのですが、その子は次の休みには来店せず、その次の休みも来ないで・・・それっきり姿をみせることはありませんでした。そして、いつか私も忘れてしまいました。

名作が生まれるといいね

 十年くらい経った年末のある日、私が配達から戻ってくると、店で若い女性がお茶を飲んでいました。女房が「この方、誰か知っている?」と、言います。
 「いや・・・」(若い女性に手を出した記憶はない)・・・・
 すると、その女性は「横浜のSです。その節はどうも・・・」と言いました。
 「ああ、あのときの、あの少女が、こんなに大きくなったとは!」 あっと言う間に十年は経ち、女の子は若い女性に、私は老人に・・・・まるで玉手箱の煙を吸ったかのような気分です。
 彼女は大学で児童文学を専攻していて、「いずれは作品を書いてみたい」ということを熱っぽく語りました。昔の恥ずかし気にうつむいていた少女ではなく、ハッキリと話をする明るい感じの大学生になっていたのです。お父さんの転勤で数年間、北海道に行っていたということでした。
 そして最後に「あのブレア・レントの『マッチうりの少女』、ほんとは高い本だったこと、あとで知りました・・・・」と言ったのです。私は、すぐに自分の自己満足と偽善の賜物を思い出しましたが、しらばっくれて
 「ああ、レントの『マッチうりの少女』は絶版になってね。もう出ていません。大切にしてくださいね。」とトボけました。ここで、口に出してしまったら、私の自己満足と偽善がバレバレになってしまうので、忘れたフリ、忘れたフリ・・・・です。
 「いつか『マッチうりの少女』の少女のような作品を書きたいです。」
 「そうですね。日本にはいい童話が少ないからね。書いてください。」と話しながら、もしも彼女の作品が、いつか店の棚に並べば、金には代えられない大きな私へのプレゼントになるかも、と思いました。

返事

 世の中、何もかもがお金の追求になって、人は忙しさの中に身を置いています。この調子で行くと、大人も子どももあわただしい人生を送るだけになってしまう可能性が大きいです。国民総生産の指数を上げるお手伝いをするのもいいけれど、それでは貧富の差が開くばかり。富=幸福ならいいけれど、幸福を伴わない富裕はマッチうりの少女が覗いた窓ガラスの向こうの世界のようなものですよね。
 テレビでは常に豊かで楽しい極楽のような映像が流れます。この国は貧しくもなく不幸でもない国民ばかりというように異様な宣伝がなされています。そして、経済力競争や学力競争、スポーツ力の競争などで、まるで死にかけた病人にカンフル剤を打ち続けるようなことばかりしています。
 観光という名の巨大な環境破壊も進んでいますし、ビジネスチャンスという名のもとに人と人のつながりを切っていく市場経済も膨張しています。そして、その結果起こる事件、事件、事件・・・・。その内容を知るにつけ見るにつけ、何でもありのデタラメが横行していると思わないわけにはいきません。
 人々は、テレビやネットが流しだす「豊かさ」を求めて忙しい生活をしているわけですが、それはまるで鼻先にニンジンをぶる下げられた馬のようなもので、われわれは永遠に食べられないもののために走り続ける悲惨な状態の中に置かれているのではないでしょうか。しかもテレビやネットはもう、どうしようもない「パンドラの箱」と化しています。何がなんだか分らない邪悪なものを次々と出す箱、最後には「希望」という人間にとっては最悪のものまで見かけでは出しています。まったく時間泥棒たちは驚くべき体力で24時間寝ることもなく、パンドラの箱から邪悪なものを出し続けているというわけです。
 だから私は「一日が早く終わってしまう!」「あっと言う間に一年が経ってしまった!」というお客様の言葉にハガキや口頭で、こう返事をしています。「もう一度、ミハエルエンデの「モモ」を読んで、時間泥棒との戦い方を工夫したいと思う今日この頃です。」
 世の中金ばかりじゃないわけで、ほかに幸せを導き出すものはあるはずなのです。まだ、なかなか具体的に、その道を提示できないのですが、私の考え付かない時間泥棒との戦い方をあの「マッチうりの少女」を買って行った少女は自分の生き方の中でもう見つけたのかもしれません。そのうち、きっと素敵な作品を世の中に送り出して、人々の目を覚ましてくれることを大いに期待しています。そういう子どもたちが豊かさでバカになっている大人を越えて、すばらしいものを作り出してもらいたいと思います。
 世の中は村上春樹の作品に見られるようなエロ小説に毛が生えたようなものがもてはやされている最悪の時代に突入していますが、それが時代を切り開く文学として何の価値もないことが分ってくる次の時代に新たなものを期待するよりありません。なには、ともあれ、その大人になりつつあるその少女と次の時代を生きる皆さんのお子さんにメリー クリスマスです。(ニュース一部閲覧)



(2010年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)



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