ブッククラブニュース
平成22年2月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!?
Fたった六、七十年の大変化

●生活様式の変化の中の子育て●

 日本がものすごく変わったように、ここ六、七十年で子育ての方法もまたすごく変わりました。私が子育てをしてきた二十年の間でもクルクルクルクルと変わっていますから大変化といえるでしょう。おそらく明治時代以前は、そんなに急な変化はなかったと思います。例えば寝るのをひとつ取っても私の子どものころは「川の字で寝る」伝統的な親子の寝方でした。当然、子どもの寝室も子ども部屋もなく、寝ても起きても親の周りにいるという幼少期を過ごしていました。ところが三十年くらい前に「スポック博士の育児書」というのが流行し、私と同世代の親は、子どもを個室に寝かせ、乳児期からの自立に力を入れました。その結果はあまりよいものとしてではなく出てしまい(思春期の荒れや自殺の増加などは、そういうものが原因だという人たちもいます)今にいたっています。現在の最大の変化は、乳児保育や長時間保育への流れでしょうね。この結果もやがて出てくると思います。もちろん、良い結果になってもらいたいですが、誰もそうなっていく社会の流れを止めることはできません。

●考え方の変化●

 ここ、六、七十年の考え方の変化も子育てに大きな影響を及ぼしています。正しいか悪いかで動いていた時代から、戦後は「合理的か合理的でないか」→「得か損か」→「楽しいか楽しくないか」を経て、「楽かきついか」状態になり、いまや「流行かそうでないか」というところにきています。つまり、子育てもその時々の流行でコロコロ変わるということですね。この世代の親は、「流行っているものなら問題ない」という考えです。当然、良いか悪いかという吟味はありません。さらに時代は大きく変わっているのですが、自分がやってきたことをやらせれば大丈夫だろうという「変化を想定できない」考えも増えてきました。     この考え方の変化は子どもへも影響が大きく、いろいろな問題が生じています。いまから三十年以上前でしょうか。個性の尊重という面から「すべて子どもの自由に任せる」という風潮が生じました。判断力のない子どもの自由な選択ということなどあってはならないことですが、親の責任を解除する楽な子育てにもなっています。その結果はどうなるのでしょうね。よく、ゆめやの店頭でも子どもに本を選ばせる親が来ます。子どもなどは目先の印象で好き嫌いを決めるわけですから良いことではありませんが、考え方の変化がもたらした影響は大きいですね。

●では・・・・●

 子育ては、保守的なものでないと安全弁が外れてしまいます。やはり、自然に沿ったことをやればいいと思うのですが、これが現代ではむずかしいのです。つまり、あまりにも周囲に左右されすぎて、自分の中にある「自然さ」に忠実ではないのです。ふつう、子どもが生まれれば親は自分のことより子どものことを優先します。動物の場合は健気に思うほど子どもが巣立つまでは一生懸命に子どもの世話をしていますよね。ところが人間は、とくに最近の親は行きたいコンサートがあれば子どもを一時預かりに置いても行く・・・0歳児を連れてグルメ誌片手に友人と食事に行く・・・それが自由の獲得、個人の自由だと思ったら大間違いですが、実際には横行しています。子どもは小さいうちは言いなりになって従いますが、いつまでもそうはいきません。まあ、その結果も子どもが大きくなれば出てきてシッペ返しを食うことも予想されますが、わからないんですね、そういうことが・・・。変なフェミニズムにだまくらかされてトレンドで子育てしてしまう恐ろしさにどこで気がつくか。妙に手を加えない自然のままの生活でいいのですがね。(2月号ニュース一部閲覧)

放課後の時間割
B老害

豊かな中高年

 社会保険庁の問題はさておいて、とにかく団塊の世代以上の年齢の高い層の大部分は富裕階級だ。観光地などを歩く老人たちの手には高価なデジカメがあり、リッチに動き回る。高度経済成長の担い手だったので恩恵を受けて当然なのかもしれないが、昔の老人と比較すると大変な違いがある。ただ、この人たちがもらう高額すぎる年金が赤字国債でまかなわれ、子や孫の世代に大きな負担になることも現実なので、手放しで喜ぶわけにもいかない。もちろん、この富裕な老人層は孫育てにまで関心を示し、社会的にも家庭構造的にも大きな問題をはらんでいる。  とくに団塊の世代は好き勝手にする個人的な自由を手に入れた日本史上で最初の子ども集団だった。親から生活知識を受け取らないで、古いと切り捨てていた。高度成長の時代を生き、働くことが優先だったため、自分たちの子どもに生活技術や思考方法を伝達する暇も余裕もなかった。つまり、彼らが育てた団塊ジュニアは、ケータイとコンビニなしでは一週間と暮らせない人間になっている。つまり子どもに生活技術の伝達が出来なかったわけで、当然ながら団塊ジュニアが結婚して子どもつくっても子育ての外部依存に文句は言わない。祖父母は働くことが優先的価値でお金でなんとかなるという発想しかないのである。この富裕な老人層の考え方は家庭や家族の形を変えるだろうし、最終的には子や孫の世代に経済的な負担を大きくする可能性もある。

責任のない盲愛

 最近、ブッククラブ申し込みが親ではなく祖母からのものが増加している。もちろん孫がかわいいのは昔も今も同じで、これを否定するものではない。読み聞かせの重要性や親子の接点を考えてのことなら、なおさら否定はできない。ただ、この多くは支払いが祖父母である。昔の老人はそこまでお金がなかったが、いまは違う。この結果、子育ての経済的な部分を祖父母に依存する親が出てきてはいないか、という懸念を感じてしまう。ふつう結婚すると「独立した」ということで生活や子育てを夫婦でしていかなければならない。ところが夫婦に、その親への経済的な依存があると「自分たちが親として育っていくことができない」という問題も起きてくるのである。離れて生活しているぶんには影響は少ないが、近くにいれば依存は高まる。さらに孫に物や金を与えて歓心を買おうとしたり、要求されたものは無差別に買い与えるという盲愛が発揮されることもある。育てる責任がないからひじょうに始末が悪いものだ。実際、ブッククラブ内でも「子どもが喜ぶだろうからといって、与えるのを避けている本やおもちゃを祖父母が買ってきて困る」という話をひんぱんに聞く。娘なら文句も言えるがお嫁さんではそうもいかないだろう。お年玉を祖父母から十万円もらったという子どももいた。これはもう老害といえないだろうか。

孫育てなどということはありえない

 さらに一歩進んだ形で確信犯的なことをする人々もいる。比較的知的レベルの高い祖父母だ。「団塊ジュニアを親として再教育することは無理だから、自分自身で孫を育てることに力を注ぐ」というものだ。  「孫育て」?・・・これは、おかしい。どこまで行っても子どもは親が育てるもの。親が子を育てるから「子育て」で、親がダメだからと言って、その子どもをジジババが育てていいわけがない。どこのジジババも猫を可愛がるごとく孫に接するだろう。けっきょくのところ、孫の言いなりになることのほうが多い。目に入れても痛くないどころではない。孫が自分の方に向いてくれるなら何でもするのでは困る。自分の子どもをあきらめて、孫へ愛情を注ぐなどということは以上である。「誤った母性」としかいいようがない。好き勝手の自由で来た世代だから社会性や自己抑制などは教えないだろう。教えられるわけがない。じつはその智恵も経験も自分たちが切ったものだからだ。さらに孫の親は、ジジババの金も頼みにする団塊ジュニアである。自分の稼いだ金は自分たちで使い、子育ての費用はジジババの年金だのみという層も出てきている。そこで育つ孫は、ますます「団塊のジュニアのジュニア」となり、好き勝手をするだろう。これは、さらなる老害である。  親というものは、子どもに「世の中の決まり」を教えるものだ。「うまく社会を渡れるように、」である。それをしなかった世代が、孫育て・・・・!? それはないだろう。子育てとは、親が「無い智恵と経験」を振り絞って、子どもの自我と戦う格闘技のようなものだ。若さとエネルギーが必要である。失敗もあれば間抜けたことをやってしまうこともある。それを積み重ねて親も大人になっていく。「世の中の決まり」を子どもに教えることによって自分もルールを守らねばならないことが分かってくるからだ。あたりまえのことだが「好き放題、自由勝手では生きられない」こともわかってくる。子育ては、嫌な表現だが「親育て」でもあるわけだ。子育てが、老人の暇つぶしで行えるような生やさしいものであれば苦労はない。  以上、子どもを取り巻く身近な三つの害「友害」「親害」「老害」のシリーズでした。避けられますか。無理ですか。(2月号新聞一部閲覧)

発達に応じるということ
G物語絵本へ

3歳になると・・・

 3歳は、もうじゅうぶんに周囲の人たちとのコミュニケーションが可能になり、言葉は増殖していきます。もちろん前回述べたような会話語、おしゃべり言葉の量は飛躍的に増します。そして、いよいよ書き言葉=文章語の世界に入っていくわけです。1歳から読み聞かせをしてきた子は自然に書き言葉「〜しました。」「〜です。」という文の世界に入れますが、テレビや粗悪なアニメ絵本で育った子は違和感、緊張感があってなかなか踏み込めません。 文章語というものはかなりロジカルなもので、「だからこうなる」というものを持っています。もちろん、絵本自体がはじめがあって終わりがあり、その間を論理的なスジがつないでいるのですが、このおもしろさを経験できない子にとっては、論理的なスジ立てを追うのが苦痛になることもあるのです。ですから、1〜2歳の読み聞かせの充実はここで大きな役割を果たしていたことに多くの親が気がつくわけです。

配本では・・・

 配本では絵本の佳境ともいえる3歳〜4歳にかけて多様なものを組み合わせています。  定番である古典的名作の「ぐりとぐら」や「ももたろう」、親の別の側面を垣間見せる絵本の「よるくま」・・・また初期の数概念が出てくる時期ですから「かぞえてみよう」などの絵本もはいることがあります。ただし注意! べつに算数のお勉強をせよ!ではりません。数というものがどういうものかを知るだけでいいのです。ここでは勘定のしかたを教えてあげることは重要です。魚は2匹、木は3本、車は4台、お家は5軒、鳥やうさぎは6羽・・・・これが最近は大学生でも数え方を知らないで、なんでもかんでも「〜個」なんです。

とにかく楽しむ

 絵本の読み聞かせは、このへんから読み聞かせるほうでもおもしろくなってきます。いずれもおとらぬ名作が山のように重なります。これは子どもにとっても大人の親にとっても至福の時間になりますね。読み聞かせをしてきたお母さんが口をそろえて「あのころが一番楽しかった」というのが3歳〜4歳の読み聞かせなのです。  ここでは、まだ社会性や相手をおもんばかることができないでいる自我の塊に読むバランス感覚を保つ内容の絵本も入ります。例えば「ガンピーさんのふなあそび」や「ドライブ」  相手のことを考えたり、どうしたらみんなとうまくやれるかをシミレーションするものです。他にも女の子には女の子の「どうぞのいす」男の子には「ゆうちゃんのみきさーしゃ」など盛りだくさんの配本・・・もう、とにかく楽しく楽しむ?・・・それでOKです。

サブカルチャーとどう向き合うか
Fとても勝てないが・・・

サブカルチャーの具体的な影響は2020年以後に起こる

 最初(四月号)に述べたが、もうここまで来るととても勝てない戦いである。例えば、2011年から地上デジタルが始まる。今でもそうだが、地上、BS、CSを入れるとかなりのチャンネル数があり、さらに申し込めば、一日中アニメを見ていられるチャンネル、映画を観ていられるチャンネルが加わる。昔のようにみんなが一つの情報を共有できる状態ではなくなる。  双方向とはいいものの、ボタン一つで相手とコミュニケーションができるわけではない。疑えば、途中で何らかの悪意のある操作がああってもわからないわけだ。  例えば、TVショッピングをしていて、残り数あと何個と出るのは正確な数字なのだろうか。紅白歌合戦で白が勝つというのは、それだけの投票が行われているのだろうか・・・・この辺の実感がないので、人々は基本的に信用をしなくなるだろう。そういうものだと思ってしまう。また、一部では逆にテレビにのめりこんでいく階層もあるだろう。バーチャルな世界が一日の生活の大部分を占めるというのは恐ろしいことだ。この影響はすでに出ているが、社会全体で起こるのは、サブカルチャー世代が親になって、子どもを育てて、その子どもが大人になったときだ。つまりあと15年くらい。これについては先月号でも述べたし、じつは2020年から2030年で問題が生じるということについては1999年の新年号でも述べた。どういうふうに起こるかはわからないが、生活や社会構造に大きな問題が起こるとしかいえない。

対策はないが・・・

 このような形で、どこからも侵入してくるサブカルチャーに対策はないが、小さいうちから過度にのめりこまないようにすれば切り抜けることはできる。アニメ狂いにしない、TVゲーム依存にしない、コンピュータオタクにしない。マンガばかり読ませない。中学になっても高校になってもファンタジーばかりというのは」注意したほうがいい。  とにかく、かんたんにいえば精神を病む可能性が大きいのである。  サブカルチャーの世界の何かが自分をどうにかしてくれるという幻想しかもてない子ども、大人も出てくるだろう。実際、事件裁判の公判中にそういうわけのわからない弁明をした犯人もいた。  一般の人は軽く考えているかもしれないが、ディズニーの世界やネットゲームに浸っている30代、40代の母親もいて、もはや家庭生活がなりたたないということまで起きている。  メディアは事件そのものの報道をするが背景に何が原因として存在しているかなどについてはまったくコメントがない。いわば、サブカルチャーは野放しの状態だ。

最大の問題は気がつかないこと

 もちろん、すぐにその影響が出てくるわけではないので、親の多くは深く考えていないが、精神病まで行かなくても常識崩壊、モラルハザードの大人になる可能性は大きい。とにかく、浸さないこと、漬けないこと・・・である。できるかなぁ、できねぇだろうなぁ。本文でも述べたが、ケータイ依存世代が親になりつつある。その子どもはケータイあたりまえ世代で、ケータイをおもちゃにして育つ・・・1980年がサブカルチャー元年だから、親子そろって2020年代には大人になる。社会構造も消費形態もコミュニケーションのあり方も大変化を示すだろう。そういうと良い変化のように思えるかもしれないが、じつは社会としては悲劇的なことになる。現在のサブカルチャーの暴走に歯止めはかけられないし、多くの人が容認であるから、この変化は確実である。どうにもならなくなって、いつ気がつくか。いつ、このあり方が間違っていたかを気がつくか、それもなく混乱に陥っていったら悲しいものがありますね。(2月号増ページ一部閲覧)



(2010年2月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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