ブッククラブニュース
平成22年11月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのある生活へE

 世間一般が受け入れるストーリーのものは、ひじょうに底の浅いものが多いのです。勧善懲悪(悪をこらしめ、善をすすめる)や物事の白黒がはっきりしたものがほとんどで・・・・深く考えさせる要素がほとんどないのです。  つまり、条件反射で「良いものは良い、悪いものは悪い」と決め付けてしまうような話が一般的には受けています。単純に言えば「水戸黄門」の話ですよね。ここでは、黄門さまはいつも正しく、悪を退治する。アンパンマンもそうです。自分がイースト菌でできているという自覚もなく、バイキンをやっつけます。こういうことは世の中の現実とはかなり違うものです。現実はかなり複雑です。
 「イスラムは悪い、アメリカは正義だ!」という水戸黄門・アンパンマン型の発想はテレビなどの影響があって日本人の一般的な考え方になってしまいました。こんな底の浅い物の考え方では、ある意味有能な政治家が出てきて、扇動すれば「そうだ、そうだ!」で戦争になだれ込んでいく可能性が高くなります。じつは、戦後60年の間、この国は水戸黄門やアンパンマンのようなヒーローばかりを産み続けてきたわけです。ウルトラマンもそうです。あれだけ怪獣を倒して、正義の存在になっていますが、町を破壊したあとに後片付けに追われるウルトラマンを見たことがありません。たhしかに、そんなシーンを出せばヒーローの価値は落ちてしまうでしょうが、現実とは白か黒かで決まるものでないことは誰もがわかっていることです。白か黒か、悪か正義か・・・・。

一杯のかけそば

 こういう価値観が子どもの読書につながっていったら、さらに問題です。戦隊ものなど、まさにその始まりのようなシナリオを持ったもので影響力は大きいです。さらに表面は美談や心の優しさを描くものでも眉唾ものが多いのです。昔「一杯のかけそば」という語りが一世を風靡したことがありました。貧乏に耐えた兄弟が世の中で成功する話ですので、みなさんの中には記憶しておられる方もいると思います。一度聞いただけで嘘くささを感じる話ですが、世間一般は美談として捉え、学校ではその話のコピーが出回りました。流行させた人に人格的な問題があって、ブームはすぐに去りましたが、映画までできたのです。こういう単純なストーリーは低レベルの感動をもたらすだけですが、受け狙いの価値観が基礎になると深く考えないで短絡的な判断をする人間になってしまうことです。これは怖いです。
 と、言うことは「読み聞かせをすれば大丈夫か?」と言っても、選ぶ本にもよることになり、仮面ライダーや戦隊もの、プリキュアなどのサブカル絵本の読み聞かせで育てれば、もうそれなりの子どもにしかならないでしょうね。やはり、こういう時代では読み聞かせの本も選んでいかないと、「こんなはずではなかったのに・・・」という結果になってしまいます。
 読み聞かせというのは何度も言いますように、親が子と接する貴重な時間です。いまや、この時間を十五分も取れない親が激増しているわけですから、さらに読み聞かせの時間は貴重になります。読み聞かせは親と子をつなぐ大切な絆で、別に読み聞かせおばさんと子どもをつなぐものでも、園の先生と子どもをつなぐものではありません。親と子なら、嘘っぽいお涙頂戴話や「いかにも正義」のお話は不適切です。親と子が楽しむ・・・その向こうには心の余裕、ほんものの物語が必要なのです。
 読み聞かせのある生活は、家庭の余裕を作り出す面でも、また心の余裕を取り戻す意味でもしだいに大切になってきているといえるでしょう。読み聞かせをしても高度な読書につながらない家庭も出てきていますが、幼児期の読み聞かせの効果は「思春期に大変な少年にならない」という要素を持っています。これは重要な成果だと思います。何と言っても、子どもを相手にお話を語る時間は、せちがらい現代生活のなかで至福の時間になると思いますよ。子育ての期間は短いです。お金を稼ぐのも大切でしょうが、お金では買えないものもあることを頭に入れて、読み聞かせをしてみましょう。

F本好きも本嫌いもなくなる時代に

紙の本は数年でなくなる!?

 本が好きになるかどうか、本好きにするにはどうするか・・・などという議論は、じつはまだ紙の本を前提にした話で、学校の取り組みも、その域を出ていない。ところが、そんな遅々とした動きにガツンと強引な発言をした科学者がいる。ニコラス・ネグロポンテというアメリカのコンピューター学者で、イラク戦争推進の立役者だった情報長官のネグロポンテの弟。どんなことを言っているかというと、こうだ。
 「電子書籍と携帯情報機器の普及にともない、伝統的な「紙の本」は今後5年以内に姿を消すだろう――。」というものだ。どう考えてもそういうことはないが。彼は電子ブックの売り込みのためにアジテーションしているのである。後進国に教育をいきわたらせるために自らが「子どもたちにノート型パソコンを配布するプロジェクトを立ち上げた」という行動家が言うセリフである。つまり、彼は、現実問題として「紙に印刷された本を人々に行き渡らせるのは困難だ」と主張する。それより安価なコンピューターを子どもたち(大人にも)与えたほうが効率的だと言う。だから「アフリカで本を欲しがっている50万人の手に、紙の本そのものを届けることはできない」らしい。彼のプロジェクト「OLPC(1人の子どもに1台のラップトップを)」では、「1台のパソコンに100冊の本を載せ、それを100台送れば、村には1万冊の本が届くことになる」と強弁する。さすが、算数に強い合理的なアメリカの工学系学者の意見だ。100台を回し読みしないと一万冊読破はできないが・・・・。そんな単純な矛盾より、とにかく後進国を助けるために写真のような安価なコンピューターを売り込みたいらしい。その背後には、アメリカ的な考え方を安いPCを通じて後進国に広めたいという野望があるのかもしれない。昔、黒船でやってきたペリーと同じで、眠っていた日本は目を覚まされ、おだやかな庶民の生活は物を追い求める明治国家に変わり、近代化を作り上げたのだから、いやはや。すばらしい戦略だ。
 目を覚ますのを手伝った坂本龍馬や福沢諭吉のような列強に加担する人物がきっと後進国でも生まれて、その国を豊かさを追い求める国にすることだろう。
 この調子で行けば、たしかにネグロポンテの言うとおり、近代化を求める後進国の意識は熱く強いので紙の本から電子書籍への移行はより速く進む。実際、ネグロポンテによると「ケータイは、もともと電話のなかったカンボジアやウガンダで素早く普及したわけで。米国では固定電話があったため普及が遅れた」ということだ。

グーテンベルクの時代の終わり

 この行動は、建国以来、自国の思いを世界に広げようとしてきたアメリカの考え方でもある。おせっかいともいえるが、影響力が強いので無視できない。前回も黒板の電子化などを公共事業的に考えている孫正義のことに触れたが、このような人は日本にもたくさんいるし、政治への影響力も強いから日本も後進国に負けないように電子教科書に盛りだくさんの電子書籍がダウンロードされる時代は近いことだろう。教育界もかなり教師たちの官僚化や教組の軟弱化が進んでいるから教師側からの抵抗はないはずだ。そして、いつか私のような人間は、古臭い紙の本を後生大事にしている時代遅れの「グーテンベルク原理主義者」と呼ばれて迫害を受ける時代が来るかもしれない(笑)。しかし、こうした電子書籍普及への動きは新しい形の焚書坑儒ともいえる。(*焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)=秦の始皇帝が自分を批判する儒学者を虐殺し書物を焼いたこと。20世紀になってもナチスや毛沢東が同じことをした)まあ、かんたんに言えば、特定の思想を広げるために多様な思想や哲学や考え方を排除しようという動きである。
 こういうことについて、文学はかなり先見の明があって、レイ・ブラッドベリは「華氏451度」(早川書房)というSFの中で紙が燃え上がる温度を比喩にして国家による「焚書坑儒」状態をうまく書いている。読書好きで有名なフランソワーズ・トリュフォー監督が映画(英)にしたこともある名作だ。ただ、おもしろいことにブラッドベリ自身は、「華氏451度」について「国家による出版の弾圧を描いたものではなく、テレビなどのメディア文化が読書の世界を侵食することを念頭に置いて書いた」と言っているから作家の先見の明は、さらにすごいものだと思わざるを得ない。「華氏451度」はテレビがまだ普及していない時代(1953)に書かれたものだからだ。こういう本も電子画面で読む時代が来るとすると、なんだかなぁ!という気がするが、世界中が紙の本を知らない子どもたちばかりになれば違和感はないのかもしれない。

これから何を読むか・・・

 では、「これから、どういう本を読んでいけばいいか」・・・と、なると、いろいろむずかしい問題だが、一過性の話題ばかり先行する本とか底の浅い流行の本でひきつけようとしても結果的には意味のない読書推進になってしまうだろう。グローバル化の時代は、自分自身の文化をうまく説明したり、考え方として表現できる力が求められるわけで、その意味では目を外にばかり向けないで内にも向けていないと大変である。明治以来、日本は外国の物の考え方や様式の取入れをしてきたが、その外国がいまや息詰まってきているわけだ。後進国の子どもたちがコンピューターをゲームやネットとして使わずに電子書籍として本を読めるようになるというのは、とてもよいことだが、同じようなものばかり読んでいたのでは、やはり底の浅いグローバル・スタンダードでしかない。
 外国人から日本のことを聞かれても歴史一つ答えられないという若者が増えているという。外国人は、とくに欧米人は日本やアジアに自分たちの世界で求められなかったものを求めているのだ。生物多様性の問題を見ても、欧米人は貪欲にアジア、アフリカの生物を求めている。かなりのお金を費やして漁っている。

日本にも欧米にない価値がある

 いずれ、この医薬品の商品化も限界にくるわけで、もっと哲学的なものが求められてくる。すでに、医学や科学の進歩の中で生命の問題や生き方の問題、死の問題などが大きくクローズアップしている時代だ。例えば日本には、外国の考え方にはない「もののあわれ」とか「諦観」とか「わび」などという考え方がある。こういうものが世界に認められる日が来る可能性はひじょうに大きい。これらの本は元は古典でむずかしくて、子どもはもちろん大人でも読むのは困難な本だが、そういう本が読めるような読書力をつけておく必要があるのではないだろうか。誰もがわかるようなものを読めるのは、あまり読書の意味がない。子どもが本を読まないから、「歌謡曲の歌詞でもきっかけにして読書に向けよう」などというセコい試みもあるが、そんなことでは高度な本が読めるような基礎読書力はつかないだろう。

続・発達に応じるということ
4)何をどう選ぶか

 例えば絵本を選ぶときなのですがが・・・・その前に・・・また後日談で恐縮なのですが、十月十五日(8;00〜8;33pm)にNHK甲府で制作した「ヤブさんと15000の動物画」という番組が放映されました。
 いずれBS2などで再放送されると思いますが、ここで「どうぶつのおやこ」(左)をブッククラブ配本に三十年間も選書してきた理由を話しました。選ぶ意味です。
 生後十ヶ月くらいの赤ちゃんはリアルなものを認識する力が大きく、カワイイ絵がかわいいという判断する力はまだついていません。いわゆる「かわいい」という印象は大人の勝手な思い込みで、すべての人に共通する「かわいらしさ」などはないのです。ただ、メディアによって刷り込まれた「かわいらしさ」をそのまま受け取って「かわいい」と思うわけで、そんな基準で物を選んで子どもに与えたら正常な発達を阻害することにもなりかねません。だから選ぶということは大切なことになるわけです。

子どもには読み取る力があるから

 赤ちゃんも含めて、子どもは相手の表情を読み取る力を発達させていきます。例えば目を見て、それが優しい眼差しか怒っている目付きかをじょじょに判別する能力が出てきます。これは耳からも同じで、騒音や甲高い声には敏感に反応して不快さを表現しますが、静かさや快い音の中では過敏な反応は示しません。これは、周囲を読み取って育っていく動物の特徴でもあります。動物は自分の味方や保護者と脅かす者や敵が誰かを見抜かないと生き残れません。赤ちゃんにも、この能力はあるわけで、目つきから判断するのは自然なことです。上の「どうぶつのおやこ」のライオンのページでは怖い顔をしたライオンが描かれていますが、じゃれる子どもを相手にしている母ライオンの目は優しいのです。「生後十ヶ月の赤ちゃんがそんなことがわかる?」と思う方もいるかもしれませんが、読み取る訓練にはなっています。
 では、アニメのライオンではどうでしょう。目に表情どころか、怖さも優しさも何もありません。ここからは何の情報も読み取れません。そりゃそうですよね。単純な黒丸や丸い目では読み取りようがないわけです。
 これを見れば、当然、薮内正幸さんの絵の本を選んで採用し、アニメイラストを外すことになるわけです。最初に見る絵本はとても重要な本で、選ぶのには気を使います。この本が、この三十年間、生後十ヶ月の赤ちゃんに選書されつづけてきたことは、実際に与えて反応があった方々にはご理解いただけると思います。

因果関係がある?

 オタクといわれる若者たちは、一般にKYとか、ふつうに対話ができない人種として捉えられています。彼らの歴史は三十年くらい前にさかのぼります。1970年代に出現して、進化?してきました。しかし、オタクでなくとも現在二十歳代の若者で人の目を見て話せない、対話がうまくできない、すぐ騙される、注意力が散漫、人間関係がうまく調整できないなどの傾向が指摘されています。この現象とアニメなどのサブカルチャーを結びつけるのは強引かもしれませんが、あまりにも時期が一致し、あまりにも現象が一致する特徴があるのです。ケータイやゲームも機械相手で、実際に、現在の子どもたちでも「相手の気持ちを察することができない」、「物事に注意を払わない」という状態が顕著なっているようです。
 育っていく中に、緊張感もなく、周囲も寛容でゆるやかという状態があると人の気持ちを目や態度から読み取らなくてもいいので、注意力の不足した幼児やコミュニケーションのできない少年が生まれても仕方がないですよね。何事も生育環境を適正なもので固めることができなかった(選ぶことができなかった)ことに原因があるのかもしれません。

いったい、この国の出版は・・・・?

 このところ、いわゆる就学児用の児童書で絶版、再版中のものが多くなった。ゆめやでは入れ換えに大ワラワである。この原因はコンピュータによる在庫管理が徹底してきたために、出版社が在庫を減らしていることが挙げられる。「なくなったらすぐ印刷に入ればいい」という考え方が出てきて、在庫をたくさん持たない。経営的には合理的なことだが、このため受注が多くなるとすぐに再版中となって品切れである。大量に出るのに在庫がないという状態は困るが、これが市場主義経済というものだ。7月に出たばかりの新刊が再発注すると「品切れ・再版未定」では、月別の配本を設定しているブッククラブとしてはたまったものではない。いつ再刊になるかの連絡はないし、そのまま絶版になることもある。グチですが、このところ頻繁に起きるので困っているというわけ。この傾向を分析すると、出版社であろうが中身よりは「何が何でも売れること、儲かること」が基本で、「本」というものの意味がなくなってきたのかもしれない。

理論社の倒産

 そんな矢先に何と「理論社の倒産」のニュースが流れた。困った! 就学児ブッククラブには理論社の本がけっこう入っている。代表的なものを挙げても右(印刷した配布用のものでは全点写真掲載だが、ここでは一点のみ)のように低学年から中学生に至るまでたくさんある。理論社は、昔から多くの本が読書感想文の選定書籍になったり、話題になる本を出したり、で有名な老舗だった。そこが倒産。これから仕入れはどうなるのか危ぶまれるが、とりあえずは新しい出版をせずに現状の在庫と再版をするらしいから、しばらくは滞りなく入荷するらしい。倒産前は、タコ足的にサブカル本まで手を出していたから、かなり困っていたかもしれないが、組織が大きくなると大変だ。維持するために巨額の金が必要となり、新刊を出してはしのぐという自転車操業になる。例えばその逆を行っている出版社にペンギン社(ブッククラブ配本では「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」で有名?)など、好学社(ブッククラブ配本では「スイミー」などで有名?)があるが、この出版社は新刊をほとんど出さない。30年前にペンギン社の社長と話したとき「いやぁ、小さい版元は大変。ウドンをススってがんばっているだけ」と言っていた。好学社の社長はおっとりと構えていた。そんな小さな出版社のほうが生き延びて、大きな出版社が潰れる。なんだか、よくわからない。
 良い本を出してきた出版社が潰れるのはかわいそうだが、市場原理主義はきびしい。できるかぎりお助けで仕入れをしたいと思うが、こんな小さなブッククラブの販売数では焼け石に水。シリーズを買い足したい方は割引で受け付けますので、ご連絡ください。

一人勝ち!

 知り合いの出版社の社員に聞くと、最近、どこの出版社もウエブ上での販売が減ってきているという、ネット注文が個別の出版社でなく、AMAZONに集中しているからだ。AMAZONは送料なしで送る巨大通販である。この圧迫が書店ばかりではなく出版社にもあるらしい。売れるならAMAZONで売れてもいいと思うが、仕入れで安く叩かれて利益は減るからやっぱり大変なわけだ。11月1日にはAmazon.co.jpが販売、発送品の通常配送料が完全無料化されたから、出版には大きな変化が出るだろう。
 たしかにネットで注文して、すぐに送料なしで送ってきたら書店も出版社のWeb販売も太刀打ちできなくなる。書籍販売をダメにしてしまうのがi−padなどの電子書籍ではなく大流通会社だったとは!
 さらにオバカ女性をターゲットにした付録つき雑誌(Sweet/宝島社)のようなゴミを量産しているような出版社も出てきて史上空前の売り上げだという。これは、もう本を売るのではなくオマケで本を買ってもらう企画・・・つまり売れれば何でもいいわけで、AMAZONもまた、本など取り扱い商品の一つにすぎない。やはり、儲かれば何でも売る。便利がいいのか、合理的がいいのか・・・しだいに物や人への思いが減ってくる世の中になりそうだ。出版というものは、世の中を明るく照らすことが使命のはずだが・・・・どうやら、ここでも儲かれば何でもやる気運が高まってきたようだ。児童書の世界も同じ。これではメディアで仕掛けたものしか売れず、良いものでも売れないものは絶版になっていく。前回も述べたが、この調子だと少年期から思春期にかけて、「これは必要」というような基本図書も消えてしまうかもしれない。ゆめやもアニメでも売るかな、と思う。



(2010年11月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

ページトップへ