ブッククラブニュース
平成21年11月号新聞一部閲覧

★黄昏流星群★

 十月の甲府は好天続きで過ごしやすい日々が続きました。オリオン座流星群も群というほどではなかったけれど、流れ星を数個見ました。県立科学館がライトダウンを企画したので裏山から市街の灯りの消え方を見ていましたが、以前に比べてかなり暗くなり、環境意識の高まりを感じることもできました。温室効果ガス削減やスローフードなどを見ていると「けっきょく現代がめざすものは昔に戻ることなのかな」などと思ったりします。いくら最先端技術の生活でも宇宙ステーションのように窓を開けたら窒息するような所より、美しい自然やおだやかな街並みに囲まれて生きていきたいですからね。無理のない生活・・・・。でも、どうしても科学の発達は地球を壊す方向に向いているようで、「地球がダメなら火星があるさ」と言っているアメリカの火星開発関係者がいますが、火星だって窓を開ければ人は息ができない土地だろうと思うのです。

なんだか整合性のないことが起きている

 ただ、最近、新聞を読んでいると「なんだかおかしいなぁ」と思うことがあります。私の頭では理解できない無理な現象が起きているのですかね。
 その最初はオバマ大統領のノーベル平和賞受賞でした。・・・「核なき世界」を口にするのはいいのですが、今でもアメリカは地球を何度も破壊できる数の原爆を持っています。実現させたわけでもないのに賞が出る・・・よく、わかりません。まあね。公共の利益を増進した人に贈られる藍綬褒章にTVゲーム「ドラゴンクエスト」の制作会社会長が選ばれる時代ですから、影響力のある米大統領の言葉は受賞に値するのかもしれません。でも、よくわからない。野球もそうです。ペナントレースの覇者がセ・パで雌雄を決するのは分かりますが、よくわからないのはクライマックス・シリーズというもの。各リーグの上位三チームがリーグのトップを決めるというのはリーグ優勝とどう違うのか・・・ただただ試合を引っ張って、興行収益を上げたいだけの話のような気がします。一位と三位が二十ゲームも離れていてもクライマックス・シリーズをやるのですかねぇ。なんだか潔くないシステムです。これもアメリカ風というヤツなのでしょうか。大リーグも同じことをやっていますから。相撲の優勝決定はその意味では潔い感じがします。
 つまり、なんだか整合性のないことが平気で行われて誰も疑問を持たないようになっているというのは不思議ですね。そういうことは、じつは枚挙のいとまがないほど、社会現象のなかで起きています。
 酒井法子の覚せい剤裁判の傍聴者が6000人という現象・・・オウム真理教の倍率をはるかに超える三百倍以上の応募・・・たかが芸人の麻薬汚染・・・よくあることだし、繰り返すものでもあるし、興味本位の報道なのに・・・煽られる人が多いというのも異常さを感じます。常識も理屈もない現象。なんだか時代の黄昏にバラバラ落ちる、ちょっとだけ光る流星群を見ているような気もしてくるこのごろです。

保育の現場もおかしい

 そんなこんなで頭の中が「???」となっているときに、長年おつきあいをしている保育者の方が来て話を聞いていました。この方はウチの娘が幼稚園のときの担任の先生ですが、根っから保育が好きで、ご自分で保育園を始めました。天職なんでしょうね。ところが、その方が言うのです。「朝七時から夜十時までが子どもを預かる時間で、一番長く預けるお母さんは十二時間。多くの親が子どもを連れて帰ったら食事をさせてお風呂に入れて寝かすだけという状態なんじゃないかな」とコボすわけです。こういうのは幼児教育ではなく、ただの子どもを預かるだけの仕事という感じですが、一瞬、狭い鶏小屋で時間がきたらエサをついばむニワトリの姿がよぎりました。とにかく預かる時間もバラバラ、数人に何人かの保育者が交代でついて・・・きちんと保育はできるのだろうかと思います。聞きながら「私の年齢でも子どもに伝えるべきことがなかなかできていないのに、現代の親はほとんど家庭で伝えられずに子育てを終えそうだな。大変な時代になったものだ・・・」と思っていました。
 私の子育て観は保守的かもしれませんが、なぜ現代のお母さんたちは育児休暇の長期化を願う戦いをしないのでしょうか。乳児を預けてまで働かなければならないのは、女性の権利を侵害するものなのではないでしょうか。育児の権利などより、収入が増えて経済的に向上すればそれで満足なのでしょうか。社会が子どもを育てるというのは何だか全体主義国家になっていくようで怖いですね。
 常識も通じず、何が正しいのかもよくわからないまま進む状態・・・これまた怖いですね。意見には個人差があるので、私の意見もOne of themに過ぎませんが、どう考えても昔のような高度な経済成長は望めません。それなのに、室の高い生活より、消費する生活・・・時代錯誤ですよ。
 でも、その保育園の先生に「じゃあ、夜の十時までのお預かりを拒否したらどうです。」「十二時間も預ける親に働くより子どもといっしょにいることが大切ですよと注意をしたらどうでしょう。」などとは言えません。もし、そのまま先生が預けに来る親たちにそんなことを言ったら、何もしてくれない園だと思われて営業がむずかしくなるかもしれない。みんな「おんぶに抱っこ」があたりまえの世代なのです。子どもの面倒を見るのはプロの他人に任せて、働いているほうが精神的にも楽かもしれません。もし、延長保育や一時預かりを止めれば、国は長時間保育、乳幼児保育を進めていますから助成金も出なくなるかもしれない。大変だなぁ。ほんとうに大変だなぁ・・・と同情してしまいました。
 その方は、娘が「幼稚園の先生になりたい」と夢見るきっかけとなった接し方をしてくれた人です。保育に一生懸命だからこそ同情してしまいます。体を壊さなければいいなと真剣に思いました。
 私の娘たちが幼稚園に行っていたころは保育時間は午前九時登園、午後一時半には帰宅するものでした。家庭で過ごす時間は長かったのです。そういう子育ては終わりを告げたわけで、これからは親も子も大きなうねりの中で受難の時期に入ってきたのでしょうか。もう時代は黄昏に来ているのかもしれません。こういう育ち方をした子が十七、八年もすれば大人になります。かつて、「鍵っ子」といわれた高度成長期の子どもたちが富を追い求めるだけの中年になっています。その子どもたちは鍵っ子どころではなく、一日の大半を保育園で他人と暮らすわけですね。そういう子どもがどうなるか・・・私には予想がつきません。黄昏の流れ星が消えないうちに「社会が壊れないように」と祈りたいです。

イヌ・・・サル・・・その次は・・・?

 十月半ばの昼下がり、作家の杉山亮さんがいらっしゃったので軽く昼飯を食べながら話をした。新作の本をサイン入りでいただいた。その中の一冊・迷路絵本の「ドラキュラ」はおもしろかった! 杉山さんは「青空晴之助」や「用寛さん」などの代表作がある方で、今年のブッククラブ配本では新作「空を飛んだポチ」を選書に入れたので、おもしろく読んだ子どもたちも多いことだろう。北杜市小淵沢が舞台のユーモアとウイットに富むお話である。杉山さんの作品には高学年ものが多いが、質の良い笑いを誘う作品ばかりである。
 杉山さんは、まさに「空を飛んだポチ」の挿絵(「よい子への道」の岡部リカさん描く)の似顔そのままの温厚篤実な方である。話していてもじつにおもしろい。こういう方と話していると、何もクリエイティブなことをしないで、世の中に文句ばかり言っている自分が嫌になる。実際、私のブッククラブニュースを読んだらしく、「批判をされるとされた側の人間は快く思わないから敵になってしまいます。ボクは、なるべく自分の考えにうまく巻き込んでいくことをします。」とご注意をいただいた。なるほどそうだ。学校図書館のやり方を批判すれば司書は私に敵意を持つだろう。役所を批判すればお役人は「あんなヤツの言うことなど無視、無視」ということになる。誰だって批判されればいい気持ちにはなれない。「たしかになぁ・・・・オレって子どもだなぁ」と思ってしまう。いい年齢をして世の中と戦うばかりではなく、年齢相応に経験と技術を生かして世の中を自分の考える方向に巻き込んでいくことは重要な技術なのかもしれない。
 ところで、杉山さんは、作品を書くばかりでなく、創作話を語りもする人で、夏休みは一ヶ月以上、小淵沢の自宅を開放して、語りの会を開いている。全国各地から子どもを連れた親が集まり、話を聞く。今夏も行われたし、毎年行われている。さらに今月は川端誠さんとおはなしのイベントを開く(増ページに紹介記事あり)。ブッククラブの会員の中でも訪れたことがある人もいることだろう。近くの人は行ってみることをおすすめする(もちろん遠くの人でも)・・・。語りは別に読み聞かせおばさんたちの専売特許ではない(こういうことを書くから読み聞かせおばさんも敵に回してしまうのだが・・・)。おじさんたちの話は、その場その場に応じて多様に変化しておもしろさが倍増することもある。べつに女性蔑視というわけではないが、落語にしても講談にしても男の人が多いのは、多様に変化するおもしろさをつくれるからだと思う。語りは、男の専売特許でもあった。稗田阿礼は女性だったかもしれないという説もあるが、こういう点から考えると古事記の面白さは男性の語りだったような気がする。

お話の前のクイズ

 さて、そういう語り聞かせの話ではなく、杉山さんとの話だ。食後のお茶になって話題は「今の世の中、親も子も基本的なものが伝達されていない」ということに移った。杉山さんは、お話会を始めるまえに子どもたちに向けてクイズを出すという。クイズにひきつけて集中力を引き出すらしいのだが、「ゆめやさんはバカにするかもしれないけれど。知っていてあたりまえのことをクイズにしなければならないのですよ。」と言う。
 どういうことかというと、「桃太郎が鬼が島征伐に行くときに三匹の動物と出会います。まず、イヌとサル、三匹目は何でしょう?」・・・当然、キジだが、知らない子が多いらしい。親に聞くと「トリ」などというトンチンカンな答えが出たりするという。日本文化から切り離された世代がもう親になっているわけだ。
 杉山さんがするお話は、おおもとの話(原話)を知っていることが前提条件の創作やパロディである。イヌという誠実さ、サルという知恵、キジという勇気を示すもの・・・「この三つが身につかなければ立派な人間にはなれないぞ!」をパロディにするとき、聞くほうが登場する動物すら知らなければ文字通り、話にならない。

共通する知識が与えられない社会

 これは、何の話にしても基本的な知識がないと「どういうこと??」となって聞くことができなくなる。読書も同じだ。ここが幼児の読み聞かせとは違って、小学生〜大人への語りのむずかしさとなる。
 実際、最近、ふつうの話をしていて「通じていないな」と感じることもある。ある程度の知識が共有されないと対話もむずかしい。このせいかどうか知らないが、杉山さんのお話会でも、子どもがタメ口をきいたり、行儀の悪さが出たりすることも目立つようになってきたらしい。このことは、一昨年十二月のニュースで、「バベルの塔」の逸話で書いたことがある。それぞれの言葉が通じなくなるという、この聖書内のエピソードは、初めて読んだときには、「そんなバカなことがあってたまるか」、「同じ言語を話している人間が言葉が通じなくなるなんてあるわけない」、「こんなの架空の話」と思っていた。ところが、いま現実に日本で起きている。べつに出稼ぎ外国人との会話ではない。レッキとした日本人の若者、いやいや老人でさえも言っていることがわからないことがある。こちらの話もきっと通じないときがあるのだろう。私は相手を自分のやっていることに巻き込む気はサラサラないから、言ってわからないヤツとは話さない。何とかコミュニケーションが取れるようにがんばったところで、彼らはメリットをもたらしてはくれない。司書を敵に回してもかまわないな、と思う。甲府市も山梨県も指定業者制度で、登録書店が持ち回りで納入業者になるから、指定業者に入っていない当店としては別に司書がゆめやの本を買ってくれるわけではないので敵に回しても被害はない。かれらと別に対話をする気もない。だいたいお役所関係の人々は、批判を言っても、こき下ろしても、蛙の面に小便が習性になっているので意に返さない。もう言うだけ言ってやろう。どのみち、時代はバベルの塔。教育関係者も現代文化のクリエイターたちも一過性の知識で十分という姿勢だ。ならば、どんどん批判して、俺はそっち側の人間じゃないぞと示すのもひとつの手かもしれない。
 たしかに急速に新しい知識がネットや新商品を仲立ちとして増えてきている。それも膨大な量で・・・だが、新しい知識では物事が理解できないような気がする。なぜなら、すべて一過性の言葉で、すぐに陳腐化するから・・・・。話を聞くことができる知識は、大人にも子どもにも必要なのだが、このままでは人と人は分断されてどんどん孤独になっていくのではないだろうか。ま、それが時代の指し示している方向でもある。

(2009年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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